第70話 第二の囚人

 





 監禁されたと称するにはこの部屋は広すぎる。

 綺麗なベッドが二つに、本がぎっしり詰まった棚が一つに、デスクやクローゼットも用意されている。

 適した言葉は“軟禁”だろうか。

 どちらにしたって、事情は説明されていないものの、彼女たちが人質として捕らえられているのは明らかである。


『お前らは裏切られたんだよ』


 思い出すのは、馬車で男に聞かされたあの言葉だ。

 彼はサトゥーキに雇われており、ハロムを人質にしてケレイナの動きを封じた。

 もちろん、ミルキットとインクに何かができるはずもなく。

 為す術も無くなった車内で、そう告げられたのだ。

 まず、悲しかった。

 信じていたあの人――リーチに裏切られことが。

 最初は信じられなかったが、事実、自分たちがここに連れてこられたことが何よりの証拠だろう。


 そして次に、悔しかった。

 ただでさえフラムの役に立てていないことを自覚していたのに、これでは完全に足手まといだ。

 何も出来ない。

 無力で、足を引っ張って――これならいっそ、自分なんて存在しない方がいい。

 それでもきっと、フラムはミルキットを責めないだろう。

 だからこそ、そんなにも優しく愛おしい主の役に立てない自分が、不甲斐なくてしょうがない。


 ベッドの上で膝を抱えるミルキットは、スカートの上から爪を太ももに食い込ませた。

 痛みが少しでも自分を罰してくれればいい。

 だが、自分たちが人質に取られたということは、フラムたちの動きも封じられているはず。

 そんな痛み程度で、償いになどならない。


 すでにここに連れてこられてから、二日が経過している。

 食事は出ているが、口にしていない。

 そんな気分にはなれなかった。

 しかし、空腹は容赦なく彼女を追い詰める。

 最近はフラムのおかげで飢えることも無かったためか、余計に辛く感じられた。


「ミルキット、食べないの?」


 インクはポニーテールを揺らしながら、ミルキットの方を向いた。

 一方で彼女は、さほど落ち込んだ様子を見せていない。

 差し出された食事を、拒むことなく口に運んでいる。


「私の存在がご主人様を追い詰めているのに、そんな気分にはなれません」

「むぐ……ほんとミルキットはフラムのこと好きだよね」

「はい、大好きです。だから……私は、私のことが嫌いになってしまいそうです」

「そんなに落ち込んだってしょうがないと思う」

「ですが、さすがに王都からこんなに離れた場所に助けなんて……」


 ここが、王国北東にあるイリエイスという町の付近だということは知っている。

 つまり、馬車で移動しても王都からは数日はかかる場所だ。

 人質の存在により動きを封じられているフラムたちが、彼女を助けるのは不可能だ。


「私、思うんだけど……脱走、できないかな。私たちが舐められてるのか何なのか知んないけど、この部屋って見張りついてないんだよね。巡回の兵士が前を通るぐらいで、他の時間はずっと放置されてるっていうか」


