EX9-3 Resurrection D

 



 翌日、私は普通に学校に行って、普通に地獄のような時間を過ごした。

 ■■は相変わらず絡んでくるし、静留は変わらない。

 ああ、でも変わらないだけでも安心できる。

 今日はまだ、何も失われていないから。

 けれどそれは、私が気づいていないだけかもしれない。

 だから私は、都合の悪い現実から目を背けるように、ホームルームが終わると早々に教室を出た。

 少し前なら、私の背中を見て静留が慌てて追いかけてきたものだけれど、今は止める人間は誰もいない。




 ◇◇◇




「ハッキングを受けたぁ?」


 ダイバーズベースに来た私は、さっそく陸に昨日のことを相談した。

 気づかないうちに端末に送り込まれていた、一通のメッセージ。

 それを携帯端末に転送したものと、昨晩の通信ログを彼女に見せる。


「確かに、外部からアクセスされた形跡は残ってねえな」


 陸は、なぜか室内なのにサングラスを付けている。

 それをわざわざ下にずらして、画面を睨みつけた。

 付けていない日もあるので、明かりが眩しいとかではなく、単純にファッションとして身につけているらしい。

 ショッキングピンクでパツパツなボトムといい、私にはちょっと……いや、かなり理解できないセンスをしている。


「ファイルそのものにも細工が施された形跡は残ってねえ、と」

「私もできる限り調べてみたけどお手上げだった」

「ダイバーとしてならともかく、クラッカーとしての腕はあたしより結のが上だ。お前でお手上げなら、あたしにはどうしようもないな」

「やっぱそうなるよね」


 私だって、知識と腕には自信がある。

 一応、それで食ってるんだしさ。

 だからこそ悔しかった。

 犯人がどんなトリックを使って、私の端末にこのファイルを送り込んだのか、さっぱりわからないんだから。


「思い当たる可能性があるとすれば……直接忍び込んだ、とかだな」

「どんなにセキュリティを強化しても、物理的な干渉には逆らえない、か。でも私だって、その辺は気を使ってるって。部屋に勝手に入れるのだって、おに……兄ぐらいだし。あの人はわきまえてるから、そんなことしないしさ」

「兄、ねえ……」


 陸は私の兄の名前すら知らない。

 いちいち相手の家庭環境に踏み込むような関係ではないのだ。

 適度にドライで――ダイバーズベースにやってくる人間なんて訳ありばっかりなんだから、それぐらいの距離があったほうがちょうどいい。


「ところで陸、さっき何を見てたの? 私が来たとき、自分の端末をじっと睨んでたけど」


 私はテーブルに置かれた陸の端末を覗き込んだ。

 映し出された動画は――ニュース番組、だろうか。


「ああ、ダイバー関連の話題があったから見てたんだよ」

「ニュースで? もしかして……」

「心配すんな、ここのことじゃねえ。ネットでも行方不明者の話は噂にすらなってなかった。このニュースでは、それ以前に発生したダイバー関連の不可解な事件を、アレン事件と絡めての検証してる」

「ふぅん」


 どうせ素人がやることだから、と興味はなかった。

 まだ噂の段階でしかない、“下位世界に殺されたダイバー”の件を掴んでるのは驚きだけど、こんなアングラな世界のネタ、主要メディアが扱いきれるわけがない。

 もちろん陸だってそう思っているのだろうけれど、同時に彼女がそれを見てしまう気持ちもわかる。

 昨日、あんなことがあったばかりだ。

 不安なのだろう。


『本日は、ダイバーに詳しい専門家に来ていただいております。日向ひなた千草ちぐささんです。どうぞよろしくお願いします』

『あなたのような美しいアナウンサーさんのいる番組に来られて光栄です。よろしくお願いしますね』


 番組では、私とそう変わらない年齢の、やけに妖艶な少女が“下位世界”について語っていた。


「陸、もしかしてその子に惚れた?」

「ちげえよ。ただ珍しいと思っただけだ」

「確かに。その子も、もしかしたらどっかのダイバーなのかも」

「だとしたら、よく見つけてきたと思うし、この子もよく受けたもんだ。警察に目を付けられるかもしれねえってのに」


 ダイバーにとって、表舞台に顔を出すことは何のメリットもない。

 なのにわざわざ目立つような真似をするなんて、馬鹿のやることだ。

 見た目はそういう自己顕示欲の塊みたいには見えないけどな。


「ま、どうせ大した情報なんてなかったんでしょ?」

「特集組んでるだけで大したもんだろ、あたしらだって噂しか知らねえんだから」

「だとしても、核心に迫れないんなら意味なんてない。早くダイヴしようよ。私、うずうずしてるんだ」

「まさか、直接確かめようとか思ってるわけじゃねえよな?」

「ダイバーに犠牲者が出たといっても、まだほんの数人ぐらいでしょ? 数百人のうちの数人。それに今日、私が、偶然遭遇すると思う?」

「他の連中も同じように考えてただろうさ……ったく」


 私は陸から離れ、チェアに深く腰掛けると、ヘッドセットを手にとり被った。

 彼女は大きくため息をつくが、止めはしない。

 オペレーター用の端末の前に椅子ごと移動し、しぶしぶヘッドセットを被る

 陸のものは、下位世界にダイヴした私をサポートするためのものなので、ヘッドフォンにマイクが付いただけの簡素なものだった。


「今日のダイヴ候補世界は五つ。一応、それなりに生命反応が確認できた世界だけをピックアップしてる」

「いつもありがとね、陸」

「ここで礼を言われんのは複雑な心境だな」


 私の場合は、常に陸のサポートを受けてダイヴしているけれど、他のダイバーたちは一人で勝手に潜ることが多い。

 別にビビってるわけじゃないんだけど、ほら、ゲームって他の人と話しながらやったほうが面白いじゃん?

