第72話 インスタントクレイジー

 





 フラムを取り巻く謎はあまりに多い。

 なぜ自分は城にいるのか、記憶喪失を治療するのなら診療所に行くべきではないのか。

 部屋から出ようとすると、見張りらしき兵士に「外出は控えて下さい」と言われた。

 自分が外に行くと都合の悪いことでもあるのだろうか。

 部屋の窓には外から板が打ち付けてあり、景色どころか日光を浴びることすらできない。

 閉じ込められている、フラムはそう感じていた。


「記憶を失う前の私、何かやらかしたのかな……」


 にしては、囚人のような扱いでもなさそうだが。

 特にやることも見つからず、フラムは部屋に置かれたテーブルに突っ伏す。

 木のひんやりとした感触が心地よい。

 しかし違和感がある。

 彼女は無意識のうちに前髪を触っていた。


「ヘアピン、やっぱりあった気がするんだけど」


 旅に出る時点ではつけていなかったはずなので、間違いなくそのあとに、どこかで手に入れたのだ。


 そのまま目を閉じて眠ろうとしていると、また来訪者がやってきた。

 コンコン、とドアをノックするまでは良いが、彼女は返事すら聞かずに部屋に入ってくる。


「あらぁ、お休みだったかしらぁ?」


 胸元が開いたインナーの上から白衣を纏った、セクシーな大人の女性。


「どなた、ですか?」


 もちろん今のフラムは誰なのか知らない。

 彼女は唇に人差し指を当ててしばし考え込むと、フラムの方を向いて名乗る。


「エキドナ・イペイラよぉ、ここでとある研究をしているの」

「科学者さん、ですか。そんな方が私に何の用事でしょうか」

「まずは、何も言わずについてきてもらえるぅ?」


 見ればわかる、そう言いたいようだ。

 どうせ暇だし、断る権限が自分にあるのかもわからない。

 フラムは立ち上がると、エキドナとともに部屋を出た。




 ◇◇◇




 田舎者のフラムにとって、城の中を歩く経験など滅多にできることではない。

 ましてやそれが、関係者しか立ち入れないエリアとなれば余計にだ。

 通りすがりの大柄な男性と目が合ったり、水着のようなタイツのようなよくわからない服を着た少女が悲しそうな顔をしていたりと、すれ違う人々も一筋縄ではいかない。


「さすが都会……」


 と、よくわからない理由で感心しているうちに、目的地に到着する。

 エキドナは「ここよぉ」と言ってドアを開く。

 するとその先には地下に続く階段があり、そこを降りると両側に檻のある、牢獄のような空間に出た。

 フラムは漂う匂いに、思わず顔をしかめる。


「なんか、獣臭くないですか?」

「そこも問題よねぇ、でもキマイラの改良案としては優先度が低いのよぉ。どうしても強さを追い求めたくなるっていうかぁ、研究者の性よねぇ」

「……んん?」


 会話は成立しているようだが、フラムはまったくついていけてない。

 色々と聞きたいことはあったが、まず彼女は、ここが何のための場所なのか知るために檻の中に視線を向けた。

 薄暗い室内に、かすかにその姿が見える。

 大きさと形から、最初は人間が直立しているのかと思ったが、どうやら違うようだ。

 頭は鳥、体は狼、腕は熊、背中には大きな羽――それは紛れもなく、モンスターだった。


「きゃあぁっ!?」


 飛び退くフラム。

 背中に鉄格子が当たる。

 さらに背後に気配を感じて振り向くと、そこには同じ見た目をしたモンスターが立っていた。


「ひっ……ど、どうして城の中にモンスターがっ!?」

「新鮮な反応ねぇ。安心しなさい、フラム・アプリコット。私の・・キマイラがぁ、指示もなしに他人に危害を加えることはないわぁ」

「キマイラ……?」

「モンスターをつなぎ合わせて作ったぁ、最強の兵器よぉ。しかも人間の命令に絶対服従、裏切る心配もないいい子ちゃんなんだからぁ」


 キマイラのことを語るエキドナは、どこか誇らしげだ。

 まるで自分の子供を自慢しているように見える。


「ほ、本当に、いきなり襲ってきたりしないんですか?」

「ないわぁ、断言してあげる。でもぉ、念のためにぃ、ダフィズと同じ失敗はしたくないのよぉ」

「ダフィズ?」

