九尾との盟約(4)

 兵衛はにわかに何も言うことができず、ただ「そう、ですか」と呟いた。九尾がすっと目を細めて彼を見る。


「なぜ、そんなことになったのか聞かないのか?」

「あ、いえ──、」


 すると、戸惑う兵衛に向かって、ふいに九尾が手紙を投げ捨てた。


「読んでみろ」


 兵衛は、手紙を拾うと素早くそれに目を通した。阿の国にひそませている者からの手紙だ。

 それはひと月前のもので、内容は──、藤花がどこの誰とも分からない男と内通したという噂に関するものだった。

 手紙を持つ兵衛の手がわずかに震えた。そんな彼に九尾の冷たい声が響く。


「心当たりはあるか?」

「……」


 あるじは気づいている。いや、知っている。きっと何もかも。

 兵衛は目をあちらこちらに泳がせていたが、ややして、こくりと頷きうなだれた。九尾が落ち着いてはいるが、嘘を許さない厳しい口調で兵衛に問う。


「どうした? 遊びで手を出すには、相手が悪すぎる。無理に誘われでもしたか?」

「違います」


 兵衛は顔を上げて、すかさず否定した。そして、再び気まずそうに目をそらす。


「……儂が、手を出しました」

「なぜ?」

「見たこともない美しい花に心を奪われ、自制を失いました」

「自制を、か」


 九尾が小さく嘆息する。

 およそ兵衛らしくもない。

 とは言え、あのように身も心も綺麗な女は、確かに兵衛の周りにはいなかったかもしれない。加えて、彼女は気位の高い他の姫君と違って、無邪気で自由奔放だ。そんなところも心乱されたのだろう。


 すると、兵衛が「しかし──」と付け加えた。


「確かに自制を失いましたが、途中からは違います。こうなると分かっていながら関係を断ち切らず、姫の無垢な心につけ込み、甘い言葉でそそのかしたのは、他ならぬ儂自身です」


 藤花は何も悪くない。すべては自分が招いた事態だと、兵衛は訴えた。


「ふうむ」


 再び九尾がため息をつく。そして彼は、脇息にもたれかかり、目の前で苦悩の表情を浮かべる愛弟子を見つめた。

 膝の上で固く握られた手が、彼の「どんな処分も受ける」という覚悟を表していた。反して、その不安げな表情は、己ではなくあるじである自分に迷惑がかかることを憂慮してのものだということも分かった。


(そこまで分かっていながら、なぜ?)


