検死3 救えなかった男

 





 振り上げられる巨大な腕。

 夜空を分断するように天高くそそり立つそれに向けて、ライナスは弓を引く。

 あれが様々な生物を接続、あるいは同化して作られた腕だとするなら、その数は無限ではないはず。

 どうせ本体を狙ったところで傷口がねじれ、まともにダメージは与えられないのだ。

 そしてフラムがいない今、コアの破壊も困難。

 ならばまずは堅実に、腕の弱体化を狙う。


「女が逃げたぞ、残念だったなヒューグ。二人いたら、壊れるまで一時間ぐらいは楽しめそうだったのに」


 貞操帯から解き放たれたヒューグは、もはや欲望を隠しもしない。

 フラムたちがいなくなったその苛立ちをぶつけるように、彼はライナスに向けて腕を叩きつける。

 ズオオオォオオンッ!

 大地を揺らし、地面をえぐり、地形を破壊する強烈な一撃。

 これがただ腕を振り回しただけで実現するというのだから、恐ろしい威力である。

 飛び上がって回避したライナスは、さらに風を身にまとい空中でもう一度ジャンプし、首を狙って飛来する魔力の刃をかわした。


「相変わらずわけわかんねえ攻撃だなッ!」


 騎士剣術キャバリエアーツ虐殺規則ジェノサイドアーツは、まだ理解できる。

 だが正義執行ジャスティスアーツは、バートの説明を聞いてもいまいち納得できないのだ。


 正義執行ジャスティスアーツとは、体内に存在するエネルギーである魔力を、魔法とは別の形で顕現させる技術のこと。

 そもそも魔法は、生まれながらに持つ属性のものしか扱うことが出来ない。

 さらに、自分の属性であっても、十分な魔力量と、体内の魔力を精密にコントロールし、そして己の望む形に変える集中力と想像力が必要である。

 余談ではあるが、発動時に魔法の名前を宣言するのは、その想像を手助けするための手法の一つだ。

 だが、正義執行ジャスティスアーツには属性など関係ない。

 魔力というエネルギーを、己の心や内面に応じた形に変え、武器を介して外に放出する。

 もっとも、魔法より習得が面倒な上に、魔法ほど自由自在に魔力を操ることが出来ないという欠点から、教会騎士団の人間ぐらいしか使っていない。

 結果、臆病さと勇敢さを兼ね備えたバートは障壁という形で力を顕現させ、『正義を執行するために悪を殺せばいい』とシンプルに考えるヒューグは、敵の首を執拗に狙う刃という形になったらしいが――


