藤の花恋

すなさと

第1話 藤の花恋

1)鬼の里

鬼の里(1)

 人の国とは隔たる狭間にそこはある。

 すぐ隣ではあるけれど、側ではない。迷いの道を曲がってくねって、入ったところにその国はある。


 ここは阿の国、あやかしの国。


 今は春、厳しい冬に耐え忍んだ木々たちが、その枝に新芽をつけ始める。山々を照らす陽は穏やかであるが、風はまだ冷たく冬の名残をとどめている。


 阿の国は、東西南北の四つに領土を分かち、それぞれ鬼の一族が治めていた。

 その一つ、北の領をべるのは、月の光から生まれたとされる美しい月夜つくよの一族。王冠さながら頭上に白い角を戴く、誇り高き鬼である。


 その月夜の鬼が治める領土には、北の地であるにもかかわらず多くのあやかし達が集う。

 その春夏の穏やかさゆえに、秋冬の厳しさゆえに。

 時に優しく、時に残酷に、誰もが生を謳歌し、力強く生きている。

 まさに、大いなる霊気で満ちあふれる豊穣の土地である。


「もう、どうして教えてくださらぬのじゃ」


 長い板の廊下をどかどかと女子らしからぬ足音が響く。

 若草の小袖に藤色の打掛うちかけを羽織り、その裾をうるさそうにたくし上げ、一人の姫君が廊下を走るように進んでいく。


 年の頃は十代後半、豊かな黒髪を後ろでゆったりと束ね、頭には一本の白い角。

 深紫の大きな目が愛らしく、キュッと結んだ口元はまだあどけない。

 彼女の名は藤花とうか鬼伯きはくと呼ばれる月夜つくよの王の娘だ。

 

 月夜の里は、北の領の東に位置するところにある。

 険しい連峰を背にした広大な平野に鬼たちは居を構え、人さながらの暮らしをしていた。

 人の世とは隔たった国ではあるが、そこかしこにの国と繋がる箇所があり、自ずと生活や文化も似たようなものとなっている。今、人の国では徳川という一族が太平の世を治めているらしい。

 ただ、阿の国のあやかしは、長寿ゆえの執着のなさと変化を嫌う気質から、人よりも昔ながらの暮らしを好む者が多かった。

 

