11)月夜の変

月夜の変(1)

 兵衛が少し落ち着いた後、藤花はひとまず彼を自分の部屋へと引き入れた。すぐにでも影親かげちかに案内しようと思っていたが、このような夜分に伏見谷の者が鬼伯を訪れるというのは、周囲に何事かと思われてしまう。直感的に「隠さねば」と藤花は思った。


 まずは、お茶を兵衛に飲ませる。就寝前にいつも初音が持ってきてくれているお茶だ。わざわざお茶を持ってこさせるのも不自然なので、藤花は自分のものを彼にすすめた。


 兵衛は、差し出されたお茶を一口ごくりと飲んでから彼女に返した。


「申し訳ありません。落ち着きました」

「もう少し飲みやれ」

「いいえ、あなたの飲む分がなくなってしまう」


 言って兵衛は、落ち着きなく視線をあちらこちらに動かした。薄暗い部屋には、すでに布団が敷かれており、花の甘い香りがそこかしこから漂う。そんなつもりで藤花に会いに来たわけではないのに、兵衛はそぞろとした気持ちになる。


 しかし彼は、大きく息をついてきゅっと口元を引き締め、気持ちを整えた。

 藤花に伝えねばという思いと、会いたいという思いだけで月夜つくよの里に来た。藤花に会い、ひとしきり泣いて、ようやく何かすっきりした。我ながら混乱していたのだと思った。


「みっともない様をお見せしました」

「よい。九尾様は、おまえにとって父とも言える御方、よくぞ伝えに来てくれた」


 お茶碗を傍らの文机に置くと、藤花は兵衛にぴったりと寄り添うように座った。


「大変だったであろう」

「もう大丈夫です」


 兵衛が落ち着いた笑みを見せる。すでに弱々しい兵衛の様子はどこにもなく、いつもの眼光の鋭さが戻ってきていた。


「鬼伯には、明日あらためて密かにお伝えしたいと考えております。このような夜分に押しかけては、周りに何事かと怪しまれます」

「うむ。私もそれがいいと思う。今宵は、このままともに寝ればよい」

「さすがにそれは──」

「少しは甘えや」


 藤花が言った。そして、心配そうに兵衛の顔を覗き込む。


「まともに寝ていないであろう? 疲れが顔に出ておる。このような時に何かしようという気持ちにもなるまい。ただの添い寝じゃ」


 兵衛は、少し居心地の悪さを感じながら笑って頷いた。子ども扱いされたようで素直に恥ずかしかった。


「誰かに添い寝をしてもらうなど、初めてです」


 この気恥ずかしさをなんとか誤魔化したくて、彼は藤花の頬を優しく撫でると、その小さな唇にそっと己の唇を寄せた。




 次の日の朝、藤花の部屋を訪れた初音は、もう少しで叫び声を上げそうになった。身なりをきちんと整えているとはいえ、そこにいるのは藤花の想い人であり、人の国のあやかしである百日紅さるすべり兵衛ひょうえ


 二人は恋仲ではあるが、公の仲ではない。表立っては、藤花はあくまでも「二代目九尾に嫁ぐ姫」だ。どう見ても夜這いの後にしか思えない状況に、さすがの初音も顔を引きつらせた。


「どういうおつもりか。いかな弟子殿でも奥院へ夜這いをかけるなど、あまりに乱暴──」

「落ち着け、初音。それどころではない」


 すぐに藤花が割って入り、事の次第を説明する。そして、九尾の訃報を聞いた初音は、すっと顔を緊張させた。


「それは、一大事にございます」


 藤花がこくりと頷き「そこで──」と言葉を続ける。


「なんとか内密に、かつ、さりげなく父上にお伝えしたいと思っている」

「内密かつ、さりげなく、ですか」

「うむ。隙を見て、兵衛はいつものとおり庭に控える。あくまでも私に呼び出されてここに来たというていだ。初音には、父上に私の部屋へおいでになるよう伝えてもらいたい」

「藤花様の部屋へいらっしゃるようお伝えすればよいので?」


 すると兵衛が「いや、」と口を挟んだ。


「できれば、姫に呼び出されて来ると言うより、あくまでも伯自身が暇に飽かせて遊びに来るといった方がいい」


 初音が少し考え込む。ややして、彼女は「ならば……」と口を開いた。


「適当な話を作り、鬼伯に藤花様の様子をご覧に行かれたらどうかとお伝えします」

「うむ、それでいい。頼めるか、初音?」

「おまかせくださいませ」


 緊張した面持ちで初音が一礼して部屋を出て行く。藤花と兵衛は、ひとまずほっと息をついた。


 影親かげちかが藤花の部屋を訪れたのは、昼も近くなってのことだった。途中、初音以外の侍女が何度か藤花の部屋を出入りし、庭で控え続ける兵衛に気の毒そうな視線を送っていた。