 やはり何度考えても、なぜヒューグがそのような結論に至ったのかが、全く理解できない。

 どうやら騎士団に入る前は繰り返し女性を襲っていたこと、そしてその後は貞操帯を身に着け、そのおかげで才能が開花したことが関連しているようだ。

 しかしまあ、ライナスにとってはどうでもいいことだし、思考のリソースを割くだけ無駄なのだが。


 首を狙った斬撃を回避したライナスは、空中を舞いながら矢を放つ。

 腕に命中すると、矢じりが風魔法によって炸裂し、その表面を削った。

 だがすぐに内側から新たなパーツが湧き出てきて、傷を埋める。

 その程度は予想の範疇だ、落ち着いて、次の一撃が来る前に、同じ場所を狙って射抜く。


「目障りだな、あいつ。ああそうだな、ヒューグ。でも――」


 ヒューグは地表を削り取るように全てを薙ぎ払う。

 迫りくる腐臭を放つ壁を前に、ライナスは高く飛び上がった。


「――男もたまには悪くないぞ、ヒューグ」

「勘弁してくれよっ!」


 頬を引きつらせながら、三本の矢を束ねて放つ。

 冗談には聞こえない、欲望が満たせれば誰でもアリなのか。


「そう思うと欲しいな、お前でもいい、誰でもいい、注げるのなら肉ならば」


 するとヒューグの腕が急速に、普通の人間の腕と同じサイズにまで縮んだ。

 そしてその先端が、まるで剣のように尖った形状に変形する。

 今までが機動性を犠牲にして威力に特化した形態だとしたら、これは――


「男だろうが女だろうが、内臓への挿入は等しく暖かくて気持ちいいらしいな、ヒューグ」


 高速移動形態とでも呼ぶべきだろうか。

 身軽になった体で、ライナスに接近するヒューグ。

 その速度は、普通の人間だった頃の彼を遥かに上回っている。

 スピードに自信のあるライナスですら焦ってしまうほどだ。


「速さでの戦いなら乗りたいところだが……今はんなことしてる場合じゃねえんだよ」


 彼のプライドはナイフでの戦いを望んだが、あんな化物と正面から撃ち合うなど正気ではない。

 心を切り捨て、時間稼ぎという役目に専念する。

 まずは後退しながら矢で足元を狙い、牽制。

 普通の矢と、炸裂、分裂を織り交ぜつつ、多彩な攻撃でとにかく近づかせない。

 ヒューグは幾度となく腕で空を切り、正義執行ジャスティスアーツによる首狩りを狙ったが、全てライナスに避けられてしまった。

 彼の強みは、通常の斬撃と首を狙った斬撃の同時攻撃だ。

 それは化物になった今でも変わらない。

 ゆえに正義執行ジャスティスアーツのみでの攻撃は、大した脅威ではなかった。

 もっとも、動きを阻害するばかりで、ライナスの攻撃も彼にまともなダメージを与えられていないし、彼自身もその欠点を把握しているはずなのだが。


「そろそろ来るか……?」


 つまり、何かしら現状を打破するための方法を、持っているということ。

 そして敵の外見と、オリジンコアを使っているということから推察するに、おそらくヒューグはあの腕から何かを出してくる。

 まるで答え合わせをするように、彼はライナスを追いかけながら腕を前にかざした。

 するとその一部が、ずるりと地面にこぼれ落ちる。


 それは様々な生物のパーツを組み合わせた、キマイラよりもさらにでたらめな生命体。

 前足は猿で、後ろ足は鳥。

 他の体も顔も何もかもが、モザイクアートのようにつぎはぎで作られている。

 そいつは器用に四本の足を使い、ライナスに接近した。


 ライナスは二本の矢をつがえ、一方でヒューグを、もう一方で産み落とされた怪物を狙う。

 無論、一人を狙ったときより威力も精度も落ちる。

 ヒューグは足元で爆ぜたそれを軽々と避けた。

 しかし怪物の方は、あっさりと粉々に砕け散る。

 耐久性は大したことないようだ。


「数で攻めてくるタイプか……」


 再び答え合わせ。

 ヒューグはまた腕を前にかざし、今度は十体ほどの怪物を産み落とした。

 速度もヒューグ本人より緩慢だが、このまま物量で押されれば、いずれ追い詰められる。


 ライナスが進んでいるのは、フラムが逃げたのとは別の方向だ。

 ヒューグは目の前に存在する敵に集中しているようで、あちらを追跡する様子はない。

 フラムが安全域まで離れるのに必要な時間は、あと二、三分と言ったところか。

 他のコアを取り込んだ人間の実力からしても、今のヒューグが全力を出し切っているとは考えにくかった。

 下手に藪蛇をつついて本気を出されるより、その前に逃げ切ってしまいたい――そう考えたライナスは、弓を降ろして彼に背中を向けた。

 そして全速力で、先にある木々の生い茂る山に向かって駆ける。


「私は自慰が嫌いだ、寂しいから。母は私を愛してはくれなかった、認知もされずに金にならないと嘆くばかりだったのさ。だから逃したくないんだよ。そこに穴があるから。だろう、ヒューグ」