「んふふふ、こっちの話よぉ。とにかくぅ、あなたが近づいて何も問題がないならぁ、それでテストは合格ってわけぇ」

「私が、近づいて……その、よくわからないんですが」

「いいのよぉ、わからなくても。ただ歩いて私についてくるだけでいいわぁ」


 理由が聞けないのはもやっとするが、エキドナがこの化物たちを作った張本人だとするのなら、聞くのもそれはそれで怖い。

 藪蛇をつつくことになりそうである。

 フラムはとにかく言われるがまま、導かれるがままに、彼女の後ろをついてまわった。

 奥に進むほど檻は広くなり、中にいるキマイラのサイズも大きくなっていく。

 特にフラムは獅子型が苦手で、その体を見るとなぜか強烈な悪寒を感じた。


 檻エリアを抜けた二人は、また扉を開き、その先にある広い部屋に足を踏み入れる。

 どうやらここは、エキドナの研究室らしい。

 三つほど並んだ巨大な試験管の中には液体が満たされており、檻にいたものとは異なるキマイラが浮かんでいた。

 そのうち、オーガの頭を持つキマイラと目が合った。


「ねえフラムぅ、あのクレードルのまわりを歩き回ってもらってもいいかしらぁ?」


 クレードルという言葉は知らないが、試験管を指していることは理解できる。

 言われるがまま、フラムはオーガ頭の化物に近づくと、その周りを歩き回った。

 そんな彼女を、モンスターの視線が追う。


「あら、やっぱり旧型だと影響があるわねぇ」


 モンスターがフラムを目で追っているのがエキドナの言う“影響”なのだろうか。

 確かに、先ほどの檻の個体は通りがかってでも微動だにしなかった。

 まるで、自我が存在していないかのように。

 確かに命令を阻害する自意識がなければ、忠実なしもべとして働いてくれるだろう。

 だがそれは生物というよりは、道具と言った方が正しい。

 その点、この試験管の中で浮かんでいるモンスターは、フラムの姿を目で追う程度には自我が残っており、フラムは彼に親近感を――抱くはずもなかった。

 声は聞こえない、目で追う以外のアクションも見せない。

 だがなぜか、たったそれだけの動きが、フラムにはひどく恐ろしいことに思えてならなかった。

 険しい表情を浮かべる彼女を見ながら、エキドナは「本当に記憶喪失なのよねぇ」と小声でつぶやく。


「ありがとう、もういいわよぉ」

「これ、なんで私を見てるんですか? わざわざ連れてきたってことは、他の人じゃダメなんですよね?」

「そうねぇ、そういうことになるわねぇ」


 つまり――自分が城に閉じ込められている原因は、そこにあるのだろう。

 あるいは、記憶喪失になった要因そのものも。

 もっともそれがわかったところで、何も思い出せはしないのだが。


『ごしゅ……を……て……す』


 何も――そう、たぶん、何も。

 脳内に入り込む頭痛にも似たノイズに、フラムは軽く目眩を覚えた。


「数値のチェックなんかは後回しになるかしらぁ、見た限りでは問題はないようだけどぉ、旧型に影響があったってことは干渉値は増加してるはずよねぇ……」


 しかしエキドナは何やらぶつぶつ言いながら考え込んでいるようで、彼女の異変には気づいていないようだ。

 フラムは「ふぅ」と大きく息を吐き、気分転換にと部屋の中を見回す。

 キマイラの入ったクレードルの他にも、部屋の隅には別のものが入った透明の装置があり――中には人間の脳らしきものが浮かんでいる。

 それと同じものが三つ並び、それぞれがケーブルで接続されていた。


「う……っぷ」


 フラムは口を抑えて目をそらす。

 キマイラよりもよっぽど強烈だ。

 ただの田舎娘であるフラムは、人間の脳など当然一度だって見たことはない。


「あらぁ、あれが気になったのぉ?」


 今度はエキドナもフラムの変化に気づいたらしい。

 言いながら、脳の浮かぶ装置へと近づく。


「リトルオリジン」


 装置の金属部分に触れながら、エキドナは言った。


「オリジンって、あの神様の?」

「そうよぉ。その受け皿でぇ、中継点なの。あれから受け取った力を使ってぇ……ってあら、これはあなたに話すとまずかったかしらぁ。まあいいわよね、知られたからといってどうなるものでもないものぉ」


