2)山遊び

山遊び(1)

 あの日以来、藤花は兵衛ひょうえのことばかり考えていた。

 あんな無骨で無礼な者は知らない。藤花の周りにいる男は、みな礼節をわきまえ洗練された者ばかりだ。

 しかし、藤花のことを蝶よ花よと褒めそやしはしても、内心では何を考えているのか分からない。


 鬼伯の娘であると言うことは、常に虚言に取り囲まれていることだと藤花は思う。


 だから、あのように面と向かって拒絶されたり、はっきりと物を言われたりするのは初めてで、彼女にとっては新鮮な出来事だった。こちらに好意があるかどうかは甚だ疑わしいが、少なくとも兵衛は媚びへつらわない。


(今度はいつ会えるだろうか)


 次に来たとき、彼を貸してもらうと九尾に約束を取り付けたが、そもそもいつ来るか分からない。あまり間を置くと、あの男のことだから忘れてしまうかもしれない。

 藤花は、はっきりと時期を決めなかったことを後悔した。


 しかし、兵衛と出かける機会は思いのほか早くやってきた。

 三日後の朝、寝間着のまま無防備に部屋から出ると、庭先に兵衛が膝をついて控えていた。


「お迎えに上がりました」

「ひ、兵衛!」


 胸元がみっともなくはだけ、髪もぼさぼさ、顔さえ洗っていない。

 藤花は、叫び声を上げてそのまま部屋へ逃げ帰った。

 それから大慌てで侍女を呼び、髪をいてもらい、顔を洗う。華やかな打掛を準備しようとする侍女を「今日は山に行く」と叱咤し、小花柄の山吹の小袖に藍の袴姿に着替えた。


 身支度を整えて再び部屋から出ると、すました顔の兵衛が視線を地面に向けたまま頭を下げた。相変わらず着古した小袖と裾の擦り切れた袴姿だ。腰には打刀うちがたな脇差わきざしを差している。


「お、おるなら声をかけよ」

「何度かおかけいたしました」


 さらりと言い返され、言葉に詰まる。そんな藤花に追い打ちをかけるように兵衛が口の端を笑いで歪めた。


「何も見てはおりませぬゆえ、ご安心を」

「見ておったではないか」


 明らかにおちょくられている。この男はうやうやしく振る舞ってはいるが、自分を決して敬っているわけではない。

 ありありと「こんな小娘」という空気を出しているのが兵衛らしいが、藤花は悔しくてたまらない。


「よし兵衛、出発じゃ。待たせた」


 とにもかくにも格好がつかず、誤魔化しついでに藤花は言った。いつから待っていたのか知らないが、これ以上待たせるわけにもいかない。

 しかし兵衛は諫めるような目を藤花に返した。


朝餉あさげがまだなのでは?」

「そのようなものを食べておっては遅くなる」

「途中で腹が減ったと駄々をこねられても困ります」

「駄々などこねぬ」


 しかし兵衛は譲らない。「待っております」と再び頭を下げ、彫刻のように固まってしまった。藤花はしぶしぶ朝餉あさげを食べに行った。



 

 大急ぎで朝餉あさげを食べ終えると、藤花は兵衛が待つ庭先へ戻ってきた。

 今度は深芳みよしも一緒だ。ちょうど膳を下げるところで深芳と出くわし、彼女に「九尾の弟子と山へ出かける」と伝えたところ、ならば挨拶をという話になった。


「藤花の姉、深芳と申す。九尾様のお弟子殿とお聞きした。顔を上げてくださいませ」


 庭で微動だにせず控える兵衛に向かって深芳が言った。兵衛がゆっくりと顔を上げ、視線を深芳に向ける。刹那、彼は驚いた様子でわずかに目を見開いた。


 藤花はむすっとしながら横を向く。深芳を初めて見た男は、大なり小なり彼女の美しさに見惚みとれるのだ。例にもれず兵衛も似たような反応をしたことに、藤花はなぜだか腹が立った。