 ヒューグも一段階ギアを上げ、腕を振り彼を追いかける。

 山に突入すると、ライナスは木々の間を抜け、時にその幹を蹴って加速しながら前進した。

 一方でヒューグは、立ちはだかる樹木を強引に腕で薙ぎ払い追いかけてくる。

 無論、腕を振るうたびにタイムラグが生じてしまう。

 その差が、二人の距離を徐々に離していった。


 確かにコアを取り込んだことで、ヒューグの身体能力は向上しただろう。

 しかし、どんなに肉体が強化されたところで、彼には高速戦闘の経験や慣れ・・がない。

 その差は、コアをもってしても埋められないものだ。

 子供の頃から、冒険者として王国の各地を渡り歩いてきたライナスは、あらゆる地形に対応した動き方を身に着けていた。

 たとえ一度も踏み入れたことのない森だったとしても、方法さえ心得ていれば、立ちはだかる木が進行の障害になることはない。

 むしろ相手の視界を妨げる遮蔽物として、有効活用できる。


「力があるからって、油断しすぎたな」


 得意の地形に誘い込んだライナスは、背後から接近するヒューグとは別の方向に矢を放った。

 するとそれはぐにゃりと曲がり、迂回して敵を射抜く。

 ヒューグは直前で反応し叩き落としたが、誘導弾は一射だけではない。


「煩わしい、どうして私に抗うのかがわからない。気持ちよくなりたいのは万物共通の願いだろう? なあ、ヒューグ」


 見えない場所から飛来する矢に、彼は苛立っていた。

 大したダメージはない、腕で振り払えばいいだけだ。

 しかし、耳元を飛び回る羽虫にストレスを感じない人間はいない。

 一刻も早く叩き潰して、そして溜まりに溜まった欲望を、その開いた傷口にぶちまけてしまいたい。

 彼は天高く腕を伸ばし、それをライナスがいると思われる方向に叩きつける。

 山が真っ二つに割れるかと思うほどの、重い一撃。

 さらにそのまま薙ぎ払い、目の前に立つ樹木を根こそぎ排除した。


「よく見える、私の犯したかった肉もあそこにいるよ、ヒューグ」


 高く跳躍したライナスは、まだ辛うじて無事な木の上に立ち、ヒューグを見下ろす。


「これで視界が晴れたって喜んでんのか? 滅茶苦茶やりすぎなんだよ、お前」


 そして呆れ顔でそう言い、複数の矢を天に放った。

 矢はある程度の高度まで上昇すると、くるりと方向を転換し下降を始める。

 さらに途中で弾け、複数の破片が雨となって降り注いだ。

 それらは地面に当たっただけでは止まらず、地中深くに埋まっていく。

 ズドドドドォッ!

