大妖堕つ(2)
九尾と兵衛が月夜の里を訪れたのは、藤花がその身に焔の鞘を収めてから半月ほど経ってからだった。
「藤花姫、体の具合はどうだ?」
なんの前ぶれもなく、藤花の私室を訪れた九尾が、開口一番に言った。
ちょうど秋の草木を花器に生けていた藤花は、その手を止めて廊下に現れた九尾を仰ぎ見た。後ろには兵衛を従えている。
「なんの問題もありませぬ」
にこりと笑い返しながら、花器を脇へ追いやり、藤花が上座を九尾に譲る。
それを当然のごとく受け入れて、九尾は遠慮なくどかりと腰を下ろした。もう客人でいるつもりはないらしい。
そんな彼の様子を見て、「ああ、この方と縁戚になったのだ」とあらためて彼女は思った。
藤花は両手をついて軽く頭を下げた。
「気分も良く、痛くもかゆくもございません」
「それは良かった」
満足そうに九尾が頷いた。そして「ところで、」と言葉を続ける。
「今度、盟約の証しとして、祝いの品を持参しようと思うのだが、何か望みの品はあるか」
「特になんの不自由もありませぬゆえ、お気遣いは無用にございます」
「そうか。では、人の国の珍しいものを見繕ってみよう」
藤花の伏見谷への輿入れは、
表立っては、今回の九尾との盟約は、「ゆくゆく伏見谷のしかるべき相手に藤花を嫁がせる」というものになっていた。
中には、先の噂と合わせ、「ふしだらな姫の厄介払い」と
一方、藤花自身はと言えば、表立っては何も変わらなかった。
身の回りの世話は、再び、初音がしてくれるようになった。彼女にだけは全てを話した。当初、「なんとひどい仕打ちを」と怒っていた彼女も、事の次第を聞いて少しだけ溜飲を下げた。
それでも「まだ他に何かやりようがあったのでは……」と、しばらく恨み言をぼやいていたが。
「今日は、祝いの品のことでこちらにいらっしゃったので?」
藤花が問うと、九尾が部屋の入り口で控える兵衛を見た。
「いや、あらためて兵衛を紹介しようと思ってな。兵衛、中へ」
しかし兵衛は大きなため息をついてそっぽを向いた。
「……ここで、十分です」
九尾と藤花のわざとらしいやり取りに、気まずいのと居心地が悪いのとで、腰が落ち着かない。そんな彼に、九尾と藤花が興醒めした顔をした。
「おまえが入らずどうするのだ」
「そうじゃ、中に入りやれ」
「私はただの護衛です。遠慮いたします」
この状況を受け入れきれていないのは自分だけだ。
思えば、この二人はどこか似ている。果たして
「いいから入れ。風が冷たい」
「そうじゃ、体が冷えてしまう」
さして冷たくもない秋風を盾にして、九尾と藤花が再び迫る。押しの強い二人に迫られ、兵衛はしぶしぶ部屋の隅に座った。
「さて九尾様、」
兵衛が部屋の中に入ったのを確認すると、藤花がくるりと九尾に向き直った。
「あなた様は、父上に何か話があるのでは?」
「儂か? いや──」
「いいえ、あるはずでございましょう?」
言って藤花は、出て行けとばかりに頭を深々と下げる。九尾が呆れた顔で藤花を見返した。そして彼は、「儂は邪魔者か──」とぶつくさ言いながら立ち上がる。
そんな彼に藤花はさらに言い足した。
「こちらに遠慮は無用です。年寄り同士、ごゆっくりお話をしてきてくださいませ」
九尾が肩をすくめ部屋を出で行く。
ちらりと兵衛に目をやると、兵衛はこれ以上ないほどに居心地の悪そうな顔をして、そっぽを向いてしまっている。
「寒いので、ここは閉めていくぞ」
さして寒くもないのだが。
九尾は、吹き出しそうになるのを必死にこらえながら、部屋の障子を静かに閉めた。最後に、中の二人に分かるよう戸口に結界を結ぶ。「あやかし
つまりは、しばらく誰も近寄らない。
きっと兵衛はさらに迷惑顔をしているだろう。
「ふっ、はっはっはっ」
こらえきれなくなった笑い声を漏らしながら、九尾は藤花の部屋を後にした。
九尾の笑い声と足音が遠のき、彼の気配がなくなると、藤花は「はあっ」と大きく息をついた。そして彼女は、嬉しそうに顔をほころばせて兵衛に飛びついた。
