不要の者(3)

 月初めの日が来た。その日は、朝からひどく風の強い日だった。秋の冷気を含んだ風が、北の山からびょうびょうと吹き下ろしていた。


 深芳は朝早くから身支度を始めた。彼女の髪を後ろで結びながら心配そうに波瑠が言う。


「今日は風が強うございます。別の日にしては?」

「いや、心配ない。今日行く」


 強い口調で深芳が答えると、波瑠は納得のいかない顔をした。おそらく腹の子が心配なのだろう。


 しばらく会えなくなるかもしれないので、本を一冊と薬草茶を包んで持っていくことにする。そして、いつものとおり市女笠をかぶり垂衣たれぎぬで全身を覆い、深芳は落山の屋敷を出た。


 向かい風の中、垂衣を片手で押さえて歩いて行く。西山道の境ではいつものとおり牢番の与平が待っていた。

 強い風の中、こちらを気遣う様子を見せつつ、彼は黙って深芳を座敷牢まで案内した。二百年、一言も言葉を交わしたことはないが、信頼できる者だった。


 木札を与平から受け取って、はやる気持ちを抑えて門をくぐった。

 少しの不安と、それ以上に強い決意とを心に抱いて深芳は清影のいる部屋に行った。


「兄上様、」


 庭に面した明るい部屋の隣、日の光の届かない部屋に座る清影に声をかける。彼は一人で碁を打っていた。ぱちりという音が止み、清影が振り返る。深芳は満面の笑みを浮かべて彼の隣に座った。


「今日は碁を打っていらっしゃったのですね。後で私と勝負をしてくださいまし」


 清影が笑って頷き返す。そして彼は、良く来てくれたとばかりに目を細めて深芳の頭をなでた。


 今日は大切な話をしなければならない。深芳は義兄の機嫌を確かめつつ、「そうだ」と声を上げた。


「今日は風が強い中を歩いてきたので少し喉が乾きました。兄上様には例の薬草茶をお持ちしましたので、淹れてきましましょう」


 少しでも穏やかな気持ちで話を聞いて欲しかったし、子を成したと聞いて心を乱しても欲しくなかった。深芳はあえて清影にお茶をすすめた。


 さっそく土間にお湯を沸かしに行く。

 必要最低限の物しかない土間は、どこか落山の屋敷と似ている。ふと水屋の棚を見ると、一か月前に置いていった薬草茶がまだほとんど残っていた。


 思った以上に減っておらず、彼が節度をもってお茶を飲んでいることに、ひとまず深芳はほっとした。それから、残っている古い茶葉から使おうと思い、新しい茶葉の袋を傍らに置いた。