 くぐもった爆発音が響いた。

 土に沈んだ破片が全て爆ぜたのだ。

 そして、ヒューグが木々を薙ぎ払ったことで緩んでいた地盤が、崩壊を始める。

 体の奥底に響くような地鳴りと、足元の揺れに、彼の動きが止まった。

 そして斜面は崩壊し、大量の土砂がちっぽけな人間を押しつぶしていく。

 急いで腕でガードするヒューグだったが、自然の脅威には敵わない。


「山を舐めるな、って騎士団の訓練で言われたはずだ。少なくとも俺は、先輩から耳が腐るほど言われてきたぞ」


 ライナスは巻き込まれぬよう、さらに山の上へ移動していた。

 すっかり土砂に飲み込まれ、ヒューグがしばらく身動きが取れなくなったことを確認すると、そそくさと撤退を始める。

 さすがにここから追いつかれることは無いだろう。

 もっとも、まだ死んだわけじゃない。

 いずれ安全な地域にも進出して、町を潰し虐殺して回るはずだ。

 その前に、どうにかしてトドメを刺す方法を考えなければ。


「ま、今は逃げるけどな。フラムちゃんたちがキマイラに襲われたりしてなけりゃいいけど――」




 ◇◇◇




 フラムを追って山を降りたライナス。

 おそらくこちらに逃げたはずだ、と当たりはつけていたが、なかなか見つからない。


「こんなことなら、待ち合わせ場所ぐらい決めとくんだったな」


 ライナスは頭をかきながらぼやいた。

 彼も、突然のヒューグの登場に焦っていたのだ。

 とはいえ、この暗闇の中、長時間の単独行動は避けたいところ。

 茂みを抜けて、町と町とを繋ぐ街道に出た彼は、足を止める。

 北と南へ続く比較的広い道は、魔力街灯で淡く照らされていた。

 そこで周囲を見回したライナスは――女性が一人、佇んでいるのを発見する。

 白いローブに、金色の髪の女。

 たとえ後ろ姿であっても、ライナスが彼女を見間違えるはずがなかった。


「マリアちゃんっ!」


 それは紛れもなく、ライナスの探していた本人である。

 マリアは彼の声を聞くと、ゆっくりと振り返る。

 ライナスは彼女に駆け寄り、手を握ると、無表情な仮面を見て無事を喜んだ。


「よかった、もう会えないかと思ったよ。怪我は無いか?」


 マリアからの返事はない。

 彼女はじっと、無言でライナスを見つめている。

 その雰囲気で、ライナスは彼女が自分との再会を歓迎していないことを察した。

 元々マリアは、オリジン側の人間だ。

 怪我などするはずがないのだ。

 だというのに心配そうに声を掛けるライナスの行動は、ひょっとすると白々しく写ったかもしれない。


「まだわたくしの心配をしてくれるのですか」


 マリアは悲しげに言う。

 数えきれないほどの罪を犯してきた自分を、なぜライナスは見捨ててくれないのか。

 そんな笑顔を、自分に向けてくれるのか。


「心配されたくないんなら、俺と一緒に来てくれよ」

「わかっているんですよね」

「何のことだ?」

「わたくしがここにいる理由です」


 ライナスは「はぁ」と肺に溜まった重苦しい空気を吐き出す。

 今までも目を背けてきたわけじゃない。

 微かに残っていた、“最良の可能性”を信じてきただけだ。

 だがいい加減に、“最悪の可能性”とも向き合わなければならないようだ。


「ヒューグの様子を見に来た、か?」


 これが偶然の出会いであるものか。

 その必要があったから、マリアはここにいたのだ。


「その通りです。コアを埋め込んだ彼が、ちゃんとフラムさんを追ってくれているのか、確認する必要がありましたので」

「困ったもんだな。あいつ化物になってもまだ好き勝手に暴れてやがったぞ」

「そのようですね」

「フラムちゃんは逃げた、ここにはいない」

「はい。せっかく見つけたのですが、また探さなければなりません」

「つまり暇ってわけだ」

「……やることはまだ残っています」

「そう言わずに、少しぐらい話に付き合ってくれよ」


 ヒューグにコアを与えたのが自分だと知りながらも、食い下がるライナス。

 マリアは何も言えなかった。


「俺、ずっと思ってたんだ。確かにマリアちゃんはコアを使ってる、そのせいで顔がそうなっちまった。でもさ、チルドレンって連中とは違って、コアを埋め込んだだけの人間ってのは、普通の心臓は残ってるんだよな?」


