6)逢瀬

逢瀬(1)

 長らく滞在していた九尾たちが奥院を去って早や三日が経った。


 藤花は心にぽっかり穴が空いたような気持ちになって、部屋にこもりがちな毎日を送っていた。体調が優れないと嘘をつき、食事も部屋で取った。


 以前にも増して兵衛のことばかり考えるようになっている。いや、もう兵衛のことしか考えていない気もする。あのとろけるような口づけを何度も思い出しては、もっと触れていたかったと、どうにもできない思いを募らせた。


 三日目の夕方、ようやく初音に言われて影親かげちかたちと夕餉ゆうげを共にする。ふらりと広間に現れた末姫を、影親と深芳みよしが笑顔で迎えた。


「藤花、もう良いのか?」

「はい、父上。少し疲れが出たようです。……兄様は?」

「うむ、北山の封鎖を解くために山守やまのかみとともに出かけておる。夕刻には戻ると言っていたので、もう帰ってくる頃だろう」

「そうですか」


 もう封鎖を解くのかと頷きながら深芳の隣にぽすんと座る。深芳がほっとした面持ちで藤花の角と髪を撫でた。


「ずっと、弟子殿の看病をしてくれていたからの」

「兵衛は私が巻き込んだようなものですし……」


 神妙に答えれば、「それは藤花のせいではない」と影親が割って入った。


「九尾は、酔狂すいきょうで仕事を請け負うような真似はしない。あやつなりに何か思惑があってのこと。藤花が気に病む必要はない」


 そして愛娘に笑いかける。


「いつも元気なおまえがしおらしいと、奥院も暗く沈む。よく食べ、元気になれ」

「はい」


 それからは、いつもどおり食事をし、いつもどおり他愛もない話を影親や深芳とした。ほんの少し気が紛れた。


 兵衛がいなくても、毎日はいつもどおり過ぎていく。「会いに来る」と言った彼の言葉を信じて、今はとにかく待つしかない。


 しかし、食事も終わろうかという時、荒々しい足音が廊下で鳴り響いた。何事かと思う間もなく、広間に険しい顔の清影きよかげが現れる。その場にいる全員が驚いた様子で清影を見た。


「おお清影、どうした?」

「父上、千紫姫の宵臥よいぶしの話、どういうおつもりか?」


 開口一番、清影が言った。


 影親から笑顔がすっと消えた。そして、すぐさま部屋にいる侍女たちに「ここはもういい」と出ていくよう指示をする。


 清影は部屋から侍女たちが消えるのを苛々とした様子で見送り、気配がなくなったのを確認すると再び口を開いた。


「今日、山守やまのかみから話を聞きました。千紫を妻に──、いや、九洞くど家当主就任の祝いに宵臥よいぶしとして召し出すつもりであると」


 深芳と藤花は青ざめた。どこまで知っているのかと、まず心配になる。

 宵臥も何も、千紫はすでに旺知あきとも御手付おてつきなのだ。

 すると、青ざめながらも驚かない深芳と藤花を見て、清影は二人を睨んだ。


「おまえたち、知っておったのか。なぜ、言わなかった?」


 深芳が慌てた様子で両手をついて頭を下げる。


「申し訳ございません。千紫から口止めをされ、私自身どう兄上様にお伝えすれば良いか分からず──」

「ありのままを話せば済むだけだ!」


 清影が声を荒らげた。深芳が体を震わせ、さらに頭を畳に擦りつける。そんな息子の激昂を見かねた影親が「やめよ」と声をかけた。


「深芳が怯えておるではないか。おまえらしくもない」


 そして影親は不機嫌な目を清影に向けた。


「たかが二つ鬼同士の婚姻に、何をそんなに目くじらを立てておる? 旺知あきともから当主就任の祝いについて相談を受けたので、ちょうど良い娘がいると教えたまでだ」

「教えた?」


 清影が信じられないと目を見張った。影親はなんでもないといった様子で頷いた。


「あの娘は父親譲りで学は高いが、所詮は、おまえには相応ふさわしくない。聞けば、おまえは彼女にかんざしを贈っていたそうだな。女はすぐに勘違いをする。そういう真似は控えよ」