 茶碗の一つに白湯さゆを、もう一つに薬草茶を入れ、深芳は部屋に戻った。


「兄上様、大切なお話があります。今日はそのために来ました」


 清影にお茶を勧めつつ深芳は話を切り出した。

 白湯を飲んで、ひと呼吸おき、気持ちを整える。緊張した面持ちの深芳の様子を、清影は同じくお茶を飲みながら怪訝な顔で見つめた。


「腹に──、子が出来ましてございます」


 深芳は単刀直入に告げた。清影が驚いた様子で目を見開いた。


「兄上様のお子です」


 さらにそう告げると、義兄は戸惑いぎみに目を伏せた。

 単に驚いているのか、それとも不快に思っているのか。表情だけでは読み取れないだけに不安になる。


 それでも言わないといけない。深芳はぐっと奥歯を噛みしめて、さらに言葉を続けた。


「私が兄上様の子を成すなど、迷惑に思うかもしれません。しかし、私はこの子を産みたいと思います。私は、母になりたいと思います」


 清影が深芳を見返し、声にならない呻き声を上げた。とっさに言いたいことを声に出そうとしたのだろう。

 しかし言葉を発することができない自分を思い出し、彼は深芳の手を取った。そして、彼女の手の平の上で指をゆっくり滑らせる。


『めいわく ではない』


 その言葉に深芳はほっとする。清影は、にわかに嬉しそうな笑みを浮かべてさらに指を滑らせた。


『おどろいた うれしい ありがとう』

「……喜んでくださいますか。兄上様」


 涙を浮かべて深芳が尋ねると、清影はこくりと頷いた。


『つらいおもいを させた』


 そして彼は、静かに力強く彼女を抱きしめた。まるで許しを乞うかのように。それでいて何かから彼女を守るかのように。

 深芳は溢れそうになる涙をぐっとこらえ、清影の胸に顔を埋めた。


 どれだけ抱き合っていただろうか。しばらくして、どちらからともなく二人は離れた。はにかみながら見つめ合い、額と額を付き合わせる。清影が深芳の髪と角に口づけし、それが頬へと落ちた。


 優しく労るような優しい口づけ。思わず、深芳の体の芯が熱くなる。それで彼女がねだるような顔を返すと、清影は少し困った様子で深く唇を絡ませてきた。


 いつもなら、後悔すると分かっていても、このまま流される形で行為に及ぶ。何もなければ、おそらく今日もそうだっただろう。

 しかし、


「あの……兄上様、腹の子に障りますので今日は控えとうございます」


 こちらから口づけをおねだりしておいて自分勝手だが、深芳は清影の体を軽く押し返し、拒絶の意を示した。

 先月のようなことにはなりたくない。すると、清影が深芳の手の平に再び文字を書いた。


『なにも しない』


 深芳は再びほっとする。清影がそんな深芳を抱き寄せ膝の上に乗せた。彼の大きな手が深芳の腹部を包み込んだ。じんわりと清影の温もりが伝わってくる。深芳がそこに手を重ねて見上げると、優しい義兄の顔があった。


 ああ、この顔だと深芳は思う。この無頓着なほど色のない目で義妹を見るこの顔に、自分は惚れたのだ。


「……兄上様、今も昔もお慕いしております」


 ずっと胸に秘め続けた思いを、今になって初めて口にする。清影が苦笑して、深芳の手の平に文字を書く。


『おまえは たいせつな いもうと』

「はい」

『だれよりも いちばん たいせつな かぞく』

「はい」


 やっぱり恋仲にはなってくれないと思いながらも、不思議と晴々はればれとした気持ちになる。


 自分たち兄妹の関係を言い表せる言葉はない。あえて言うなら『大切な家族』と言うだけだ。その単純な答えを見つけるために二百年もかかってしまった。


「兄上様、大切な家族が一人増えますね」


 深芳がそう言うと、清影が大きく頷いた。そして突然、深芳を両手で抱き上げて、庭に面した日の当たる部屋へと移動する。


 清影は青空を仰ぐと、言葉にならない呻き声を上げた。

 それは決して美声とは言いがたいものであったが、喜びに満ちた力強い響きが空の気と共鳴し合い、天に向かって昇っていく。


月詞つきこと……?」


 月詞ではない。しかし深芳には、それが月詞に聞こえた。


 清影が深芳をその場に静かに下ろす。そして彼は、深芳の手の平に言葉を書いた。 


『かならず つきことを おしえよ』

「しかし、月詞を歌える者がもうおりませぬ」

『とうか』

「藤花ですか?」


 妹とは、かれこれ二百年以上会っていない。質素ながらに気ままな生活をしているとは聞くが、姉妹の行き来は許されていない。「心得た」とは即答できず、深芳が戸惑っていると、清影がさらに言葉を続けた。


『つきことが つきかげに つながる』


 深芳は手の平に書かれた言葉に目を見開く。

 この二百年、反対勢力がいなくなったとは言え、宝刀月影を旺知あきともは今も探し続けている。深芳自身、もう宝刀の所在を知る者はどこにもいないと思っていた。


 深芳が清影を見返せば、彼は静かに頷いた。


『つきかげを もつべきものへ』

「……それは、どこに──?」


 清影が首を左右に振る。分からないのか──、深芳は小さく頷き返した。


「ならば、月詞が導いてくれるのですね」

『あまつちが おしえてくれる』


 清影が深芳の手の平に書く。そして彼は、全てを覆い隠すように彼女の手をぎゅっと握った。

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