 盲目の少女と、ひ弱な奴隷。

 今は特別な力も無い二人は、誰の目から見ても明らかなほど無害だった。

 その油断につけ込めば、逃げられるかもしれない。

 インクはそう考えたのだろう。

 だがミルキットは即座に否定する。


「ケレイナさんとハロムさんはどうするんですか?」


 同じ馬車で連れてこられた二人は、ケレイナの戦闘能力を危険視してか、別の部屋に隔離されていた。

 この施設のどこに閉じ込められているのか、部屋から出られないミルキットたちに知るすべはない。


「あっちは見張りがしっかりついてる。でもね、深夜になると十分か二十分、離れることがあって、たぶんトイレだと思うんだけど」

「インクさん、どうしてそれを知ってるんです?」


 兵士と話す機会も無い二人には、外の情報を得る手段はないはず。

 首を傾げて尋ねるミルキットに、インクは自慢げな表情で人差し指で耳に触れた。


「私、目がこんなになってるせいで、耳はいいんだよね。それで兵士の足音とかで、なんとなく部屋の位置は把握してたり」

「そんなことが……!」


 ミルキットは素直に驚いた。

 そして同時に、自分の無力さを嘆く。

 インクは脱出という目標を掲げて、ミルキットがのんきに眠っている間も情報を集めていたというのに。


「見張りの兵士が離脱して、なおかつ巡回の兵士がそこにいないタイミングを見計らって、二人を救出すれば――四人で逃げられるかも」


 希望はある、そう主張するインクは、しかし――あれ・・を見ていない。


「インクさん、あの……」


 ミルキットはためらいがちに口を開いた。

 ここは研究施設の別棟である。

 本棟を裏口から出て、だだっ広い中庭のようなスペースを通り抜けた先にある。

 仮に別棟から脱出できたとしても、その先にはさらに見張りの多い本棟が待っているのだ。

 だが、本当の絶望はまた別にある。

 ここはキマイラ研究のための拠点であり、なおかつ“量産”も行われている。


「実はこの建物、すごく恐ろしい化物に囲まれていて……仮に出られたとしても、すぐに殺されてしまうと思います」


 ゆえに――本棟と別棟を繋ぐ中庭には、大量のキマイラが放し飼い・・・・されているのだ。

 それを、インク以外の三人は知っている。

 一匹でもSランク冒険者に匹敵する化物が、見える限りで数百体。

 そんな地獄を生きて抜けられる人間など、おそらくこの世に一人として存在しない。


「もしかして、キマイラってやつ?」

「そう、です。だから無理なんです。私だって逃げられるなら逃げたいと思っています、けれど、あれは……」

「そっか……ここに来たとき、みんながやけに怯えてたのって、そのせいだったんだ」


 インクは大きくため息をつくと、体をベッドに投げ出した。

 そこまでの無茶を強引に通そうとするほど、彼女も命知らずではない。

 しかし、“逃げられるかもしれない”という希望が彼女を支えていたのだとしたら、果たして現実を知らせる必要はあったのか。

 ミルキットは膝を抱えたまま、俯く。

 二人は黙り込み、部屋には静寂が満ちた。

 そのおかげだろうか、微かに聞こえたカサッ、という音を、インクは聞き逃さなかった。


「ミルキット、窓の方で何か音がしなかった?」


 そう言われてミルキットは立ち上がり、窓に歩み寄る。

 窓は鍵すら無く固定されており、さらに外には鉄格子が付けられている。

 しかし、サッシと枠の間には微かな隙間が空いていた。


「紙が挟まってます」

「たまたま外から飛んできたのかな」

「何か書かれてるみたいですが……」


 彼女はそれを手に取り、記された文章を読み上げた。


「『テストっす、受け取った人はどこかに印を書いてまた外に戻して欲しいっす』……っす?」


 メモに署名はない。

 だがこの語尾は、彼女・・のものに似ているような。


「それ、セーラが差出人なんじゃないの!?」

「ですが、こんな場所にセーラさんの出したメモが飛んでくるなんて、偶然にしては出来すぎています」

「セーラと一緒に行動してるネイガスとかいう魔族がどうにかしたのかも!」

「あ……そういえば、風と闇の魔法を使うって聞いたことがあります」

「だったらそれだよ! 風の魔法で、私たちのいる場所を狙って飛ばしたんだって!」


 だとすれば、外に戻して欲しいというのは――ミルキットはデスクに置かれた羽ペンを手に取り、『ミルキット』と自分の名前を記す。

 まだまだ下手な文字だが、読めないことは無いはずだ。

 そして、メモを窓の隙間から外に出した。

 すると急に強風が吹き、気流に乗って紙が飛ばされていく――




 ◇◇◇