 そう思ってしまうが、これを聞くのは無粋というものだ。

 九尾は、ゆっくりと口を開いた。


「なんとかしてやりたいが、相手が相手なだけに、正攻法ではなんともならん。それは、分かっておるな?」

「はい。どのような処分でも──」


 刹那、九尾が手を上げて兵衛の言葉を遮る。そして彼は「そこで、」と、言葉を続けた。


「儂が思いつく最善の方策をうってきた。このことを隠しつつ藤花姫を手中に収め、かつ、谷の行く末にも大きく利となる方策だ」

「……それが、鬼伯と交わしたという盟約なのですか?」

「そうだ。悪いが、おまえには黙っていた。反対されると思ってな」


 九尾が申し訳なさそうに笑った。しかし、その顔がようやくいつもの穏やかなものになった。





 九尾の提案した「取り引き」は、藤花の考えも及ばないものだった。

 彼は、自分の考えを一方的に、しかし嘘偽りなく藤花に説明すると、その夜はそのまま帰ってしまった。


 次の日の朝、重丸はもちろん、奥院の誰も、大妖狐の訪問に気づいている者はいなかった。当然、九尾が藤花と秘密裏に接触したことを知る者は誰もいない。


 あらためて九尾の恐ろしさを知る。その気になれば、彼は誰にも知られずに鬼伯の寝首を掻くことも可能なのだ。

 そして、父親に全てを許しているわけではないことも理解した。自分が駒の一つにしか過ぎないことも。


 その日の午後、九尾は何食わぬ顔で影親かげちかの元を訪れた。藤花は、をじっと待つ。しばらくして、影親の部屋に来るようにと侍女が呼びに来た。


「藤花、参りました」


 部屋の前で丁寧に頭を下げる。座敷には、上座に影親、相対して九尾が座っている。藤花は、九尾と目が合うと、にっこりと笑った。


「九尾様、御前会以来でございます」

「ああ、久しぶりだ。姫は会うたびに綺麗になっていくな」


 上辺だけの挨拶を交わし、藤花は影親の隣に座った。九尾は満足そうな笑みを浮かべ、影親はやや複雑そうな面持ちである。


 両者の様子を見ただけで、交渉の軍配が九尾に上がったのは明らかだった。

 影親が躊躇ためらいながら口を開く。藤花には、彼が何を言うか分かっていた。


「藤花、おまえに重要な役目を頼みたい」

「はい。なんでしょう?」


 すると九尾が二人の会話に割って入った。


「藤花姫、あなたの──その体の中に我が妖刀・焔の鞘を預けたい。月夜に伝わる秘術でもって」

「私の体の中に焔の鞘を……?」


 藤花は、大げさに驚いて見せた。昨夜、九尾から提案され、一晩考え抜いたことだ。もう、覚悟はできている。


 そんなことを知らない影親が、取り繕うような笑みを藤花に向けた。


「先の御前会で、九尾は鞘を預けられる者を探しておったのだ。秘術を施せるのは、月詞つきことを歌える者のみ。しかも妖刀の鞘を取り込むとなると、それ相応の能力がいる」

「……つまり、まともに月詞を歌えぬ姫が多い中、私の歌は満足いただけたということですか?」


 ちらりと九尾を見ると、彼は「そのとおりだ」と頷き返した。


「焔が、藤花姫の歌にだけは反応した」


 そこで影親が九尾の言葉を引き継ぐ。


「おまえにしか焔の鞘は取り込めぬ。なに、ただで辛い思いはさせん。此度こたび、九尾の力を引き継ぐ二代目におまえを嫁がせる約束を九尾と交わした。妖刀の鞘をこちらで預かり受けることは、その証しだ」

「二代目様──」

「喜べ、藤花。大妖狐の一族に輿入れなど、望んでもある話ではないぞ」


 藤花はこくりと頷いた。

 どこまでが父親の本音なのかと彼女は思った。


 彼は六洞りくどう家にも縁談の話をしていたはずだ。こちらの話がまとまれば、必然的にそちらは断ることになる。相手が臣下とは言え、なんとも失礼な話だ。


 傷の付いた娘を、いかに利となる者へと嫁がせるかは、ここ最近の影親の悩みだったに違いない。二つ鬼の台頭により、崩れ始めた一つ鬼と二つ鬼の力関係。それを保とうと父親は躍起になっている。

 九尾はそこにつけ込んだのだ。結果、父親は伏見谷へ娘を差し出す方が利ありと踏んだのだ。


「しかし、なぜ鞘を私にお預けになる? 残された刀身はどうなさるので?」

「焔は特別だ。誰にでも気軽に持つことはできないし、また、儂も渡す気はない。下手な争いが起きぬよう、今の内に鞘と刀身を分けて封印する。次にあれを手にするのは、儂の力を引き継ぐ二代目だ」

「では、二代目様はどちらに? 谷にいらっしゃるので?」


 あえて不満げな顔で藤花が問えば、九尾ももっともらしい顔で答えた。


「いや、儂の息子がいるにはいるが、あれは二代目ではない。必要な時に一族の中から現れる。それが、二代目となる」

「そのような、どこの誰とも分からない御方のところに私は嫁ぐのですか?」


 さらに、わざとらしく九尾に問う。彼もまた、わざとらしく笑い返した。


「姫は、どこの誰とも分からない御方と関係を持つことがお好きだと聞いたが?」


 もはや、噂と言うより事実となった藤花の醜聞をここぞとばかりに皮肉る。影親が苦虫を噛み潰したような顔をしたのを見て、藤花は吹き出しそうになった。


 必死で口元を袖で押さえ、眉間にしわを寄せる。


「私に断る余地などないのでございましょう?」

「そう言ってもらえると、話が早くて助かる」


 心が震える。気持ちがたかぶる。

 藤花は、すっと居ずまいを正すと、両手をついて深々と頭を下げた。


「お申し出、お受けいたします。妖刀・焔の鞘をお預かりいたします」


 そして顔を上げ、高慢な笑みを九尾に投げる。


「では、今この時を持って私は谷にとって大切な身となります。とすれば、誰か谷の者が私を守ってくれるのでしょう?」


 九尾がつと片眉を上げた。これは彼の提案にはなかった内容だからだ。

 今、ここで藤花が彼に突きつけた。

 藤花が「ん?」と首を傾げる。九尾が「はっはっはっ」と声を上げて笑った。


「まこと、おもしろい姫よ」


 言って満足げに目を細め、彼は大きく頷いた。


「もちろん、姫の身は谷の者で守ろう。我が愛弟子、百日紅さるすべり兵衛をつける。あやつの腕は、先の御前会で見たとおりだ。異存はあるまい」

「上々にございます」


 これ以上の答えはない。藤花は、にこりと笑い返した。


 その夜、焔の鞘を藤花の体に取り込む儀式が、すみやかに行われた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る