叶わぬ恋(5)
月夜の変から
そこかしこで雪が溶け始め、春の訪れを感じる。深芳は変わらず落山で静かに過ごしていた。
この二月半ほどの間に、
しかし、宝刀月影の存在なしで旺知が伯座に就き、新しい体制で
そんな中、千紫が牢番に一人の男を推挙する。
本来、牢番はあまり名誉のある役ではない。
今までも適当な者を牢番とすることが多く、事実、
この状況に、千紫が「せめて座敷牢の番は、信頼のおける者を」と唱え、座敷牢自体を
当然、戦いの前線に赴くことを誉れとする六洞衆にとって、「牢番など閑職である」と思う者が殆どで、この役を進んで引き受けようという者はいなかった。そこに千紫が
折しも、新しい洞家たちが互いの力関係を探り合っていた時分である。
先代鬼伯の覚えがめでたく、
しかし、六洞家管轄となった座敷牢に、
まさに、それを狙っての千紫の配置である。また、もともと
落山の屋敷では、
義父
宝刀月影を見つけられる可能性はもはや清影にしかなく、義兄も同じ道を辿るのではと恐ろしくなったり、いやむしろ、これで生かされる道が残ったと安堵したり、気持ちが不安と安心を行ったり来たりした。
あの夜、清影は喉を斬られた。旺知が呪詛をかけると言っていたので、それが実行されているなら、彼は声を失っている。
どんなに辛かろうと、深芳は悲痛な思いで胸が一杯になった。
そんな中、千紫から座敷牢の清影に会いに行けると告げられた。
彼女がようやく
義兄にようやく会えると心が逸る一方で、自分に課せられている役割も思い出す。
清影との子を成すこと──。
いや、自分はそれに承諾した覚えはなく、千紫から一方的に言われたことではあるが、そのために自分は座敷牢に行かされるのだから、否応なしに意識せずにはいられない。
そして深芳は、慣れない手つきで何度も髪を結っては、それを
髪を結ったことなど一度もなく、いつも髪は後ろへ流すだけだった。仮に邪魔になったとしても背中でゆったり結ぶだけ、それ以上のことをしたことはない。
深芳は鏡に映る自分の顔をじっと見た。どんな顔をして義兄に会えばいいか、何を話せばいいか、朝からずっと考えている。
少しでも千紫に似せようと何度も髪を結い上げたが、彼女になることなどできるわけもなく、そんなことをしても無駄だと諦めるのに相当の時間がかかった。
格好は、粗末な小袖にしびらという前かけを付け、
出来るだけ目立たないようにという波瑠の配慮だが、このちぐはぐな感じが目立たないのかどうなのかと、深芳は笑ってしまった。
出かける時間となり、深芳は一人で落山の屋敷を出た。手荷物は何もない。
座敷牢は、
山裾に沿って延びる山道を北に向かって深芳はひたすら歩いた。少し大きな山道にぶつかった所で、二つ鬼の武者が深芳を待っていた。
色黒の実直そうな男は
与平に連れられ、さらに歩く。途中、行き交う者もおらず、誰に会うこともない。前を歩く男もこちらに話しかけてくることはなく、こちらも話すことはなく、深芳は黙ってひたすら歩き続けた。
どれほど歩いたことだろう。古びた厳つい門が、森の中から突然現れた。粗削りの大きな木を組み合わせただけの門だが、至るところに札が貼られてあり、中の様子はもやがかかって全く見えない。
「ここが座敷牢だ」
与平が手短に言って、文字の書かれた木の札を深芳に渡した。これが千紫の言っていた結界を通るための札なのだろう。
「我はただの牢番にて、これ以上は中に入れぬ」
言って与平は門の傍らにどかりと腰を下ろした。どうやら一人で行けということらしい。
深芳は黙って小さく頷き返すと、門をくぐった。通り抜ける時、薄い衣をすり抜けるような感じを覚えた。
門を抜けた途端、もやが晴れ、今度は小さな平屋が現れた。落山の屋敷よりずっと小さい。こんなところでと思う一方で、一人であればこの方が楽かとも思ったりする。
「兄上様、」
深芳は玄関で市女笠を脱ぎ捨て中に入った。
すぐに居間があり、田の字に部屋が続いている。奥の部屋へと進むと、庭に面したこざっぱりとした明るい部屋に出た。
そしてその隣、日の光が届かない薄暗い部屋に、小さな明かりを灯して座る清影の背中が見えた。
「兄上様、」
再び呼びかけると、一つ角の鬼が驚いた顔で振り向いた。
顔が少しやつれ、無精髭が伸びている。しかし、その優しいまなざしは変わらぬ清影のものだ。
深芳は、清影が本当に生きていたという安堵と、ようやく会えたという喜びで胸が一杯になり、自然と涙が込み上げた。
彼女は膝をついて清影に詰め寄ると、
「よくぞご無事で──!!」
清影が優しく笑い返し、深芳の角と髪を静かになでる。その子供をあやすような手つきがくすぐったい。深芳は涙を拭いながら笑った。
「声を出すことができないのですね」
喉には、あの夜の切り傷が生々しく残り、呪詛の言葉が入れ墨のように刻まれていた。深芳がそこに触れようとすると、清影が彼女の手を止め小さく首を振った。彼女はじっと義兄の顔を見つめ返した。
心配しなくていい? それとも、触れてはいけない?
彼の表情から言いたいことを読み取ろうとするが、当然ながら分からない。
何か書くものがあれば、と深芳が部屋をそわそわと見回し始めると、清影が深芳の手を取った。
「?」
怪訝な顔をする彼女の手の平をやんわりと広げ、清影が指で『しんぱい ない』と文字をなぞった。
思わず笑みが深芳からこぼれる。
「でも、話すことができずに不便でしょう?」
『はなす ひつよう ない』
「……誰もいないから?」
清影がそうだとばかりに大きく頷き苦笑する。そして彼は、深芳の手の平に『ちちうえ とうか どうなった』と書いた。
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