叶わぬ恋(5)

 月夜の変から二月ふたつき半が経った。

 そこかしこで雪が溶け始め、春の訪れを感じる。深芳は変わらず落山で静かに過ごしていた。


 この二月半ほどの間に、御座所おわすところは大きく変わった。旺知を鬼伯とする新体制が敷かれ、正妻の千紫は奥院の女主人である「奥の方」を名乗るようになっていた。


 影親かげちかと清影の件については、千紫でさえ旺知あきともに口が出せない状態がしばらく続いていた。

 しかし、宝刀月影の存在なしで旺知が伯座に就き、新しい体制で御座所おわすところが動き始めると、徐々に旺知の気持ちも緩み始めた。宝刀を諦めた訳ではないが焦る必要もない、そう考えるようになったのだ。


 そんな中、千紫が牢番に一人の男を推挙する。八洞やと十兵衛の家臣、与平である。彼は、月夜の変で狼藉者の排除を行ったことを評価され、十兵衛の元姓を賜り、下野しもつけ与平と名乗るようになっていた。


 本来、牢番はあまり名誉のある役ではない。

 今までも適当な者を牢番とすることが多く、事実、百日紅さるすべり兵衛が囚われている地下牢の牢番は野盗まがいの者で、今では職務を放棄して遊んでいるという報告を千紫は受けていた。


 この状況に、千紫が「せめて座敷牢の番は、信頼のおける者を」と唱え、座敷牢自体を六洞りくどう家の管轄としたのである。


 当然、戦いの前線に赴くことを誉れとする六洞衆にとって、「牢番など閑職である」と思う者が殆どで、この役を進んで引き受けようという者はいなかった。そこに千紫が下野しもつけ与平を推した。


 折しも、新しい洞家たちが互いの力関係を探り合っていた時分である。

 先代鬼伯の覚えがめでたく、九洞くど家と対立していた六洞家は、月夜の変の収束に大きく貢献したにもかかわらず孤立する存在となっていた。


 しかし、六洞家管轄となった座敷牢に、八洞やと家の家臣である与平が収まるることで、否応なしに両家に繋がりができた。

 まさに、それを狙っての千紫の配置である。また、もともと六洞りくどう衆になることが望みだった与平にとっても、この仕事はまたとない機会となった。




 落山の屋敷では、御座所おわすところの新たな権力争いなど知る由もない深芳が、ただひたすら清影の無事を祈っていた。


 義父影親かげちかの死を千紫から密かに知らされたのが半月前、新種の蠱毒を飲まされた末の非業の最期だった。


 宝刀月影を見つけられる可能性はもはや清影にしかなく、義兄も同じ道を辿るのではと恐ろしくなったり、いやむしろ、これで生かされる道が残ったと安堵したり、気持ちが不安と安心を行ったり来たりした。