 ネイガスとセーラは、北側にある山の茂みに身を隠し、施設の様子を観察していた。

 そんな彼女らの元に、引き寄せられるように白い紙が飛んでくる。

 それを見て、ネイガスは満足気に微笑んだ。


「ふっふっふ、どうかしら、見直した?」


 メモを人差し指と中指で挟みキャッチし、得意げに言い放つ。

 どうやら『きゃー、ネイガスすごいっす! さすがっす!』と褒めちぎって欲しいらしい。

 しかしセーラは軽くため息をつくと、冷めた声で言った。


「別にネイガスならこれぐらいできると思ってたっすよ。で、なんて書いてあったんすか?」


 あくまで距離を取ろうとする彼女。

 落ち込んだ表情のネイガスだが――


「……ん?」


 よくよく考えてみると、内容は別に罵倒されていないというか。

 むしろ、褒められていたような。

 つまりこれはついにネイガスの想いがセーラに届いたということであって、イコール完全に両思い、この場であれやこれやと致してしまってもよろしいのではないか――


「セーラちゃん、私も好ぎゅっ!?」


 唇を尖らせながら抱きつこうとするネイガスの頬に、セーラの手のひらが突き刺さった。

 世の中はそう甘くないのだ。


「それはどうでもいいっすから、早く内容を教えてもらってもいいっすか!?」

「ひゃい……」


 ネイガスはしょんぼりと肩を落とし、メモをセーラに見せる。


「ばっちりミルキットさんの名前が書いてあるっすね、ちゃんと伝わったみたいっす」

「この調子でやり取りを続ければ……捕らえられた四人を助けられるかもしれないわね……」

「いつまで落ち込んでるんすか……?」

「セーラちゃんが振り向いてくれるまで」

「要するに一生っすね。さて、早速っすけど次のメモを送るっすよ」

「さらっと辛辣だわ」


 だがネイガスも最近ではセーラの対応にも慣れてきて、この程度ではめげなくなってきた。

 とはいえ、彼女も一応は大人である。

 馬鹿なやり取りもそこそこに、胸の谷間から取り出したペンで、紙に次のメッセージを書き始めた。


「歯がゆいわよねえ、こんなに近くにいるのに助けにいけないんだもの。外にさえ出てくれれば、隙を付いて連れていけるとは思うんだけど」

「仕方ないっすよ、あんな化物がうじゃうじゃいたんじゃ誰も近づけるわけがないっす」


 しかしセーラも歯がゆさを感じているらしく、そんな自分を納得させるために、改めて遠くに見えるキマイラたちに“スキャン”をかける。




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 Chimaira-Werewolf


 属性:土


 筋力:6519

 魔力:6163

 体力:6121

 敏捷:6784

 感覚:6511


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 Chimaira-Anzu

 属性:風


 筋力:8945

 魔力:8269

 体力:8181

 敏捷:7692

 感覚:7399


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 Chimaira-Wyvern

 属性:風


 筋力:12412

 魔力:10972

 体力:10367

 敏捷:8915

 感覚:9976


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 何度見ても、やる気の失せる数字である。

 個体差はあるものの、どれもステータスは似たようなものだ。

 名前は最初に付けた研究者のセンスによるものだろうが、その無機質さが余計に異常さを際立たせている。

 素体となっているモンスターが由来だと思われるが、あえて呼びやすいように言い換えるなら、小さい順に“人狼型”、“獅子型”、“飛竜型”といったところだろうか。

 人狼型はその名の通りワーウルフをベースとしており、しかし頭部は視力に優れる鳥型モンスターのものを、腕には熊型モンスターの強靭な爪が、そして背中にはハーピィの羽根が生えている。

 明らかに元とは別物と化しており、さらにオリジンコアの力も混ざっているため、どんな魔法を使うのかの想像すらできない。

 属性はおそらく飾りのようなものだろう、土や風魔法を意識して戦えば、不意を突かれる可能性が高い。

 獅子型や飛竜型も似たようなごった煮具合で、アンズーの体にオーガの上半身が付いていたり、飛竜の腹が裂け無数の触手が飛び出し、頭部には巨大な一つ目が付いていたりと、もはや元のモンスターの姿を思い出すことすら難しい。


