第110話 弱き者

 





 魔族領国境付近の町、ヴォーラー。

 フークトゥスを出たフラムたちは、クーシェナとミナリィアの姉妹を連れてここを訪れていた。


 王国に近いせいか、このあたりになると生えている雑草や木は、フラムの見覚えのあるものが増えてくる。

 むき出しの、砂が多めの地面の上に建ち並ぶ、無骨な石の建物。

 このあたりは雪も降らないためか、屋根の形状が北の方とは若干異なる。

 かといって基本的な作りは変わらないため、例のごとく集会所以外の住宅には飾り気がなく、他の集落と受ける印象は大して変わらなかった。


 そんな町並みを歩いていると、通りがかった住民たちがざわつきだす。

 ネイガスとツァイオンもそれなりに有名人のようだ。

 フークトゥスに比べて、この町では魔王の影響はそれなりに大きいとも言える。

 同じ魔族領南側に存在する場所でも、国境線にほど近いと魔王が訪れる回数にも差があったのだろう。


 ネイガスとツァイオンも、シートゥムの連れ添いで何度もヴォーラーを訪れたことがあるらしく、先頭を歩く二人の足は目的地を目指して迷いなく進む。

 いつもならネイガスの隣を歩くセーラは、今はクーシェナとミナリィアのそばにくっついていた。

 二人ともセーラには比較的心を許しているようで、言葉を交わしては、時折、年相応に表情をほころばせている。


 町の中央あたりまで進むと、ネイガスとツァイオンは民家の前で足を止めた。

 そして、呼び鈴が無いため、手の甲で玄関を叩き、家主の名を呼ぶ。


「トファノさん、いる?」


 少し間を開けて、トファノと呼ばれた老婆が姿を見せた。

 ツァイオンは腰をかがめ、小柄な彼女と視線を合わせて「よっ」と片手を上げた。


「おや、ネイガスにツァイオンじゃないか。無事だったんだねえ、良かった良かった」


 トファノは二人の手を順番に握り、再会を喜ぶ。

 そして、フラムたちの方に視線を向けた。


「人間のお客さんとは、珍しいねえ」

「詳しい話をすると長くなるわ」

「なら中に入りな。あたしも、聞いておきたいことがいっぱいあるのさ」


 そう言って、家の中に入っていくトファノ。

 遅れてフラムたちも家にあがり、ネイガスがこれまでのあらましを彼女に話した。

 ディーザの裏切り、オリジンの復活、シートゥムの同化、リートゥスの存在。

 驚くことばかりで、トファノはさすがに困った表情をしていた。

 だが、最も重要なのは――フークトゥスで保護した姉妹についてである。


「そうかい、ネイガスはこの二人の身柄をあたしに預けようとしてるんだね」


 前もって話を聞いていたためか、クーシェナとミナリィアに動揺はない。

 だが不安はまだある。

 フークトゥスから離れたとはいえ、彼女たちはまだ他者を信頼できる状態ではないのだから。

 トファノは彼女たちを見ると、にこりと笑って言った。


「腹が減ったって顔をしてるねえ」

「別にそんなことないよ、いつものことだし」

「じゃあいつも腹が減ってるってことだ。腹が減ると頭は動かない、ろくでも無いことばかり考えるようになる。難しい話をする前に、食事にしなきゃならないようだ」


 強引な話の流れに、困った表情を浮かべるミナリィア。

 しかしトファノはマイペースに立ち上がり、部屋の隅で腕を組む男――ジーンを指さした。


「そこの難しい顔をしてるあんた」

「……」


 もちろん彼は反応しない。

 とはいえ、それで折れるトファノでもない。


「なに目をそらしてるんだい、眼鏡をかけたあんただよ」

「まさか僕のことを言っているのか?」

「それ以外に無いだろう。さ、作るから手伝いな」

「は? まさかこの天才に料理を手伝えと言っているのか? なぜそのようなことをしなければならない、納得できる理由を言え」

「うだうだ言わずにやるったらやる! どうせ暇なんだろう?」

「いや、待て暇などでは……クソッ、離せ袖を掴むな! おいそこの愚民ども、誰か助けろ! 僕のような天才の貴重なリソースが料理などに割かれていいと思っているのか!?」