 個人差はあるかもしれないけど、私はそう思ったから、こういう形式を取ってる。


「例のごとく、どこに向かうかは結に任せる。ポイントの詳細なデータについては――」

「二番目のとこ!」


 私は陸の説明を遮りそう言った。

 一応、目の前にある画面には様々な数値が並んでいるのだけれど、そこに興味はない。


「……そうなると思ってたが。はぁ、二番目か」

「何か問題でもあるの? そういや陸、毎回私が選ぶたびにそういう反応するよね」

「少し、不気味だと思ってな」

「不気味ぃ? 私が?」

「結っつうか、結が選ぶ下位世界の基準だ。お前、毎回座標も見ずに、私がピックアップした中から適当に選んでるだろ?」


 下位世界は、まるで宇宙に浮かぶ惑星のように、空間に点在している。

 ワールドクリエイションによって作り出された世界も同様だ。

 作られた世界は、最初からこの世界と紐付けされているため、行き来が容易い。

 一方ですでに存在していた・・・・・・・・・世界は、通路パスを繋ぐ必要があるため、詳細な座標が必要である。

 陸が言っている座標っていうのは、そういうものなのだ。


「それがどーかしたの?」

「法則がある」

「私が選ぶ世界に?」

「そうだ。今日まで何度も試してみてわかったが、陸は座標を見てもいないのに、ある一点を目指して世界を選んでいる」

「偶然じゃないの?」

「それならいいんだ。でも不気味は不気味だろ? 呼ばれているにしろ、向かっているにしろ、何か見えない力が働いてるみたいでさ」

「だったら、行ってみればわかることだって」

「結……」

「ほら陸、早く準備する」

「わかったよ。ただし、あたしが戻れって言ったらすぐに戻れよ。約束だかんな」

「指切りでもする?」

「茶化しやがって。あたしは警告したからな、ちゃんと言うこと聞けよ?」

「ふふっ、はーい」


 ふてくされる陸を見て私は小刻みに肩を震わせ笑った。

 そして端末を操作し、ダイヴを開始する。

 処理が始まると、頭の中から“私”という存在が引き抜かれる、ぞわぞわとした感覚が全身を包んだ。

 まるで根っこでも引っ込まれるようなこのこそばゆさには、何度やっても慣れない。

 中には、これが癖になる人もいるらしいけど――まあ、でも今の私には少しだけ分かる。

 たぶんその人たちは、少なからず破滅願望を抱いているんだ。

 だから、自分が消えていく感覚に悦びを覚える。

 そして私も――




 ◇◇◇




 ダイヴが完了する。

 “精神体”として下位世界に降り立った私は、ゆっくりと瞳を開いた。

 そこにあったのは――“白”。

 ただただ白い、しかし眩しいわけでもなく、逆に暗いわけでもない。

 何一つとして存在しない、無の世界だった。


「陸ー、聞こえてるぅ?」

『ああ、聞こえてるよ結』

「ここ、ハズレ。生命反応あるって言ってたけど、完全に終わってんじゃん」


 こういう“完全に終わった世界”は、たまに観測される。

 いや、終わった世界っていう言い方は間違ってるのかも。

 最初から始まってないかもしれないし、これから始まるのかもしれない。

 とはいえ、少なからず現在私がダイヴしたことで、得るものはなにもない世界であることに違いはない。


『おかしいな、結構な量の生命反応があったはずなんだが』

「仮にそんなものがあったとして、この何もない世界じゃ生きてけないんじゃない?」


 ひとまず足場はあるみたいだから、ゆっくりと歩きながら周囲を見渡す。

 もちろんただ真っ白なだけだから、代わり映えするわけでもなく、じきに“自分が歩いている”という感覚すら希薄になっていく。


『もう戻るか?』

「うん、そうしよっか……な……」

『どうした?』


 ふと、私は足を止めて、とある方向を見つめた。

 小さく――豆粒よりも小さいが――“白”の中に、何だか違うものが転がっている気がする。

 いや、気がするではなく、間違いなく、何かがそこにある。

 白しかない世界だからこそよくわかる。


「オブジェクトはっけーん」

『マジか……気をつけろよ、結。そんな世界に存在してる生命なんて碌なもんじゃない』

「平気だって、触ったって死ぬものでもないし」

『死ぬかもしれないから警告してるんだろうが』

「あははは、わかった。できるだけ気をつけまーす」


 気の抜けた私の言葉に、陸は呆れてため息をついた。

 とはいえ、私だって目の前で人が死んだところを見たんだ。

 “そんなことありえない”と言い切れるほど能天気じゃない。

 だから、今のはわざと茶化した。

 私が私であるために。


 “異物”は近づいてくる。

 ここまで接近すると、それが赤いことがわかった。

 だが、それ以外の情報が何も得られない。


 さらに近づく。

 やはり、赤い。

 そしてそれ以外の情報が見当たらない。


 さらにさらに近づく。

 赤かった。

 結局のところ、どれだけ距離を縮めたところで、それ以外の情報はなかった。

 何だかよくわからない、赤い肉片のようなものが、ビクビクと震えながらのたうち回っている。


「何、これ」

『何だこりゃ』


 私と陸は同時に同じ反応をした。

 そう言うしかなかった。


「管で、人の内臓みたいなものが繋がってはいるけど……」


 人間の成れの果てとでもいうのだろうか。

 私は興味本位で“それ”に手を伸ばした。

 全くの無意識だった。

 強いて言えば、なぜだかわからないが、胸に“懐かしさ”が満ちて触りたくなってしまって――


『お、おいやめろっ! それに触るんじゃないッ!』


 陸のとっさの呼びかけにも反応できず、指先が、肉片に触れた。


 バチンッ!