「さすがにおらも“あれぐらい倒せるっす!”とは言えないっす」

「あら、でもセーラちゃんも出会った頃に比べればかなり強くなったじゃない」

「まあネイガスが魔力の扱いについては色々教えてくれたっすからね」

「そうそう、手とり足とりあれやれこれや取った挙げ句に唇も奪い――とにかく色々したわ」

「寝言は寝てから言うっす」


 元々備わった魔力はもちろん、その扱い方や鍛え方についても、魔族は人間よりも高い技術を持っている。

 ネイガスはそれを使って、セーラに訓練や教育を施し、こっそりと鍛えていたのだ。

 魔族は基本的に人間との交流が禁じているため、完全に掟破りなわけだが――そもそも二人が一緒に行動していること自体が掟破りなのだから、今更だ。

 その結果として、セーラのステータスは飛躍的に向上した。




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 セーラ・アンビレン

 属性:光


 筋力:875

 魔力:2197

 体力:747

 敏捷:948

 感覚:651


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 計5418、Aランク冒険者並の能力である。

 だが彼女の強みはそれだけではない。

 ネイガスは法外呪文イリーガルフォーミュラに関する技術もセーラに教えたのである。

 燃費は悪いものの、今の彼女はSランクに負けない出力の光魔法を放つことができた。


「……それにしたって、成長しすぎな気もするわ」


 セーラにスキャンをかけながら、ネイガスは改めて痛感する。

 正直に言って、教えた本人が一番驚いていた。

 考えてみれば、セーラはその才能を見出されて、教会に誘拐されたのだ。

 マリアと同じか、あるいはそれ以上の才能をもっていてもおかしくはない。

 それにしたって短期間で成長しすぎだし、まだまだ伸び代が残っていることが恐ろしい限りだ。


「ネイガス、いつまで駄弁ってるつもりっすか? 早くミルキットおねーさんに返事をしないと、待ちわびてるっすよ?」

「おっと、それもそうね」


 ネイガスは今度こそ集中して、長めの文章をメモに記す。


「一番の問題は、ミルキットおねーさんやインクたちがネイガスのことをどこまで信用してくれるかっすね」


 セーラは木の幹にもたれながら、ネイガスの手元のメモに視線を向ける。


「理由もちゃんと書くわよ、あとは彼女たちを信じるしかないわ」

「フラムおねーさんが利用されてるってことを伝えれば、きっと動いてくれるとは思うっすけど」


 魔王城からこの場所に戻ってくる前に、二人は違う町で一泊していた。

 そこで情報収集がてら立ち寄った酒場で、小耳に挟んだのである。

 王都の方から移動してきたという冒険者の話によれば――現王が失脚し、またその息子から王位継承権が剥奪、王妃や腹心と言われていた大臣たちも次々と処刑されたのだという。

 さらには現教皇も処刑され、その後釜としてサトゥーキ・ラナガルキが同地位に就任。

 そして、新たな王には、“正統なる王の血を引くもの”として、スロウ・カロウルという男性が即位したそうだ。

 無論、国民たちは、あまりに周到に用意された謀反劇に反感を抱いたものの――それを収めたのが、キリルと、フラムたち英雄なのだという。


「それにしたって、あの話だけじゃおらたちにも何が起きたのか、よくわかんないっすけど」

「詳しい話はそのうち調べればいいわ。もしフラムちゃんたちが自分の意志で今の王に協力してるんなら、人質なんて必要ないはずだもの。今の私たちがやるべきことは、間違いなくミルキットちゃんたちを助けることよ」


