3)持たぬ者、持てる者

持たぬ者、持てる者(1)

 頬を撫でる風で藤花は目覚めた。兵衛にからかわれ、ぷんぷんに怒ってそっぽを向いているうちにいつの間にか本当に寝てしまったようだ。我ながら格好がつかないと情けない気持ちになる。


 ゆっくりと体を起こし傍らを見ると、ずっと起きていたらしい兵衛が彼女に気づいて、飄々とした表情の端にわずかな笑みを浮かべた。


「ご気分は?」

「良い」


 素っ気なく答え、きちんと座り直す。いくらなんでも気を緩め過ぎた。空を見上げるとお天道てんと様が真南を過ぎて西に向かい始めている。どうやら一刻いっときは寝ていたようだ。


「すまぬ。いちいち手間をかけさせる」

「いいえ、こちらも久しぶりにのんびりできました」


 そう言って兵衛は胡坐あぐらをかいたまま眼下遠くに広がる山の尾根を見るとはなしに眺める。緊張が解けた横顔はいつもの鋭さとは縁遠く、きっとこちらが本当の顔なのだと藤花は思う。


 しかしそれも束の間、兵衛は藤花を気遣いつつも顔をきゅっと引き締めた。


「ご気分が良くなられたのでしたら今日はこれにて帰りましょう。もう山遊びの気分でもないでしょう」

「うむ」


 もう少し彼の横顔を眺めていたかった藤花は、内心がっかりしつつ彼の進言に頷き返した。兵衛の言うとおり、今日はもう遊ぶ気分にはなれない。ただ、何もできないままここを去るのも悔しい。

 帰ることに同意しながら、しかし、すぐには立ち上がろうとしない藤花に、兵衛が今度は「あともう少し休みましょうか」と声をかけた。


「うむ」


 何かしたい。

 ふと、藤花はあることを思いつく。


 彼女はすくっと立ち上がると、呼吸を整え大きく息を吸った。そして両手を広げ全身で風に揺れる草花と、それを育む大地の気を感じ取る。ゆっくりと、ゆっくりと、優しく活力に満ちた気を体の中に取り込んで自身の気と同調させる。


 突然何を、と戸惑う兵衛の前で、藤花は静かに厳かにつちを讃える言葉を調べに乗せた。


 今、自分が出来るせめてものこと。


 独特の抑揚を持つ旋律が穏やかな風にのって山肌を降りていく。

 あの谷底に届くだろうか。


 藤花の声が不思議な色をまとい、伸びやかに響く。そこかしこで草花が嬉しそうに揺れ、空気が震えた。


「これは、月詞つきこと──?」


 兵衛が驚き顔で藤花を仰ぎ見た。


 月詞つきこと、それは月夜の一族に伝わる天地あまつちを讃える調べのことだ。


 ひとしきり歌い終えると、藤花はふうっと肩で息をした。

 まだまだ下手で、兄や父には遠く及ばない。それでも今日は、上手に歌えた方だと思った。


 ふと傍らに目をやると、兵衛が放心した顔でじっとこちらを見つめている。

 それもそうか、と藤花は思った。何もできないと思っていた小娘が、月詞つきことを突然歌ったのだから。


 それで藤花が軽く睨みつけるように見つめ返すと、彼ははっと我に返り、慌てた様子で居ずまいを正し頭を下げた。


「まじまじと見るなど、失礼いたしました」

「良い。二人きりじゃ」

「……藤花様、よろしかったので?」


 兵衛が少し顔を曇らせた。彼が言わんとしていることが彼女には分かった。月詞つきことは、その影響力の強さゆえにみだりに歌ってはいけないのだ。

 藤花は軽く肩をすくめた。


「かまわぬ」

「しかし、」

「心地よい山の空気を吸い、世間知らずの姫が気まぐれに口ずさんだだけのこと」

「口ずさむ、ですか」


 兵衛は苦笑した。

 およそ月詞つきことを「口ずさむ」などと言う者がいるだろうか。

 この娘は間違いなく鬼伯の子か、兵衛は内心舌を巻いた。


 月詞とは、天を讃え、地を謳う、生きとし生けるものに捧げる讃頌さんしょうの歌だ。月夜の鬼でも、これを歌えるのは一握りの者だと九尾から聞いている。

 以前、一度だけ鬼伯・影親かげちかの歌を九尾とともに遠くで聞いたことがある。その時は、魂を掬い取られるような感覚に陥り、身震いした。厳かで全てを圧することばだ。


 藤花の歌は、影親に比べ、どこかつたなく不安定なものではあったが、みずみずしく乙女の愛らしさを感じさせるものであった。


「藤花様、今の月詞は?」

つち御詞みこと、初めて聞くか?」

「はい。以前、鬼伯の歌を一度だけ聞いたことはありますが……。今しがたの地の御詞とは違って聞こえました」

「そうか」


 月詞つきことには、いろいろある。目の前の風や水、炎を讃えたり、魂を鎮めたりする平易なものから、天地を讃える難しいものまで。

 ただ歌うと言っても、単に調べに乗せて言葉を紡ぐだけではない。対象の気を自身の中に取り込み、同調し、それを言葉にして調べに乗せる。要は、どれだけ対象とする気と同調できるかが要となるのだが、対象が大きくなればなるほど同調も難しく、歌うことは困難となる。


 そして、この気の同調を得意としているのが一つ鬼だ。月詞を歌える者はほぼ一つ鬼と言ってもいい。鬼伯の一族は、その中でもあまつち御詞みことを歌える唯一の者だ。


「以前、私が聞いた鬼伯の歌は、天地あまつち御詞みことでしょうか」

「いや、それはない」


 藤花が苦笑しながら答えた。

「父上は、確かに天と地の御詞は歌えるが、天地両方を兼ねた天地あまつち御詞みことを歌える者は我らの一族でさえ久しく出ておらぬ」


 藤花も「地」はなんとか、「天」はたどたどしくしか歌えず、「天地」となると、何をどうすれば言葉を紡ぐことができるものかと思ってしまう。いわれによると、天地あまつち御詞みことは授かるもの、習得するものではないらしい。

 藤花が月詞つきことについて簡単に説明すると、兵衛は興味深そうに頷いた。


「聞き惚れました。人の国で歌えば、神の遣いと言われましょう」


 素直に褒められ、藤花は嬉しくなる。兵衛はおべっかは使わない。だから、「聞き惚れた」と言うのであれば、本当に聞き惚れたのだ。そう思うと、自然と顔がほころび頬が染まった。


「も、もう一度歌っても良いぞ」

 しかし、嬉しくなった勢いで彼女が勇んで申し出ると、途端に兵衛は顔をしかめた。


「ご自重ください。月詞つきことをどこかの童歌わらべうたとでも思っておいでか」

「聞き惚れたと言うたではないか……」

「それとこれとは話が別です」


 つれなく言って兵衛は立ち上がり膝についた草を払う。そして彼は指笛をヒュッと吹いた。

 ややして、式神のエイが空をたなびきながら現れ、二人の前に降り立った。

 兵衛ががっかりする藤花に向かって手を差し伸べた。


「さあ、乗ってください。途中、里中で美味しいものでも食べて帰りましょう」

「本当か?」


 思えばお腹がぺこぺこだ。滅多に行かない里中を歩けることも嬉しい。藤花が嬉しそうに目を輝かせると、兵衛が「単純なことで」と面白そうに目を細めた。

 どうにも皮肉を言わないと済まないのが彼の性質たちらしい。

 藤花はむうっと頬を膨らませたが、もう少し兵衛と一緒にいられることも嬉しくて、怒っているのか笑っているのか分からない顔になってしまった。

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