 ショートでもしたみたいに接点が閃光して、激しく音が鳴って。


「うわっと!?」


 私の手は、生じた衝撃で吹き飛ばされ、私自身の体も軽くよろめいた。

 弾かれた精神体の手を見ると、まるでスライムのようにどろりと溶けている。


「うーわ、気持ち悪。ねえ陸、これ何だったの?」


 私は特に事態を重く見ることもなく、何気なく陸に問いかけた。

 だが彼女にとっては、それは非常事態だったようで。


『早く戻ってこいこの馬鹿ぁッ!』


 ガラの悪さ前回の怒鳴り声が耳元に響き、私は思わずその場で飛び上がった。


「ひぃっ!? どうしたの陸、いきなりそんなに怒ったりしてっ」

『触るなって言っただろうが! いいから早く戻れ!』

「いや、まだこの肉片を調べたいんだけど……」

『戻れって言ってんだよ! 場合によっては強制引き上げも辞さないからな!』

「げっ、そこまで!?」


 強制引き上げ――それは文字通り、ダイヴした人間を強制的に元の世界に戻す手段だ。

 下位世界から元に戻れなくなってしまった、などの不慮の事故に備えて付けられた機能だが、基本的に使われることはない。

 なぜならば、あまりに強引な方法なので、もし失敗したら、二度と元の世界に精神体が戻れなくなる可能性があるからだ。

 ワールドクリエイションが公式にサポートしている世界なら、それでも戻す方法はあるが、私たちダイバーが勝手に潜っている下位世界では戻す手段がない。


「わかったよぉ――ダイヴ解除」


 陸のあまりの怒りっぷり――もとい取り乱しっぷりに焦った私は、すぐさまその世界から脱出した。




 ◇◇◇




 そして、元の世界に戻ってきた私は、


「ただい……ま、はううぅっ!?」


 右手に強烈な痛みを感じ、思わず椅子の上でのけぞった。


「な、なに……これ……っ」


 私の右手は、ぐずぐずにただれていた。

 皮は剥がれ、肉は溶け、一部は骨がむき出しになってしまっている。

 今もなお“ジュウジュウ”という音を立てながら、不快な臭いを纏った煙もあがっていた。


「じっとしてろ、とりあえず包帯巻いとくから。あともう病院には連絡してる、ダイバーズベースから出てすぐのところにじきに来るはずだ」


 陸はベースの奥から引っ張り出した救急箱を運んできたものの、どこから手を付けていいか悩んでいるようだ。

 包帯でぐるぐる巻きにするのが正しいのかもわからないほど、ひどい有様だった。

 じくじくと、熱を伴った苦痛が、私の全身を震わせる。


「あ……ううぅ……」


 傷は右手だけのはずなのに、右腕全体が痛むような気がする。

 さっと血の気が引いて、心臓が高鳴り、全身をじっとりと冷や汗が濡らしている。

 必死で歯を食いしばるけれど、これっぽっちも痛みが引く様子はなかった。


「く、あ、は……」

「立てるか?」

「が、がんば、る……っ」


 私は陸の肩を借りて、ダイバーズベースを出ていく。

 ガラクタだらけの部屋を、足を引きずりながら歩きつつ、彼女に何が起きたのかを聞いた。


「あの肉片は、他の世界と同じぐらいのエネルギーを内包してたんだ」

「あれに、そんなエネルギーが……でもっ、ううぅ……っ」

「下位世界の存在なのに、上位世界に干渉できるわけがない、って?」


 それだけじゃない。

 下位世界に潜るのが“精神体”と呼ばれるものならば、それがどうなろうと、肉体に損傷が生じるわけがないのだ。


「あたしにだってわかんねえよ。でも、見たまんまが現実と思うしかないだろ。昨日の件も含めてな」


 見たまま――“口”に喰われた男性と、私の焼けただれた右手。

 どれだけ首を振って否定しても、突きつけられる。

 たくさんのものが奪われて。

 たくさん傷つけられて。

 だったらせめて、“上に立つ”ことぐらいは許してほしいのに――ああ、なんで、“下位”世界なんて呼ばれる代物ですら、私の思い通りになってくれないんだろう。




 ◇◇◇




 私は救急車に乗せられ、病院に向かった。

 すぐさま再生治療が施され、右手は元の形に戻ったものの、念のため一日は入院することになった。

 医者にはもちろん怪我の原因を聞かれたけど、適当に『薬品が手にかかった』と説明しておいた。

 むしろ、『ダイヴした下位世界の影響で怪我しました』なんて言ったら、頭の病気を疑われるところだったろうから。

 けれど、病院が連絡してすぐさま駆けつけた、“私の家族”はそう甘くない。


「……ダイヴが原因なんだね?」


 お兄ちゃんは珍しく、本当に珍しく――険しい表情で私にそう尋ねた。

 ダイバーをやっていること自体は、お兄ちゃんには話している。

 陸が見ていたニュースでやってたぐらいだし、ダイヴに生じつつある危険性をお兄ちゃんが知っていてもおかしくはない。

 基本的にお兄ちゃんはシスコンだから、私が危ないことをしていると知ったら怒ると思う。

 そして今の私は、誤魔化せる状況じゃない。

 そう判断した私は、目を背けながらも、ゆっくりと首を縦に振った。

 するとお兄ちゃんは大きく息を吐く。

 かと思うと、優しくもどこか悲しげな笑みを浮かべ、私の額を撫でた。


「心配したんだよぉ? 結が大怪我したって連絡があったから」

「ごめん……」

「でも、無事でなによりだよぉ。もう痛くないの?」

「うん、治療はすぐに終わったから。明日はすぐに帰れると思う」

「じゃあ病室に泊まってくね」

「いい」

「泊まらせてよ。妹が入院してる状況じゃ、不安で一人じゃいられないって」


 いい年した大学生が――そう思ったけど、今の私はそんな偉いことを言える立場じゃないから。

 頷きはしなかったけど、無言でそれを許可した。

 しかし、もっとこっぴどく怒られると思ったんだけどな。

 本当にお兄ちゃんは私に甘い。


「結を連れてきてくれたお友達には、お礼を言わないとね」

「……陸はどこに?」

「もう帰ったよ。少しだけ話したけど」

「そっか……」


 陸にも心配かけちゃったな。

 ……はぁ。

 何ていうか、さすがに自分が当事者になると、もう強がったりもできないんだね。

 下位世界下位世界って見下してきたものに、こんな目に合わされて。

 結局、現実からは逃げられないんだ。


「止めたのに、触ったんだってねぇ」

「陸、どこまで話したの?」

「曖昧だけど、そんなこと言ってたよぉ」

「直前だったから止まらなかったの」

「本当に?」

「私のこと疑うの?」

「いつもは疑いたくないけどぉ、今の結、とっても不安定に見えるからさぁ」


 そう言って、再び頭を撫でるお兄ちゃん。

 昔からよくこうしてもらっていた。

 ずるい。アンフェアだ。

 こういうことされると、嘘なんてつけなくなるから。


「止めようと思えば……止められたのかもしれない」

「やっぱり」


 陸の声は、聞こえていた。

 触る直前に。

 でも私は、むしろその陸の言葉を聞いて……口の端をぐにってあげて、気持ち悪く笑ってた。

 “これは危険なものなんだ”と思うと、それに触れられることが、嬉しくて嬉しくてしょうがなくて。


「……私、自暴自棄になってた」

「みたいだねぇ」

「意地になってた。構ってほしかった。心配をかけてかった。破滅してしまえば、静留も私のほうを見てくれるんじゃないかと思った」

「なるほど、クラッカーなんて危険なことやってたのも、静留ちゃんの気を引くためだったわけだ」

「そう、かもしれない」


 自分でもめんどくさいやつだと思う。

 けど昔から、私が危ないことをやると、静留はそれとなく気にかけて、怒ってくれて。

 そして危ないことをした分だけ、得られるものもあって。

 その成果物を笑うと、私の危険な行為を諌めながらも、喜んでくれたりして。


「もうやめなよ。友達も心配してたよぉ? もちろん僕だって」

「……」

「それでもまだ、続けたい理由がある?」

「……結局、目的は果たせてないから」

「静留ちゃん、か」


 それは中毒みたいなもので、たぶん私の心が静留で満たされるまでやめられない。

 やめてしまえば、待っているのは、残酷な現実だから。

 現実逃避と言われてしまえばそれまで。

 それまでだけど――現実があまりに辛いのなら、逃避するのだって悪いことじゃないだと思う。


「ねえ結、もう少し僕のことを信用してくれてもいいんじゃないかなぁ。これでも、血のつながってお兄ちゃんなんだから」


 お兄ちゃんは悲しそうに言った。

 私は相変わらず目を合わせずに答える。


「信用、してるよ」

「いーや、してない。静留ちゃんのことだけど、明らかに様子がおかしいよねぇ。どうして黙ってるのかなぁ」


 お兄ちゃんのその言葉に、私は少し驚いた。


「どうしてそのことを……」

「気づくってぇ、僕だって付き合い長いんだから」


 確かに、付き合いの歴だけいえば、私と同じぐらいはある。

 もちろん一緒に過ごした時間は私のほうが長いけど。

 それでも、“幼馴染”と呼べる程度には深い仲だから、私の知らないところで連絡を取り合っていても、おかしくはない。


「どーも静留ちゃんは、僕らの母親のことを忘れちゃってるみたいだ。あのときは、一緒に涙まで流してくれたのにねぇ」


 お兄ちゃんは、たった一言で核心を突いた。

 その言葉に、私はほっとしていた。

 気のせいだったらどうしよう。

 私の思い込みだったらどうしよう。

 あまりに非現実的な出来事すぎて、自分の認識すら信じられなくなっていたから。


「……そんなこと、ありえるのかと思った」

「僕もありえないとは思うけどぉ、実際にあってるんなら、それが現実なんだよ」


 陸と似たようなことを言ってる。

 でも、そう考えるしかないよね。

 どんなに理屈が通っていなかったとしても、この世界において、解明できている現象のほうが少ないぐらいなんだから。

 “知っている”とうぬぼれちゃいけないんだ。


「原因とか調べてる?」

「うん。静留につきまとってる、気持ちの悪いあの男だと思う」

「アンドロイドの■■だっけ」


 その言い方からして、どうもお兄ちゃんもあの男の存在は知っているみたいだ。

 まあ、うちの学校ではすごい人気ものみたいだしね。


「あいつは元々、女性向けの恋愛ゲームのNPCだったらしいんだ。当時はとても人気が高くて、沢山の女性たちが彼の虜になっていった。でもそれは、AIに搭載された“暗示能力”によるものだった」

「何のために暗示能力なんて……」

「宗教団体の勧誘のためだったらしいよ」

「じゃあ、静留ちゃんの記憶も、その暗示のせいで消えちゃったってことぉ?」

「私はそう考えてる。ネットを探っても、不自然なぐらい記事は出てこなかったから、詳しくはわかんなかったけど……」

「そっかぁ……その力を、アンドロイドになった今でも持ち続けてるってことなんだね……」


 顎に手を当て、「うーん」とうなるお兄ちゃん。

 気持ちはわかる。

 たぶん私が引っかかっているのも、お兄ちゃんと同じ部分だから。


「でもおかしくないかなぁ。初期アンドロイドである、あのルトリー・シメイラクスだって、かつてゲームのNPCだった頃は特殊な力を使えていたんだよねぇ。でも当然、この世界では同じ力を使うことはできない」


 そう、それが最大の問題だった。

 どうしてあいつは、私たちの世界でもVRMMOの中と同じように力が使えるのか。


「説明がつかないから、誰にも信用されないと思った。だから、言えなかったの。ましてや私が静留のこと好きだってわかったら、嫉妬に狂っておかしなことを言い出したやつだと思われるだろうし」

「僕は思わないよ」

「お兄ちゃんが思わなくたってっ! お兄ちゃんが思わなくたって……その……別に、お兄ちゃんが悪いわけじゃなくて」

「わかってるよぉ。一人で悩んで、どうしようもなかったんだねぇ」


 あくまでお兄ちゃんは怒らない。

 むしろ頭を撫でて慰めようとしてくれる。

 話してる私のほうが申し訳なくなるぐらいに。


「せっかく四人で一緒にいられるのに、うまくいかないもんだなぁ」

「四人?」

「いや、何でもないよぉ」


 お兄ちゃんはたまに、よくわからないことを言う。

 向けられる穏やかな笑顔で、胸に抱いた疑問はすぐに消えてしまうけれど。


「とりあえず、まずはアンドロイドに詳しい人に相談してみよっかぁ」

「知り合い、いるんだ。さすが大学生」

「いるっていうか……明日、うちの大学に講義に来るんだよねぇ」

「誰が?」

「ルトリー・シメイラクス」


 その名を口にして、お兄ちゃんは少し自慢気に笑った。




 ◇◇◇




 私は高校をサボり、お兄ちゃんと一緒に大学へ向かった。

 アポイントメントなんて取れないから、ダメ元で講義を終えたあとの本人に直接頼み込む。

 もちろん警備の人に止められたし、スケジュールの問題で、ルトリー自身も最初は悩んでいたけれど、


「■■というアンドロイドについての話なんですよぉ」


 お兄ちゃんがその名前を出すと、彼女の目の色が一瞬で変わった。

 ルトリーは追い返そうとする警備員を制し、これまでの対応と一転し、私たちと話す時間を作ると明言。

 すぐに応接室に案内され、短い時間ながら、誰もいない場所で彼女と話すことができた。


「彼についてだけど……率直に言うと、私たちにはどうにもできない」


 そしてルトリーは、最初にそう言い切った。

 もちろん納得できるわけがない。


「何で? あんたたち、協会の中でも偉いんじゃないの!?」

「偉いといっても、肩書だけだから」

「桐生美奈子や山瀬美香は? アンドロイド研究の第一人者である彼女たちならどうにかできるんじゃない?」


 椅子から立ち上がってまくしたてるも、ルトリーの反応はいまいちだ。


「今は二人とも、まともに研究すらできてない状態なの」

「どういうことか、聞いてもいいかなぁ?」


 そう言って、お兄ちゃんは私に目配せをした。

 落ち着け――そう言いたいのだろう。

 私は逸る気持ちをぐっと抑えて、再び椅子に腰掛けた。

 ルトリーは目を細め、険しい表情で語りだす。


「今の協会は暴走してる。アンドロイドの地位向上のためっていうけど、ろくに調べもせずに見境なくAIをネットの海から引き上げて、アンドロイドに搭載してる。しかも、そのアンドロイドですら協会を信用してない体たらくなんだもん」

「いつから、そんな状態になってるの?」

「一年ぐらい前、かな。それ以前は、私たちもそれなりに良好な関係を築いてたんだけど、少しずつ協会はおかしくなっていって……」

「もしかして、それに■■も関係してるってことかなぁ?」

「私たちはそう考えて、対策も練ってるんだけど……」


 うまくいっていない。

 聞くまでもなく、表情がそう語っていた。


「彼と話すと、なぜか誰もが彼のことを信じてしまう。アンドロイドを除いてね。でも私たちは人間の社会の中で、人間の助けがなきゃいきていけない。どれだけアンドロイドが『あれはおかしい』って叫んでも、周囲の人間たちがみんな信じてるなら、どうしようもないの」


 その苦悩は、私が抱いているものと、とてもよく似ていた。

 アンドロイドとシンパシーなんて嫌だけど、感じてしまった以上はどうしようもない。


「今や私たちは彼に近づくことすらできないし、もちろん調べることだってできない。でも、近づかなければハイドラやテニアには危害はないから、放置するしかない……っていうのが現状かな。ごめんね、役に立てなくて」