「兵衛!」
「藤花様、誰か来ます」
「大丈夫じゃ。九尾様が結界を結んでいってくれたではないか。それよりも──、うむ、この感触じゃ。本物じゃ」
言って藤花が頬を胸にすり寄せる。兵衛は、あからさまに顔をしかめた。
「なんの話ですか」
「おまえの抱き心地の話じゃ」
むくっと顔を上げて藤花が答えた。兵衛は訳が分からないと嘆息する。
「……お体の具合は?」
「何度も言わせるな。すこぶる良い」
「なぜ、あのような申し出をお受けになられた?」
少し厳しい口調で問うと、藤花が顔を曇らせた。
「怒っておるのか?」
「当然です」
「勝手に決めたから?」
「そうではなく──、いや、それもありますが。あなたは、これから先ずっと、二代目が現れるまで焔の鞘を体に抱え続けなければならない。これは、谷に囚われた身となるも同然。体にしても、今はなんともなくても、今後どうにかなるかもしれない。分かっておいでか」
「……役目と引き換えに
納得のいかない顔をする兵衛に藤花は笑った。
「おまえと共に過ごす
言って彼女は、兵衛の首に両腕を回した。しかし、兵衛が静かに藤花を自分から引き剥がす。
「藤花様、あなたはもう伏宮本家に輿入れされる身です」
「そのような約束、九尾様とは交わしておらぬ。私が請け負ったのは、あくまでも焔の鞘をお預かりすることだけじゃ」
「しかし、世間はそう思っていません」
「どこの誰かも分からぬ世間など知らぬ」
うるさそうに言い返し、悪びれる様子もなく、藤花は兵衛の膝の上に乗ると両手で彼の顔を捉えた。潤んだ深紫の瞳に仏頂面の兵衛が映る。
「兵衛、私を守ってくれるのであろう?」
言って藤花はにっこり笑いかけた。花の甘い匂いが、兵衛を包んだ。彼女の笑顔を見ていると、難しく考えずともなんとかなる、不思議とそう思えてくる。
兵衛は、「まいった」と
「本当に、あなたには
「ようやく笑ったな、兵衛」
藤花が嬉しそうに言った。そして、おねだりの顔をする。
無邪気な彼女の様子に愛おしさが込み上げる。
しかし同時に、兵衛は少し嫌な予感がして、彼女に言った。
「藤花様、言っておきますが、状況はほぼ何も変わっておりませんよ」
藤花が「そうなのか?」と眉根を寄せる。
「……私は谷に輿入れする姫ぞ。おまえが昼夜かまわず側にいるのではないのか?」
「そんな訳ないでしょう。そもそも、輿入れ前の姫が、このように男を部屋に引き入れるなど聞いたこともない」
「しかし、私の護衛のために寝食を共に──」
「それは、護衛とは言いません。護衛であれば、廊下で十分です」
ぴしゃりと彼女に言い返せば、彼女がわなわなと震えだす。
「話が違うではないか。四六時中、兵衛と一緒におれると思っていたのに?」
「
「いや、そんなことは──。……して、おらぬな……」
そこで初めて、自分の勝手な思い込みであることに藤花自身が気づく。
「狐に騙された……」
「騙していないと思います。さらに言うなら、奥院で過ごす以上、あらためて護衛も必要ありませんから、何かなければ私はこちらにいません」
「なんと──。むむむ」
悔しそうに唸る藤花の姿が可愛らしい。思わず兵衛は声を上げて笑った。
やっぱり
行き詰まった二人の関係に、九尾が道筋を示し、藤花が大きな犠牲を払うことで、わずかばかりの
そのわずかばりの
なんと無邪気で、前を見ることしか知らぬ姫か。
後はもうこの愛おしい姫の笑顔を守るだけだ、と兵衛は思った。彼女の気持ちから逃げてはいけない。藤花を拒絶することは、彼女の犠牲を否定することと同義となるのだから。
「藤花様、今日はここまでです」
兵衛は、口を尖らせて怒る彼女をなだめるべく、その頭に手を回し、紅く色づいた唇に自分の唇を重ね合わせた。
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