猿、姫と秘密の約束をする

 阿の国では、もう夏にさしかかろうという頃、兵衛は久しぶりに端屋敷はやしきを訪れた。

 通い慣れた門をくぐり、そのまま庭へと回る。と、縁側に美しく育った姫君の姿があった。


「姫、」


 今年で十六、豊かな黒髪を後ろでゆったりと結び、頭には一本の角。薄い浅葱あさぎ色の涼しげな小袖を着ている彼女は、若い頃の藤花を彷彿とさせる。

 そんな、すっかり大きくなった伊万里に声をかけると、彼女は驚いた様子で顔を上げ、とっさに背中に何かを隠した。


「せ、先生。いらっしゃるなら、お声をかけてください」

「……何を隠されました?」


 通常であれば、すぐに非礼を詫びるところであるが、伊万里がとっさに隠した物が気になった。伊万里が気まずい顔をする。


「この猿に見せることができないものですか?」

「……先日、紫月様にいただいた書物にございます」

「書物?」


 紫月は現在、人の国にいる。

 今や、かの国は情報が洪水を起こし、何もかもが無駄にあふれ返っている。いい情報こともあるが、悪い情報ことはもっとある。兵衛は伊万里に歩み寄ると、つと目を細めた。


「どのような書物か猿にも見せていただきたい」

「……たっ、たいした読み物ではありません」

「姫、」


 鋭い視線で有無を言わせぬ口調で促すと、伊万里がしぶしぶ隠していたものを兵衛に差し出した。


 一冊の雑誌だ。それも、いわゆる女子高生が好きそうな。

 見ているだけで目がチカチカする表紙には、肌を露出し胸を強調した若い少女たちが媚を売るようなポーズで写っている。

 思わず眉をひそめる兵衛に対し、伊万里が口を尖らせてボソッと言い加えた。


「人の国では、若い女子はこのような格好をしていると聞きました」

「それは、都会だけの話です。伏見谷の女子は、このような阿保あほうな格好はしておりません」

「でも紫月様も、いつも可愛らしい格好を──」

「それは、かの姫も阿呆あほうだからでしょう」


 いまや伯子の想い人でもある紫月に対し、かくも無礼な言い方を公然とするのは兵衛くらいなものである。

 しかし、彼女とは長い付き合いであるし、なんと言っても伊万里にこんな毒物を持ってくるのだから、多少の暴言は良しとする。

 あれは一体誰に似たのかと嘆息しながら、兵衛は伊万里から雑誌をひょいと取り上げた。


「これは猿がお預かりします」

「まっ、まだ最後まで読んでいませんっ」

「読む必要はないでしょう?」

「でも、」


 珍しく伊万里が食い下がる。なんだろうと怪訝な視線を返すと、彼女はもじもじしながら兵衛に訴えた。


「せめて、星占いだけは読ませてほしいです」

「星占い、ですか?」


 雑誌を見ると、折り目がついてある。伊万里がはにかみながら頷いた。


「私は射手座なんです。今年の射手座は運命的な出会いをするとあります。きっと二代目様とのことが書いて……あります」


 最後は消え入るような声で伊万里が言った。


 阿の国で伊万里が生まれたのは春である。しかし、藤花の意向で人の国での暦が伊万里の誕生日となった。いずれは伏見谷へ輿入れする娘を思ってのことだ。阿の国と人の国では三か月ほど暦にずれがある。そんなわけで、彼女の誕生日は十二月三日、なるほど射手座だ。


 こんな人間が書いた胡散うさん臭い占いを信じるとは、まだまだ可愛らしい。


「それは、良かったですね」


 雑誌を握る手が緩み、兵衛は思わず笑った。


 月夜の里では、鬼伯と息子の伯子との確執がいよいよ深まっている。兵衛は、そろそろ伏見谷へ伊万里を移すことを考えており、密かに千紫と画策中だった。


 伊万里を伏見谷へ出すことは、当然ながら危険が伴う。しかし、いつまでもこの端屋敷はやしきに囚われの身であることも限界に近い。止まっていた時が、確実に動き始めているからだ。