 チルドレンは、幼少期にコアと心臓を入れ替えられた子どもたちだった。

 つまり、後天的にコアを埋め込んだだけのエキドナやヒューグとは違う。

 普通の人間の要素を残しながら、オリジンの力を扱うものたちなのだ。


「だったら、コアを取り除けば、普通の人間に戻れるんじゃないか?」

「戻ったところで、どうするんです」

「可能性の否定はしないんだな」

「……確かに、コアを取り込んだだけの人間なら、取り除けば元には戻るでしょう。ただし、反動で体がボロボロになるとは思いますが」


 それも、近くに回復魔法を使える人間さえいれば克服できる。

 マリアの場合、自身がそれを使えるため、やろうと思えば一人でも体内からコアを排除できるはずであった。


「じゃあそうしよう、それで俺と一緒に遠くに逃げるんだ」


 手を差し伸べるライナス。

 もちろんマリアは、その手を取ったりはしない。


「体が戻っても、罪は消えません」

「罪なんざ全部背負ってる人間の方が少ないぐらいだ」

「わたくしは人殺しですよ?」

「冒険者なら誰だって、人間の一人や二人ぐらい殺したことはある」


 全員と言い切ると語弊があるが、それでもほとんど全ての冒険者が、人間とやりあったことがある。

 時に犯罪者を相手にしたり、同じモンスターを狙う冒険者同士で戦闘になったり――ライナスのようなSランク冒険者だと、嫉妬で命を狙われることもあった。


「……わたくしはつまらない人間です、途中で飽きるかもしれません」

「それはねえな。どんな場所でも、いつまででも、俺がマリアちゃんと一緒にいて飽きることなんてありえない。いつまでも添い遂げてみせるよ」


 ライナスは言ってから、ちょっとクサすぎるかなと羞恥した。

 だが、良くも悪くも、その言葉はマリアの心に響いたらしい。


「きっと、ライナスさんについていけば、わたくしは幸せになれるんでしょうね」

「ああ、それは保障する」


 彼は有言実行する男だ。

 特にマリアに関することで、嘘はつかない。


「だからこそ、わたくしはあなたの手を取れないのです」

「マリアちゃん……だから俺、そういうのは気にしないって」

「違うんです」


 マリアは喉元に人差し指を当てると、ぞぶりと体内に沈めた。


「お、おいっ!?」


 驚くライナスをよそに、彼女はまるでファスナーを降ろすように、指を下に降ろしていく。

 当然ローブの前は開き、素肌が晒されることとなる。

 普通ならば扇情的に見える姿だが、はだけた肌の中央に真っ直ぐ赤い一本線が入っているせいで、異様さの方が勝ってしまっていた。

 そして、へその下で指を止めると、マリアは両手の指を胸の裂け目に入れ、ジャケットでも脱ぐように、ぐちゅりと体内を見せつけた。


「ん……ふ」


 マリアは快楽でも感じているかのように、頬を赤らめ、色っぽい声を漏らす。


「どうですか、ライナスさん」


 そして扇情的に微笑んだ。


「……マリアちゃん、それは」


 ライナスの目に写る、捻れた体内。

 心臓らしき臓器が脈動していることは辛うじてわかるが、他の臓器はどれがどれなのか区別がつかない。

 配置も形もてんでバラバラで、そもそも本来は胸にあるはずの心臓だって、横腹に移動しているのだ。

 たとえコアを取り除いたとしても、彼女のその体が人間に戻ることはないだろう。

 むしろオリジンの力を失い、命を維持できなくなるかもしれない。


「わたくしはもう、コアを取り込んだだけの人間ではないのです。とっくに、人でなしの化物になっているんですよ」


 それは、ライナスの心をへし折るのには、十分すぎるインパクトがあった。

 絶句する彼を見て、マリアは寂しそうに微笑む。

 だが、『それでも諦めたくない』と言われるよりは、気が楽だった。


「さて、わたくしとしては、オリジン様の邪魔をするあなたを逃がすわけにはいきません」

「待ってくれ、俺はまだ……っ!」


 もう声は届かない。

 マリアの諦めもついた。

 あとは、残り少ない未練もろとも、全てを消してしまうだけだ。


「ここで、死んでもらいます」


 故郷を滅ぼされ、両親を殺された。

 その加害者である魔族を憎み、救ってくれた人類を愛した。

 しかし人類こそが、真の加害者であった。