 そう言って連れて行かれるジーン。

 もちろん誰も助けない。


「あんたたちは疲れてるだろう? 適当に部屋でも使って休んでな」


 トファノはそう言い残してリビングを去っていった。

 フラムはその様子を見てぼそりとつぶやく。


「あのおばあさん強いなあ……」

「私の母の時代はもっとすごかったそうですよ」


 リートゥスの母――つまり先々代の魔王だ。

 かれこれ百五十年以上前の話になる。

 魔族なのだからそれぐらい生きていても不思議ではないが、今以上とは一体どれだけの肝っ玉の持ち主だったのやら。

 もしその頃のトファノにジーンをぶつけたらどうなっていたのやら。


「あのたくましさは見習いたいっす。でも、なんでジーンを指名したんすかね?」

「色々と見抜いたんじゃないかしら、若者を矯正するのが趣味のおばあさんだから」

「さすがのジーンでも、あのばあさんには勝てねえだろうな」


 苦笑いを浮かべるツァイオン。

 どうやら彼にも、トファノに関する苦い記憶があるようだ。

 何はともあれ、こうなってしまったら食事ができるのを待つしかない。

 ネイガスとツァイオンは自主的に・・・・キッチンに向かい、料理を手伝うようだ。

 残されたのは、クーシェナとミナリィア、そしてセーラとフラム。


「おらたちは部屋で休もうと思うっすけど、フラムおねーさんとリートゥスさんはどうするっすか?」

「私は、フラムからあまり離れられませんから」


 フラムというよりは、鎧からではあるが――離れられてもせいぜい数メートル、トファノの手伝いをするにはフラムがずっとキッチンの近くで待機しなければならない。


「私は町をちょっと散歩してみようと思ってたんだけど、リートゥスさんそれでもいいですか?」

「構いませんよ、私にとっても懐かしい場所ですからね」

「ってなわけで、私たちは外に出るから、セーラちゃんたちはゆっくり休んでて」

「了解っす! さ、行くっすよ」


 セーラは姉妹を連れて、部屋へ向かう。

 あの二人の方がセーラよりもずっと年上なわけだが、互いにそこはあまり気にしていないようだ。


「フークトゥスを離れてから、クーシェナちゃんとミナリィアちゃん、明るくなりましたよね」

「あの町は彼女たちにとって檻だったのでしょう。きっと外の世界は、初めて見るものばかりで楽しくてしょうがないはずです」

「そのままの勢いで幸せになってくれるといいんですけど」

「大丈夫ですよ、トファノに任せれば。彼女、なんだかんだ言って優しいですから」


 リートゥスの言葉には実感がこもっている。

 確かに押しは強いが、怖さはあまり感じない。

 姉妹も、彼女になら安心して預けられるだろう。


「しかし、町を散歩するということは、なにか気になることでもあったのですか?」

「さっき外を歩いてたとき、この町の人たちってネイガスさんやツァイオンには驚いてましたけど、私たち人間には驚いてなかったじゃないですか。それに、町中でちらっと人間の姿を見たような気がしたんです」

