幽閉(5)

 重丸に案内された場所は、月夜の里の北東、ほぼ山の奥のうら寂しい場所だった。

 その外れに、周囲から忘れ去られたように端屋敷はやしきと呼ばれる小さな住居はあった。


 そこに行くまでの道中の道は手入れもされず、獣道さながらだった。屋敷を囲む塀もところどころ崩れ、門に至っては傾いている。庭は雑草と石で荒れ放題で、春を感じさせる新芽が辛うじて庭としての体裁を保とうと必死になっていた。


 傾いた門の前で、重丸が大きくため息をつきながら、面目ないと顔をしかめる。


「今は、侍女の初音と二人でここに住まわれている。あまりに状態がひどいので、六洞りくどうの者を寄越すと再三申し出ているのだが、のんびり一人がいいと断られてな。おかげで、この有り様だ」

「姫がそれでいいとおっしゃったのだろう。問題ない」


 兵衛は落ち込みぎみに謝る重丸に答えた。

 とは言え、確かに奥院の姫君が住む場所ではない。これは早急にいろいろと手配をせねばと兵衛は思った。


 すると、重丸が「じゃあ儂は行くぞ」と兵衛に言った。


「なんだ、おまえも一緒に来ればいいではないか」

「そこまで無粋ではない。今夜はゆっくり二人で過ごせ」


 言って重丸は軽く肩をすくめた。兵衛が思わず言い返そうとすると、片手を上げてそれを止める。


「藤花姫を安心させてやれ」


 そう言って彼は踵を返すと、「何か入り用があれば、遠慮なく言ってくれ」と言い残し、もと来た道を帰っていった。


 一人ぽつんと残され、兵衛は大きく深呼吸する。それから彼は、気持ちをあらためると門をくぐった。





 藤花は手桶いっぱいに井戸水を入れ、それを土間へと運んでいた。質素な萌葱の小袖を来て、背中でゆったりと結ばれた髪には藤のかんざし。足元には毛むくじゃらの白い小犬──狛犬の阿丸がじゃれるようについて来る。


 もう奥院のように身の回りの世話をする者は初音以外に誰もいない。彼女に全てのことをやらせるわけにもいかず、できる雑用は藤花自らがするようになっていた。


 最初はあちこちにこぼしてばかりいた水汲みも、すっかり上手になった。最近では、薪割りも藤花の仕事だ。

 こんな風にして自分の生活は支えられていたのかと、今さらながらに知った。


 手桶の水がぱしゃりと跳ねる。まだ水は冷たいが、ずいぶんと暖かくなった。ふと、兵衛と出会った時のことを思い出す。


 その時、阿丸がぴくりと耳をそば立て、ぱきりと小枝が折れる音がした。反射的に音のした方を見る。


 と、そこに兵衛が立っていた。


「兵衛……?」


 黒髪をきゅっと結び上げた、鳶色の瞳の男は、珍しく真新しい小袖と袴を身につけていた。

 藤花は持っていた手桶をぼとりと落とす。水が辺りにばしゃりとこぼれた。


「ご心配をおかけしました」


 神妙な顔つきで兵衛が頭を下げた。


 藤花は、次の瞬間には走り出し、彼の胸に飛び込んでいた。


「兵衛、兵衛!!」


 兵衛が彼女を受け止め、しかし、そのまま受け止めきれずに尻もちをつく。


「藤花様、」

「馬鹿者、いったいどれだけ待たせるのじゃ」


 言って彼女は両手で兵衛の顔を包み、瞳を潤ませ眉根を寄せた。少し痩せたように感じる兵衛の顔は、それでも鳶色の瞳が力強い光りを放ち、彼が生きて戻ってきたことを実感させた。