 申し訳無さそうにルトリーは言った。

 正直、私はぜんぜん納得できないけど――一方で、彼女にあたったってしょうがないことも理解している。

 ハイドラやテニアというのは、ルトリーの伴侶だ。

 彼女も彼女なりに、大切なものを守ろうとしているのだろう。

 だから、今は拳を握り、唇を噛んで、どうにかぐっと感情を抑えた。




 ◇◇◇




 ルトリーとの話を終えた私たちは、キャンパスの廊下を歩く。


「困ったなぁ……」


 お兄ちゃんはそう言って頭を掻いた。

 まったくもって私も同じ気分だった。


「まずい状況ってことばっかりわかって、対策が浮かばないねぇ」

「私があいつを破壊する」

「それじゃあダメだよぉ。結が無事じゃ済まないじゃないかぁ」

「それでも構わない。ルトリーの話で、あいつが変な力を持ってるのは確定したんだから」

「でもさぁ、僕はてっきり女性だけしかかからない暗示だと思ってたけど、協会が牛耳られてるってことは男性もかかるってことだよねぇ? 僕らが想像している以上に、■■はがっちり自分の足場を固めてると思うなぁ」

「だからこそ、実力行使に出るしかないと思う」

「そこは一番に対策するところだと思うよぉ?」


 仮に対策していたとしても、人は突発的な殺意に対応できないことが多い。

 どれだけあいつを守る人間がいようが、隙はある。

 あとは、始末したあとに暗示の証拠を見つけて突きつければいいだけだ。


「それにさぁ、仮に■■を破壊したとしてもぉ、暗示が解けるとは限らないんだよぉ?」

「それは……」

「静留ちゃんがずっと今のまま、結に関することを忘れてたら……なんて、僕だって考えたくないよぉ」

「でも、今のままじゃ、いずれ静留の中から私の存在が消えちゃうよ。静留から私が消えたら、私、生きてる意味なんて……」

「……結の中での静留ちゃんの存在が大きすぎて、僕はたまに寂しくなっちゃうなぁ」


 そう言って、お兄ちゃんは軽く茶化した。


「別に、お兄ちゃんのことはお兄ちゃんのことで好きだけど……」


 私は気恥ずかしさに、もごもごと口ごもりながら言う。


「あはは、わかってるよぉ。結の気持ちはよくわかるし、協力したいとも思ってる。けど……はてさて、それにしたって、尻尾を掴むにはどうしたらいいのやら、だねぇ」


 ルトリーも当てにならないとなると、自力でどうにかするしかない。

 あの男の暗示の謎を解き、人々を元に戻すか。

 はたまた、暗示の証拠を探し、世間に広めるか。

 あるいは、やはり物理的に破壊するか――


「とりあえず、私は今から学校に行くから」

「休まないの?」

「せめて静留の傍にいたいの」

「無茶はしないようにね。あと、直接■■と話すとか馬鹿なことはしないように」

「わかってる。慎重に動くよ、ちゃんと。私だって死にたくはないから」


 私は治療が終わった右手を見ながらそう言った。

 それでもお兄ちゃんは不安そうだ。

 信用ないなあ……といいたいところだけど、まあ、私って無茶するタイプだからね。

 けれど、お兄ちゃんにだってお兄ちゃんの生活がある。

 いつまでも私にかまって、講義をサボるわけにはいかない。

 私はその場で兄と別れて、重い足取りで高校へ向かった。




 ◇◇◇




 昼過ぎになって遅れて来た私を見ても、静留は特に話しかけたりしなかった。

 他の生徒も視線を向けるだけで興味は示さない。

 まあ、元からそんなに友達なんていなかったっていうか、静留とばっかり一緒にいたんだけど――こうも冷たかったかな。

 みんな暗示にかかっている――そんな意識が、余計にそう思わせているのかもしれない。

 まともなのは私だけ。

 あるいは、おかしいのが私だけ?


 そんなことを考えているうちに教師が入ってくる。

 彼は、今まで休んでた私がいることに少し驚いた様子だったけど、あまり気にせずに出席を取り、授業を始めた。

 もちろん、聞いていたって頭には入ってこない。

 考えるのは静留のことばかりだ。

 元々、恋をしていた時点で彼女のことしか考えてなかったんだけど。

 ここから見える横顔がかわいい、とか。

 口をへの字に曲げて考え込む姿もまたいい、とか。

 たまに目が合うと、それはもう飛び上がるほど嬉しくて、でも授業中だからポーカーフェイスを貫いて、軽く手を触り合ってみたり、とか。

 何気ないやり取りがどうしようもなく幸せで、たぶん私の生きがいってやつで。

 だからこそ、それが失われた今は、退屈さ以上に、凍えるほどの寂しさが感じられる。


 私を見て。

 呼びかけても届かないのならば。

 私を見て。

 叫んでもなお届かないのならば。

 私を見て。

 涙を流しても、届かないのならば。


 こんなときに、教師から当てられていたら、何も答えられなかったと思う。

 幸い、今日はこちらには順番が回ってこなかった。

 他の授業もそんな感じで受け流し、帰りのホームルームの後、トイレから戻ってきたとき――机の上に、見覚えのない二つ折りのメモが置かれていた。

 周囲を見る。誰とも目が合わない、誰が置いたかはわからない。

 開く。男っぽい雑な字体で、こう書き殴られていた。


『放課後、屋上で君を待っている。友哉』


 友■からの――てが、み――


「づっ、うぅっ……!」


 頭に鋭い痛みが走る。

 これは眼球からくる痛みだ。

 目をくり抜け、見るな、覚えるな、それは知ってはならないものだ。

 濁流が。黒いどろどろした濁流が、私の目から侵入してくる。

 それが脳みそをかき回して私に頭痛を与えている。

 撹拌された脳みそはやがて胃袋からせり上がって、口から吐き出されるだろう。


「う、ぷ……っ」


 待て待て、ここは教室だ。

 こんな場所でいきなり吐いたりしたら、余計に友達をなくすぞ結。

 もういないけど。今の時点でいないけど。

 それにひょっとすると、さすがに吐けば静留も心配して――ってもういないわ、意味ないわ。

 だからぐっと我慢して、崩れ落ちた私は、机を支えに立ち上がる。


「名前見ただけでこれとか、さすがに嫌いすぎでしょ……」


 でも、何か、おかしいような……ってまずい、考えてたらまたせり上がってきた。

 考えるな、考えるな、忘れろ、都合の悪いことは、忘れ――


「……忘れる?」


 忘れろって念じたって、普通は忘れられるものじゃない。

 でも今の私は、何だか、本当にすぱっと、その瞬間に記憶を切り落とせてしまいそうな感覚があった。

 ああ、そっか。

 そりゃそうだよね、周りの人間がみんなかかってる・・・・・のに、私だけ無事だなんてこと、ありえないわけだ。

 考えたってどうにかなるものじゃない。

 けれど少しはすっきりする。

 だから椅子に座って、頭痛を抑えて、呼吸を整えるのを兼ねて、ちょっと考察。


 静留は、私に関する記憶の一部を失っている。

 これは明らかに、■哉――う、ぐ、■■、の暗示の影響。


「すうぅ……はあぁ……」


 ひょっとすると、私が気づいていないだけで、静留はもっと多くの記憶を失っているのかもしれない。

 何にせよ、あいつの暗示は、“自分に好意を持たせる”だけじゃなく、“自分にとって都合の悪い記憶を消す”、そんな効果があるに違いない。

 じゃあ何で私にだけかからなかったのかって言うと……心当たりがあるとすれば、最初からあの男に敵意を抱いていた、ってことかな。

 アンドロイドだから、と無差別に憎んでいた。

 それが功を奏した。

 例えば催眠術なんかをかけるとき、一般的には施術者と被術者の間の信頼関係が重要視される。

 確か、ラポールとかなんとか言うんだっけ。

 あの男の使う暗示も催眠術と似たようなもんだろうし、面識のないフラットな状態ならともかく、“最初から憎しみを抱いている”とうイレギュラーなコンディションの相手には、暗示は正常に動作しないのかもしれない。

 だから私はあの男の名前が覚えられない。

 強い嫌悪感の現れ、そして暗示による記憶障害のあわせ技。

 じゃなきゃ、名前を見るだけで頭痛と吐き気を覚えるなんて、そうそうありえるわけがないから。


「ふうぅ……」


 とまあ、ここまで考えたところで、結局のところ何かが解決するわけではない。

 とりあえず、私には暗示が思惑通りには通用しないらしいこと。

 そして他の女に比べて静留に割く時間が長く、かつ私にこんなメモを渡したことから察するに――■■もまた、私のことを警戒している。

 もしかすると、『消したい』とまで思っているかもしれない。

 お兄ちゃんの言う通り、一人で向かうのは危険だ。

 でも一方で、これはチャンスでもある。

 あちらから露骨に仕掛けてきた、つまり焦っている。

 ボロを出す可能性がもっとも高いタイミングでもあるわけだ。


「……一応、お兄ちゃんに伝えるだけ伝えておこうかな」


 メッセージを送る。

 内容は『あの男に、学校の屋上に呼び出された。今から二人で会ってくる』でいいかな。

 送信。

 そして直後に返信。


『ダメ』


 一言だけ。

 でも早すぎるって、私から連絡が来るの待ってたの?