 フラムたちの救出に関しては、そのあとで考えればいい。

 ネイガスは魔法で風を吹かせ、書いたメモを、ミルキットたちのいる部屋に飛ばすのだった。




 ◇◇◇




「怪我や病気には気をつけるのよ!」

「無理はするんじゃないぞ、必ず生きて帰ってくるんだ。活躍はして欲しいが、なによりも大事なのはお前の命なんだからな!」


 馬車が走り出す寸前、フラムの両親――父ソルムと、母ローザは、彼女の手を握りながらそう言った。

 その瞳には涙が浮かんでおり、釣られて彼女も涙を流す。

 “嫌だ”、“私は行きたくない”、本当はそう言いたかった。


「フラムちゃん、帰ってきたらまた遊ぼうねー!」

「けっ、どうせ泣きながら帰ってくるに決まってら」


 そして同じく涙を流し、手を振る幼馴染のマリンと、ポケットに手を突っ込んで悪態をつくパイル。

 しかし彼も寂しくないわけではない、ずっと同じ村で過ごしてきた友人がいなくなるのだ、本当は素直に“また会おう”と言いたかった。

 そうできないのが、年頃の男の子というものらしい。

 フラムの見送りにやってきたのは、両親や友人だけではなかった。

 こんな田舎の村から世界を救う英雄が選出されたとあって、それは村人総出の一大イベントとなっていたのである。

 だから、言えるはずがない。

 本音なんて、弱音なんて、一言も。

 これ以上見ていると辛くて、苦しくて、馬車から飛び出したくなりそうだったので、フラムは前を向いた。


「そう不安がることはありませんわ」


 隣に座る女性が、微笑みながら言った。

 フラムはどきりとする。

 やっぱり都会から来た人は違う、なんというか……纏う雰囲気が。

 荷車が揺れると、彼女の赤いツインテールも揺れる。

 首から上だけを見ていると、どこぞのお嬢様に見えなくも無いのだが――着ている服は、黒い軍服である。

 ところどころに金色のラインが入っており、言うまでもなく素材もフラムの着ている薄手の服とは異なり一級品だ。

 総じて、圧倒されてしまう。

 果たして自分には、こんな人に迎えに来てもらうほどの価値がある人間なのだろうか。

 余計に不安が膨らんだ。


「そうは言っても、難しいですわよね。いきなり英雄になれだなんて言われて、心の準備ができるはずがないですもの」

「本当に、私だったんですか?」


 フラムの問いかけに、彼女は神妙な顔で頷いた。


「教皇は、創造神オリジンよりお告げで間違いなくあなたの名前を聞いたそうですわ」

「なんで私なんかが……」

「卑屈ですのね、ですが神に選ばれるほどなのです、きっと他人にはない才能を持っているのでしょう」

「そう、でしょうか」


 ステータス0。

 まともに運動もできずに、家族や友達にはいつも迷惑をかけてばかり。

 そんな自分に、才能なんてものがあるとは思えない。

 自己嫌悪のスパイラルに陥りそうになるフラム。


「あ、そういえば――」


 それを察してか、女性は強引に話題を変えた。


「自己紹介、まだでしたわね」

「あ、そうですね。私は――」

「フラム・アプリコットさんでしょう? ふふ、それは当然知っていますわ」

「あー……あはは、それもそうですよね」


 フラムは恥ずかしそうに頬を赤らめ、うつむいた。

 自分を迎えに来た彼女が、フラムのことを調べていないわけがない。

 そんな当然のこともわからないぐらい、緊張しているのだ。


「わたくしはオティーリエ・フォーケルピー。軍で副将軍を務めております」

「副将軍……」


 ひょっとしてそれは、すごく偉い人なのでは?