 藤花は目的の客間に辿り着くと、満面の笑みで中にいる姫君たちに声をかけた。


「姉様、千紫様」


 小ぢんまりとした座敷に座る二人の美しい鬼姫が「まあ、」と顔を上げる。右手前にいる一つ角の姫は深芳みよし、藤花の姉である。

 彼女は切れ長の目を優美に細め、騒がしく入って来た藤花の姿に冷ややかな視線を向けた。

 華やかな紅梅の打掛うちかけに、ゆるくうねった栗色の髪がはらはらと肩からこぼれ落ちる様は、身内の藤花でさえ見惚れてしまうほどだ。


 そして、奥に座っている二つ角の姫は姉の友人である千紫せんしだ。

 意思の強そうな瞳と口元が印象的な美人で、深芳とは対照的に艶やかな黒髪を綺麗に頭の上で結い上げ、そこから髪を後ろに長く垂らしていた。


 月夜の姫のほとんどは藤花のように後ろでゆったりと束ねるか、深芳のように髪を後ろに流すかが普通で、独特な形に髪を結い上げるのは珍し物好きの千紫らしい髪型だった。

 頭には紫檀したんで出来たかんざしを挿し、地味ではあるが紅玉が付いたそれは、千紫の知的な雰囲気によく似合っていた。


「千紫様がいらっしゃっているのなら、お教えくださいませ」


 開口一番、挨拶もなしに藤花は言った。前回、会えなかった悔しさがあっての言葉だ。

 しかし、中に座っている姉姫は容赦ない。

 たおやかな笑みを浮かべつつも、厳しい口調で彼女に言った。


「藤花、廊下をどかどかと歩くなど、なんとはしたない。さあ、やり直しなされ」

「せっかく急いでここに来たのに?」

「駄目です」

 優しい声ではあるけれど許してはくれない。隣で千紫が苦笑した。

「藤花、私も深芳も逃げませぬよ」


 千紫は臣下の娘で身分としては下になる。

 しかし、小さい頃からの仲ということもあり、公の場以外は深芳とも対等、藤花にいたっては妹のような扱いだ。


 むうっと口を尖らせて藤花がしぶしぶ戻る。

 ややして、しずしずと現れた彼女が、するりと膝を着いて優雅に頭を下げた。


 深芳みよしが満足そうに頷く。

「さあ藤花、中へ」

 ようやく許可が出たところで、藤花はいそいそと中へ入る。

 この姉姫は、何かと藤花に手厳しい。見た目は同年代のように見えるが、その実、一回り以上違う。

 母親が亡くなった今となっては、彼女は藤花の母親代わりのようなものであり、ついつい口調も母親のようになってしまうのも仕方のないことであった。


「ようやく会えました」


 藤花は深芳の隣に並んで座ると、前のめりに千紫に笑いかけた。


「人の国の話の続きを聞きたくて」

「そう言えば、途中になっていましたね」

「はい。先日は戦国の世の始まりまで聞きました」

「では、その続きから」


 千紫があらたまった顔をする。

 藤花も彼女の話を聞き逃さないようにと居ずまいを正した。 


 千紫はとても博学だ。

 小さい頃から人形遊びより書物が好きで、阿の国の歴史や他の地域の文化はもとより、人の国のことにも詳しい。

 姫君であるということから表立って彼女の才を口にする者はいないが、知る人ぞ知る才媛である。

 千紫が静かな口調で話し始め、藤花は彼女の話に目をきらきらと輝かせた。


 ここは、奥院と呼ばれる鬼伯の妻子たちが住む私的な居住区域の一室だ。

 月夜つくよの里の北、ほぼ中央に位置するところに、鬼伯の居所であり、まつりごとの中枢でもある御座所おわすところがある。

 その広大な敷地の大部分は、日々の政を執り行う執院で占められているが、奥の一画に藤花たちの住む奥院があった。


 多くの者が出入りする執院と違い、奥院は誰もが気軽に出入りできる場所ではない。

 昔ながらの風格のある寝殿造りと最近の赴きある書院造りが合わさったそれは、確かに豪奢な建物ではあるが、ずっとここで育ってきた藤花にとってはただの窮屈な住処すみかでしかない。


 そんな藤花にとって、千紫の話はとても心惹かれるものだった。

 似ていて非なる見知らぬ国の物語だ。



「千紫様、今ほど戦国の世は長い乱世と言いましたが、たかだか百年ほどです。短いとは言いませぬが、以前お話しくださった『阿の国探訪』の主人公が、妻を置いて諸国を見て回った期間と同じです」


 ちょうど人の国で起こった戦国時代の終焉を聞きながら藤花は千紫に言った。千紫が小さく笑って答える。


「ええ。でも、人にしてみれば、二、三世代の長さです。つまり、私たちで言えば千年ほどになるかの」

「千年!」


 確かにそれは長い。

 藤花が驚いて声を上げると、隣で深芳がおかしそうに笑った。


「藤花はせっかちだから、夫に置いて行かれでもしたら、たかだか三日さえも待てないのでは?」

「行き遅れの姉様に言われとうない」


 ムッとして思わず藤花は深芳に言い返した。深芳が顔を真っ赤に目をつり上げる。


「まあ、行き遅れなどと、この子ったら!」

「行き遅れは事実じゃ」


 そんな彼女に藤花はさらに畳みかけた。


「三十もとうの昔に越えて、どの殿方からもお声がかからぬとは、里一の美貌も宝の持ち腐れというもの。姉様はもう少し可愛らしゅうなった方が良い」

「なんとっ──」

「まあまあ、お二人ともお止めなされ」


 慌てて千紫が割って入った。


「深芳が行き遅れであれば私も同じ。藤花、行き遅れには、行き遅れの良さというものがある」

「……分かりませぬ」


 するとその時、


「おや、賑やかだね」


 廊下で穏やかな声がした。


 鳥のさえずりのような姫たちのお喋りがピタリと止まる。

 そして、廊下に目をやれば、そこに穏やかな顔立ちの若鬼が立っていた。

 その者を見て、藤花は(面倒なのが来た!)と思った。

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