「すでに他の人間がここに来ていると?」

「その可能性はあるかと」


 真相を暴くために外に出たフラムとリートゥスだったが、散歩を初めてものの五分ほどで人間と遭遇することとなった。

 話は単純、王国でキマイラに襲われたのでここまで逃げてきたらしい。

 フラムたちが王国にいたときよりもキマイラの被害は広がっており、今や国境付近にまで及んでいるとのことだ。

 逆に考えると、王都周辺の危険性は減ったと言えるかもしれない。

 故郷の無事と、離れ離れになった大切な人――ミルキットやエターナ、インクたちの身を案じ、フラムは青空を見上げた。




 ◇◇◇




「誰かの作ったご飯、か……」


 部屋のソファでくつろぐミナリィアが呟いた。

 隣で肩を寄せるクーシェナは、不思議そうに彼女の方を見ている。


「ひあいぶい、あえ」

「うん、フークトゥスにいたときはずっとゴミ漁りしてたもんね」


 彼女は地獄を思い出し表情を曇らせた。

 もちろん、虐げられるべき存在であった二人に食事など与えられない。

 唯一許されたのは、家庭から出たゴミをあさり、口にすることだけだった。

 水だって真水がもらえるのは数日に一度だけだったのだ、病気になるのも当然のことだ。


「もうそんなことは無いっすよ」


 セーラは優しい声で告げる。


「本当に?」

「断言するっす」

「れも、へーらのひりあいひゃ、ない」

「確かにトファノさんはおらの知り合いじゃないっすけど、ネイガスがああ言うってことは間違いないっす」

「ひんあい、ひへう?」

「信頼してるっす、だから二人にもおらのことを信頼して欲しいっす」


 笑いかけるセーラに、クーシェナも「んへー」とだらしなく笑い返した。

 一方で、ミナリィアはまだセーラたちのことも信じきれていないようだ。


「すぐに信じ切るのは無理だと思うっすよ。でもきっと、一緒に過ごしていれば、自然とそうなっていくと思うっす」

「トファノっておばあさんも、ネイガスって女の人も、セーラたちには本当の姿を見せてないだけかもよ」

「それは無いっすね」

「どうして言い切れるの?」

「ネイガスと一緒にいたからっす。トファノさんもネイガスと一緒にいたっす、だから信じられるっす」

「……あたしは、そうはなれないかな」

「あ、おらみたいにはならない方がいいかもしれないっすね。ちょっと人を信じすぎるところがあるみたいっすから」


 苦笑いを浮かべ、少し恥ずかしそうに頬を染めるセーラ。

 それを見て、ミナリィアは思わず吹き出した。


「ふふっ……なんか、セーラと話してると気が抜けちゃうね」

「むーろめーかー」

「そうっすかねぇ……でも、おらでみんなが笑ってくれるなら、それ以上に幸せなことは無いっす!」


 両拳を握りながら宣言するセーラ。

 彼女のポジティブさは、真似するのは難しい。

 それでも彼女の影響を受けて、傷ついた人たちはほんの少しだけ前向きになれる。

 姉妹と最初に出会ったのがフラムだったら、ネイガスだったら、ツァイオンだったら、あるいはジーンだったら――二人を救うことはできなかっただろう。

 魔法の力は大したものではない。

 キマイラや、オリジンに立ち向かうには不安が多い。

 しかし、セーラだからできたこと、セーラでなければ出来なかったことが、確かにここに存在していた。

 その出会いの奇跡を、クーシェナとミナリィアも噛みしめる。


「あーあ……こんな風に、誰かと普通に話をするなんて、もう二度と出来ないと思ってたのに」

「あのほき、いらい?」

「あの時……ああ、神樹の下で、父様や母様とご飯を食べたとき?」


 頷くクーシェナ。

 そんな思い出話があることは、セーラにとっても意外だった。


「ご両親は、そういうこともしてくれたんすか?」


 その問いに、ミナリィアは首を横に振った。


「たった一度だけ、両親の機嫌がとてもよくて、『家族ごっこをしてみたい』って母様が言い出したことがあってね。母様が作ったへったくそでまずいお弁当を持って、神樹の下でご飯を食べたことがあったんだ」

「ごっこ、っすか」

「想像とかじゃなくて、本当に言ってたからすごいよね。でも、悔しいけど、すっごく楽しかった。そのあとも神樹を見るたびに思い出すぐらいには、あたしにとっても、クー姉にとっても、大事な思い出だった」

