猿と蕾(2)
その夜、兵衛は密かに奥院を訪れた。
今日、九尾は月夜の里に来ていない。従者としての立場が使えない以上、こんな夜更けに正面切って奥院を訪れることはさすがにはばかられた。
仕方がないので、人目を避けて奥院に忍び入る。
強固な結界などが結ばれていたら厄介だなと覚悟して向かったが、結界も
先日から
この少し平和呆けしている感じは、どちらかと言えば、太平の世を謳歌する人間どもに似ていると兵衛は思った。
北の領は阿の国でも久しく平和な領地だと聞く。結界の緩さも、影親たちの人柄の良さもこうした安穏とした国だからこそだろう。
人の国のあやかしはもっとピリピリしている。常に人から忌み嫌われ、狩られる立場がそうさせる。
九尾が住み
当然と言えば当然で、あそこは人の国であり、あやかしはその隙間に住まうだけの存在なのだから。
月明かりに照らされ草木の陰影が濃く映し出された庭の中を、兵衛は藤花の部屋まで息と足音を殺して進んだ。見ると、部屋の明かりが淡い光となって廊下に漏れていた。
「藤花様、」
庭先に膝をついて控え、押し殺した声で静かに声をかけた。気づかれなければ廊下に置いて帰るしかない。
ややあって、部屋から声が返ってきた。
「……誰ぞ?」
「兵衛にございます」
ガタッと、それなりの大きな音がして、驚き顔の藤花が障子戸から顔を覗かせた。兵衛の姿を見つけると、彼女は一旦部屋に引っ込み、ごそごそと何かをしてから再び部屋から出てきた。
白の寝間着に適当な打掛を羽織り、慌てた様子で「何事か?」と藤花は目をぱちぱちさせた。昼間とは違い、気の緩んだ寝間着姿はしどけない。
兵衛は目を伏せると、懐から水芭蕉の葉の包みを取り出した。
「
言って彼は進み出ると、彼女に向かって包みを差し出した。藤花が「なんと」と顔をほころばせ、廊下に膝をつく。
「部屋へ──」
そこまで言いかけて、藤花は口ごもる。さすがに夜遅くに寝所へ殿方を入れるわけにはいかない。
そもそも、律儀に膝をついて控える兵衛が「入れ」と言われて入るわけもない。
「ありがとう。わざわざ届けてくれたのか」
藤花はひとまず包みを受け取った。兵衛の用事はこれで終わり、彼はすぐに帰ってしまうだろう。
しかし、このまま別れるのはあまりに惜しい。
藤花は廊下に座ると、膝の上に葉の包みを乗せ、その中を確かめた。中から、透明のぷるぷるとした水団子が出てきた。
「食べても良いか」
「今、ここでですか?」
「おいしそうではないか。今食べず、いつ食べるのじゃ」
藤花は一つ摘まむとぱくりと頬張った。口の中で団子がとろりと溶け、水草の清涼な香りと幸せが口いっぱいに広がった。
「うむ、
「良かった、」
兵衛がほっとした様子で口の端に笑みを浮かべた。しかし彼は、その場に控え続けるのみで隣に来てくれる素振りもない。
藤花は、つまらなそうに首を傾げた。
「兵衛、そのように庭で控えられていては食べにくい」
「では、私はこれにて……」
「そうではなく!」
今にも腰を浮かせて立ち去ろうとする男を慌てて止める。
この固い頭は岩か何かで出来ているのかと思ってしまう。藤花は自分の隣をぽんぽんと叩いた。
「隣に座りやれ」
「しかし、隣に座るなど──」
「里中では並んで座ったではないか。関係ないのだろう?」
「私は山から戻ったばかりで汚れております」
「……なんなら、また私がおまえの膝の上に座っても良いぞ?」
この男は頭が固く、しかも融通が利かないときている。少し脅すぐらいが丁度よいのだ。
兵衛が軽く嘆息し、根負けした風に立ち上がった。そして彼が隣に座ると、藤花は満足げに笑った。
「河童は元気であったか?」
