逃亡の果て(2)
「なんだ千紫、気づいたか」
「はい。屋敷が妙に騒がしく、あなた様がいらっしゃいません。家の者を問いただしました」
知性を帯びた横顔が美しい。千紫は、南庭で身を寄せあう侍女衆をちらりと見つつ、
「
「なんだ。命乞いは一切聞かんぞ」
「そうではありません」
千紫がすかさず答えた。
「藤花は手元に置いとくが得策と申し上げているのです」
「なぜだ?」
「……九尾様が
突然、千紫が何でもない事のように言った。
「九尾様亡き今、もはや鬼伯との盟約はあってないようなもの。にもかかわらず、猿は藤花を奪いに来た。つまりは、彼女は伏見谷にとって何かある、ということです」
「何か──」
「そもそも、狐も猿も人の国の者。わざわざ月夜と盟約を結ぶ必要がどこにありましょう? とすれば、これはただの盟約ではございませぬ」
「……しかし、あの男を相手に姫を生け捕るなど、鬼が何人いても足りぬ」
生け捕りは、殺すよりさらに難しい。なんせ、こちらは殺さないよう加減し、相手はこちらを殺す気でくるのだから。
「
「六洞を動かすと言うか」
「当然です」
千紫が平然とした顔で頷いた。
「情勢はすでに決まったようなもの。その今、六洞が我らに楯突く理由もない。そこまで鬼伯に忠誠があった訳ではないでしょう。聞けば、重丸は伏見谷の猿と親しき仲だったと聞きます。彼が相手であれば、いきなり殺そうとはしないはず」
「ふむ……」
「藤花の件は、おまえに任す」
「分かりました」
千紫がうっすらと笑みを浮かべつつ頭を下げた。上手く旺知を言いくるめた、そんな顔だ。しかし、得意げな彼女を見て、旺知はにわかに欲情する。これは愛欲というより、征服欲だ。
どんなに聡明な言葉で自分を諭そうと、この女は自分の支配下にある、と旺知は思っている。なぜなら、彼女は毎夜のように自分に抱かれ、我が腕の中で鳴いているのだから。この凛とした佇まいからは、彼女のみだらな姿など誰も想像できないだろう。
自分だけが知っていると思うだけで、
ふと、この血なまぐさい
「おまえは本当に可愛がる甲斐がある」
旺知は満足げに千紫の頬を指でなぞった。千紫が優美に笑い返し、すっと体を寄せる。
「ひとつふたつ、お願いがございます」
「なんだ?」
「まずは、宝刀・月影が見つかるまで、鬼伯や清影殿に対し短慮な真似はお控えくださるよう」
「分かっておるわ」
「あとひとつ……。深芳を、あの女を私にくださいませ」
思いもよらないおねだりに、旺知は片眉を上げた。てっきり、命乞いをされるかと思っていたからだ。
千紫が女特有の計算高い顔をする。
「あれは、私のものにございます。私の好きにさせてくださいませ」
「どうするつもりだ?」
「まずは、なしの世話でもしてもらいます」
「まさか、
「儂がどんな女を抱こうが、おまえに指図されるつもりはない」
「もちろんです。が、あの女が旺知様に抱かれることだけは絶対に我慢なりませぬ」
千紫が嫌悪感を
女の心の中ほど分からないものはない。
「好きにしろ。では、後は任せた」
素っ気なく言って、旺知は踵を返した。この話自体に興味が失せた様子だった。足音も荒く大広間へと消えていく旺知の後ろ姿を、千紫は微笑を浮かべ見送った。
旺知がいなくなると、千紫はくるりと南庭に向き直った。
「さあ、時間がない。急ごうか」
そう言って引き締めた顔には、先ほどまで旺知に見せていた女の色は欠片もない。
彼女は控える配下の二つ鬼に素早く言い渡す。
「おそらく
「かしこまりました」
「あと、蟲使いに周辺の山の状況を至急調べさせよ。おそらくは、東」
「東……にございますか?」
「東の山に古い筋が残っている。それが一番近い。里中の筋を使わないとあれば、私なら一番近い東の筋を使う」
千紫の弁に、その場にいる鬼たちは舌を巻く。
「この件に関しては、逐一私に報告せよ。行け」
「はっ、」
鬼武者の一人が身を翻して闇夜へ消える。そして、それを見届けてから千紫は揚々とした声で南庭に向かって呼びかけた。
「腕に自信がある者は名乗り出よ! 相手はあの大妖狐九尾の弟子、見事生け捕り、
刹那、南庭に集まる二つ鬼の武者たちが雄叫びを上げる。千紫はそれを満足げに眺め、次に侍女衆に目を向けた。見定めるのは、ただ一人の侍女のみ。
「初音、立て」
名を呼ばれ、初音は静かに立ち上がった。強ばった顔ではあるが、真っ直ぐに千紫を見返す。
千紫がふわりと笑った。
「おまえにはいろいろと聞きたい事がある。一緒に来い」
底の見えない彼女の笑みに、初音はごくりと生唾を飲む。
闇夜に白い雪が舞い始めた。
しかし、そうはしなかった。里中は
そして、次に近いのが今向かっている東の山中にある筋である。古くなったせいで使わなくなったが、通れないわけではない。なので、そこを目指すことにした。
雪がちらちらと舞い始める。今夜は冬には珍しい月の夜だ。北の領の冬は
しかし、夜空が澄みきっている分、空気は凍えるような冷たさだ。
阿丸の背の上で藤花は思わず身震いする。逃げ出す前に、部屋に戻って慌てて羽織をはおってきたが、冷たさが肌に突き刺さる。
並走していた兵衛が、阿丸に飛び乗り藤花を後ろから抱き締めた。
「寒いですか」
「子細ない」
「しかし、震えている」
「賊に襲われ、怖かったからじゃ」
思わず嘘をつくと、彼は「そういえば」と思い出したように呟いて、少し怒った顔を返した。
「なぜ、あのように男を
「き、聞いておったのか」
「もちろんです。ただでさえ、好色の姫だの、毎夜男を取っかえ引っかえだの、いらぬ噂が広まっているというのに。また、余計な尾ひれがつくではないですか」
「なんとか話を引き伸ばそうと……、売り言葉に買い言葉というやつじゃ」
「できもしないくせに、買わなくてよろしい」
言って兵衛が藤花の首筋にかぶりつく。冷えきった首筋に兵衛の暖かい体温がじわりと染みる。彼女の首に、久しぶりに痕がついた。
「私以外の男に肌を見せたお仕置きは、あとでみっちりと」
「お、おおお仕置きとは?」
藤花がたじろぎながら尋ねると、兵衛は不機嫌な顔はそのままに、口の端に笑みを浮かべた。
「とりあえず、私の思いつくこと全部」
それはなんだと聞こうとして、しかし、ふいに兵衛が彼女の頭を阿丸の背に押しつけた。
「来ました。追っ手です。思ったよりに動きが早い」
口早に言って、兵衛が周囲に目を配る。自分たちを取り囲むように何人もの影が現れた。
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