1)宵臥の姫

宵臥の姫(1)

 その夜は、千紫にとって思いがけずやって来た。


 ここは彼女の私邸の寝所である。姫君の部屋にしては書物があちらこちらに積まれており、お世辞にも女性らしい部屋とは言えない。ただ、隅に置かれてある鏡台と小物入れに綺麗に並べられたかんざしが、かろうじてここが姫君の部屋であることを主張していた。


 夜も更け、ちょうど先日から読んでいた歴史書を読み終えて、彼女自身も寝ようかと思っていたところだった。

 無遠慮な足音が近づいてきたかと思うと、障子戸がふいに開いた。千紫が驚いて顔を上げると、そこに山守やまのかみ九洞くど旺知あきともが立っていた。


 彼女は、突然の来訪者に何事かと思わず顔をしかめ、緩んだ寝間着の衿元をさりげなく整えた。

 何がどうあれ、こんな夜遅くに姫君の部屋に押しかけるなどあり得ない。


山守やまのかみ様、これはいったいどうしたことでしょう?」

「今度、九洞くど家当主に正式に就くことになった」

「それは……おめでとうございます」


 唐突に言われ、彼女は当たり障りのない笑顔とともに頭を下げる。

 しかし、内心では(それが今の状況とどう関係がある?)と吐き捨てていた。


 そんな千紫の苛立ちをよそに、旺知あきともは部屋の中へ入ってくると、千紫の前に立て膝の格好でどかりと座った。そして、値踏みをするように千紫の姿を眺め回した。


「千紫姫、その就任の祝いの夜に宵臥よいぶしとしてそなたを召し出したい」

「宵臥……」


 この男は何を言っている? 千紫は平常心を保つのに必死だった。


 宵臥よいぶしとは、言わば「女のつまみ食い」だ。男子が成人する際に女をあてがったことから始まる習慣で、ここ最近では当主就任など、成人時に限らず洞家の間で広く行われている。

 もともと「女を抱いてこそ、男として一人前」という男本意な発想から始まったものであり、この女を愚弄ぐろうしているとしか思えない悪習が千紫は大嫌いだった。


 彼女は自身の動揺を尾首おくびにも出さず、落ち着いた口調で旺知あきともに尋ねた。


「なぜ、私めをご指名に?」

「あの深芳姫と美しさと聡明さを二分する姫だと聞いた」


 さらりと旺知から言葉が返ってきた。しかし千紫は、にわかに彼の口から出てきた「深芳」という名にぴくりと反応した。


 と、いろいろ理解する。


 一つは、この男が本当に欲しかったのは自分ではなく深芳であること。

 一つは、深芳を手に入れることができないから、それと同等品に近い自分を手に入れようとしていること。

 最後に、とどのつまりは、この男は深芳のことも自分のことも品物としか見ていないということ。


 なんという侮辱か。


 まさか、あの深芳を狙っていようとは。身の程知らずも甚だしい。それだけで、彼女をけがされた気分になった。

 そして代わりに私を手に入れようとは。浅はかにも程がある。それだけで、己をおとしめられた気分になった。


 震える声を気丈に抑えながら、千紫はさらに彼に問う。


「このことは、父上はご存知で?」


 自宅の部屋に押しかけられていて、父が知らないわけがない。しかし、彼女ははっきりと確認したかった。旺知あきともが「もちろんだ」と即答する。


「おまえの父親には、鬼伯を通して申し入れをしたから、断ることもできまいよ。そもそも、鬼伯から深芳姫以上に秀でた姫がいるとそなたを勧められたのだ」

「……え?」


 耳を疑った。まさか、鬼伯がわざわざ洞家の宵臥よいぶしの話に口添えをするなど想像もしていなかったからだ。同時に、そこに悪意に満ちたなんらかの意図を千紫は感じた。


 本当に千紫のことを思い勧めたのであれば、こちらに多少なりとも意思の確認があってしかるべきだ。それがないということは、こちらのことを思っての口添えではない。この宵臥の話の意味するところを、千紫はほぼ確信に近い気持ちで理解した。


 これは、排除だ。


 二つ鬼のくせに、奥院へ遊びに行っていたからか? それとも伯子である清影に密かな思いを寄せていたからか?


 いろいろな思いが千紫の頭の中を目まぐるしく駆け巡る。ただ、いずれにせよ、これが鬼伯の考えだということだけは、はっきりと分かった。


 さすがに動揺の色を隠せない千紫に、旺知が嘆息する。


「そのようなつまらん顔をするな。今宵のお楽しみはこれからだと言うのに」

「今宵のお楽しみ──?」


 千紫はさらに困惑した顔を旺知に返した。

 含みのある彼の視線が、奥に敷かれた布団へと注がれ、背中にぞわぞわと虫酸むしずが走る。


「就任の祝いはまだ先でありましょう?」

「今日は、まず体の具合を確かめにと思ってな」

「具合、ですか」


 旺知の下卑な言葉に呆れ果てて彼女は二の句が継げなかった。しかし、当の本人は全く悪びれる様子もない。


「相性は大事であろう。今さら何も分からぬ子供でもあるまい」

「……」


 この手の男は理屈が通じない。特にこういう色恋ごとには。いや、すでに色恋ごとでさえない。ただの色ごとだ。


 欲しいから欲しいのであって、抱きたいから抱くのだ。


(これまでか──)


 せめてもう少し時間があれば、策を講じることもできたかもしれない。とは言え、そもそも女が「宵臥よいぶし」を断るすべなど、どこにもないのだが。


 静かに彼女は目を閉じた。

 呼吸を整え、気持ちを落ち着かせる。そして深芳に思いを馳せる。

 きっとこれでいい。このような男に、私の大切な花をくれてやるわけにはいかない。


(おまえは私で十分じゃ)


 ゆっくりと目を開き旺知あきともを見る。そして千紫は、暗然たる思いを胸に秘め、目の前の二つ鬼に対して優美に頭を下げた。

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