「ミナ……」


 どれだけ腐っていても、二人にとっての両親は彼らだけだ。

 いや、普段がひどかったからこそ、逆に際立って、そのときのことを忘れられなくなってしまったのかもしれない。


「質素だったけど、下手だったけど、まずかったけど――おいしいって喜んでみたりしてね」

「ほんろうに、おいひかった」


 味の問題ではない。

 親が作ってくれた、最初で最後の料理。

 それが大事なのだろう。


「母親が作ったってだけなのに、それだけでだよ? 単純だよ、子供って。どれだけ憎んでも、その記憶だけはキラキラ輝いてて、嫌でも忘れられない」

「似たようなもんっすよ、誰だって。おらだって、『もし教会に拾われずに普通に生きてたら』ってよく想像してるっすもん」


 ないものねだりが無駄なことなんて、子供だって知っている。

 だが、無駄でもやってしまうのだ。

 虚しくなるだけだとわかっていても、求めずにはいられない。


「人間も魔族も一緒だね」

「そう、一緒っす。だからクーシェナとミナリィアも、きっと自分を肯定してくれる誰かと出会えれば、幸せになれるっす!」


 自分自身がそうであったように。

 そして、願わくば、トファノやこの町で出会う人たちが、二人にとってそういう存在でありますように――と、セーラは心の底から願った。




 ◇◇◇




 食事を終えると、フラムたちはヴォーラーに一泊することになった。

 泊まることに、珍しくジーンは反対しなかった。

 どうやらトファノとの攻防で精神力を使い果たし、本人もダウンしてしまったようだ。

 一方で元凶であるトファノの方はピンピンしているのだから、恐ろしいものである。


 翌朝、フラムたちは早い時間に町を出た。

 別れ際、姉妹とセーラは、「戦いが終わったら必ず会いに来るっす!」と小指を絡め約束を交わす。

 ヴォーラーでほんの一晩過ごしただけでも、クーシェナとミナリィアの顔つきはずいぶんと変わっていた。

 それだけ、フークトゥスでは抑圧されていたのだろう。

 次に会うときは、二人がもっと素敵な笑顔を見せてくれると信じて、一行は南へ向かう。


 町から出ると、その先には行く手を阻むように配置された柵が現れる。

 これが国境線だ。

 空を飛べる魔族には意味のない障害だが、どちらかと言うと『ここから先は王国である』という主張を明確にすることが目的で設置されたものである。

 それを飛び越え、ついに王国へ。


 そこからほど近い、対魔族を想定して作られた前線基地は、廃墟と化していた。

 当然、生きた人間は一人もいない。

 キマイラによる殺戮の形跡と、操られた死者、それとグール化した死体があるだけだ。


 また、そこから少し離れた場所にある最寄りの町にも、人の気配はない。

 ヴォーラーにいた人間に聞いた通りである。

 逃げた人間も多かったそうなので、町の人間が全滅したということはないだろうが――二箇所だけでも、死者数は百人をゆうに越えている。

 被害が大きいのは、魔族領側と王都側、両方向からキマイラが来たためではないかと推測されるが、それならヴォーラーが無事なのは不思議である。


 ひょっとすると、ディーザが襲うのは避けるように指示したのかもしれない。

 なぜなら、ヴォーラーは彼の生まれ故郷でもあるからだ。

 彼に故郷への郷愁という感情が存在するとも思えないが、それらしい理由は他に考えられなかった。


 もっとも、国境付近が壊滅しているからと言って、他の地方もそうとは限らない。

 以前ならともかく、今のフラムはそう考えることができるようになっていた。

 なにはともあれ、まずは道中の町に立ち寄りながら王都を目指すしかない。

 ミルキットを探すにしても、避難所代わりに使っていた遺跡はその先にあるのだから。

 本来なら長い旅路だが、今の彼女たちが駆け抜ければ、一日もかからないだろう。




 ◇◇◇




『人間の心理とは不思議なものだな、ヒューグ。いや、今の私を人間と呼んでいいのかという疑問はあるがヒューグ、しかしだ、私は私のままなのだからそこで区別は必要ないと思うんだ。つまり私は今でも、どこまでもまともなニンゲンだよヒューグ』


 右手から巨大な肉塊をぶら下げた男は、それをずるずると引きずりながら森の中を歩いた。

 その前を走るオティーリエは、必死に声をあげる。


『早くお逃げなさいっ! 足を止めてはいけませんわ、とにかく走って!』


 まずは避難所から救出した一般人を逃がすことが先決である。

 ヘルマンやヴェルナー、アンリエットは別の場所で避難民たちを逃している。

 途中まで一緒だったエターナやインク、そして彼女たちが連れていたミルキットはどこへ行ったのかはわからない。

 ヒューグの振り下ろした巨大な腕に分断され、はぐれてしまった。


『すなわち私が何を言いたかったかと言うとだなヒューグ、人というのは逃げられると追いたくなる。おそらくこれは好きな人間をいじめて犯したくなる現象とよく似ていると思うんだ、ヒューグ。そうだろう? そうだねヒューグ。私もそう思うよ』

