市女笠(後編)

 市女笠いちめがさの女は深芳姫かもしれない──。その言葉に、場は一気に盛り上がる。


「やはり、そう思うか。儂もそう思う。血は繋がらずとも清影様にとっては大切な身内の一人じゃ」

「しかしそれなら、藤花様という可能性もあるではないか」

「いやいや、藤花様は端屋敷はやしきから一歩も出ることはできん。とすると、残るは深芳様だ」

「そうよ。深芳様は奥の方様の預かりとなっていて、どこぞの屋敷で静かに暮らしていると聞く。深芳様が奥の方様に清影様へのお目通りを願い出たのではないか。お二人は今でこそ立場が逆転されたが、もともと旧知の仲だ」


 それぞれが思い思いのことを語り、最後は与平の顔を見る。これもいつものことだ。与平はうんざりした顔で首を横に振った。


「来るのは、どこぞの端女はしためだ。儂は、奥院の姫君など見たこともないが、あれが里一の美姫であれば、そこの給仕の女も里一となる」


 みながどっと笑った。


 与平自身、市女笠の女がかの美姫であると考えない訳ではなかった。しかし、それを口に出すことははばかられ、与平はあえて否定した。

それでも「市女笠の女が深芳姫である」という考えは、皆の中からなかなか消えず、「深芳様も落ちぶれたものよのう」とこぼす者もいる。


 儂はただの牢番──。余計なことに首を突っ込むは、愚者のやること。与平はそう自身に言い聞かせた。



 それから二百年余りが過ぎた。

 いつしか牢番は六洞りくどう衆の若鬼の仕事となり、与平は八洞やと家の臣下であるにもかかわらず、六洞衆の一部隊を任されるようになっていた。

 今では息子の六洞重丸が里守さとのかみである。自分の処遇も周囲の鬼たちもいろいろ変わっていく中で、しかし、月初めの日の牢番が与平であることだけは変わらなかった。


 そして市女笠いちめがさの女の噂も、口にする者もほとんどいなくなった。誰も、端女はしためなどに興味がないのだ。与平は内心ほっとしていた。


 そんなある月始めの日、その日はとても風の強い日であったが、与平はいつもの通り市女笠の女を迎えに行った。


 西へと通じる脇道から市女笠の女が現れる。粗末な小袖と前掛け姿は二百年を経ても変わらない。


 今日は手荷物を右手に持ち、左手で垂衣たれぎぬが風で舞い上がらないようきゅっと衣の端を掴んでいた。見るからに歩きにくそうで、与平は荷物だけでも持ってやろうかと思った。

 しかし、この女とは二百年の間にすっかり言葉を交わさない間柄になってしまっているので、やはり無言のまま案内することにする。


 いつもの通り座敷牢の門前に着くと、懐から木札を取り出し彼女に渡す。いつもなら、ほのかに漂う沈丁花の甘い匂いは、今日ばかりは強風にかき消された。


 そして、まさにその時、ちょっとした事件が起きた。


 女が木札を受け取るほんの一瞬、垂衣たれぎぬが風にあおられ、笠の中が見えた。与平の目に女の姿が映る。


 透き通るような雪肌、優美な切れ長の目、ゆるくうねった栗色の髪が顔を縁取り、ふわりと紅い唇は、可憐な花びらを思わせた。


 美しい──。


 その天女のような面差しに与平の時が一瞬止まる。


 一方、女はいつものとおり静かに木札を受け取ると、与平に垣間見られたことにも気づかずに門をくぐって行ってしまった。


 残された与平は呆然と立ち尽くす。あのように美しい女を見たことがない。


 見てはいけないものを見てしまったような罰の悪さを感じ、与平の全身から汗がどっと吹き出した。


 市女笠の女は、まぎれもなく里一の美姫と謳われた深芳であった。


 なんとなく落ち着かない時間が過ぎ、与平はそわそわと女が出てくるのを待った。

 夕方近くになって、いつもの通り女が出てきた。彼女が与平に向かって木札を差し出す。それを受け取りながら、与平はふと口を開きかけた。


「あ──」


 儂は何を言おうというのだろう? 口を開けたものの次の言葉が続かない。そして何より、与平の声は強風でかき消された。


 市女笠の女がすっと踵を返し、無言のまま歩き出す。その去り行く後ろ姿を見つめながら与平は自身の不甲斐なさに唇を噛んだ。


 次は声をかけられるだろうか。そうすれば、今度は声を聞くことができるかもしれない。与平は、ふと淡い思いを心に抱いた。


 しかし、与平に「次」はなかった。

 数日後、門を覆うもやが突然と晴れ、当番だった鬼武者が座敷牢を確認すると、清影が静かに一人で死んでいた。


 誰にも看取られることのない元伯子の寂しい最期だった。そして座敷牢は閉鎖され、市女笠の女も姿を見せなくなった。


 後日、与平は六洞りくどう家の屋敷に呼び出され、六洞重丸に問いただされた。


「清影様が亡くなる前、何かおかしなことはなかったか?」

「特に何も、これといったことはありませんでした。何か不審なことでも?」

「何もない。おまえも知ってのとおり、誰かに襲われた様子も、呪詛をかけられた形跡もない」

「ならば、ただの突然死と考えるのが自然かと」

「鬼が、何もなく突然死?」


 重丸が皮肉げに口を歪める。

 確かに、何もないのだが、何もないからこそ不自然だ。


「……ちょうど月初めであったな」


 重丸が含みのある口調で言った。六洞衆の間では市女笠の女のことは、周知の事実だ。

 与平の脳裏に、女の美しい面差しが甦る。

 彼は静かに頷き返した。


「はい。いつもの端女はしためが一人やって来ただけにございます。いつもの通りやって来て、いつもの通り帰って行きました」


 与平は、どうということもないと重丸に答えた。


市女笠(了)

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