小話

猿、父であることを否定する

 兵衛が端屋敷はやしきを2か月ぶりに訪れると、伊万里はさらに大きくなっていた。

 ついこの前まで柱に掴まって震えながら立ち上がっていたのに、今では両手を使って立ち上がる様も格好になっており、歩き出そうとしてはぺたんと座る。これは本格的に歩き出すのも時間の問題だな、と兵衛は思った。


 廊下で立ったり座ったりを夢中で繰り返す伊万里の動きがふと止まる。庭先に立つ兵衛に気づいたようだった。


 短い髪にシャツとズボンという現代人の格好が珍しいからか、伊万里は大きな目でじっとこちらを見つめ始める。兵衛はそんな小さな姫君に守役として頭を下げた。


 藤花そっくりの瞳で見つめられると、正直まだ胸が痛む。

 しかし同時に、二人で過ごした三百年の証しが目の前にいることに救いも感じる。おそらく、こんな風に相容れない二つの気持ちを抱えながらこれからも生きていくのだろうと彼は感じた。


「あら、猿師えんし殿。いらっしゃっいましたので?」


 奥から二つ鬼の女が出てきた。

 千紫が伊万里につけた乳母の玉緒だ。少々堅苦しいところがあるが、伊万里を落ちぶれた姫君とあなどらず、大切に育ててくれている。

 伊万里を立派な九尾の花嫁に育てるのが、自分の使命であると思っているようだった。


「猿師殿、伊万里様が言葉を発するようになりました」

「そうなのか?」

「はい。利発な姫君でございますよ」


 乳母の玉緒が笑顔で答えたその時、じっと兵衛の顔を見ていた伊万里が大きな声で言った。


「たあたあ(とうさま)!」





◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 よわい一歳となる愛らしい稚児ちご姫が発した言葉は、それなりの破壊力をもって兵衛を貫いた。


 庭に面した廊下、春の柔らかな日差しがぽかぽかと暖かい。玉緒は何かと忙しいらしく、兵衛が伊万里を見てくれると分かると、さっさと奥に引っ込んでしまった。


 彼は廊下にきちんと座り、伊万里と向かい合う。深紫の大きく無垢な瞳がじっとこちらを見つめている。そして可愛らしい口元から再び同じ言葉が飛び出した。


「たあたあ」


 兵衛はそのまま突っ伏してしまいそうになる。


 この短期間に一体何があったのかと玉緒に問い詰めると、「里守さとのかみと奥様の仕業でございます」と返ってきた。


 玉緒によれば、六洞りくどう重丸と初音夫婦が、自分そっくりの似顔絵を見せながら、伊万里に「たあたあ」と教えているらしい。


(あの二人、今度会ったらただではすまさん!)


 心の中で毒づきながら、兵衛は伊万里に対しひきつった笑顔を返した。


「姫、非常に申し上げにくいのですが、猿は父ではありません。ですから、そのような呼び方は──」

「たあたあ!」

「はい」


 あまりの愛くるしさに、思わず返事をしてしまう。


(だめだ、このままでは「たあたあ」が定着してしまう)


 全身から汗が吹き出るのを感じながら、兵衛は途方に暮れた。


 とにもかくにも「たあたあ」だけはダメだ。なんとしてでも、他の呼び方を覚えさせないといけない。


 兵衛は、居ずまいを正すと、伊万里にずいっと詰め寄った。


「姫、どうか猿とお呼びください」

「たあたあ」

「違います。さる、です。さあ、言ってみて──」

「たあたあ!!」

「はい」


 条件反射のように返事をすると、伊万里が満足そうに口を大きく開けて喜んだ。もう、可愛いらしいの何ものでもない。


 兵衛にとって赤ん坊の相手は別に初めてではない。伏見谷でも、この三百年多くの狐の子を育ててきた。

 大切な九尾の子孫だ、どの子も可愛く、大切だった。今、伏宮本家ではあさ美が産んだ双子の子狐が、伊万里同様すくすくと大きく育っている。

 しかし、伊万里の可愛さは比較にならない。


(今からこんなに愛らしくて、将来大丈夫か? 世の中の男すべてを虜にしてしまうのではないか??)


 ほぼ、親バカとも思えることを真剣に考えてしまう。


 そんな兵衛に対し、伊万里は屈託がない。ややして、彼女はのっそり兵衛の膝に乗り上げ、両手を広げて万歳をした。


「だあ、」

「抱っこですか?」


 兵衛は、伊万里の両脇を抱えて持ち上げた。伊万里がきゃっきゃっと声を上げて喜ぶ。そして、兵衛の顔をもみじのような手でぺたぺたと触り、「たあたあ」と言って目を細めた。


 言っても聞かぬは、我が姫の常──。


「……姫、今日だけです。明日からは、さると呼んでもらいます」


 本当に明日はちゃんと「さる」と言わせることができるだろうか。そう思いながら、兵衛は伊万里に笑顔を返した。

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