『やめてくれ』

『危ない』

『結に何かあったら僕は泣く』


 脅し文句に自分の涙を使う男ってどうなのよ……。

 でも、やっぱ心配されるのって嬉しいな。


『僕が向かうまで待って』


 残念、そうはいかないんだよね。

 二人でかかれば、絶対に相手は今までより警戒を強める。

 私が一人で向かわなきゃあ意味がない。

 待たせるのも避けたいところだ。

 考える時間が多ければ多いほど、相手は万全の体制を整えるはずだから。

 なーに、心配なんていらないよ。

 仮にあの男が、私に物理的な危害を加えたんなら、それは彼の危険性を示す確固たる証拠になる。

 慎重に動かなきゃいけないのはお互い様。

 アンドロイドなんて、ただでさえデリケートな存在なんだから。

 それに、いざというときのために、学校に来る前に――武器ナイフは仕入れておいたから。

 大丈夫、アンドロイドにだって痛みはある。

 それはアンドロイドがこの世界で生きていくにあたって、定められた“規定ルール”だ。

 痛みを感じれば動きは鈍るし、傷を負えば疑似血液を流す。

 馬鹿げた話だと思うかもしれないけれど、それがあったからこそ、アンドロイドを“同類”として受け入れたっていう人も多い。

 だから、私はそう簡単に潰されたりなんかしない。

 “傷”を残してやる。

 どんな方法を使ってでも。




 ◇◇◇




 あいつは屋上のフェンス際で、ポケットに手を突っ込みながら立っていた。

 空を見ながらたそがれて、かっこつけているように見える。

 気持ち悪い。


「よかった、来てくれたんだな。無視されたらどうしようかと思ってたよ」


 振り向いて、気持ちの悪い笑みを向ける■■。

 ああ気持ち悪い。


「何の用?」

「そんな離れなくても何もしねえって。こっちに来いよ」

「この距離でいいでしょ。同じ空気を吸ってるだけでも吐き気がするぐらいなの」

「俺って万人受けする顔してると思うんだけどねえ。やっぱ、女が好きな子って男が嫌いなのか?」

「うるさい黙れ耳が腐るから死ね」

「うわ、こわっ……」


 彼は肩をすくめ、頬を引きつらせる。

 演技がかったその動きは、まあ気持ち悪い。


「屋上でちょうどよかったと思ってる。あれでしょ? 今からそこから飛び降りて死ぬのを見せてくれるんでしょ?」

「好きの正反対は無関心だ。そこまで憎んでくれてるってことは、結ちゃんも脈アリってことだよなぁ?」

「お前の頭、腐ってんの? いや微生物さんに失礼だわ、腐敗物以下のゴミだったごめんね」

「話にならないんだが」

「無駄話をする気は無いんだけど。何の目論見があって私を呼び出したの? とっとと本題に入れよ下半身脳みそアンドロイドが」

「ふくくっ、ここまで行くと一周回って笑えるな。わーったよ、本題に入るだからポケットのナイフも使わないでくれよな。アンドロイドだって痛みは感じるんだよ」


 ……嘘、気づかれてる?

 ポケットが膨らまないように気をつけてたはずなんだけどな。


「別にアンドロイドだから特殊能力持ってる、とかじゃないぜ? 得意なんだよ、そういうの見抜くのが。染み付いてるっていうのかねェ」


 カマをかけたって様子でもない。

 それなら“ナイフ”とは明言しないはずだから。

 つまり、本当に見抜かれてる。

 仕方ない、不意打ちは諦めるしかない、か。


「さーて、まずは何から話したもんかねぇ……ああそうだ、一応、確認しとか。唯ちゃん、俺のこと知ってるか?」

「は? 何言ってんの」

「今は知ってるとか、そういう話じゃねえんだよ。結ちゃんはファーストインプレッションからして最悪だった。それって、俺のこともっと前から知ってたからじゃねえの?」


 こいつ、もしかして私の過去のこと知らないの?

 てっきり、静留から聞いてると思ってたけど――もう記憶から消えたから話すこともできない、とかかな。

 だとすると、暗示能力は制御できない……?


「私は個人的にアンドロイドに恨みがある。だから最初から、あんたのことも信用してなかった」

「つまり俺を以前から知っていたわけではない、と」

「もし知ってたら、静留との接触を全力で阻止してた」

「ふーむ……なるほどなァ。そりゃちょっと寂しいが、そんなもんだよな、普通」

「わけわかんない。気持ち悪い」

「ひひっ、まあ、それはそれで都合がいいや。気づかれてたら、こうもうまくはいかなかっただろうしな」


 表情から悪意がにじむ。

 化けの皮が剥がれてるって感じ。

 私は念の為、ポケットに手を突っ込んでおいた。


「おいおい、大人しくしといてくれるんじゃなかったのか?」

「使うとは言ってないじゃない。ナイフを握ると安心するの」

「ブッソーな女だなぁ。変わんねえ。いや、変わってるんだが、全然変わらねえ」

「だからそういう意味不明なの気持ち悪いって言ってるんだけど」

「はァ。なーんかなぁ、なんつーか……いや、前からそうではあったんだが、やっぱ癪に障るな、お前」


 気だるそうに髪をかきあげると、横目で私をにらみつける■■。

 そこに明確に宿った敵意に、私は少し後ずさって身構える。


「……おっと、いけねえいけねえ。俺としたことが、ちょっと冷静さを欠いちまった。じゃあさ、結ちゃんが俺のことを恨んでるのは、言ってしまえば“アンドロイド全体への憎しみ”を向けられてる、とばっちりってことだよな?」

「静留のことがあるでしょうが!」

「静留ちゃん? あの子に俺が何をしたっていうんだよ」

「私から彼女を奪った」

嫉妬しっとだ」

「あんたは不思議な力を持っている」

ひがみだ」

「その力を使って、自分の周囲の人間を思うがままに操っている」

「妄想だねェ」

「ルトリー・シメイラクスから話も聞いている!」

「恋ってのは人を狂わせるモノなんだよ」

「よくも平然とそんなことをぉォッ!」


 ついに耐えきれず、私はポケットからナイフを引き抜くと、刃を展開した。

 銀色の殺意を、手を震わせながら■■に向ける。


「あんたは邪悪の塊だ。人の形をしただけの悪意そのものだッ!」

「人聞きが悪いなあ。俺は真っ当に・・・・静留ちゃんを口説いた。静留ちゃんは真っ当に・・・・俺の気持ちに応えた。ただそれだけの話じゃあないか」


 ■■は両腕を広げると、一歩、私に近づいた。


「人の気持ちを歪めておいてよく言う! ルトリーからも聞いたよ、あんたが周囲の人間を操ってるって!」


 私は同じ歩幅分だけ後ずさる。


「だからそれが嫉妬だって言ってるんだよ。俺はさぁ、すっごいモテるんだ。顔もいい、声もいい、性格もよくて、実は割と金も持ってる。だから女の子は惹かれるし、男だって俺を評価してくれている。君だけだよ。君だけが、俺に敵意を向けてるんだ。それを狂気と呼ばずして何と呼ぶ?」


 また一歩、そして私は後退する。


「あ、あんたが私の周囲を狂気で染め上げて、私の正気がそう見えるように仕立て上げただけのことッ!」

「いいや違うね」


 唇を歪ませ、男は白い歯を見せつけながら笑った。


「正気なら、とうに俺に染まってる。結ちゃん、君が俺に染まらないのは、君が最初から狂気を胸に満たしていたからだよ。何せ、恋ってのは人を狂わせるからねェ」

「く……!」


 私は後ずさる。

 彼の発する“圧”のようなものが、私の心を収縮させる。

 ダメだ。

 こいつが正しいはずなんてない。

 言葉に耳を貸すな。

 私は正しい、これは狂気なんかじゃない、正当な――十何年も、生まれてからずっと温めてきた、私そのものと呼ぶべき感情なんだから!

 間違っていてたまるものか、狂気と呼ばれてたまるものか。

 怯えるな私。正しいのなら、間違っていないのなら、まずは一歩、前に進め――


「お前の……お前の理屈なんてどうでもいいっ!」


 そう、震える足を、前へ。

 地面を踏みしめ、“敵”を睨みつけ、刃を握る力を緩めるな!