 兵衛が愛おしげに藤花の髪をなでる。


「少し、おやつれになったのでは?」

「おまえに言われとうない」


 どちからともなく唇を重ね、互いの温もりと息づかいを確認し合う。今まで押さえていた気持ちが一気に溢れだし、二人は何度も唇を絡ませ抱き合った。


 ひとしきり抱き合ったあと、ようやく互いに息をつく。


 藤花はとにかく嬉しくて、彼の体を所在なくぺたぺたと触った。一方、兵衛は不満顔だ。


「あなた自ら水汲みなど──。初音はどうしたのです?」


 彼は藤花の手を取ると、その白く小さな手に口づけた。藤花が笑って答えた。


「初音は私の食事の準備をしてくれておる。私は役に立たぬから、初音に言われ水汲みや薪割りなどの雑用をしておる」

「はあ……」


 それでは、どちらが主人か分からない。

 しかし、当の本人は全く気に止めるそぶりもない。藤花は嬉しそうに立ち上がると、兵衛の手を引いた。


「この三月みつきほどで、役立たずから、少しは役に立つようになった」


 すると、外の騒ぎを聞きつけたのか、初音が「どうされました?」と慌てた様子でやってきた。


「大きな声が聞こえましたけど──あっ、弟子殿?!」

「初音、兵衛が戻って来てくれたぞ」


 藤花が満面の笑みで、兵衛の腕に抱きつきながら答える。兵衛はすぐに頭を下げた。


「多大な迷惑を──」


 初音が首を左右に振った。


「よくぞ、あの混乱の中、姫様をお守りくださいました」

「千紫……奥の方からは、軽率な真似をと罵られたがな」

「あの御方は、大局を見ていらっしゃいますから。それにしても、よくもまあ、ご無事で──」


 初音は涙目で何度も頷いた。


 夕餉ゆうげは、藤花と兵衛の二人だけで食べたることになった。

 初音は急に実家に戻ると言い出して、食事や寝間の準備だけ済ませると、さっさと出ていってしまった。


 妙な気を遣わせてしまったなと兵衛は申し訳なく思った。藤花が「部屋を増やさねばならぬ」とのん気なことを言った。


「こうやって食事を共にするのは初めてだの」


 向かい合って食べながら、藤花が嬉しそうに言う。しかし、このような粗末な家で、臣下の者と食事をともにするなど、奥院の姫としてありえない。食べている物も決して豪華とは言えない。兵衛は胸が痛んだ。


 久しぶりにゆっくり食事をし、後の片付けは兵衛がした。まさか藤花にさせるわけにもいかない。しかし、藤花がすると言って聞かず、思わず「邪魔だから引っ込んでいろ」という意味合いのことを言ったら、部屋の隅で拗ねてしまった。


「下働きの者を手配しましょう」


 片付けを終えてから、拗ねる藤花を膝の上に乗せ、兵衛は言った。藤花が不満げに口を尖らせる。


「いらぬ。初音と兵衛がおれば十分じゃ。あとは自分でできる」

「しかし、私はこれまでのように阿の国と伏見谷を行ったり来たりとなります。藤花様にこれ以上雑用をさせるわけには──」

「監視されているようで嫌なのじゃ」


 最後はそう言って頬を膨らませ、彼女はそっぽを向いた。兵衛はやれやれと嘆息した。

 奥院と同じとまでは言わないまでも、不自由のない生活をさせてやりたい。しかし、それには働く者が少なすぎる。


 どうしたものかと兵衛が思案していると、藤花がくるりと体を捻り、兵衛を仰ぎ見た。


「兵衛、湯浴みをしたい」

「は、今からですか?」

「うむ。初音が湯の準備だけはしてくれておる。小さな湯殿だが、屋根が抜け落ちていて、夜空が見える。月を見ながら一緒に入ろう」


 予想もしていなかった大胆な誘いに、兵衛はぶっとむせ返る。


「突然、何を言い出すかと思えば──」

「二人きりじゃ。いいではないか」


 甘えるような声で藤花が言った。そして、彼の首に両手を回し、おねだりの顔をする。しかし今日の兵衛は、不満げな顔を藤花に返した。


「……どうしてそう緊張感がないのです。あなたがこの屋敷から外に出ることはもう許されないというのに」


 つまり、これは幽閉だ。しかも、この先気が遠くなるほどの時間をこの屋敷の中だけで過ごすことになる。


「今の状況を分かっておいでか」

「分かっておる」


 藤花が無邪気な笑みを浮かべる。そして両手で兵衛の顔を捉えた。


「朝まで兵衛と一緒におれるということじゃ。もう誰に気がねすることもない」

「藤花様……」


 兵衛は嘆息した。


 確かに、ここに閉じ込めておけば、誰の目にも触れさせず、自分だけが愛でる花として彼女を独占することができるかもしれない。

 しかし、これが自分の望んだことだったのか。


「私は、あなたに幸せでいてほしいのです」


 兵衛がやりきれない口調で訴える。そんな彼に藤花は苦笑した。


「もう十分に幸せじゃ。私は、自ら望んでここにいる。兵衛、おまえと共に過ごすために。これ以上の幸せが他にあるかえ?」


 深紫の瞳がきらきらと力強い光を放つ。前を見ることしか知らないこの姫は、今の状況でさえ幸せだと笑う。


「……本当に敵わないな、あなたには」


 ようやく兵衛から笑みがこぼれた。藤花がにっこり笑った。


「やっと笑ったな、兵衛」

「もう笑うしかないのでしょう?」

「そうじゃ、諦めが肝要じゃ」


 言って二人は声を出して笑った。このあばら家も幽閉も、藤花と笑えばたいしたことではないように思えてくる。

 彼女を守ろうとして、本当のところ救われているのは自分だと兵衛は思う。


「では藤花様、一緒に入りますか?」

「うむ」


 藤花が嬉しそうに頷いた。

 その笑顔に兵衛自身も嬉しくなる。しかし、ふとくだんのことを思い出し、兵衛はすっと目を細め、意地の悪い視線を藤花に向けた。


「そう言えば、お仕置きがまだでした」

「へ? お仕置き??」

「はい。お仕置きをすると言ったでしょう?」


 藤花がたじろぎながら目をぱちぱちさせた。


「思いつくことを全部するという、あれか?」

「はい、あれです」


 あっさり兵衛が頷いた。

 藤花がさあっと青ざめて、顔をひきつらせる。


「やっ、やはり一人で入る!」

「駄目ですよ」


 慌てて膝から逃げようとする藤花を兵衛は後ろから抱きかかえた。


「もう、離しません」



 冬に起こった二つ鬼の謀反。

 この事件を境に、奥院の末姫・藤花は月夜の里の表舞台から消える。里の外れの端屋敷はやしきで、彼女がささやかな幸せを手に入れたことを知る者はほとんどいない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る