不要の者(4)

 深芳が帰り、座敷牢にいつもの静寂が訪れた。


 今日は囲碁をしたり、ゆっくりと話をしたり、久しぶりに兄妹らしい時間を過ごした。

 その後、風が強いので早めに帰るよう促し、子供が生まれるまでしばらく来ないよう深芳に言い聞かせた。土間には彼女が持ってきた茶葉の入った袋が置き忘れてあった。


 もしかしたら、しばらく来れなくなるからわざと置いていったのかもしれない。


 そう思いながら清影は自分で薬草茶をれた。今日は深芳がもたらした朗報に我ながら興奮していて、少し落ち着きたかった。


 清影は沸騰したお湯の中へ慎重に量を見定めながら茶葉を入れる。

 以前、深芳から注意しろと言われたにもかかわらず、適当な量で煮出したら昏倒しかけて大変な目にあった。薬と毒は紙一重。それ以降、清影はこの薬草茶を飲むこと自体控えていた。


 今夜は月初めの新月、夜空に月の姿はなく、変わりにこぼれ落ちてきそうなほどの星が瞬いていた。

 清影は自分で淹れたお茶を手に縁側に一人座ると、星空を仰ぎ見た。薬草茶から漂う独特の匂いが鼻孔をくすぐり、遠い昔の思い出へ彼をいざなった。


 深芳と初めて出会ったのは、彼女が二十歳の頃か。

 奥院に召し上げられた美しい母親の後ろから、父影親かげちかに鋭い視線を投げ、それをそのままこちらにも向けてきた。(ああ、母親を奪った輩と憎まれているな)と清影はすぐに感じた。


 母親に負けず劣らず噂通りの美しい娘だった。しかし、言い寄る男には全く興味を示さず、庭の隅に生えている雑草を見つけては目を輝かせていた。

 思わず「変わった姫だな」と笑いかけたら、その日からこちらに笑顔を向けてくるようになった。

 母親が藤花を産んで亡くなったのは、それからしばらく経ってからだ。


 小さな赤子を母親代わりに抱きかかえ、奥院の姫として気丈に振る舞う深芳を守ってやらねばと思った。

 彼女には、もう家族と呼べる者が妹の藤花しかいない。だから、自分が兄として家族になってやらねばならないと。

 当然ながら、そこに愛情はあっても恋情はまったくなかった。清影には、深芳はどこにでもいる普通の妹にしか見えなかった。


 その深芳との間に子が出来た。不思議な気持ちだった。「ずっと慕っていた」と言われ、昔から分かっていたような、それでいて突然知らされたような、そんな気分になった。

 昔と今とで同じ気持ちかと言えば少し違う。二百年の間、二人で兄妹と男女の間を揺れ動き、薬草を愛でる妹はいつしか自分を支える大切な女性になっていた。恋情に似て非なる愛情は、今の彼女にだけ向けられた独特の気持ちだ。


(辛い思いをさせた)


 今までの自分を思い返し、清影は大きく息をつく。

 ままならない鬱積うっせきを全て深芳にぶつけていた。いっそ、不甲斐ない兄に愛想を尽かし、来なくなればいいとも思った。

 それでも妹はここへ通い続け、自分に全てを捧げてくれた。その上、子まで成してくれた。

 もうこれ以上、彼女から奪ってはいけない。

 

 ふと庭先に何かの気配がした。月明かりのない暗闇から、一人の男が現れる。小袖を着流し、無造作に髪を結び、頭上にはあるはずの角がない。


 清影がさして驚いた様子もなく男を招き入れる。なし者、九洞くど成旺しげあきが、静かに清影の隣に座った。


「深芳から聞いたか?」

 