 その事実を知った瞬間に、人間としてのマリア・アフェンジェンスはもう終わっている。

 費やした時間も、与えてきた慈愛や善意も、全てを踏みにじられた。

 恋心まで失えば、残るのはただただ純粋な、この世界に対する憎悪だけ。


「フォトンフューリー」


 彼女の背後に浮かび上がった無数の光の珠が、夜を照らす。

 そのうちの一つが街灯に接触すると、パチンと弾け周囲に存在するものを消失・・させた。

 人体でも、触れればその部位がえぐられたように消し飛ぶだろう。

 それは人の身では及ばぬ領域。

 人を捨て、完全なるオリジンの使徒と化した彼女の――




 --------------------


 マリoア・アフェ、、、゛ス


 朱ェ騾:光オ


 筋±?:18267

 炊サ・:48141

 fD好キ:19220

 敏捷:9802

 壊れた:41628


 --------------------




 ――紛れもない、本気の魔法である。


「マリアちゃん、もうどうにもならないのかよ!」


 ライナスはマリアから距離を取りつつも、諦めずに呼びかける。

 しかし、彼女は即座に否定した。


「はい、どうにもなりません」


 その諦観は、言葉程度では覆せない領域に達している。

 それでもライナスはさらに声をかけようとしたが、迫る魔法を回避するので精一杯で、そんな余裕はなかった。

 数百個にも及ぶ拳大の光の粒は、ゆっくりと彼の方に近づいたかと思うと――突如、急加速する。


「くっそおおぉおおおおッ!」


 ライナスは弓を構え、矢筒の残弾をありったけつかみ、一気に放つ。

 残弾など気にしている場合ではない。

 まずは今、生き残ることを考えなければ。

 放たれた矢は砕け、マリアの放った光とほぼ同数の、風の魔力を宿した破片に分かれる。

 確かに彼女の魔法の威力は相当なものだ。

 だが、それは対象がなんであれ、触れたら弾け消滅する・・・・機雷なのだとライナスは見抜いていた。

 つまり、何かが当たりさえすれば無力化できる。

 破片と衝突した魔力の塊は、白い輝きを放っては消えていく。

 その隙に、さらにマリアとの距離を取るライナス。

 しかし彼女は取り乱さず、冷静に再び手をかざす。


「フォトンフューリー・イリーガルフォーミュラ」


 先ほどよりもさらに多くの光の粒が作られ、ライナスの追尾を開始した。

 もう矢は残っていない。

 かといって、走って逃げ切るのは難しそうである。

 あとは、自力で避けきらなければならない。


 目を見開き、近づく弾幕の全ての大きさと距離、速度を見極める。

 そして、最短で全弾を回避できるルートを構築。

 完全回避は不可能と判断、だが一、二発を打ち消せば突破は可能。

 プランを決定、実行する――


 心臓を狙った初撃を横に回避。

 次は体を捻り、そこで飛びあがって後方宙返り、着地したらすぐに慣性を利用してバク転、そのまま後退。

 三度回転したら、腰を低く落として今度は前進。

 右足で跳躍、前に飛び込み、片手が地面に付いたら体のバネで跳ね上がる。

 空中に浮かんだ体を風の魔法でさらに高く押し上げ――ここで最初の回避不能地点が訪れる。

 ライナスはナイフを一本引き抜き、それを投げつけ相殺して光を消した。

 かなり上等な短剣だったのだが、命より高いものはない。


 着地してからもギリギリの攻防が続く。

 当たれば即死という極限状態に、わずか一秒にも満たない間が永遠のように感じられた。

 と言っても、いくつかの粒は体を掠めている。

 そのせいで服はボロボロで、生じた切り傷から少なくはない血が流れ出していた。

 鋭い痛みに顔をしかめながらも、集中は途切れさせない。

 そして、気合と奇跡と執念が――彼にその窮地の脱出を成功させた。


「ふうぅ……」


 どうにか生き残り、息を吐き出すライナス。


「往生際が悪いですよ、ライナスさん」

「諦めるつもりはねえ!」


 強く言い放った。

 先程は戸惑い、怖気づいてしまったが、内臓が捻れているからなんだと言うのだ。

 マリアを愛すのに、そんなものはあまりに些細な問題である。


「どうせ無駄だというのに……あなたも、そう思いますよね?」


 マリアはライナスの背後にいる誰か・・に向けてそう言った。

