叶わぬ恋(3)

 夜も更け、波瑠も屋敷の奥へと下がってから、深芳は書院を訪れた。廊下から声をかけると障子越しに成旺の気だるそうな声が返ってきた。


「こんな夜更けに何用か?」

「千紫から話を聞けましたもので、あらためて」


 言って深芳は、許しを得ることもなく障子戸を開けた。

 そして、部屋の中へ進み入ると、成旺の隣に静かに座った。火鉢の中の炭がちらちらと赤くゆらめき、じんわりとした暖気が部屋を包んでいた。


 彼女は成旺が手にしている本をちらりと見た。


「何を読んでおいでです?」

「ん? ああ、人の国での最も新しい医学──病気や怪我の治療法についての本だ。興味があるかな?」

「いいえ、全く」


 興味がないわけではなかったが、あえて素っ気なく深芳が返すと、成旺は苦笑した。


「では、何用か。まさか、こんな夜更けに書物の話をしに来た訳ではあるまい」

「ええ、あなた様が千紫に何を吹き込んだのかと思いまして。それを確認に」

「吹き込んだとは、聞こえが悪いな」


 成旺が言った。しかし、さして気を悪くしている様子もない。深芳は皮肉げな笑みを浮かべながら静かに口を開いた。


「千紫が、私と兄上様との子を欲しいと言いまして。この屋敷は、そのための隠れ蓑だと」

「ああ、聞いた。千の思いつきには驚かされる」

「本当に。呆れるばかりでございます。様との子を伯座に就けようなどと」 


 深芳はくすりと笑い、鋭い視線を成旺に投げかけた。


「さぞや楽しくございましょう。手の平でさまざな者が踊り回る姿を見るのは」


 成旺がつと片眉を上げた。

 しかし彼は、すぐに思案顔で目を伏せ、手元の本を眺めながら「人は──、」とおもむろに話し始めた。


「鬼と違って弱いゆえに、病気も怪我も放置しない。少しでも生きようと積極的に治そうとする。こういう医学というものが発達するのもそのためだ」

「それが何か?」


 深芳がさして興味も湧かないといった口調で言い返す。成旺は苦笑しながら、ぱたりと本を閉じると、含みのある目で深芳を見た。


まつりごとも似ていると思わないか?」

「似ている?」

「そうだ。北の領のまつりごとは稚拙で弱い。積極的に治さないと、人と同じで死んでしまう。腫れ物は取り除かないといけないし、そのまま放っておいては血が止まらないから、その後は止血も必要だ」


 その言い方は、まるで伯家は排除されるべき存在であり、今回の旺知による謀反も最初から全て承知していたようにも聞こえた。


 真実はどうであれ、実際に旺知は謀反を起こし、その後始末を千紫が必死にやっている。


「千紫にもそのような話を?」

「似たような話は。ただし、」


 と、成旺が付け加える。


「誤解がないよう言っておくが、彼女は旺知の謀反を見過ごすことには反対だった。止めても無駄だと、私が言ったのだ。遅かれ早かれ伯家はしまいだと」

「しかし、世間はそうは思うておりませぬ。あなた様は者、まさにいない存在。千紫は旺知の共謀者であり、采配を振ったのはあくまでも千紫。今回のことで、一番の傷を負ったは千紫にございます」