 どうやら、久しぶりに呼び出された挙げ句、庭でただ待たされ続ける可哀想な護衛役と思われたらしい。


「藤花、おるか? おお、兵衛も来ておったのか」


 何も知らない影親が、いつもと変わらない様子で現れた。偶然を装うとするなら、上々の登場である。


「父上、ちょうど良いところに。お部屋にお入りくださりませ」


 言って藤花は笑顔で影親の手を引いた。と同時に、


「取り急ぎお伝えしたい義がございます」


 と口早に囁いた。


 周囲を確認しながら兵衛に目配せすると、彼は素早く立って庭から上がり、二人の後に続いて部屋に入った。そして、後ろ手で障子戸を静かに閉めた。

 ただならぬ藤花と兵衛の様子に、影親の顔がにわかに強ばる。彼は、鋭い目で二人を睨んだ。


「藤花が何やら儂を驚かそうと悪巧みをしていると初音から聞いて来てみれば、これはいかなることか」


 兵衛がすっとその場に膝をつき頭を下げる。


「我があるじにして伏宮家当主、伏宮実泰ふしみやさねやす身罷みまかりましてございます」

「……なんだと?」


 影親が言葉を失う。藤花は、そんな父親に座るよう促した。


「まずは、九尾様の最期をお聞きくださいませ」

「うむ」


 影親が厳しい顔で座る。兵衛はそれを確認すると、ことの次第を鬼伯に伝えた。


御屋形おやかた様がこの世を去られた影響は計り知れず、こうして今朝方、密かに参った次第でございます。後は藤花様にお取り次ぎをお願いいたしました。私があるじも連れずに伯に直接お目通りを願うなど、大事おおごとになりかねませぬゆえ」


 当然、藤花の部屋に泊まったとは言えない。

 罪悪感がないと言えば嘘になるが、もう嘘をつき通すと覚悟を決めた。九尾のためにも、藤花のことを譲る気はなかった。


 影親は、突然の話で動揺が勝っているのか、兵衛の話に疑問を差し挟むことはなかった。そして、一通り聞き終わると、まだ信じられないという風に大きなため息をついた。


「まさか、このように早くとは──。二代目はどうなる?」

「ひとまず、当主は孫である泰守やすもり様がお継ぎあそばされますが、二代目九尾となると話は別。いまだ、それらしき狐は谷に現れておりません」


 兵衛は再び嘘をついた。九尾の話が本当なら、二代目が現れるのは三百年後だ。しかし今ここで、それを言うのは得策ではない。


「では、妖刀・焔は?」

「御屋形様が人知れずいずこかに封印されました。どこに封じられたかは分かりません」

「分からぬとは──、二代目が現れた時にどうするのだ?」

「……鞘と刀身が互いに呼び合うはずです。鞘がなければ、焔は刀としてのていをなさない」


 嘘と本当を織り混ぜながら兵衛は答える。影親かげちかと完全に利害が一致しているわけではない。彼を亡きあるじの友人として信頼しきっているわけでもない。


 今はっきりしているのは、九尾の死をしばらくは隠しておかなければならないということだ。

 影親はしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。


「兵衛、しばらくは来ることを控えよ。もともと、あやつとは年に数度会うかどうかであったのが、ここ最近はよく訪れていただけのこと。今から冬にもなるから、顔を見せなくなること自体、さほど不自然でもなかろう」

「承知いたしました。では、春の訪れる少し前に一度だけ参ります。藤花様への祝いの品をお届けに」


 影親の言葉を受けて、兵衛が答える。影親が「ああ、」と頷いた。


「そう言えば、まだであったな」

「はい。月夜と伏見谷の盟約が希薄になったと思われるのも面白くありません。盟約は続いているということを周りにお示しになることも必要かと」

「分かった。頃合いは任す」

「はい」


 兵衛が頭を下げた。

 すると影親が気ぜわし気に立ち上がった。


「兵衛、ちょうど今日、里守さとのかみが来ることになっている。六洞りくどう家当主は知っておるな?」

「はい。重丸の父親ですね」

「いい機会だ。おまえを九尾の正式な使者として紹介したい。おまえは、もともと藤花の護衛役でもあるし、九尾の正式な使者ともなれば、何かと動きやすかろう」

「助かります」


 影親に続いて兵衛も立ち上がる。慌てて藤花も立ち上がった。


「私も──」

「下がっておれ。兵衛はおまえに会いに来たわけではない」


 出しゃばってくる娘に影親がぴしゃりと言い捨てた。そして影親は、「じっとしていろ」と言わんばかりに藤花を睨み、踵を返して部屋を出て行く。

 藤花は思わず父親を追いかけ、言い返そうとした。が、しかし、それを遮るように彼女の前を兵衛がすり抜けた。


 そのすれ違いざま、兵衛の指が藤花の指を絡めとった。ほんの一瞬、ぎゅっと握りしめられ、次の瞬間には、彼の節くれた指が藤花の指からすり抜ける。あっという間のできごと──。


 そして兵衛は、そのまま藤花の顔を見ることもなく行ってしまった。

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