 内心でそう考えていたフラムだったが――プツッ、といきなり情景がブラックアウトする。

 脳がエラーを起こしたのだ。

 隔離領域に接続しようとしている。

 これ以上の再生は不可能だ、だから夢から覚めなければ。

 過去・・ではなく、現在・・の続きへと。




 ◇◇◇




 うっすらを目を開くと、そこには知らない天井があった。


「あれ……私……」


 体を包む布団の感触も、実家のベッドとは比べ物にならないぐらいふかふかだ。

 いつまでも沈んでいたいぐらいだが、そういうわけにはいかない。

 フラムは上半身を起こすと、周囲を見回した。

 だがやはり、知らない場所である。

 部屋は高級ホテルのように綺麗で広く、少なくとも彼女の故郷であるパトリアには存在する場所ではない。

 となると、王都だろうか。

 記憶は馬車の途中で途切れていて、フラムには目的に到着した記憶がない・・・・・のだが。

 するとそのとき、部屋のドアが開いた。

 そこから現れた人物に、彼女は声をかける。


「オティーリエさん?」


 お茶と本を運んできた彼女は、呼ばれて驚いた様子で目を見開きフラムの方を見た。


「軽く暇を潰すつもりだったのですが、まさか目を覚ましているとは思いませんでしたわ」


 ティーカップをテーブルの上に置くと、オティーリエはフラムに近づく。


「あの、ここは?」

「王城内の居住区、とでも呼べばいいのかしら」

「なんでそんなところに私が……王都にたどり着いた覚えも、無いんですけど」

「ですがわたくしのことは覚えている、と」

「はい。馬車に乗ってパトリアを離れて、そのすぐあとぐらい……オティーリエさんの名前を聞いたところまでは覚えていて……でも、そのあと、私……」


 片手で顔を覆い、記憶を辿るフラム。

 しかし、どんなに思い出そうとしても、オティーリエの名前を聞いた直後で途切れる。

 まるで眠ってしまったかのように。

 だが仮にそこで寝ていたとしても、パトリアから王都までは馬車で三日以上かかる。

 その間、ずっと意識を失っていたというのは妙な話だ。


「無理に思い出そうとしない方がいいでしょう、今はゆっくり休んでください」

「思い、出す? 私、何か忘れてるんですか?」

「……そういうことになります。色々と、辛いことがあったのですわ」


 それで、自ら記憶を閉ざしてしまったのだろうか。

 オティーリエの言葉以外に情報のないフラムは、そう考えるしかなかった。

 その後も彼女はいくつかの質問を投げかけた。

 しかし、わかった事実はそう多くない。

 どうやらオティーリエは誰かに口止めをされているようで、問いの全てに答えられるわけではないらしいのだ。

 とはいえ、収穫が無かったわけではない。


「そんなっ、あれから半年近くも経ってるんですか!?」

「ええ、信じがたいでしょうが」


 まるで未来に飛ばされたような気分だった。

 確かに言われてみれば、自分の体つきも、心なしか以前と違うような気もする。

 引き締まったというか、痩せたというか。

 それに――さっき顔を触ったときに気づいた、頬に何かが付いているような感触。

 せめて鏡だけでも見れたら、と部屋の中に視線をさまよわせるフラムに、オティーリエは、


「鏡なら、壁際の白い布がかかっているのがそうですわ」


 そう教えてくれた。

 フラムはベッドから抜け出すと、それに近づいて自分の顔を確認する。


「……え? な、なんで……」


 そこにあったのは、奴隷の印だった。

 なぜ、英雄として王都に呼ばれたはずの自分の顔にこんなものがついているのか。

 混乱するフラムは、指先でそれに触れながらその場で固まった。


『……い……ですね』


 だが不思議と、嫌な感じはしない。

 こんなものがついていれば、もう二度とまっとうな生活はできない――そんな代物なのに、なぜなのか。


「むしろ思い出さない方が幸せなのではないかしら」


 オティーリエは悲しげに言った。

 “それだけ悲しい出来事が起きたんだぞ”、とフラムに言い聞かせるように。


「消せるものなら、あなたが目を覚ます前に処置を施せたのですが……焼印の上から塗料を塗られていますので、魔法で取り除くのも難しいのですわ」

「焼印なんて……」


 つまり指でなぞるとかすかに感じる凹凸は、その名残らしい。

 恐ろしい話だ、きっとそのときの自分は、大声で泣き叫んだのだろう。

 確かにそんな記憶、思い出したくもない。

 痛みも、苦しみも、忘れたままの方が楽だ。


「あまり考え込まない方がよろしくてよ、そのための休養なのですから」

「そう、ですね」


 体はまだ本調子ではないのか、軽くめまいがする。

 だがなぜか、フラムは鏡の中の自分から目が離せなかった。

 何か、何か大事なものが、ここには無いような気がする。

 彼女の手は、何かを求めるように前髪を触る。


「あの、オティーリエさん。私、ヘアピンとか付けてませんでした?」

「……いえ、そのようなものはありませんでしてよ」


 オティーリエは、少し間を空けて答えた。

 元々、馬車に乗った時点ではそんなものは付けていなかったはず。

 正直、フラムもなぜ自分がそんなことを聞いたのかわからなかったので、不自然な空白に対して思うことは何も無い。

 今の彼女には、全て与えられる情報を鵜呑みにする以外の選択肢は無いのだ。

 副将軍という高い地位にいる人間が、フラムのようなちっぽけな庶民に、嘘をつく理由もないのだから。





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