「まさか、父上──」


 清影が怒りで声を震わせる。その場にいた藤花も深芳も、初めて影親の真意と事の真相を理解した。


 この婚姻は、たまたま起こった出来事ではない。影親によって仕組まれた婚姻だったのだと。


「恐れながら、父上様に申し上げます」


 深芳が蒼白な顔をさらに白くし、両手をついて訴えた。


「千紫は二つ鬼ながら、教養深く、慈愛にあふれ、類い希な姫君にございます。兄上様がお目にかけていたのも当然のこと、どうか今一度お考え直しくださいませ」

月詞つきことが歌えぬではないか」

「え?」

「清影はゆくゆくは鬼伯となる伯子ぞ。月詞が歌えぬ姫を伯子の妻になどできるわけがない」


 冷ややかに言って、馬鹿を言うなとばかりに大きなため息をつく。そして影親は、ふと思い出したように言った。


「そうだ。今度の御前会、洞家の姫や家元の娘を集めて歌競いをさせようかと思っておる」

「は、……歌競い、ですか?」

「清影も、いい加減に妻をめとらねばならん。まあ、とは言え、歌競い自体は余興であるが──。深芳もそこで月詞を歌ってみせよ」


 影親が含みのある目で深芳を見る。それは、今まで彼女に見せたことのない眼差しだ。そして、清影の正妻探しに「歌競い」を行うから、それに深芳も出ろと言う。


 その言葉の意味するところは──。


「あの、父上様。私は……」

「兄妹とは言え、血はつながっておらぬ。そうであろう? 深芳」

「……」


 深芳が困惑した表情で目を伏せた。床につく手がかすかに震えている。にわかに義理の父親から女としての役割を求められ、思考がついていってないようだった。


 やっとのことで、深芳が呟くように影親に言い返した。 


「わ、私も千紫同様、月詞はあまり歌えませぬ」

「歌えぬのではなく、歌わぬのであろう。千紫姫の影響か、女だてらに薬草などの本ばかり読んで。しかと月詞について学べば歌えるようになる」


 聞く耳を持たない影親の言い方に深芳は今度こそ押し黙った。その表情に明らかな嫌悪が浮かぶ。しかし影親はそれさえも無視した。


「一つ鬼の血筋は守らねばならん。月詞つきことが歌えてこそ、我らが鬼伯として北の領を治められるのだ。他の血を混ぜるわけには──」

「……意味が分からぬ」


 藤花が影親の言葉を遮った。隣でうなだれる姉を庇い、きっと父親を睨む。


「父上は角の数に関係なく、秀でた者を取り立てていらっしゃるではないか。二つ鬼であろうと、秀でた者を兄様の妻に迎えることに何の問題があるのです?」

「それとこれとは話が別だ」


 影親がぴしゃりと言った。そして呆れた顔で子供たちを見る。


「二つは所詮、二つ。一つにはなれぬ」


 絶対的に二つ鬼を卑下する影親の言い方に、藤花の中で何かが崩れていく。これが父親の本音だったのかと。


 そんな馬鹿なと、藤花は思った。自分の父親は角の数に関係なく、誰にも等しく、分け隔てなく──、しかしふと、初音の言葉を思い出した。


 十中八九、反対されますよ。分かることでございましょう。


 確かにその通りだ。本当に角の数にこだわっていないのであれば、初音の家がなし者を出したからと六洞りくどうを召し上げられるわけがない。影親の「こだわらない」とは、あくまでも自分たちに影響がない範囲でという意味だ。


(こんな簡単なことを、どうして今まで分からずに──…)


 藤花は己の浅はかさに眩暈めまいがする思いだった。同時に、二つ鬼どころか、鬼ですらないあやかしに対する父親の考えも容易に推測できた。


「……この先には何もない」


 思わず兵衛の言葉を口に出すと、影親が眉をひそめた。


「なんだ、藤花?」

「何もないと、申しておるのです」


 藤花は影親を真っすぐ見返した。


「一つ鬼以外を排除し、他のあやかしを否定する先に何があるというのです? 月詞つきことは鬼伯の座に就くための道具ではない。天地あまつちとともに生きる知恵じゃ。そんなことも分からず、この先に何があろうものか」

「何も分からぬ小娘がっ、黙っておれ!!」


 影親が怒りで顔を歪めて立ち上がり平手を上げる。深芳が血相を変えて藤花を抱きかかえた。


「父上様! お許しくださいませ。藤花はまだ父上様の深いお考えが理解できぬのでございます。私から言って聞かせます。どうか、どうかご容赦を──!」


 深芳の懇願に影親が苛々とした様子で大きく息を吐く。そして彼は、そのまま広間を出て行った。清影が慌ててその背中に声をかける。


「父上、まだ話が終わっていない!」

「もう手が付いておる」


 くるりと振り返り、影親が冷めた目で清影を見る。


「千紫姫は、もう旺知あきとも御手付おてつきだ。何もくつがえることはない」


 そう言い捨てて影親は寝所へと戻っていった。

 清影が呆然と立ち尽くす。それを見て、深芳が「ああっ」と悲痛な声を上げ泣き崩れた。


 なぜ、こんなことに。


 藤花もまた放心状態で座り込む。


(兵衛に会いたい)


 今、彼は何をしているだろうか。夜空に浮かぶ月を見て、ぼんやりと思いをはせる。


 この恋が成就することはないのかもしれない。

 だとしても私は兵衛を選ぶ。

 彼に会ってしまった私に、他の選択などもうないのだから。


 月の光がただ優しく夜空を照らしていた。

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