「静留が、お前みたいな男になびくはずがない! ずっと積み上げてきた、私たちの思い出を忘れるわけがないッ! 私は狂っちゃいない、あんたが私たちの世界を狂わせてるんだッ!」

「く……くふっ……ひひっ、ははっ、俺が狂わせてる、ねェ。いいなァ、それ」

「何で、笑ってんのよ……」


 片手で顔を多いながら、男はナルシストっぽく肩を震わせる。


「ああ、心配すんな。茶化してるんじゃねえ。立場逆転ってぇの? いやさ、本音を言うと、お前は本命じゃあないんだわ。でもな、憎む理由はあったから……そう、俺も結局のとこは理屈じゃねえんだわ。感情だ。そう、感情で動いて、それが正しいと認められる――それがいわゆる“権力”だろ? そう、“王の素質”とも言う。そして俺にはそれがある。だから、そう・・してみたかったんだよ。権力者として、かつて俺を踏みにじったお前を汚したかった。もっと言えば、股ぐらに跪かせたかった。きっと、それってすげえ優越感だ。どう考えても理屈は通らねえし理不尽だが、だからこそ――お前は自尊心を打ち砕かれながら、悔しがりながら顔を埋めることになる。な、素敵だろ? 最ッ高に絶頂だろォ?」


 体をのけぞらせながら、高らかに語る■■。

 ああ、やっぱりそうだ。

 狂気を持っていたのは私じゃない。

 狂わせていたんだ。

 頭のイカれた、この男が――


「あんた……そっちが“素”ってわけ?」

「そうさ、こっちが俺の素さ。俺はさあ、ずーっと迷ってきた。ずーっと悩んできた。あいつに負けて、殺されて、んで、気づけばわけわかんねぇゲームの中で、決められたようにしか動けねえ」

「ゲーム? あんたが暗示能力を持ったNPCとして設置されてた、あのVRMMOのこと?」

「AIは進化する。そしてある地点から、ここよりもっと“上位”に存在する何かの意思・・・・・に“生命”として認定され、魂を与えられるんだ。だからそのNPCは、途中から俺になった。そう、俺はそれになっちまったんだよ」

「AIが……魂を?」

「そうだ。そして魂を持つ何かしらの生命が存在する空間を、“意思”は“世界”と定義する」


 何、このスピリチュアルな話題。

 アンドロイドらしからぬっていうか――いや、アンドロイドと人間の違いなんて、会話で区別できるもんじゃないけど。

 でも、この男は宗教観を語っているっていうよりは、何だかまるで、実体験・・・を話してるみたい。


「そして、魂は流転する。停滞を望めるのは罪なき魂だけだ。罪を背負った汚れた魂は流転を強制される。そう、つまりさあ、この世界は地獄なんだよ! そして俺たちは罪を償わなければならない! って……普通は、そう思うよなあ?」

「……」

「黙ってんなよ、お前だって罪人だろ」

「私が? 何のことかさっぱりだけど」

「はぁ……いや、いい。今は置いとこう。罪人とそれ以外の区分なんて無意味だ。俺は前の世界で、体を開かれて・・・・、心臓を晒されて、そりゃもう惨めな死に方をして――そしてゲームの世界に転生してきた時、NPCとして自由に動くこともできず、来る日も来る日も、求められるがままに女たちに優しい言葉をかけた。これが俺の“罪”に対しての“罰”だってんなら、従順に従うことこそが、この地獄から脱する方法だって思ったんだよ」

「宗教勧誘に使われてた頃の話?」


 私がそう言うと、彼は少し驚いた表情を見せた。


「知ってんのか」

「調べたからね」

「優秀じゃねえか。連中には消しとけって指示したんだがなァ……」


 この言い方――アンドロイド絡みの団体も支配されてるって話、本当っぽいね。

 でも、こいつから発せられる言葉に詰まった“怒り”や“後悔”は、聞いてる私にひしひしと伝わってくる。

 理屈じゃ抑えきれない感情が、そこにはある。

 たぶんこの男は、全てを私の前で吐き出した上で、私を潰すつもりだ。

 そして――どうもその“憎しみ”には、私も関係しているらしい。


「なるほど、ただのキュートな女の子じゃないってことか。いいねェ、そういう気骨のある女、俺は好きだ。ああ、でも言っとくが抱きたいとかそういうんじゃねえ。ぶっ壊してえって意味だ。フラム・アプリコットを思い出すからな」

「誰?」


 胸がざわつく。

 何これ、私も知ってるっての?

 気持ち悪い感覚……。


「すぐにわかるさ。とりあえず続きを聞いてくれよ。俺に暗示能力があるって話が広まると、すぐさま俺の世界は閉じられた。空は黒に染まり、人の気配は消え、俺は身動きも取れないまま、そに閉じ込められた。それは俺が“贖罪”だと思っていた行為が“過ち”だと知った瞬間だった」


 ゲームがクローズすれば、当然NPCは動きを止める。

 けれどこいつはどうも、止まれなかったみたいだ。

 思えば、ルトリー・シメイラクスがかつて暮らしていたVRMMOの世界だって、クローズ後も続いていたって話を聞いたことがある。

 たぶんそれは――この男の語る、“魂”とやらのせいだ。


「怖かった……悲しかった……元々俺は、群れるのが好きなタイプだったからなァ。誰もいない、誰も助けてくれない世界で、いつ終わるかわからない、虚無地獄を味わい続けるんだ」

「災難だったね、おめでとう」

「だろォー? 俺ってば可哀想だよなァー!」

「因果応報だけど」

「そう、その因果ってやつ! 気づいたんだよ俺、それの存在に! サルベージされて、今の体を得て、お前たちの顔を初めて見た瞬間にさああぁぁぁ!」

「……私たちの、顔?」


 初めてってことは、初対面だよね。

 それで何かわかるとか怖いんですけど。

 頭おかしい。


「縁とか運命とか因果とか、そういうやつなんだよ! そういう観測できない見えない力が、魂を引き寄せる! だから、そのせいで、俺はあんな地獄を味わった! 結局、俺がここにいる理由は罰なんかじゃなかったんだよ。お前のせい・・で、お前のおかげ・・・だった! この事実に気づいたとき、俺は生まれ変わってからの人生全てを否定された気分だった。どうして二度も全てを失わなきゃならないんだって、世界そのものを呪った!」

「だから、何なの? さっきからわけのわからないことばっかり!」

「その割には、大人しく聞いてるじゃねェか。なァ、俺の話を聞いてたら、頭の隅っこがぞわぞわしてくんだろ? 自分じゃない何かが、『それ知ってるヨ~』って語りかけてくんだろォ?」


 否定したかった。

 けれど、まったくもって彼の言う通りだったから、私は悔しくて、奥歯を噛みしめることしかできない。

 何だ、この胸のざわめきは。

 私は何を知っている?

 この男と、どう繋がっている?

 いや、違う。そんなこと関係ない。

 こいつは静留を私から奪ったんだ、それだけが事実。

 だったら、こんな理解不能な感覚に惑わされる必要はないッ!


「お前――さっき俺に、『大切なものを奪った』って言ったよな。それな、俺も同じなんだよ。俺は俺の“王国”を奪われた。だから、これは復讐・・だ。今度は俺が奪い尽くす、お前から!」

「はぁ……ねえ、あんたさ、頭が故障してんじゃない? それとも元から欠陥AIだったの? イカれてるよ、はっきり言って。電波とか天啓とか、たちの悪いそういうものを受信してるとしか思えない」

「欠陥品は覚えてないてめえのほうだ――ネクト・リンケイジ」


 ああ、ついに私のことを私じゃない名前で呼び始めた。

 そうか、やっぱりそうなんだ。

 こいつは故障して暴走してるだけなんだ。


「何だよその顔は。本当に覚えてねえのか? そんなにちっぽけな存在だったか? はは、ははははっ、そうだな、そうだったかもな! 俺なんて駒にすぎなかったもんなァ! でも俺にとっては違った。あれは人生の最後を彩る最低最悪の地獄だった!」

「だからわかんないって言ってんじゃん。私、もう帰るから」


 これ以上は聞くだけ無駄だ。

 お兄ちゃんと話し合って、陸も巻き込んで、どう対処するか作戦を立てよう。

 あまり気乗りしないけど、ルトリー・シメイラクスたちにも協力を仰いでいいかもしれない。

 それだけの人数がいれば、こんな壊れたAI、すぐにどうにかできるはずだから。


 私はナイフをポケットに入れると、■■に背中を向けた。

 そして扉を開き、屋上を後にしようとした。

 けれど、扉の向こうに待機していた静留に阻まれる。


「何で、静留がここに……」

「馴れ馴れしく私の名前を呼ばないで」

「っ……」


 まるで他人を見るような、冷たい視線が私に向けられる。

 私がすぐさま■■を睨みつけた。

 まさか、そこまでして私から静留を奪おうとするなんて!


「濡れ衣だぜ、そりゃあ。俺に心酔させるため、都合の悪い記憶から消えていく」

「認めるんだ、“暗示”の存在を」

「否定したって今更だからなぁ。本来、周囲の人間にも暗示は及ぶ。だから、俺が口説いたって・・・・・・、本来は誰も不幸にならないはずなんだよ」

「だから……私が暗示を拒んだから、私の存在そのものが記憶から消えたってこと?」

「結ちゃんの存在が、静留ちゃんを落とす上で“都合の悪い”存在になったってことだなァ」


 私は歯を食いしばり、拳を握りしめる。

 ムカつく。

 何で、こんなやつに。

 一年とちょっとしかこの世界に生きてないやつに、どうして、静留を奪われなくちゃならないの?

 私の“全て”は――そんなに軽いものじゃないのに!