 あの夜、清影は喉を斬られた。旺知が呪詛をかけると言っていたので、それが実行されているなら、彼は声を失っている。

 どんなに辛かろうと、深芳は悲痛な思いで胸が一杯になった。


 そんな中、千紫から座敷牢の清影に会いに行けると告げられた。

 彼女がようやく手筈てはずを整えたのだ。今日はその「会いに行く日」である。


 義兄にようやく会えると心が逸る一方で、自分に課せられている役割も思い出す。


 清影との子を成すこと──。


 いや、自分はそれに承諾した覚えはなく、千紫から一方的に言われたことではあるが、そのために自分は座敷牢に行かされるのだから、否応なしに意識せずにはいられない。


 そして深芳は、慣れない手つきで何度も髪を結っては、それをほどくを繰り返していた。

 髪を結ったことなど一度もなく、いつも髪は後ろへ流すだけだった。仮に邪魔になったとしても背中でゆったり結ぶだけ、それ以上のことをしたことはない。


 深芳は鏡に映る自分の顔をじっと見た。どんな顔をして義兄に会えばいいか、何を話せばいいか、朝からずっと考えている。


 少しでも千紫に似せようと何度も髪を結い上げたが、彼女になることなどできるわけもなく、そんなことをしても無駄だと諦めるのに相当の時間がかかった。


 格好は、粗末な小袖にしびらという前かけを付け、端女はしためのような格好だ。これに、市女いちめ笠をかぶり、薄い垂衣たれぎぬで全身を覆う。


 出来るだけ目立たないようにという波瑠の配慮だが、このちぐはぐな感じが目立たないのかどうなのかと、深芳は笑ってしまった。


 出かける時間となり、深芳は一人で落山の屋敷を出た。手荷物は何もない。


 座敷牢は、御座所おわすところから北西にいった里の外れにある。

 山裾に沿って延びる山道を北に向かって深芳はひたすら歩いた。少し大きな山道にぶつかった所で、二つ鬼の武者が深芳を待っていた。


 色黒の実直そうな男は下野しもつけ与平と名乗り、自分が牢番をしていると言った。

 与平に連れられ、さらに歩く。途中、行き交う者もおらず、誰に会うこともない。前を歩く男もこちらに話しかけてくることはなく、こちらも話すことはなく、深芳は黙ってひたすら歩き続けた。


 どれほど歩いたことだろう。古びた厳つい門が、森の中から突然現れた。粗削りの大きな木を組み合わせただけの門だが、至るところに札が貼られてあり、中の様子はもやがかかって全く見えない。


「ここが座敷牢だ」


 与平が手短に言って、文字の書かれた木の札を深芳に渡した。これが千紫の言っていた結界を通るための札なのだろう。


「我はただの牢番にて、これ以上は中に入れぬ」


 言って与平は門の傍らにどかりと腰を下ろした。どうやら一人で行けということらしい。


 深芳は黙って小さく頷き返すと、門をくぐった。通り抜ける時、薄い衣をすり抜けるような感じを覚えた。


 門を抜けた途端、もやが晴れ、今度は小さな平屋が現れた。落山の屋敷よりずっと小さい。こんなところでと思う一方で、一人であればこの方が楽かとも思ったりする。


「兄上様、」


 深芳は玄関で市女笠を脱ぎ捨て中に入った。

 すぐに居間があり、田の字に部屋が続いている。奥の部屋へと進むと、庭に面したこざっぱりとした明るい部屋に出た。

 そしてその隣、日の光が届かない薄暗い部屋に、小さな明かりを灯して座る清影の背中が見えた。


「兄上様、」


 再び呼びかけると、一つ角の鬼が驚いた顔で振り向いた。

 顔が少しやつれ、無精髭が伸びている。しかし、その優しいまなざしは変わらぬ清影のものだ。


 深芳は、清影が本当に生きていたという安堵と、ようやく会えたという喜びで胸が一杯になり、自然と涙が込み上げた。


 彼女は膝をついて清影に詰め寄ると、躊躇ためらうことなく義兄に抱きついた。


「よくぞご無事で──!!」


 清影が優しく笑い返し、深芳の角と髪を静かになでる。その子供をあやすような手つきがくすぐったい。深芳は涙を拭いながら笑った。


「声を出すことができないのですね」


 喉には、あの夜の切り傷が生々しく残り、呪詛の言葉が入れ墨のように刻まれていた。深芳がそこに触れようとすると、清影が彼女の手を止め小さく首を振った。彼女はじっと義兄の顔を見つめ返した。


 心配しなくていい? それとも、触れてはいけない?


 彼の表情から言いたいことを読み取ろうとするが、当然ながら分からない。

 何か書くものがあれば、と深芳が部屋をそわそわと見回し始めると、清影が深芳の手を取った。


「?」


 怪訝な顔をする彼女の手の平をやんわりと広げ、清影が指で『しんぱい ない』と文字をなぞった。


 思わず笑みが深芳からこぼれる。


「でも、話すことができずに不便でしょう?」

『はなす ひつよう ない』

「……誰もいないから?」


 清影がそうだとばかりに大きく頷き苦笑する。そして彼は、深芳の手の平に『ちちうえ とうか どうなった』と書いた。

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