「藤花は自由奔放ゆえ何かと迷惑をかけるかもしれぬが、よろしく頼む」


 深芳が兵衛に笑いかける。彼女は無自覚だが、この笑みでさらに大抵の男の目尻が下がり、鼻の下が伸びる。


 しかし、兵衛はすっと真顔に戻り、「これも主命ですので」と頭を下げた。すでにその横顔は、いつもの無表情に戻っている。藤花は少しほっとした。


「姉様、夕方には戻ります」

「まあ、夕方まで遊ぶつもり?」

「はい。滅多とない遠出ですから」


 言いながら、兵衛の都合をまったく確認していないことに気がついて、ちらりと彼を見る。兵衛はまったく表情を変えず控えているのみだ。

 何も言わないということは、問題ないと言うことだろう。藤花はそれで彼から了解を得たことにした。


「では兵衛、どうやって行く? 空馬そらうまか?」


 藤花が尋ねると、兵衛はすっと立ち上がった。そして自身の髪の毛を一本抜いてふっと息を吹きかける。すると、髪の毛が左右に大きなのある、たこのような生き物に変化した。長さにして八尺ほどあるだろうか。


「なんと大きな式神か。このたこのような生き物はなんじゃ?」

「エイにこざいます。もとは海に住まう生き物ですが、私のは空を飛びます」


 式神は誰でも使う術ではあるが、ここまで大きな式神となると、それなりの霊力と鍛錬が必要だ。となりで深芳も感心した様子で巨大なエイに見入っている。

 藤花は宙にたなびくエイに触れながら目をきらきらさせた。


「海……。私はまだ見たことがない」

「しかし、今日は山にございます」


 暗に「海には行かないぞ」と釘を刺され、藤花は「分かっておる」と口を尖らせた。彼女の反応に兵衛が満足げに目を細めた。


「では、参りましょう」


 兵衛が藤花に手を差し出した。どきりと弾む胸を押さえつつ、藤花は兵衛の手を取りエイに乗り込む。


「姉様、では行って参ります」


 エイがぐうんっと大空へ浮上した。




 御座所おわすところがあっという間に小さくなった。眼下に月夜の里が広がる。この風景を見たのは、いつだったか。父親の影親に連れられ空馬に乗って遠出した以来だ。


 兵衛はエイの頭上あたりに胡坐をかいて式神を操っている。

 藤花は彼の隣にちょこんと大人しく座っていた。そして、エイが山に向かって進み始めた頃合いで、藤花はようやく口を開いた。 


「姉様には好いた方がいらっしゃるゆえ、惚れても無駄じゃ」

「なんの話ですか」


 藤花が出し抜けに言うと、兵衛が顔をしかめた。藤花がふんっと鼻を鳴らす。


「先ほど、姉様を見てほうけておったではないか」

ほうけてなど──」

「別に良い。初めて姉様を見た殿方は大抵同じような顔をする」


 このことに関して言えば、藤花は誰も責める気もない。深芳が美し過ぎるのだ。

 あのような女性を姉に持つと、妹は少しばかり卑屈になる。


 すると、兵衛が少し黙り込んだ。痛い所を突かれて何も言えなくなったかと藤花が思っていると、ややして兵衛が素っ気なく呟いた。


「姫も十分お綺麗かと」

「そのような世辞はいらぬ」

「まあ、確かに世辞ですが」


 あっさり認める兵衛が腹立たしい。それで藤花が軽く睨むと、彼は肩をすくめた。


「一応は美人の部類に入るかと思いますが」

「が、なんだ?」

「もう少し、大人になればという条件付きです」

「私は、もう子供ではない」

「どうだか」


 おかしそうに笑う兵衛の言葉とともに、エイがぐうっと傾いて左へと旋回する。同時に藤花の体もぐらりと傾いた。


「しっかり掴まっていてください」


 眼下に広がる平野とその向こうに連なる山並みを見ながら兵衛が言った。それで藤花が兵衛にすがりつくと、兵衛が体をびくりと震わせた。


「何を?!」

「掴まれと言うたのは兵衛ではないかっ」

「エイに掴まれば良いのだっ」


 素で藤花に言い返し、兵衛がはっと口をつぐむ。そして遠慮がちに「猿は獣くそうございます」と付け加えた。


 言われて初めて藤花は兵衛の体を嗅いだ。男の、男らしい臭いがして、あらためて兵衛を男だと意識する。


 そうなると、こうして掴まっているのも恥ずかしくなり、藤花は自分の心内を誤魔化そうと必死になった。


「あ、兄様や父上の臭いとそう変わらぬ」


 本当のところ、兄や父はもう少し上品な香りだ。しかし藤花は兵衛の無骨な臭いも嫌いではなかった。兵衛が少し拍子抜けした顔をして、それからふっと笑った。


「あなたは花の香りがします」


 兵衛の低い声が頭上で響く。自分の臭いも彼に届いているのだと思ったら、藤花はさらに恥ずかしくなって俯いた。

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