 殺気を感じ振り向いた彼に、紅刃の大剣が襲いかかる。


「何っ!?」


 ヒューグ以外の味方がいたことはもちろん、その人物の正体自体もライナスにとっては予想外だった。

 残る一本の短剣を抜き受け止めるも、太刀打ちできない。

 意識が吹き飛ぶほどの衝撃が彼の全身に叩きつけられる。


「がぁっ……!」


 ライナスの体はいとも簡単に吹き飛ばされ、そのまま石畳の上に転がった。

 仰向けに倒れる彼に、マリアはゆっくりと近づいていく。


「づ、う……それは……ダメだろ。マリアちゃん……っぐ……それだけは、やっちゃいけねえよ……!」


 無表情に見下ろす仮面に向けて、ライナスは憤った。

 それは彼がマリアに対して抱く、初めての怒りである。

 それほどまでに、彼女の連れてきたその仲間・・は、冒涜的だったのだ。


「頼む……これ以上、人間の……尊厳を、踏みにじらないでくれ……!」

「関係ないですね。言ったではないですか、わたくしはもう、人でなしなのだと」


 マリアの中の真っ当な感覚は、それを『間違いだ』と諌める。

 だから正しかった。

 清廉潔白な聖女として生きてきた価値観、その真逆こそが、今の彼女がやるべきことなのだ。

 そうやって自分を追い詰めて、後戻り出来ない場所までやってきた。

 そしてまた、今日も――


「ジャッジメント」


 彼女は、過ちを犯す。


「ぐ……ぁ……」


 倒れたライナスの体を貫く、光の剣。

 地面に磔にされ、主要臓器を破壊され、口からは「ごぼっ」と唾液と混ざりあった血液が大量に溢れ出る。

 彼は虚ろな瞳でマリアを見ながら、手を伸ばした。

 だが、その手が彼女に触れることはない。


「さようなら、ライナスさん」


 マリアはそう言い放ち、さらに心の中でこう続ける。


『わたくし、あなたのことが大好きでした』


 だから殺した。

 自らの手で、迷いを完全に断ち切るために。

 そして背中を向け、彼と共にその場を離れていく。

 遠ざかっていく足音を聞きながら、ライナスの心は無力感に満たされていった。


「マリア、ちゃ……おれ、は……」


 彼は薄れゆく意識の中で、うわ言のように繰り返す。




 ◇◇◇




 とても悲しいお知らせがあります。

 人が死にました。

 名前は、ライナス・レディアンツ。

 死因は、信じていたのに滑稽にも殺されたことです。

 享年二十四歳。

 らしいですね、どこまでもつまらない人生でした。

 虚しいですね。

 喜劇は笑いましょう。


『あはははははははっ』

『はははははっ』

『ひひひっ、ふふふふふっ』

『うっひゃひゃひゃひゃひゃひゃ』


 楽しい死に方でした。

 ご冥福をお祈りしま――




 ◇◇◇




 マリアの足音が聞こえなくなってから、どれぐらい経っただろうか。

 ライナス・レディアンツは、類まれなる生命力の持ち主であった。

 そう、彼女が立ち去ってもなお、その命の灯火は、辛うじて消えていなかったのである。


「……あ、ぁ。そ……か」


 生きている限り、彼は諦めない。

 自身でも呆れるほどひたむきにマリアのことを想う。

 なぜそこまで彼女に惚れたのか、彼は自分でもわからなかった。

 元々、ライナスは女癖が悪い方だ。

 それに惚れっぽい。

 最初は一目惚れで、『いつものあれだな』程度にしか思っておらず、旅の間だけでも楽しめればいいと考えていた。

 それが今では、他の女なんて考えられないほど、夢中になっている。


「はっ……ぐぶっ……おま、え……っぱ、天才……だわ……」


 口から泡立った赤い体液を吐き出しつつ、独り言をつぶやく。

 思い出すのは、マリアの姿……ではなく、何かとお騒がせな、ムカつく野郎の面だ。


「……ってたんだな……こう、なる、こと……も」


 体は死んでも、意志は死なず。

 最後の力を振り絞って、上着の懐に手を潜り込ませる。

 指先が、冷たく固い水晶に触れる。


「だか、ら……俺に、これ……を……」


 彼の口元は笑っていた。

 預言者めいた、友……と呼ぶべきなのかもわからない、とある男の言葉を思い出して――





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