大妖堕つ(4)

「兵衛、藤花姫はどうであった?」


 含みのある目で問われ、兵衛はあからさまに嫌な顔をあるじに返した。

 ここは伏宮本家の九尾の部屋。月夜の里から戻った兵衛は、報告のため訪れていた。


「変わりなくお元気でした」


 いい加減に弟子で遊ぶのはやめろと、その口調ににじませながら答えると、九尾が肩をすくめた。


「おまえの報告はつまらなくていかん。それより、姫と楽しんで──」

「報告とは、そういうものです」


 ぴしゃりと言って、下世話なことを言い出そうとするあるじを黙らせる。

 弟子の色事になど興味もないくせに、相手が月夜の姫というのが珍しいからか、最近の九尾はことあるごとに藤花とのことを聞いてくる。

 兵衛はあえて大きなため息をついて、仕切り直した。


「山で再度の不穏な動き、ひとまず重丸に伝えておきました」

「ふむ。それで?」


 九尾がしぶしぶ真面目な顔になる。兵衛は、満足げに頷きながら言葉を続けた。


「それとなく山に遊びに行ったていで様子を確認し、里守さとのかみに報告すると言ってくれました。里守も重丸も、旺知あきともの派手な振る舞いを普段から快く思ってはおりません。が、表立って対立することは避けております。二つ鬼の中には、あの男に心酔する者も多い」

「そうか。前回は藤花姫の直々の報であったから無視も出来なかったであろうが、さて、今度はどうかな」

「立場上、動かざるは得ないでしょうが、うやむやのまま終らせるやもしれません」

悪童わんら山守やまのかみの繋がりは?」

「今のところは分かりません。しかし、山の雑蟲ぞうこたちの動きが気になります。蟲使いがいるのではないかと」

「ふむ」


 九尾が思案げに頬を撫でる。

 臣下が密かに勢力の拡大を図ることは、人の国でも良くあることだ。問題は、あの貪欲な九洞くど旺知あきともが、どこまで上りつめたいと思っているか。


 影親かげちかは、いやあの一族は、上に立つには優しすぎる。どれだけ月詞つきことを奏じる力があったとしても、自分自身を守る力がなければ、いつかは喰われてしまう。せめて、守る者が必要だ。


 二つ鬼の登用は、影親の失策だと九尾は思っていた。御すことも出来ない者を取り立てても何の意味もない。それは、媚びているのと変わらず、力関係が逆転するきっかけともなる。


「藤花姫にそれと分からず守りをつけよ。何があっても姫が誰かの手に渡ることだけは避けたい」

「もう、つけてきました」


 事も無げに兵衛が答えた。

 うちの弟子は仕事が早くてそつがない。自分が出る幕がないなと、九尾は苦笑した。同時に、これで安心して後を兵衛に任せることができる、とも思う。


 九尾には、息子が一人いる。しかし、彼ほどの霊力はなく、よわい百過ぎにして、仙人のように年老いてしまっていた。そして息子には年若い子供が二人おり、一人が伏宮本家を継ぐ予定で、もう一人は分家となって西側の稲山の守りをするようになった。いずれにしても、九尾のような強大な力はなく、下手をすれば、九尾が息子や孫を見送ることにもなりかねない。


 所詮は狐、人に化けることができるあやかしと言えど、阿の国であやかしの頂点に当然と立っている鬼族きぞくとは違う。人の国で妖狐として生き残るためには、細々と種を繋ぎ、己の住処すみかを守り続けなければならないのだ。


 伏宮本家の実権自体を兵衛に渡しても良かった。その時々で現れる力ある者が谷を率いる──、そういう方法もあったと思う。実際、いまだに谷の隅っこであばら家暮らしをしている兵衛に「本家に入れ」と九尾は何度も声をかけた。

 しかし、兵衛はかたくなにそれを拒み続けた。


「分に不相応な振る舞いは、その時は良くても、やがて滅びを招きます。上に立つ者も支える者も、やることは違えど、役目は役目。伏宮本家、稲山分家、奥谷のぬし、人の橘家、それぞれが分相応に振る舞うことが肝要かと存じます」


 最後は、そう弟子に諌められた。

 一方で、九尾はこうも思う。我が弟子があばら家に住むは分相応か、と。

 彼の血をこのまま途絶えさせたくないと思う。これは、完全な九尾の我がままでしかないのだが。

 それに、


「分相応と言っていたおまえだけどなあ」


 ふと心の声が口から漏れる。

 兵衛が「なんの話です?」と眉根を寄せた。九尾は緩む口元を抑えつつ、感慨深げに彼に答えた。


「分不相応な振る舞いは身を滅ぼすと儂に説教していたおまえだが、月夜の鬼の姫君に手を出したではないか。儂はそれでいいと思うのよ」

「だから、なんの話ですか」


 兵衛が、げんなりした顔で九尾を睨む。

 すっかり気を悪くした弟子の様子に九尾はくつくつと笑った。彼には申し訳ないが、これは年寄の最後の楽しみというものだ。


 心残りは、二人の行く末を見届けられないことか。

 ほんの少しの寂しさを感じつつ、九尾は兵衛にさらりと言った。


「兵衛、次の月が満つる夜、焔を封じ、儂は奥谷へこもる」


 まるで、もののついでに言うような口振りだった。いきなり軽口で大事な話を振られ、兵衛は目を見開いて九尾を見返した。


「次の、満月ですか」

「そうだ」


 九尾が静かに頷く。いつもの穏やかな大妖狐の顔がそこにはあった。


「焔を封じる地は誰にも分からないように隠せ。その場所を知るのは、伏宮本家、分家である稲山家、そして橘家それぞれの当主と──、おまえだけだ。後は、誰であろうと知る必要はない」