『こっちは全力で逃げているはずですのに……間違いなく離れているはずですのに、なぜあの男はどこまでもついてくるんですの!?』


 逃げても逃げても、なぜか離れない。

 見えなくなったかと思えば、すぐ後ろにいる。

 そしてあの、支離滅裂な言葉がどこからともなく聞こえてくるのだ。

 体力以上に、オティーリエの精神がすり減っていく。

 元から得体の知れない男だったが、それにオリジンが混ざったことで、輪をかけておぞましい存在になっている。


 ヒューグと遭遇したのは、エターナの魔法で崩壊する遺跡から避難民を救ったあとのことであった。

 予定を変更して、助け出した彼らを王都から離れた町へ護送しようとしたオティーリエたちであったが、その道中でこの化物とかち合ってしまった。

 最初は、動きが緩慢だったので逃げられると判断し、固まって遠ざかろうとしたのだが、いざ逃げてみるとなぜかぴたりと後ろをつけてくる。

 逃げても逃げても距離が遠ざかることはない。

 動きは遅いままで、特に急いでいる様子もないのに、である。

 姿が見えなくなった次の瞬間には、また近づいてきているのだ。

 この状況が危険だと判断したアンリエットは、分散して逃げることを提案した。

 今の戦力ではヒューグを倒すことは難しい。

 足止めは可能でも、仮にその隙に避難民たちを逃したとして、彼らがキマイラと遭遇しないとも限らないのだ。

 つまり、それは『逃げ切れなくとも犠牲者が最低限で済むように』という苦肉の策であった。

 そしてヒューグに追われる貧乏くじを引いたのが、オティーリエだったというわけである。


 走るたびに、頭のカールしたツインテールが揺れる。

 王都にいたころは艶のある赤色だったが、長い間まともに風呂にも入れていないせいか、少しくすんでいた。

 顔だって泥まみれだし、白い軍服だっていたるところが汚れている。

 そんな苦労をしてまで王国の人々を助けた末に待っているのが、あんな化物との鬼ごっこなのだからたまったものではない。


『特にあの女、本当はずっと前から食べたいと思っていたんじゃないのかい、ヒューグ。そうだったヒューグ、あれはいい女だ、肉も硬くて切るととても気持ちよさそうだし、きっと心臓なんてコリコリしていてとても気持ちいいよ、ヒューグ。つまりいただきたいね、そうだねいただきたいね、ヒューグ』

『わけがわかりませんわ、何なんですのあの男はっ!』


 振り上げられる腕。

 避難民たちは先に進んでいる。

 相手の狙いはオティーリエだ、ゆえに彼女はあえて違う道を選び前へ進んだ。

 つまり、敵の攻撃を引き受ける覚悟を決めたのである。

 いや、覚悟など決まっていない。

 本当は嫌に決まっている。

 せっかくアンリエットと想いが通じ合いそうなのに、戦いさえ終われば軍を抜けて、彼女のそばで働けるのに。

 そんな夢のような生活を前に、死ぬことなど許容できない。

 しかし――振り上げられた腕が天に伸び、巨大な塔のようにそそり立つ姿を見て、さすがの彼女も『もうダメかもしれませんわ』と心が折れそうになってしまう。


『私は最近気付いたんだヒューグ。何に気付いたんだいヒューグ。人は、死んでも、セックスができるんだよ、ヒューグ。いいやむしろそっちの方が気持ちいいんだよね、だって裏切らないから、ヒューグ』


 ゴオォォオオオッ!

 巨大な建造物が倒れ込むように、ヒューグの腕がオティーリエに迫る。

 彼女は必死に避難民が逃げた方向とは逆に走り、最後には不格好に前に飛び込みながらそれを回避した。

 ズウウゥゥゥンッ――

 地面に叩きつけられた異形の腕は、大地をえぐるのみならず、生えていた樹木を幹を砕きながら押しつぶす。

 人があの下敷きになれば、原型すら残らないだろう。


『どうにか、避け――』


 安堵するオティーリエ。

 直後に“首への斬撃”の存在を思い出し、必死で転がり回避した。

 おかげで、血が流れる程度には傷が残ったが、死は免れる。

 だが、ヒューグの攻撃はそれだけでは終わらなかった。

 彼の腕が、バラバラに分裂したのだ。

 元々、彼の腕はオリジンの力によって様々な生物を継ぎ接ぎして作られたものである。

 それが切り離されたということはつまり――生物の継ぎ接ぎ、そもそも生命体として成立しているのかも怪しい異形が、数千体も野に放たれるということ。

 人の腕にムカデのように昆虫の足が生えたもの、羊の切り落とされた頭部に鳥の頭が付けられたもの、大腸を手足のように使い這いずるもの、右半分が犬、左半分が人の体で四つん這いで近づいてくるもの――それらが一斉に押し寄せてくる姿は、彼女にとって悪夢と呼ぶ他なかった。

