宵臥の姫(2)

 体の中に旺知あきとものものが押し入ってくる度に、そして己の体が反応する度に、自分の大切なものが失われていくのが千紫には分かった。


 翌朝、目が覚めると旺知あきともの姿はもうなかった。

 全裸のまま身を起こし、乱れた髪を掻き上げながら千紫は深いため息をつく。さすがに笑顔で朝の挨拶を交わす自信はなかった。ふと、体のいたるところに付けられた淫らなあとが目に入る。


 昨晩の旺知との情事がまざまざと思い出されて、思わず千紫は吐きそうになった。それをぐっと無理に飲み込めば、今度は自然と涙がこぼれ、体がガタガタと震えた。


 意に染まぬ相手と床を共にすることが、これほどに屈辱的なことであると千紫は初めて知った。


 当主就任の祝いは一月ひとつき後だと言っていた。ゆくゆくは、千紫を妻に迎えるつもりであることも。


(博学子の娘としては、申し分のない話じゃ)


 何度も自分に言い聞かせる。下手をすれば、一晩でお役御免となっても不思議ではない宵臥よいぶしである。事前に婚姻の約束をしてくれたことだけは、両親の心情を考えると、せめてもの救いだった。


 どれだけ一人で泣いていただろうか。少しずつ気持ちが落ち着き、こぼれる涙も止まった頃、部屋の外で声がした。


「姫様、お目覚めになりましたでしょうか」

「……雪乃か」


 千紫の屋敷で働く侍女の雪乃である。千紫の家は、御座所おわすところに出仕する博学子の家柄ではあるが、洞家などの特別階級という訳でもないので、下働きの者も数人しかいない。その中で、雪乃は最も気の許せる侍女であった。


「申し訳ありません。入ります」


 千紫の許しを求めず、雪乃がさっと障子戸を開けた。そして、湯桶とともに素早く部屋に入ってくると、すぐさま戸をぴしゃりと閉めた。


 泣き腫らした千紫を見て、彼女は沈痛な面持ちで頭を下げた。


「お体をお拭きいたしましょう」


 言って雪乃は優しい笑みを浮かべた。

 手拭いを浸し、きつく絞って千紫の体を拭く。湯の温かさがじんわりと肌に伝わり、気持ちが少し安らいだ。


「体の痕は、意図的に付けていなければ夜には消えましょう。そうでなかっとしても、数日もすれば消えます。お気になさらずとも、湯浴みの時も雪乃が世話をいたします」

「すまぬ」

「何をおっしゃいますか。さあ、横になってください。しももお拭きいたしましょう」


 優しい口調ではあるが、雪乃がてきぱきと指示を出す。千紫が躊躇ためらっていると、彼女は「これはただの仕事だ」といった顔をした。


「さっさと流してしまいなさいませ。姫様にとっても、ただの務めにございます。心を痛められる必要は微塵もございません」

「これは務めか」

「それ以外に何が?」


 あっさりと言い捨てて、千紫を無理矢理寝かしつける。そして彼女は、手早く綺麗に千紫の下半身をぬぐった。


 その日は、何もする気が起きず、大好きな歴史書を読んでも頭に入って来なかった。さりとて、何もしないでいると、昨夜のことが繰り返し思い出されて、千紫は意味もなく書物の文字を目で追うという無駄なことをして一日をすごした。


 食事も部屋で取ったが、さすがに夕飯までという訳にはいかず、両親と食べることにした。両親は千紫のことを気遣いつつも、


「相手が洞家などと、滅多とない良縁であるぞ」

「わざわざ伯が口添えをしてきたのですよ、きっと私たちにお目をかけてくださったのでしょう」


 などと言って、旺知あきともとの婚姻がいかに有益であるかを強調した。

 学問一筋で世情に疎い父親と、そんな彼を屋敷の中で支え続けた世間知らずの母親は、本当にこれが娘にとって最良の出来事だと思っているに違いない。

 そんな二人を目の前にして、千紫は笑顔を浮かべて頷き返すしかなかった。


 無為な日々がしばらく続き、ようやく書物の文字が言葉として頭の中に入るようになった頃、九洞くど家から正式な使者がやって来た。きたる九洞家当主就任の祝いの夜に、千紫を宵臥よいぶしとして召し出す意向を知らせる使いだ。


 あばよくば、先の一晩でお役御免になれば世間の笑い者にはなっても旺知と縁を切ることができると考えていた千紫にとって、使者の来訪は最後の望みを絶ち切られるのに十分だった。


 完全に腹をくくらねばならない。


 ある晴れた初夏の日、千紫は奥院を訪れることにした。




 久しぶりに訪れた奥院で、千紫はかなり長い時間を入間いりのまで待たされた。

 またか、と彼女は嘆息する。


 自分に対する子供のような侍女衆の嫌がらせである。当然ではあるが、奥院の侍女衆は一つ鬼が大部分を占める。ほんのわずか、二つ鬼の娘が起用されてはいるが、肩身は狭く侍女衆の中でも下働きに近い扱いだ。


 つまり、二つ鬼でたかが博学子の娘である千紫が、深芳の元を訪れることが気に入らないのだ。嫌がらせも一度や二度ではない。履き物を隠されて裸足で帰ったこともある。しかし、千紫は深芳に迷惑をかけまいと、このことを彼女に言ったことはない。


 今日もどれだけ待たされるだろうかと思っていたところへ、馴染みの二つ鬼の侍女が通りかかった。洞家より格下の家元の娘、玉緒である。


「まあ、千紫殿。また、待ちぼうけを?」


 言って彼女は不快げに眉根を寄せた。


「気位の高い一つ鬼の侍女衆の仕業ですね」

「いつものことじゃ、もう慣れた」

「そのようなことを──」


 玉緒が小さくため息をついてから、腕を組んで思案顔をした。そして、千紫ににっこり笑い返した。


「では、初音殿にお伝えしておきます。よきに計らってくれるでしょう」


 初音とは、一つ鬼の侍女で元洞家の娘である。自身の出自にいろいろある娘で、そのせいもあってか角の数に関わらず丁寧に接してくれる。そして何より、彼女は深芳の妹である藤花のお気に入りの侍女だ。確かに彼女に伝われば、すぐに案内してもらえるだろう。


「申し訳ない」


 千紫が頭を下げると、玉緒は大きく首を左右に振った。


「お客様を適切に案内するは、私どもの仕事にございます」


 そう言って、彼女は足早に奥院の長い廊下の先へと長い消えていった。

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