宵臥の姫(3)
ほどなくして、面目なさそうな顔の初音が
「千紫様、申し訳ありません。お待たせしてしまったようで」
彼女は、千紫のことを「様」付けで呼ぶ。彼女の主、藤花が千紫のことを「様」と呼ぶからである。
深芳の妹である藤花は、千紫にとっても妹のようなものである。藤花も姉のようにしたってくれていて、敬愛の意味も込めて「様」を付けて呼んでくれる。
藤花は、深芳の母親と鬼伯の間に生まれた子であり、深芳と違い生粋の奥院の姫である。その彼女に「千紫様」と呼ばれていることも、侍女衆の不興を買っているのだろう。
本当にくだらない、と千紫は思う。
もともと、あやかしは人の国ほど身分にこだわりがない。なぜなら、人の国ほど
こだわっているのは、一つ鬼たちと、身分を与えられた一部の二つ鬼たちだけだ。
それはそのまま深芳と自分の関係にも言えた。どのような立場になろうとも、深芳と自分の関係は変わらない。だから千紫は今でも彼女のことを「深芳様」などとは呼ばない。その妹の藤花も、対等となるのは千紫としては自然の成り行きである。しかし、こうした小さなことでさえ、もしかしたら鬼伯は気に入らなかったのかもしれない。
「藤花は元気かえ?」
歩きながら先を行く初音に声をかけると、初音が困った顔で笑い返した。
「ここ数日は、千紫様にも見せてやりたいくらいに様子がおかしくて。最初の三日くらいは一人でにやにやと笑っていて、次の三日くらいはそわそわと廊下を歩き回り、そしてここ最近では廊下の隅で鬱々と沈んでおりまする」
「それはどうしたことじゃ?」
「さあ? どこぞ、好いた男でもできましたかねえ」
「あの藤花が。それは一大事じゃの」
「本当です。しかし、これは初音の勝手な想像ですので、他言は無用です」
初音はさりげなく千紫に釘を刺しながら、いくつも並ぶ部屋の一つの前で立ち止まる。
「では、深芳様にお声かけしてきますので、こちらでもうしばらくお待ちくださいませ」
「出来れば藤花も一緒にと深芳に伝えてくれるか」
「藤花様もですか?」
「うむ。今日は、大切な話があって来た」
千紫があらたまった口調でそう告げると、初音は一瞬戸惑った顔をした。しかしすぐに何かを察してくれたらしく、緊張した顔で頷き返した。
部屋を足早に出ていく初音の後ろ姿を見送りながら、千紫は大きく深呼吸する。
最後の一言で、初音は何事かあったのだと深芳に伝えてくれるだろう。相手も少し心構えをして来てくれた方がありがたい。いつもの調子の笑顔で来られたら、口が開きそうにもなかった。
ややして、小花柄の華やかな打ち掛けの裾を珍しく散らしながら、深芳が慌てた様子でやって来た。
「千紫、どうかしたのかえ?」
「……深芳」
久しぶりに見る彼女の顔に、思わず胸が詰まる。千紫は、とっさに深芳から顔を背けて俯いた。
「どうしたのじゃ?」
「藤花は?」
言葉が続かず、千紫はやっとのことそれだけ言った。深芳が戸惑った顔を返した。
「初音が、おまえの様子がおかしいと言っていたものだから、とにかくまずは顔を見に来た。藤花がいないと話せぬのか?」
話せないわけではない。しかし、気持ちを整える時間が今少し欲しかった。千紫は、深芳にこくりと頷き返した。
「相分かった」
深芳がすぐさま立ち上がり、藤花を呼びに部屋を出ていく。千紫は、その後ろ姿を見送りながら今度こそちゃんと話せるようにと、再び大きな深呼吸をした。
帰り道、千紫は車に揺られながら、ぼんやりと物思いにふけっていた。
しかし、それは無意味だ。なぜなら、この話を仕組んだのは、他ならぬ鬼伯なのだから。事情を知らない彼女を
しかし、これで良かったのだと思う。あのような粗野な男が、深芳の夫になるなどあり得ない。ならば自分があの男の慰みものになればいい。
きっと
分かっていながら、深芳の想い人である清影に心惹かれた。少しでも、こちらを向いて欲しくて彼の気を引きそうな話題を用意した。そんなことは、造作なかった。それだけの知識が自分にはあったから。
(だからこれは、きっと私に与えられた罰──)
そう考えながら一方で、さして清影のことを考えていない自分に千紫は気がつく。
今日の彼女の様子から、この
家に帰り着く頃には、日も傾きすっかり辺りは薄暗くなっていた。宵闇に包まれ始めた屋敷を見ながら、千紫はぞわぞわと気持ちが落ち着かなくなる。
あの夜以来、夜が怖くなった。またあの男が、突然やって来るのではないか──。根拠もなく、そんなことが思われて胸が詰まって苦しくなるのだ。
(
であるとするなら、さっさと上がった方がましかもしれない。どうにもならないことを繰り返し考え巡りながら、千紫はきゅっと唇を噛んだ。
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