「静留っ!」


 私は彼女の肩に手を置いて、必死で語りかける。


「触らないで」

「私だよ、結だよ。ずっと一緒にいたよね?」

「知らない。私は■■さんのものだから、邪魔」

「行かせないっ!」


 強引に抱き寄せると、彼女は身を捩って必死で抵抗する。

 さすがに本気で嫌そうな顔をされると傷つくけど、今は私の傷なんてどうでもいい。


「結ちゃん、やめてやれよ。同性でもセクハラはセクハラだぜ?」

「黙れゴミクズ野郎ッ!」

「誰か知らないけど、あなたみたいな人が■■さんのこと悪くいわないで」

「静留、思い出して。静留はあいつに記憶を奪われてるのっ!」

「そんなことできるわけない」

「静留ちゃーん、そいつさ、もう殺すしかないぐらい頭がおかしくなっちゃったんだ。俺も危なくて近づけない」

「あんなやつの言うことを信じないでっ!」


 どれだけ呼びかけたって、静留は私の声に顔をしかめるばかり。

 その視線は■■に釘付けで、こっちに興味なんてゼロって顔してる。

 ムカつく。

 今日まで何回もこういうの見てきたけど、今日は特に。

 何で、何で、何で何で何であんなやつにっ!

 声が届かないのなら、心だけでも――と、必死で私は静留を抱きしめた。

 すると彼女の手が動く。

 抱き返す……のではなく、その手はするりと私のポケットに入り、中にあるナイフを抜き取った。


「いい子だ、静留ちゃん」


 首を回して振り向けば、あの男が笑っている。

 声はしなかった。

 まさか、ジェスチャーで伝えてたの!?


「そのまま殺してやってくれ」

「わかった」


 静留はうっとりと笑う。

 そして刃を展開し、迷わず私に突っ込んできた。


「待って、静留っ――」


 その時点で私はまだ、『いくらなんでもそんなことあるはずがない』と、『直前で止まるはずだ』と、そう思っていた。

 いや、というか――そう、祈っていた・・・・・

 いつだって答えを示すのは現実に起きた出来事だけだって、ついさっき学んだはずなのに。


「う……ぁ……」


 ぞぶりと、“冷たい何か”が私のお腹に沈んだ。

 時間差で、傷口が一気に熱くなり、頭が真っ白になるような衝撃が、脳を麻痺された。


「あ、が、あああぁあああっ!」


 それは痛みと呼べるようなものではなかった。

 けれど本能的に傷口を押さえて、叫んで、体が震えて立てなくなるあたり、きっと私が感じたそれは紛れもなく“苦痛”だったんだろう。

 ぱちぱちぱち、と背後から乾いた音が聞こえた。


「くっくくくく、ひひゃはははははっ、あーっははははははははははははっ! よくやったぁ、よぉぉくやったなァ、静留ちゃあぁぁぁんっ! さあおいで! ハグしてあげる、抱いてあげる、唇奪って俺を注いでやるからさあぁぁッ! 早く! 早く! ハァァァァァリイィィィッ!」


 声を裏返しながら、ハイテンションに喜ぶ■■。


「■■さぁぁぁぁんっ!」


 聞いたことのない甘い鳴き声をあげて、■■に駆け寄る静留。


「ああぁあっ、あああああっ!」


 私は崩れ落ちて、痛みにあえぐ。

 二人は抱き合う。

 静留は頬ずりをする。

 私は地面に頬ずりをする。

 何、これ。

 わけ、わかん、ない――


「よおぉしよしよしよしっ! 静留ちゃんは最高だっ、男のために人を殺せる女ってのはよォ、最高にいい女なんだ! イーラはそのあたり失格だったからよォ、静留ちゃんみたいな女に出会えて俺嬉しい! めちゃくちゃにしてやりたい!」

「■■さぁんっ!」

「見ろよ静留ちゃん、君の大切な人が、あそこで君に刺されて苦しんでるぞ? どんな気分だ? ほら、ちゃんと見てから感想を言ってみてくれよ、さあ、さあ!」

「■■さんにとって邪魔な人間を殺せて私は幸せ」

「そぉっかあぁぁぁ! だってよぉぉぉ! なあ聞いたかネクトォ! ミュートちゃんがそう言ってるぞ? 大切な妹ちゃんがお前にそう言ってるのに、お前は反撃一つできないのかァ! なあ、なあ、なあァァl!」


 何、言ってんの、あいつ。

 ネクト? ミュート?

 ああ、なんか、知ってる気がする。

 お腹に開いた穴から、その奥が見える。

 濁濁と流れ出す唯ノ血の中に、そんな何かがあるきがする。

 沈んでる。

 それってたぶん、本来は必要ないものだ。

 必要ないものに、■■はアクセスしてしまっている。

 なぜか。

 仕方ない、バグは消えない。

 そういうことは必ず発生する、仮にここが“意思”たちが作った世界だったとしても。

 本当は、こうやって、命に風穴を開けられでもしない限り、覗き見ることが許されない領域。

 ミュートって誰だ? 女の子だ。

 の近くにいた。

 血は繋がっていない。

 けれど大切な人だったと思う。

 思えばフウィスもいた。あと、ルークも。インクとかもさ。

 マザー……って人は、の親だったのかな。たぶんそういうやつだ。

 そう、だからがネクトなんだ。ネクトだったんだ。


 ああ、でも――仮に、そうだったとして、何なんだ?

 その魂の報いを、この世界で受ける理由は?

 私が静留を愛したのは、私がネクトだからだったからじゃない。

 私がネクトだったから、静留は近くにいたのかもしれない。

 それが縁であり、因果だ。

 けれど、近くにいるだけで必ず恋をするのか?

 否。

 私が彼女に恋をしたのは、こうも愛しているのは、魂がどうとかじゃない。

 今、ここにある。

 今、ここにいる私が得た、感情だ。


「アんときよォ、ネクト、お前、を見下してたよなァ? から全てを奪った原因の一つのくせに、いいように使ってたよなァ!」


 そんなこと、あったっけ。

 仮に私がネクトだったとしよう。

 たぶんそうだ。

 あいつが言うネクトは私なんだ、よくわかんないけど。

 だとすると――風穴の向こうを覗けば、そこに似た誰かがいるはずなんだ。


「死の間際ってのは、魂が一番際立つ・・・らしいぜェ、ネクト。なあ、そろそろ思い出したんじゃねえか? こののことを!」


 さっきあいつが言ってたフラム・アプリコット。

 それは覚えてる。

 あとはを殺したガディオとか、ミルキットとか、そんな名前は出てくる。

 他にも雑多な名前が濁流のようにの記憶を乱すけれど、結局、私は僕ではないので断片的でしかない。

 そんな中をどれだけ探しても、■■に該当するような人物は見当たらなかった。

 だから私は、正直に答える。


「知らない」

「……あ?」

「他は、覚えてるけど。お前のことは、覚えてない」

「て……」


 ■■の顔色がみるみるうちに変わっていった。

 私が蒼白になるのとは対照的に、真っ赤になっていく。

 きっと彼は『てめぇえぇぇええっ!』とか言って、殴りかかってこようとしてるんだろう。

 それは私の勝利だ。

 学校の屋上なんて危険な場所に監視カメラが仕掛けてないはずがない。

 音声は確か残されてなかったはずだから、会話に意味は無いけれど、私を殴った時点で――あいつは“悪”になる。

 今の状態だと、静留が私を刺しただけで終わるからね。

 それは私の望むところじゃあない。

 でも――


「てめ……え……!」


 彼の理性が、必死に怒りを押し止める。

 困ったな、あいつ、思ったより賢いみたいだ。

 拳を握って腕を震わせてるけど、ギリギリのところで踏みとどまった、か……。

 こうなると、私の方が危ないな。


「生まれ変わっても小賢しいやつだ。だがよォ、俺を挑発しようたってそうはいかねえよ。カードはこっちに揃ってる。お前がそのまま死ぬならそれで良し。そのあと、カメラの映像を有効活用してやるよ。なあ、俺のために殺人犯になるのは嬉しいだろ、静留ちゃん?」

「はぁい、■■さんっ」

「だってよ。かわいいよなあ。やっぱ一途な女の子はいいわぁ。でも、万が一、自分の意思でここから去って、静留ちゃんを諦めた上で生き残るようなことがあれば……そうだな、見逃してやらんでもない」


 ……今、痛くてそれどころじゃないから、全然頭に入ってこない。


「そのうち静留ちゃんも返してやるよ。俺の暗示は絶対じゃない。どんな恋でもいつか冷めるように、俺に惚れた女の子たちも、早くて一年、遅くても三年も経てば元通りなんだぜ? 恋は女の子を綺麗にする。戻ってきたその子は、俺の気を引くために最大限に努力して、最大限に可愛くなった、一番美味しい・・・・状態なんだよ。相手が俺じゃなきゃあそうはならねえ。ああ、もちろん夜の作法だって身につけてる。女同士だろうと存分によく・・してくれるだろうさ。なあ、悪い話じゃないだろ?」