「あの、先生……」


 さりげなく兵衛の手から雑誌を奪い返し、それをぎゅっと握りながら、ふいに伊万里が口を開いた。


「なんでしょう?」

「伏見谷の皆様は、の娘である私が谷へ上がることを迷惑がってはいないでしょうか?」


 あの女──、藤花のことである。

 最近、伊万里は自分の母親のことをそう呼ぶようになっていた。

 自分が世話役の男との間に生まれた子であると聞かされて彼女は育った。そして、いつの間にか里中で今なお残る藤花の噂話も耳にしたらしい。

 娘にとって会ったこともない母親は最悪の女となっている。


「藤花様は、芯のある心根もお美しいお方でした。あの女などと、娘が吐く言葉ではありません」

「……」


 伊万里が口をへの字に曲げてうつむいた。

 その顔が「だったらなぜ、盟約を破ってよその男と通じたのだ」と言っていた。この状態では、何を言いつくろったところで伊万里には届かない。

 いっそ、自分が藤花をそそのかしたのだと言えば、それですっきりするのだろうかと兵衛は内心ため息をついた。


 伊万里が年頃になってから、幾度となく似たようなやりとりをしている。しかし、真実を伏せたまま彼女を納得させる言葉を兵衛は見つけられずにいた。

 そもそも、真実を知る者は少ない。伏宮本家の当主も、「姫が谷に輿入れされるのであれば、もう誰かに引き継ぐ必要もありません。この件は、私が墓まで持っていき、それでしまいにいたしましょう」と言ってくれている。


 もうこれ以上、何かを偽る必要もないのだが、しかし、肝心の娘が母親のことを信じられないでいる。そして、それをどうすることもできない自身の不甲斐なさに兵衛は再びため息が出た。


「姫、伏宮本家は姫の輿入れを心待ちにしております。今は現れてはいない二代目も、きっとすぐに見つかりましょう」


 仕方がないので、さりげなく話題をすり変える。

 伊万里は二代目の話が好きだ。その方に嫁ぐことが自分の使命であり、存在価値だと信じている。良くも悪くも、生真面目な玉緒の教育の賜物たまものだ。


 とは言え、当の二代目らしい谷の狐は、現在のほほんと高校生をやっていて、いまだに狐火ひとつ出せない状態である。

 彼が妖刀を手にするのは、まだしばらく先であると考えられることから、伊万里には余計な期待を持たせないよう二代目の存在は明言していない。


「あの、先生」

「まだ何か?」

「二代目様は、先生のように強くて頼りになる方でしょうか?」


 まだ見ぬ二代目に嫁ぐことが自分の使命だと思っていても、不安はやはりあるらしい。伊万里が心もとない顔で尋ねてきた。まるで、「先生のようなあやかしがいい」と言われているようで、兵衛は少し嬉しくなる。


「もちろんです。猿などきっと足元にも及びません」

「……でも」

「?」

「先生のように優しい御方がいいです。乱暴な方だと……、少し困ります」


 いちいち引き合いに出され、思わず顔がほころぶ。

 このまま手放したくないと思う一方、この大切な存在が、大事に育ててきた九尾の子に嫁ぐのかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。


「二代目九尾は、姫にお似合いの御方だと思います。しかし、どうしても姫が気に入らない時は──、この猿に相談してください。猿が姫を連れて逃げましょう」

「まあ、」


 伊万里が驚いた顔をして、それから満面の笑みを浮かべた。


「逃げるなんて──、私と先生との秘密の約束ですね」

「そうです」


 そんなことには絶対ならないだろうと思いながらも兵衛は彼女に頷いた。目の前の姫が嬉しそうに俯いて、きゅっと口元を引き結ぶ。


 我が姫が、伏見谷へ輿入れする時が近づいていた。




*** 関連作品 ***

『九尾の花嫁』

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054886283502

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