 要するにキマイラとやらは、神様の力を使って作られたものらしい――とフラムは理解した。

 わかったところで、オリジンの正体もコアのこともわからない今の彼女には、『神様の力ってすごいんだろうな』程度の感想を抱くのが精一杯だが。

 その後、特に話すこともなくなったフラムは解放された。

 詳細な検査は別の機会にやるつもりらしく、これからは定期的にエキドナのもとに呼ばれることになりそうである。




 ◇◇◇




 兵士に連れられて部屋に戻ったフラムは、ドアが閉まった瞬間に、


「なんかうさんくさいよね……」


 そう一人ごちる。

 気になることが多すぎてうまく言葉にはまとめられないが、とにかくなにもかもが怪しい。

 エキドナの風貌というか、纏う雰囲気はもちろんのこと、自分が監視されて閉じ込められているというこの状況も。

 罪人なら罰してしまえばいい。

 そうしなかったのは、自分が王国にとって、殺したくはないものの、動きを制限したい存在だったからではないか。


「……いや、でもステータス0の私なんかになにができるんだろ」


 想像できない。

 この失われた半年間で、どうにかして強くなったのだろうか。

 だとしたら、なぜ今の自分は弱いままなのか。

 考え、思い出そうとするが、頭に何かが引っかかって・・・・・・記憶の引き出しが開かない。

 なぜだろう、そこにあるのはわかっているのに、鍵がかかったようにびくともしないのだ。

 失われた、あるいは見つからないのではなく、封じられている。

 フラムはそんな感覚がして、部屋の入り口で頭を抱えながら立ち尽くす。

 すると三度、客がやってくる。


「フラム・アプリコット、いるか?」

「誰、ですか」


 返事をすると――許可したつもりはなかったのだが――軍服を着た緑髪の女性が入ってくる。

 ピンと伸びた背筋に、女性にしては高めの身長、そして自信に満ちた表情。

 漂う雰囲気が、常人のそれとはまったく異なっていた。

 ただ者じゃない、フラムは直感で察する。


「アンリエット・バルセンヒムだ。目を覚ましたと聞いてな、挨拶ぐらいはしておかなければと思い訪ねたのだが、タイミングが悪かったか?」


 その名前は、田舎暮らしのフラムですら知っているほど有名なものだった。

 なにせ、王国軍の最高権力者なのだから。


「えっと……もしかして、将軍さんですか?」

「ふっ、知ってくれていたのか」

「当然ですっ、私の田舎にも話は伝わってきますから! でもなんで、オティーリエさんといい、そんな偉い方が私みたいな庶民に挨拶だなんて」


 重ね重ね思う。

 記憶を失う前の自分は何をやらかしたのか、と。


「その様子だと、体調に問題はないようだな」

「はい、特には」

「記憶がないと不便だとは思うが、困ったことがあったらなんでも言ってくれ。外に出るのは難しいが、物なら何でも揃えよう」

「じゃあ教えてください、私はどうしてここにいるんですか?」


 単刀直入な質問に、アンリエットは顎に手を当てて考え込む。

 どうせはぐらされて終わりだろう、と高をくくっていたフラムだったが、予想外に彼女はその理由の一部を教えてくれた。


「まず第一に、エキドナの要望だ。先ほど、研究室に連れていかれただろう?」

「見たことのないモンスターがたくさんいました」

「ああ、シェオルでの一件以降、彼女はずっとデータを取りたがっていてな」

「シェオルでなにがあったんですか?」

「申しわけないがそれは答えられない」


 そこには確固たる意志がある。

 聞いても無駄だと察したフラムは、切り替えて話を先に進めた。


「第一ってことは、第二もあるんですよね」

「第二は“抑止力”だよ」


 さらに漠然とした返答に、フラムは首をかしげる。


「性格を読み違えていた、もっと穏便な人間だと思っていた。彼女に対しては北に送った四人も効果を発揮しなかった。だから、もう一人追加する必要があったんだ」

「……よくわかりません」

「すまないな、今はそういう言い方しかできない」


 それはアンリエットなりの誠意だった。

 本来なら彼女にとって英雄は、ともに戦う仲間であるはずなのだ。