 ぬめりとした感触が、体を這いずる。


『ひっ……いや、お……お姉様……っ』


 目前に迫る死に、オティーリエの頭の中を、これまで感じたことのない恐怖が埋め尽くしていった。




 ◇◇◇




「お姉様あぁぁぁぁっ!」


 急に叫んで起きたオティーリエに、ソファに腰掛けお茶を飲んでいたアンリエットは、体を震わせ驚いた。


「はぁ……はぁ……」


 上半身を起こしたオティーリエは、汗の浮かぶ額に前髪を張り付かせながら、肩を上下させている。

 アンリエットはティーカップをテーブルに置くと、ベッドに近づいた。

 そしてオティーリエの頭を胸に抱き寄せる。


「またあの夢を見たのか」

「お姉様……あぁ、お姉様ぁ……」


 ここは王城にある、アンリエットの自室。

 アンリエットやヘルマンの助けにより、オティーリエはどうにかヒューグから逃げ切った。

 だがそのまま彼に追い立てられる形で、王都まで戻ってくる羽目になったのだ。

 しかも、あのとき別れたエターナたちは未だ行方不明のまま。

 いつ彼が襲ってくるかわからない以上は、戦えない一般人を連れて王都の外に出るわけにもいかず、ずっとここに足止めされている。


 食糧はあるし、部屋も余っている。

 キマイラも散り散りになったのか、時折人狼型が姿を見せるぐらいのものだ。

 人狼型なら、ここにいる全員が力を合わせれば、なんとか撃退できる。

 籠城するにはうってつけの場所ではあるが――かれこれ一週間近くここに籠もっていると、心の方が先にやられそうだ。

 アンリエットはともかく、ヒューグ戦で精神的にダメージを受けたオティーリエはこの状態だし、何より避難民たちの精神状態が危うい。

 打開策を考えるものの、現状維持以上の最善が見つからない。

 そんな状況に、アンリエットは臍を噛む。


「わたくしたち……このまま、死んでしまうのでしょうか」


 オティーリエがつぶやく。


「珍しく弱気なんだな。お姉様と一緒なら何でもできる、と言ってくれるお前の方がらしくて好きだぞ」

「ありがとうございます。ですが……」


 この状況では、さすがのオティーリエでも無責任に『何でもできる』とは言えない。

 たとえアンリエットが共にあっても、である。


「どんなに窓を閉じても、王都に蔓延する死の匂いは消えませんわ。町を見下ろせば、キマイラに操られたり、グール化した死者が肉を求めて徘徊している。建物は燃え、朽ち果て、町並みは原型すら残していない。わたくしたちの命だけが助かったとしても……王国は、もう終わりではないですか」

「終わらんさ」

「なぜ、言い切れるのですか」

「スロウ王は存命だ、私もいる、オティーリエもいる、ヘルマンやヴェルナーだって生きてる。ならば諦めるには早すぎるだろう。それとも何だ、お前は私と共に生きるより、諦めて死ぬ方を選ぶのか?」