 深芳が厳しい口調で成旺を断じた。成旺が申し訳なさそうに視線を火鉢の中の炭に落とした。


「分かっている。可哀想なことをした」

「嘘、可哀想などと思ってもいないくせに」


 深芳がすかさず否定する。成旺が心外だとばかりに眉をひそめた。


「彼女のことは、誰よりも大切にしているつもりだが?」

「嘘です。だって──」


 深芳は成旺の顔を覗き込むと、妖艶な視線を彼に向けた。


「あなた様は私を抱けるでしょう?」


 成旺が冷めた目で深芳を見返す。

 深芳は、その視線をするりとかわしながら鼻を小さく鳴らして笑った。


「ずるい男。今ここで私を抱くこともできるくせに、千紫を大切にしているなどと。あの子はあなたを信じて必死に駆けずり回っているというのに」


 成旺の手が静かに伸びて深芳の頬を捉える。深芳が挑発的に笑った。


「あなたが望むなら、私はいつでも」

「そなたは──、千から聞いているよりずっと怖い女性だな」

「違います。男が嫌いなだけにございます。そもそも私は、千紫ほど男を信じておりませぬ」


 二人はじっと見つめ合う。実際は、睨み合っていると言った方が正しいかもしれない。


 ややして、先に目をそらしたのは成旺だった。彼は腰を引きぎみに深芳から離れると、両手を上げておどけて見せた。


「まいったな。ここまで嫌われていては」

「本当に」


 深芳はすっと立ち上がった。もしここで成旺が手を出してきたら、波瑠にも聞こえる嬌声きょうせいを上げようかと思っていた。


 しかし彼は退いた。そしてこれが、成旺の深芳に対する答えだ。それが分かっただけでも、彼の元へ来た意味があった。


「せいぜい千紫を可愛がってくださいませ。生まれてくるのは、旺知の子かもしれませんが」

「……問題はそこではない」


 深芳が皮肉れば、成旺がすげなく言い返す。

 まるで、千紫がそう信じれば、生まれてくる子は誰であろうと自分の子だと言っているようだった。


 つくづく嫌な男だと思いながら、「では、」と彼女はたおやかに腰を折った。




 千紫が再び落山の屋敷を訪れたのは、きっちり十日後だった。その頃には、深芳の部屋も波瑠によって整えられ、彼女は小さな庭をかかえた西側の角部屋で千紫を出迎えた。


「深芳、もっと良い部屋が他にもあろうに」


 午前中だったこともあり、部屋はお世辞にも日当たりがいいとは言えない。


 千紫が入ってくるなり部屋をぐるりと眺め回した。華やかな小袖に身を包んだ千紫は、前髪だけを簡単に結い上げ、後ろ髪を輪のように束ねた髪型で、いつもより楽な格好だ。

 初めて見る髪型に、深芳が「似合う」と褒めると、「落山に来るときはいつもこれだ」と彼女は嬉しそうに答えた。


 そして千紫は、深芳の地味な小袖姿を見て嘆息する。


「着る物をもう少し用意するよう雪乃に伝えておく」


 波瑠が里中で適当に用意した物は、波瑠と同じ下女が着ている粗末な小袖だ。部屋の調度品も鏡台や小物入れなど必要最低限、つい数日前まで奥院の姫君だった者の姿としてはあまりに寂しい。

 しかし深芳は「まったく気にしない」と、不満顔の千紫に笑い返した。


「かまわぬ。それにほら、そこの庭を好きに使わせてもらっておるゆえ、こういう格好もまんざら悪くない」


 まだ雪が積もる庭は、一部分だけ雪が除かれ、見たこともない草が何種類か生えている。そこだけ見ると、ほぼ手入れされず雑草まみれになった庭のようだ。


「……薬草かえ?」

「そうじゃ。肌に良いものもあるゆえ、そのうち千紫にも渡す」


 深芳は楽しそうに答えた。奥院では、こんな風に薬草を自分で育てることはできなかったからだ。千紫が呆れたように笑った。


「この調子だと、春になったらこの庭は恐ろしいことになりそうじゃの」

「素晴らしいと言いやれ」


 そう言い返しながら深芳が上座に促すと、千紫は上座ではなく深芳と向かい合う形で座った。


「今日は、いろいろと伝えねばならぬことがある。もう少し早く来たかったのだが、遅くなった」

「十分じゃ。それで?」


 深芳が先を促す。千紫は何から話し始めようかと迷った様子でゆっくりと口を開いた。

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