 王都を守り抜いたフラムたちに敬意を払うことはあっても、敵意を抱くことはないのだから。


「さて、本当に挨拶だけで終わってしまって申し訳ないが、用事があるので帰らせてもらうよ。また機会があれば言葉を交わそう」

「そのときは、私の状況をもっと詳しく教えてもらえると助かります」

「善処する」


 そう言い残して、アンリエットは退室した。

 フラムは何となく立ち去る彼女を見送ろうと、追いかけて廊下に出る。


「ひやあっ!?」


 すると思ったより足があがらなかったのか、彼女は敷居に足を引っ掛けてバランスを崩してしまった。

 声に反応しアンリエットが振り向き手を差し伸べようとするも、時すでに遅し。

 フラムは転び、膝を床に強打する。


「いっつつ……」

「大丈夫か?」


 手を差し伸べるアンリエット。

 フラムはそれを握って立ち上がると、「お恥ずかしいところを見せてしまいました」と苦笑いを浮かべた。

 ぶつけた部分がじくじくと痛む。

 すりむけた膝からは、赤い血がにじみ出していた。


「すいません、どこかで治療ってできますか?」


 顔を赤くしてフラムは尋ねた。

 確かに何でも揃えるとは言ってくれたが、こんなにすぐ頼むことになろうとは。

 真面目な話をした直後なだけに、恥ずかしさはひとしおである。

 しかし、アンリエットは返事をしない。

 彼女はじっと膝の傷に視線を向けたまま、微動だにしなかった。


「アンリエットさん?」


 尋ねるも、やはり無言。

 だが変化はある。


「はぁ……はぁ……」


 彼女の頬はじわり赤らみ、呼吸が荒くなっている。

 頬はひくひくと痙攣したように引きつり、瞳は虚ろに潤む。

 アンリエットは――明らかに、興奮していた。

 そして感情の昂りが頂点に達した彼女は膝をつき、縋るようにフラムの足にしがみつく。


「はぁ、はぁ、はああぁ……っ」

「え、ええぇ!? ア、アンリエットさん、一体なにをっ!?」


 戸惑い大きな声をあげるフラムだったが、彼女には届かない。

 完全にトリップした表情で、傷口に顔を近づける。

 そして舌を伸ばすと――ちろりと、血を舐め取った。


「んふううぅぅ……」


 口内に広がる鉄臭い味に、恍惚とした表情を浮かべるアンリエット。


「ひ……ひぃ……っ」


 フラムは怯えるあまり、引きつった声をだすことしかできない。

 そもそも、ステータス0の彼女では、将軍であるアンリエットの腕を引き剥がすことなどできるはずもないのだが。


「血だ……血、血が……はあぁ、んはああっ、こんな……こんなの、久しぶりに……あぁ、また出てきたっ!」


 新たに血がにじむと、しゃぶりつくように口づけるアンリエット。

 膝を這いずる舌の感触は、フラムにとってはただただ気持ち悪い。

 いくら相手が将軍とはいえ、ほぼ初対面の人間にこんな真似をされて受け入れられる人間などいるものか。


「おいし……おいしい、血が……他人の、少女の血……はふっ、ふぶううぅっ……!」

「や、やだ……やめてくださいアンリエットさんっ……やめてぇっ……!」


 頭を両手で押し返してもそれは同じこと。

 びくともしないアンリエットに、フラムは涙を流しながら首を横に振る。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、ひたすら声でも心の中でもそれだけを連呼して拒絶に拒絶を重ねた。

 そして――


「やめてえぇぇぇぇえええっ!」


 フラムはありったけの勇気を振り絞って、叫ぶ。

 するとようやくアンリエットは動きを止めて、フラムの顔を見上げた。


「あ……ああぁ……」


 その顔はみるみる蒼白になっていく、おそらく正気に戻ったのだろう。

 足から手を離して立ち上がると、ふらふらとよろめくように後退する。


「す、すまない、私としたことがとんでもないことを……」


 アンリエットは右手で顔を覆いながら、沈痛な面持ちで言った。


「昔からの、悪い癖なんだ。相性のいい血を見てしまうと、どうにも欲望を抑えきれなくなってしまう。最近はオティーリエが満たしてくれていたんだが……いや、こんなものはただの言い訳だ」