 アンリエットは発破をかけているようだ。

 その言葉に、というよりも、彼女に気を遣わせてしまったことを、オティーリエは心から恥じ反省した。


「そう……ですわね」


 本心では、まだ完全に立ち直ったわけではない。

 だがせめて、アンリエットの前だけでは強がろうと思った。

 無論、それに気づかない彼女ではないが、強がろうとするだけ、言葉を交わす前よりはマシである。

 表情にも余裕が出てきたオティーリエは、アンリエットの腕から抜け出してベッドを降りた。


「気分転換がてら、顔を洗ってから他のみなさんの様子を見てきますわ」

「ああ、そうしてもらえると助かるよ」


 見送られ、部屋を出るオティーリエ。

 一人部屋に残ったアンリエットはソファに腰掛けると、天井を見上げて大きく息を吐いた。

 落ち込んでいる彼女の手前、『諦めるな』などと言って虚勢を張ってみたものの、アンリエット自身も困り果てていた。

 この袋小路から、どう脱出したものか、と。


「救世主が現れるまで現状維持、などと都合のいいことができればいいのだが」


 食糧はまだしばらくもつ、水の心配もない。

 問題は、生活面ではないのだ。


「果たして、敵――オリジンは、私たちをこのまま放っておいてくれるのか?」


 彼女に宿る戦士の勘が、そう遠くない場所に存在する敵意の存在を感知していた。




 ◇◇◇




 廊下に出たオティーリエは、その先にあるバルコニーを見つめた。

 誰かが手すりに腕を置き、憂鬱げに王都を見下ろしている。

 彼女はその背中に近づくと、隣に並んで声をかけた。


「ヴェルナー、何をしていますの?」

「……なんだ、オティーリエか」


 気付いていなかったのか、急に現れたオティーリエに、ヴェルナーは少し驚いた様子だった。

 いや、驚いた理由はそれだけではないかもしれない。

 そもそも彼女がヴェルナーに話しかけるということ自体、非常に珍しいのだ。

 仕事中ならともかく、プライベートとなると特に。


「おいらは変わり果てた街を見てただけだよ。オティーリエこそ、そっちから話しかけてくるなんてどういう風の吹き回しだい?」

「気分転換ですわ。わたくし、少々調子が悪いようですので」

「それは見てたらわかる。そんなにヒューグが怖かった?」


 ヴェルナーは茶化したつもりだったが、オティーリエにとっては死活問題である。

 今まで、どんな相手にも、敗北することはあってもここまでの恐怖を感じることはなかった。

 死にかけたのだから仕方がないのだが、その恐怖はアンリエットを想う気持ちにすら割り込んでくるのだ。

 自らの根幹を揺るがされているようで、不愉快極まりない。


「あー……ごめんごめん、今のはデリカシー無かった。でもさ、恐ろしいもんだよね。元はオティーリエより強いとはいえ、アンリエットと同等程度の教会騎士だったわけでしょォ? それがコアってのを使っただけで、あんな強大な力を持っちゃうっていうんだからさァ」