「はい。川の水もすっかり綺麗になり、藤花様にお礼を伝えて欲しいと」
嫁の件を諦めておらず、自分が代わりにきつく断っておいたことは黙っておくことにする。
「
「まだ見つかっておりませんが、その件は鬼伯に報告します」
「そうか」
藤花が小さく頷く。兵衛は彼女に念を押した。
「藤花様、後は猿にお任せください」
「分かっておる」
そう言いながらも、その態度は口を尖らし不満げだ。駄々っ子のような彼女の態度を微笑ましく思いながらも、藤花に出しゃばられても困るので、兵衛は気づかぬふりをした。
話すこともなく、彼は黙って夜空に浮かぶ月を眺める。隣では、藤花が所在なく手元の水団子を眺めている。
「食べないので?」
「もったいない」
「水団子が?」
そこまでありがたがる食べ物でもない。兵衛が怪訝な顔で言うと、藤花が不満げに兵衛を見返した。
「食べ終わったら、おまえは帰ってしまうであろう?」
「それは、そうですが」
「だから食べぬ」
藤花がふいっとそっぽを向いて頬をふくらませる。その横顔がなんとも言えず愛らしい。兵衛は意地の悪い笑みを藤花に向けた。
「食べぬのなら、帰ります」
途端に藤花が慌てた。
「か、帰るのなら食べる!」
「どちらですか?」
「私が食べ終わるまで帰ってはならぬっ」
言って藤花は団子をもう一つ摘まみ、口の中に放り込んだ。藤花の小さな口から水団子が溢れ、口の端にとろりとしたものが付く。
「また付いております」
そのさまを見て、兵衛は笑った。
よくよく口に何かを付ける姫だ。その着飾らないところが藤花らしいといえばそうなのだが。
彼は藤花の口元に手を伸ばし、いつかのように指で口元を拭った。
指の腹に彼女の唇の柔らかな感触が伝わる。ふと、もう少し触れていたい気分になり、兵衛はその小さい唇の形に沿って指を優しく滑らせた。
刹那、藤花がびくりと体を震わせ、戸惑った顔をこちらに向けた。月光に照らされたあどけない深紫の瞳が兵衛を射抜く。
はっと我に返ると同時に、心の奥でぼんやりとしか形を成していなかった感情が、にわかにはっきりとした思いとなって沸き起こった。
駄目だ──。
兵衛は急に沸き起こったその気持ちに、とっさに
(何を慌てている、儂は口元の団子を拭っただけではないか)
兵衛は藤花から目をそらすと、心の内を誤魔化すために団子の付いた人差し指を慌てて自分の口へ持っていった。
しかしその時、藤花が彼の指を捉えた。
そして、きゅっと小さく兵衛を睨む。
「この団子は、私のものじゃ」
言って彼女はその指先を口に含んだ。
彼女の舌のぬくもりが指に伝わり、兵衛はぞくりとした。どこかで何かがぷつりと切れ、ほぼ無意識に彼は握られた手を藤花から引き抜くと、次の瞬間には彼女のあごを
藤花が「え?」と驚いた顔をして、次にぱあっと頬を染めた。大きな瞳が瞬いて、その度に長い
まさに花の
艶やかな花を咲かせようとする、しかしまだあどけなさの残る蕾。
目と目が絡み合い、頭の中が真っ白になる。
この小さな蕾は、いかなる味か。
兵衛がおもむくままゆっくりと顔を近づけると、それに応じて藤花が静かに目を閉じた。
二人の唇が重なる。やわらかな感触を共有し、一度離れて、もう一度。今度は少し深く唇を絡めた。 ほんの、わずかばかりの口づけ。藤花は恥じらいを隠すように兵衛の胸に顔を
「……兵衛、」
ぽつりと藤花が呟く。
「毎日などとわがままは言わぬ。たまに私に会いに来やれ」
かすかに震えうわずった声。艶やかな黒髪の隙間から見えるうなじが月光に照らされ美しい。兵衛は彼女を抱き寄せ、頭上の角に優しく口づけた。
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