 彼女自身にとっても、よほどショックな出来事だったらしい。

 何度も何度も、将軍は一般庶民のフラムに向かって深々と頭を下げた。

 フラムは『もういいですよ』と言いたいところだ。

 だが、恐怖が体に刻み込まれていて、うまく言葉がでてこない。

 ただ無言で、その場に立ち尽くすことしかできなかった。


「本当に、申し訳ない!」


 最後に大きめの声で言うと、アンリエットはフラムに背中を向けて立ち去っていった。

 一人残されたフラムは、後ずさり、背中が壁にぶつかると、それにもたれてへたりこむ。


「なん……だった、の?」


 終わってみても、なにもわからない。

 話している間はまともな人だと思ったのに、そうじゃなかったということだろうか。

 膝は未だに濡れたままで、とても気持ち悪い。

 拭くものが無いので、立ち上がり部屋に戻ろうとするフラム。

 すると――廊下の向こうから、オティーリエが姿を現した。

 彼女は真っすぐフラムに接近する。


「オティーリさ……え、ぎっ」


 そして彼女は、何も言わずにフラムの首を絞めた。

 そのまま壁に押し付け、全力で殺しにかかる。

 予想外の行動に、フラムは目を大きく見開いた。


「あ、が……ど……し、て……?」

「見ましたわ……あなた……ううん、“てめえ”……お姉様に……お姉様にッ、何をした?」

「わだ、じ……なに、も……」

「嘘をつくんじゃねええぇぇぇぇぇぇぇぇえええええええッ!」


 彼女は吼え、そして鬼のような形相でフラムを睨みつけた。


「よくもっ、よくもよくもよくもよくもおぉぉおおおおおおおおおッ!このクソアマがあぁぁぁぁあああッ! お姉様に血を飲ませていいのは私だけなんだよッ、てめぇみたいな乳臭えガキが調子に乗ってんじゃねええぇぇぇぇええッ!」