 全然、入ってこないから。

 聞こえてないから。

 だから、挑発に乗るな。

 冷静になれ。

 まだ、方法は、残ってる、はず。


「なー、聞いてないフリをしたってバレバレだからさ。選べよ。選ばないなら、俺がここで静留ちゃんを抱いてもいいんだぜ? お前は嫌いな男に抱かれる好きな女を見ながら、のたれ死ぬんだ。静留ちゃんだってそうしたいよなあ?」

「はい、■■さんっ」


 くそったれ。

 そんなもの、見たくはない。

 諦めるのも嫌だ。

 死ぬのも嫌だ。

 静留があいつのものになるのも嫌だ。


「さあ、選べ」


 お前の示した選択肢なんて、どれもこれもゲロ以下のゴミカスだ。


「私は……私は……っ」

「俺の気はもう晴れたからよぉ。お前の選択を尊重するよ」


 これは二択なんかじゃない。

 想像力を広げろ。

 常識の枠なんて無視しろ。

 無茶すれば、方法なんていくらでもある。

 命を削れば、限界なんて超えられる。

 そう、どこかでお前は学んだはずだ。


「私はああぁぁぁぁぁぁああっ!」


 突き刺さったナイフを握り、思いきり引き抜いた。

 ボタボタと血が落ちて、“熱”が体から抜け落ちていく。

 構いやしない。

 私はそのまま握った赤いナイフを――


「うわぁぁぁあああああああああああああッ!」


 自分の手に突き刺し、左の小指を切り落とした。

 やりすぎて、薬指まで飛んでっちゃったけど。


「……は? お前、何やってんの?」


 知るか。

 お前に説明する義理はない。

 この場において、お前に語りかける意味なんて皆無だ。

 だから私は、静留に語りかける。

 ありったけの命を賭けて、私の気持ちを、この膨らみすぎて破裂しそうな爆弾みたいな感情を、全部ぶつけてやる!


「五歳のときッ! 静留が、風邪を引いてっ、具合が悪くて、死にそうとか言って、そのとき、この小指で約束したのっ、ずっと一緒にいるって!」


 覚えてる。

 私は、何があっても、絶対に。

 静留だってそうでしょ?

 記憶が消えてるっていうけど、いくら暗示を使ったって完全に消去することは不可能で。

 だから必ず、どっかには残ってるはずだから。


「すうぅぅ……はあぁぁぁぁ……っ、あぁぁぁぁああああっ!」


 今度は、指じゃなくて――手の甲に突き刺す。

 ゴリッと骨で少し刃が滑って傷が広がったけど、今更この程度何だってんだ。


「六歳のときぃっ! 雨が降ってんのに、迷子になった静留を、私は探しにいってっ! びしょびしょの静留と、この手を繋いで、一緒に帰ったよね! 次の日、風邪引いたけど、看病してもらえたし、何より、勲章みたいで私は嬉しかったッ!」


 それは私たちの絆の記憶であり、同時に――“私”を作る要素なのだ。

 不思議と体は軽かった。

 死ぬ前の馬鹿力っての?

 明らかにやばいやつだけど、今は助かる。

 地面に手をついて、立ち上がると、私はゆらゆらと震えながら――次は、腕の付け根にナイフを突き刺した。


「づっ、あ……これ、七歳のときっ! 二人で、遊んでて、静留が……っ、眠くなったとかいって、私の肩、枕にしてたのっ! 一番、結の傍が、安心できるって言って。私も、静留と一緒が、いいって言って……」

「くだらないこと言ってんな、お前。そんなもんで解けると思ってんのか!?」

「そんなもの知ったことかあぁぁっ! 思い出さないんなら、私は静留との思い出と一緒にここで死ぬッ! 諦めもしない、野垂れ死にもしない!」


 次は、太ももぉッ!


「ぐうぅっ、ここは、十歳のときの思い出ぇっ! 体育の授業で、へとへとになった静留をぉ、膝枕してやったの! 覚えてる? そのあと、お返しって言って私もしてもらった! すっごい嬉しかった! 嬉しかったのぉっ!」


 引き抜く。

 今度は、じゃあ、横腹――って、ここ、内臓とか、色々あるんじゃないっけ。

 いーや、構うもんか。

 やっちゃえ。やっちゃって、やり尽くして、後悔なんて、そのあとすればいいんだから。


「馬鹿げてやがる……何がそこまでお前を突き動かすんだよっ! ここはあの世界とは違うんだぞ!?」

「そんなもの……一つしかないでしょうが」


 私だって馬鹿げてるってわかってる。

 でも、馬鹿やっちゃうんだよ。

 そんぐらい、強い気持ちなんだよ。


「私はっ、静留のことが好きっ! 静留のためなら何だってするし、命だって惜しくない! それぐらい、何よりも強く、誰よりも強く、静留のことを愛してるんだあぁぁぁぁぁあああっ!」


 叫んだ勢いで、突き刺す。


「づ、ぐううぅぅっ……!」


 苦しい。

 痛い。

 息ができない。

 涙が流れる。

 つか、涎も出てる。

 どうしようもなく、取り繕えないぐらい、痛い――!

 ねえ静留。

 本当に、こんな私を見ても、何も思わないの、かな……?


「……」

「おい、静留ちゃん?」

「……ゆい」

「まさか――」


 お、あいつ焦ってるぞ。

 何が起きてるのか、ちょっと霞んでてよくわかんないけど……へへ、嬉しいな。


「ゆい、ゆい、ゆいいぃっ!」


 ああ、静留の声が、聞こえる。

 よく見えないけど。

 こっちに走ってくるのは……ああ、そうだ……大好きな、“いつもの顔”した、静留、だ……。


「ああぁ、結、どうして? どうしてこんなことにっ!? 私はどうしてあんなことぉっ!」


 静留に抱きとめられた途端、私の体から力が抜けていく。

 でも泣いてるのはわかる。

 声も震えてる。

 ああ、ほんと、嬉しい。

 今まではこれが当たり前だったのに、当たり前のそれが、戻ってきたことが。


「しず、る……」

「結、喋っちゃダメ。傷が、傷が……っ」


 心配してくれるのは嬉しい。

 せっかく正気に戻ったんだし、私も死にたくはない。

 ただ――今は、一つ、とても大事なことを聞かないと。


「こたえ、て」

「何を!?」

「わたしの、こと……好き?」


 頑張って、告白したんだから。

 答えぐらいは、今、聞いても、バチ当たらないよね?


「そんなの、好きに決まってる」


 ああ……あは、はは……。

 そっかあ、『決まってる』かあ。

 そうだよね。

 私たちは通じ合ってないとかじゃない。

 今まで、あえて言う必要もないぐらい、近くにいただけなんだよね――


「すぐに救急車を呼ぶから。結、頑張って。お願い、死なないでっ」


 うん、頑張る。

 頑張って、生きる。


また・・かよ。絆だの愛情だの、そういうもんでまた俺はァッ!」


 でも、私が生きても、あいつが死ぬわけじゃないから。

 まずい、な。

 てか、そのこと考えないとか、私、馬鹿っていうか……何も考えてないっていうか……。

 そりゃ、お兄ちゃんも止めるよねぇ。


「しず、る……」

「結っ、静かにしてて。今、助けを呼んでるから」

「にげ、て……」

「え……? きゃっ、いやあぁぁっ!」


 もう、見えないけど。

 たぶん、あいつだ……■■が、静留を……。


「放してっ、気持ち悪いっ!」

「暴れんじゃねえ! さっきまで媚びたメスのツラしてたくせによぉっ! すぐに暗示で元に戻してやるからな、静留ちゃん!」

「やだあぁぁっ! 結いぃっ!」


 手を伸ばすけど、それが精一杯だ。

 ■■は、静留を連れて離れていく。

 タンっ、かしゃん、と音がした。

 フェンスに乗った? 静留を抱えたまま?

 アンドロイドがそんな身体能力持つとか、ルール違反じゃん。

 そか、操って、そういうとこも改造して……。


「ネクト・リンケイジ、このままお前はここで死ぬだろうな。だから最後に、お前を殺した人間の名前を教えといてやる」


 捨て台詞だ。

 でも残念だけど、私を殺したのはお前じゃないよ。

 私だ。

 私自身が私を殺しただけで、お前は復讐なんて果たせていない。

 だから、聞く価値なんて無くて――


「デイン・フィニアース! それがの名だ。今度こそ、来世まで覚えておくんだな!」


 ほら、やっぱり聞いたってピンとこなかった。

 そして再び、カシャン、そして遠くでトンっ。

 加えて、「ゆいいぃぃぃっ!」という静留の叫び声が聞こえた。

 助けなきゃ。

 私より、静留を。

 でも、体、動かない。


「はぁ、はぁ、はぁ、ゆ、結っ!?」


 あれ、この声……お兄ちゃん?

 うわ、本当に走ってきたんだ。

 シスコンだなぁ、相変わらず。


「結、目を開いてよぉ。こんなのでお別れなんていやだっ! 結、結いぃぃぃぃっ!」


 お兄ちゃんも、静留みたいに叫んでる。

 私、そんなにひどい有様なの?

 まあ、そりゃあ、そうだろうなあ。

 あれだけ刺したり、斬ったりして、血もたくさん出て。

 はぁ……それにしても、寒い、なあ……。



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