 開口一番、成旺が言った。清影が小さく頷く。すると、成旺は満足そうに笑った。


「さぞ美しい子が産まれるであろうよ」


 清影が再び頷いた。

 この男が現れるようになったのは、百年ほど前からか。会う前からその存在は深芳から聞いていた。形だけとは言え、まがいなりにも深芳の夫である男だ。


 初めて牢番以外の者が入ってきた時には、さすがの清影も驚いた。

 しかし、旺知あきともの兄だと名乗るなし者は、「百年も経てば、いかに堅固な結界も古くさい術に過ぎぬ」と皮肉げに笑った。


 どうやら彼は、牢番の交代の隙を狙って忍び入ってくるらしく、結界に関する知識も持っているらしかった。

 それからと言うもの、成旺はふらりと気まぐれにやって来て、時勢などを一方的に話して帰っていく。それが、半年後のこともあれば、一年後や二年後のこともある。


 こちらに逃げる算段を持ちかけてくるとか、今だ行方不明の宝刀の在りを尋ねてくるとか、そういうこともない。ただ来て、ただ話し、そして帰っていくだけである。しかし、清影はこの男に気を許したことはなかった。


 この男の話は、なぜだか気持ちをそぞろとさせる。何を考えているか分からない底の知れない恐ろしさを清影は感じていた。


 なんにせよ、どうせ今夜も好き勝手に一人語りをするのだろうと清影は思った。しかし、成旺は意外にもこちらに話しかけてきた。


「清影、ようやく外に出ることができたな」


 まるで古くからの友人のように感慨深い口調で成旺が言った。


 何を言っている、自分はこの二百年の間、一歩も外に出ていない。


 しかし、清影には成旺の意味するところがすぐに分かった。なぜなら、自分自身が強くそう感じていたから。

 

 ここでついえるはずの我が命が、外に出た。


 深芳が自分との子を産む。それは今の清影にとって、自分が外に出たのも同然だった。だからもう、自分自身が外に出るために足掻あがく必要なないのだと、彼は思った。


「これからどうする?」


 成旺がさらに話しかけてきた。

 しかし、こちらの答えを聞く気などまったくない様子から、答えはすでに彼の中で出ているようだった。


 ふと成旺がちらりと清影の傍らに置かれた茶碗に目をやる。なみなみと注がれた薬草茶からは、独特の香りが漂っていた。


「それは深芳の薬草か。彼女が置いていったのか?」


 清影が頷くと、成旺は心得た様子で口の端に笑みを浮かべた。


「なるほど。もはやということか」


 不要の者──。不意に言われたその言葉が、清影の胸に突き刺さった。


 成旺が「何を驚くことがある」と平然と首を傾げる。


「自分でもそう思っていただろう? 座敷牢から出ることもできず、月詞つきことを歌うこともできず、ただ漫然と時間を潰して生きているだけ。遅すぎるぐらいだ。深芳が子を成した今、おまえはもう用がない」


 言って彼は、含みありげに茶碗の淵をこつりと叩く。


「果たして、彼女が薬草を置いていったのは偶然かな?」


 清影が静かに成旺を見返す。その怒りに震える視線を成旺が真っ向から受け止めた。


「深芳はおまえの子を産む。その子が、おまえの意志を引き継ぎ、おまえに代わり、北の領で生きる。だがその時、おまえの存在はどのような影響を及ぼす? 二百年前、妹とそういう関係になった時から、答えはとっくに出ていたはずだ。そんなことも分からないほど、おまえは愚鈍な者ではないだろう?」


 そして成旺は、清影の前で祝いの杯を持つかのように、茶碗を高々と掲げ、それからそれを一気に飲み干した。


「この程度の濃さでは、深く眠ることはできても死ぬことはできぬな」


 ことんと茶碗を清影に返し、成旺は独り言のように呟いた。そして彼は、それ以上は何も言わずに庭の闇へと消えていった。




 数日後、座敷牢の門を覆うもやが突然晴れた。


 驚いた牢番が中を確かめに入ると、元伯子・清影が庭に面した廊下に座り、眠るように死んでいた。傍らには飲み干した後の茶碗が一つ。


「うわああ。たっ、大変だ! 里守さとのかみに知らせねば!!」


 牢番の二つ鬼が、慌てふためき誰かを呼ぶためにその場を走り去る。


 再び静かになった庭に、風がびょうっと吹き抜ける。庭木の根元に捨てられた薬草が、誰に見られることもなく風に舞い上げられ飛散した。

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