「や、め……ご、が……っ」

「死ねッ、死ねッ、死ねえええぇぇッ! 私のお姉様に近づくやつはどいつもこいつも死んじまえええぇぇぇぇぇぇええッ!」


 もはや口調も原型を止めていない。

 先ほどの行為はいわばアンリエットの暴走なわけだが、そんな事情はオティーリエにとってどうでもよかった。

 偶然、それを目撃してしまった。

 当然、お姉様が悪いわけがない。

 つまり、お姉様を誘惑したこのクソアマが悪いに決まっている。

 お姉様至上主義の彼女のロジックは極めて単純である。

 常に、いかなるときであっても、アンリエットが加害者になることはないのだ。

 仮に100パーセント彼女が悪だったとしても、である。


「戻らねえ、お姉様にてめえの血が入り込んだことは変わんねえぇぇぇ! どうしてくれんだ、わたくしのお姉様を汚した責任、どう取ってくれんだよぉおおッ!」

「ぐ……ううぅ……」

「死ぬしかねえだろ!? なあ、死ぬしかねえんだよ、てめえみたいなクズがッ、ゴミがッ、生きて返すもんかよぉおおおおおッ!」


 首を絞める腕に、さらに力が込められる。

 オティーリエの殺意は本物であった。

 フラムの顔が赤黒く変色し、口からは涎が垂れ、じたばたと暴れていた手足からも力が抜けていく。


『私だっ…………分、全然、……て……す』


 走馬灯のように再生される記憶。

 封印の隙間から、思い出が漏れるように溢れ出す。

 それでもまた、すべてではない。

 霞がかった、たぶん自分にとって大事な人の姿が、ぼんやりと見えるだけだ。

 だがもうそれもおしまいだ。

 意識が薄れる、自分は死ぬ。

 わけもわからないまま、わけのわからない連中に殺されて――


「暴走してんなよ、副将軍様よ」


 また、聞いたことのない男性の声がする。

 突如現れた、ひげを生やした悪人面の男性は、オティーリエの背中に向けて容赦なく剣を振るった。

 すると殺気に気づいた彼女はフラムを解放し、腰から剣を抜いて応戦する。


「邪魔をすんじゃねぇ、ジャック・マーレイッ!」

「これさえなけりゃいい女なんだけどなァ、オティーリエ」

「貴様がどう思おうとどうでもいいッ、私の邪魔をすんじゃねえっつってんだよぉぉぉおおおおッ!」


 フラムの前で、目にも留まらぬ速さで刃と刃がぶつかり合う。


「げほっ……ごほっ、う、ぇ……」


 フラムの頭はくらくらして、視界は霞んで、喉からは血の匂いがする。

 唾を飲み込むと、それだけで絞められた部分の内側がじくじくと痛んだ。

 あまりに目まぐるしく変わる状況に、体も脳も混乱しきっている。

 一体なにが起きているのか、なぜ自分はいきなり襲われて、そして二人が戦っているのか。

 というか男は誰なのか――なにもかもがわからない。


「いいのかよ、フラム・アプリコットの保護はそのお姉様からの命令じゃなかったのか?」

「ぐっ……それは」

「嫌われるぞ?」

「う……」


 アンリエットの名前を出されると、オティーリエは少しずつ大人しくなっていく。

 彼女もまた、アンリエットが血を欲したのと同様に、発作的にフラムに襲いかかってしまったのだろう。

 そんな情緒不安定な人間が将官になれるものなのだろうか。

 あるいは、だからこそ、将官になれたのだろうか。

 フラムには理解できない世界だった。


「……くっ」


 オティーリエはフラムの方を見ると、悔しげに歯を食いしばって走り去った。

 ジャックと呼ばれた男は、すっかり腰を抜かしたフラムに近づき、手を差し伸べる。

 しかしアンリエットのトラウマが残る彼女はそれを拒否し、自分の力だけで立ち上がった。


「俺はジャック・マーレイだ、教会騎士団で副団長をしてる」

「どうも……ありがとう、ございます」

「災難だったな。いくら処刑しまくって人材がいないからって、ここの連中に任せるのは間違ってんだよ。どいつもこいつも人格破綻者なんだからさ」

「はあ……」

「それに比べて俺は正常だから安心だろ? さ、部屋に入ろう」


 ジャックは馴れ馴れしくフラムの肩に手を置くと、背中を押して部屋に押し込んだ。

 そしてドアを閉めると、なぜかすぐさま鍵をかける。

 だが、すっかり憔悴しきっている彼女はそれに気づかない。

 そのままベッドの近くまで連れて行かれると、ジャックは急に乱暴にフラムを押し飛ばした。

 シーツの上に、仰向けに投げ出される彼女の体。

 彼は覆いかぶさり、襟に手を伸ばす。


「え? なに、を……」

「守ってやったんだ、これが対価ってことで、いいだろ?」


 そして力いっぱい引っ張ると、シャツの胸元が千切れ、ブラがあらわになる。

 とっさに手で隠そうとするフラムだが、ジャックに手首をつかまれ阻止された。

 やっとまともな人が出てきたと思ったのに――心身ともに疲れ果てたフラムには、もう抵抗する体力はない。


「やだ……やだああぁ……!」


 ただ子供のように駄々をこねて、首を振るだけだ。

 そんなフラムの様子を見て、ジャックは舌なめずりをした。


「女人禁制だかなんだか知らないが、騎士団にいる限りまっとうな手段じゃ女を抱けねえからな。こうするしかないんだ。大丈夫、ちゃんと優しくしてやるからさ」


 身勝手に責任転嫁しながら、彼の手はフラムの下半身に伸びる。

 ボロボロと涙を零し、彼女は「うううぅぅぅぅ」と唸る。

 そのとき――ガギンッ、と金属を断ち切る重く強い音が響いた。

 ジャックはびくっと肩を震わせ、おそるおそるドアの方を見る。

 破壊されたのは、部屋の“鍵”だ。

 何者かが剣で強引に壊したのである。

 ギイィ、と開くドアの向こうから現れたのは、白い鎧を纏った一人の騎士。

 彼はその場で剣を高く掲げた。


「ヒューグ団長……!?」


 ジャックは明らかに狼狽している。


「私ごときの言葉が他人に届くとは思っておりませんが、欲望は邪悪なものであると、常に貞操帯を使用するようにと、あれほど……あれほど、言ったはずであります、副団長殿!」


 はきはきとした口調で言い放つヒューグ。

 彼のことなどまったく知らないフラムは、呆気にとられていた。

 ジャックはフラムからも体を離し、両手を上げて必死で無罪を主張する。


「待ってください、まだ俺はなにもしてないんですっ!」

「言いわけは不要であります!」

「そんなっ……嫌だっ、俺は死にたく――」


 命乞いをするジャック。

 だがヒューグは無情にも、その場で真っすぐ剣を振り下ろした。


正義執行ジャスティスアーツ――浄化の刃スコッチメイデン


 ベッドからドアまでは離れている、普通なら届く距離ではない。

 だが――ヒューグの刃は、どういう理屈か、正確にジャックの首を捉えた。


「……あ」


 処刑は成った。

 刎ね飛ばされたジャックの頭部が宙を舞い、フラムの足の間に着地する。

 さらに首の切断面から血が吹き出し、ベッドの上を――もちろん彼女自身の顔も赤く汚した。

 凄惨な光景を前に、フラムの脳の処理能力が限界を越える。

 アンリエットの暴走から始まり、オティーリエに殺されかけ、ジャックに襲われ、そしてヒューグがジャックを殺した。

 なにが、どうなって。

 どうして、こんなことに。


「もぉ……わけ、わかんない……よ……」


 涙と血でぐしゃぐしゃに顔を濡らしながら、フラムは意識を失った。





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