 そして、彼は三本指を立てた。


「三百年だ。儂が結ぶ結界は、せいぜいもって三百年。儂の力がこの地から消える時、二代目が現れる。これは、偶然ではなく必然だ」

「三百年……」


 兵衛が九尾の言葉を反すうした。九尾がいなくなってからの三百年など、想像もつかない。しかし、これはもう決まったことなのだ。


「兵衛、」


 九尾の静かな声が部屋に響く。彼の最後の下命だった。


「本家を補佐し、儂の力を引き継ぐに相応しい狐たちを育てよ。この伏見谷を、人や他のあやかしにあなどられぬ存在にするのだ」

「仰せつかりました」


 兵衛はきゅっと口元を真一文字に結び、深々と頭を下げた。





 月夜の里では、夜風が冬の冷たさをまとい、粉のような雪がちらちらと舞い始めた。

 兵衛に最後に会ってから三か月は経っていた。周囲の者にしてみれば、人の国のあやかしが来なくなるなど些事さじに過ぎず、気に留める者など誰もいない。気にするとすれば、せいぜいが六洞りうどう重丸くらいなものだが、その彼も最近は何やら忙しそうだと初音から聞いた。


 藤花は一人、廊下に座ってぼんやりと三日月を眺めていた。今夜の月は、細く鋭く、夜空を切ってしまいそうだ。澄んだ漆黒の空に散りばめられた星々も、今夜ばかりは月に遠慮している様に見える。


 彼女の膝の上には、毛むくじゃらの小さな白い犬。いつだったか、奥院の広い庭に迷い込んで来たのを藤花が拾った。初音には、「またそんな汚いものを拾ってきて──!」と嫌な顔をされたが、用意させた湯桶で体を洗ってやると、中から真っ白な毛並みが出てきた。ころころとした風貌にたくましい足が似つかわしくなく、太い眉が妙に憎めない。


 以来、この犬は藤花の元をしばしば訪れるようになっていた。

 そろそろ名前を付けた方がいいのかな、と思う。しかし、もしかしたらすでに名前があるかもしれない。


「困ったものよ」


 藤花がひとり呟くと、彼女の膝の上でのんびりとしていた白犬が、ピクリと耳を動かし顔を上げた。


「どうした?」


 問いかける間もなく、白犬が膝から降りて庭の茂みへと姿を消す。


 とその時、


「藤花様、」


 庭の木々の隙間から兵衛がすっと姿を現した。藤花は目を丸くした。


「兵衛──?」


 思わず顔がほころぶ。しかし、彼の感情の消えた顔を見て、藤花の笑顔も自然と消えた。

 そして、すぐに理解した。彼に何が起こったのかを。


 ああ、その時が来たのだ。


 兵衛が庭の砂利に片膝をついて頭を下げる。


「大妖狐、九尾様が身罷みまかられました」

「……そうか」


 藤花は静かに頷いた。胸がぎゅっと締めつけられ、にわかに言葉が出て来ない。ややして、彼女はかすれる声を絞り出した。


「どのような最期であられたか」

「伏見谷に結界を結ぶため、奥谷にある泉の前に陣を張りました。満月の夜、みそぎを経てそこにおこもりあそばされ、ゆっくりと二月ふたつきと十日をかけて結界を結ばれました。全てが終わるまで、誰も近寄ることかなわず、本家当主とともに二月ふたつきと十日後に訪れた時には、すでにお姿はありませんでした。奥谷のぬしに、心の臓を捧げられたのだと思います」


 藤花はゆっくりと頷きながら、兵衛の言葉を噛みしめた。


「そうか。最期の姿を誰にもさらさず、御隠おかくれあそばされるなど、九尾様らしいの」

「はい」


 兵衛の表情が少しだけ和らいだ。藤花は、少し躊躇ためらわれたが、気がかりなことを一つ尋ねた。


「焔は、妖刀はいかがした?」

「さる地に封じてあります。これ以上は言えません」


 兵衛が簡潔に、無駄なく答える。藤花は「それで十分」と頷き返した。

 そして彼女は、すくっと立ち上がった。


「父上に──、伯にお目通り願おう。お伝えせねばならぬ」


 しかし兵衛はすぐに立ち上がろうとはせず、膝の上でぐっとこぶしを握り締めた。


「兵衛?」

「御屋形様は、名もない私を拾い育ててくださりました」


 ぽつりと、兵衛が呟いた。


「私に名をくれ、世の中のことを教え、誰かと関わる幸せを教えてくださりました。世を恨むことしら知らなかった私に、おまえは生きていて良いのだと教えてくださりました。あの方がいたからこそ、私は藤花様にも出会えたのです」


 深くうなだれ、誰に言うともなく、ぽつりぽつりと兵衛が話す。

 藤花は庭へ降り、兵衛の前にひざまずくと、彼をそっと抱き締めた。いつもは頼もしく感じる兵衛の背中は、この時ばかりは壊れそうだ。


「もう、二度とお会いできない──!!」


 すがるように藤花の袖を掴み、兵衛が全身を震わせる。声にならない慟哭。

 兵衛の唸るような泣き声が、虫の音と混じり合い夜の闇へと消えていく。


 彼が長い生涯の中で、涙を見せたのはただの二回。


 これが、その一つであったとは、兵衛も藤花も分かる訳がなかった。

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