「ヴェルナー、まさかあなた、あれに憧れていますの?」

「とんでもない、おいらも化物になってまで力がほしいとは思わないよォ」


 彼の“強さへの執着”は、オティーリエもよく知っている。

 スラム出身のヴェルナーは、その戦闘能力一本で副将軍という地位まで上り詰めてきた。

 だからこそ、強さこそが全てだと考えている節がある。

 コアへのあこがれも、さっきは誤魔化してみせたが、多少はあるのだろう。

 とはいえ、『化物になってまで力はほしくない』という言葉は紛れもない本音のようだが。


「たださ、実際問題どうするんだろうねェ。このままじゃジリ貧だよ?」

「お姉様だってそれぐらい考えていますわ」

「考えてるんだろうし、アンリエットの頭を疑うわけじゃない。ただ、考えたところで答えなんてでるのかなァ、ってさ」


 逃げ道が無いのなら、どんなに考えても答えは出ない。

 すでに詰んでいる・・・・・、その可能性は十分にありえるのだ。

 あとは死ぬだけの状況にまで追い詰められているのなら、やはり希望を持つだけ無駄なのでは――と考え込むオティーリエの表情が、みるみるうちに曇っていく。


「ごめん、またもやデリカシーがなさすぎた。気分転換っつってんのにこんな暗い話は無いよねェ」

「あなたにそれを期待したわたくしが悪いんですわ」

「なにげにそれひどくない?」

「事実ですもの。わたくしは他をあたりますわ」


 元より、対して仲のよくないヴェルナーにそれを期待すること自体がおかしかったのだ。

 オティーリエは後ろを向くと歩き出す。

 彼女は、バルコニーを出る直前で足を止めて、最後に一つだけ彼にたずねた。


「ねえヴェルナー、ずっと聞きそびれていたのですが」

「なんだい?」

「避難所が破壊されたあのとき、あなたはどうして外にいて、無事でしたの?」


 彼は、避難所の人々を守る役目を任されていたはずだ。

 それにあそこにいた人たちが言うには、遺跡が破壊される前兆は全く無かったのだと言う。

 ならばなぜ、ヴェルナーは避難所の外にいて、難を逃れたのか。

 振り返った彼は、いつもと変わらぬ調子で答えた。


「前も言わなかったっけ? フラムが急にいなくなったから、遺跡の外を探してたんだよ」


 理由としては、妥当だ。

 さほど矛盾もない。

 納得するしかないのだが、オティーリエはどうにも釈然としなかった。


「ああ……そうでしたわね。それが聞ければ十分ですわ、それでは」


 今度こそ、バルコニーを去るオティーリエ。

 ヴェルナーは遠ざかっていく彼女の背中を、目を細めながら見つめていた。




 ◇◇◇




 バルコニーを出たオティーリエは、階段を降り、なんとなくヘルマンの部屋を目指す。

 その途中、彼女は一人の修道女とすれ違った。

 中央区教会でセーラと家族同然に暮らしていた、ティナである。


「あら、このフロアに何か用事でもありますの?」

「子供が泣いちゃって、おもちゃか絵本でもどっかに転がってないかと思ったのよ」

「少なくともここにはありませんわよ、どちらかと言えば一階の倉庫を見た方がいいと思いますわ」

「倉庫って、鍵がかかってるわよね」

「先日わたくしが壊したからもう開くと思いますわよ」


 決して精神状態が不安定だったからではなく、鍵が見つからなかったから仕方なく、である。


「ならよかった」

「と言っても、わたくしたちが生活していた場所に子供のおもちゃがあるとは思えませんが」

「おもちゃじゃなくても、あやせたらなんでもいいのよ」


 そう言って、ひらひらと手を降って階段を降りていくティナ。

 彼女は、破壊された避難所ではなく、オティーリエたちが王都に戻る途中で合流した三人のうちの一人だ。

 残りの二人は、王であるスロウに、イーラというギルドの受付嬢を名乗る女性であった。


 オティーリエも階段を降りると、一階の広間の前に移動し、微かに開いたドアの隙間から中の様子を覗き込んだ。

 避難所から救出された人々は、ここに集められている。

 ただし、一部はエターナが引率していたため、そのまま行方不明だ。

 部屋の中には赤子の泣き声が響いており、それをスロウとイーラが必死になってなだめていた。


 スロウ、イーラ、ティナの三人は、各地の避難所を回り、気持ちの沈んだ人々を励ましたり、傷を癒やしたりしていたらしい。

 未曾有の災害に直面したことで、王としての使命感が生まれたということだろうか。

 そのおかげか、スロウの顔つきは、以前に比べるとほんの少しだけたくましく見える。

 あとは……騒動のさなかで命を落とした彼の母の存在も、関連しているのかもしれない。


「気丈ですわね、母親の死体を見つけたのはほんの数日前ですのに……」

「そんなところで見なくても、中に入ればいいのに。副将軍様が来てくれれば、みんな喜ぶと思うわよ?」


 倉庫から戻ってきたティナが、オティーリエに声をかける。

 振り向いた彼女は、弱々しく笑うと首を横に振り否定した。


「今はむしろ、わたくしが励まして欲しいぐらいですもの。他人の支えになるには、もう少し時間が必要ですわ」

「副将軍って言っても人間なのねえ」

「お姉様のように強くなれたらとは思っていますが……ところで手に持っているそれ、ひょっとしておもちゃの代わりですの?」


 ティナは両手に木で作られた剣を握っている。

 非常に軽く、サイズも実際の剣の半分ほどしかない。


「他にそれっぽいのが無かったから、とりあえず持ってきてみたの」

「確か、子供向けの体験入団のときに使っていたものですわね」

「そんなのやってたんだ」

「数年前に、一度だけ。結局は大臣から『軍は遊びではない』と言われて中止になってしまいましたが。実際は敵もいないので、兵士を遊ばせてばかりだったというのに」

「死者をけなすことになるけど、上の方の人たちってお硬い上に保身的だったものね」

「とは言え、わたくしたちも子供の扱いは慣れていませんから、かなり苦労したものですが。一番懐かれていたのはヘルマンでしたわね」

「妹さんがいたのよね」


 ヘルマンには、大事にしていた妹がいた・・

 おそらく王都から出たあとも、両親を含めて見つからない家族のことを心配していたのだろう。

 結局は、ヒューグやキマイラに追われて王都に戻ってきたときに、望まぬ形で再会を果たす形になったのだが。


 グールと成り果て、兄の命を奪うために、ぎこちない動きで近づいてくる妹。

 それをモンスターとして殺すしかなかった、ヘルマン。

 死体は家族の亡骸と一緒に、彼の手で城にほど近い宿舎の裏に埋められ、そこには手作りの墓が作られている。


「それはそれは大事にしていましたわ。いつも『仕事場に連れていって』とせがまれて困る、と楽しそうに語っていましたから」

「……報われないわね。信仰してた神にこんな目に合わされるなんて、馬鹿らしくなっちゃうわ」

「軍人であるわたくしたちも多少は研究のことを知っていましたから……同罪なのかもしれませんわね」


 民を守る軍人らしく、避難した人々を守ってはいるものの、原因の一端は軍にもあるのだ。

 罪悪感が、オティーリエの心をさらに深い場所へと沈めていく。


「誰もあなたたちが悪いとは思ってない」

「社交辞令でも助かりますわ」

「本音よ」

「知っていますわ、ですが信じられないのです。今はまだ、もう少し時間が必要なのでしょう」

「そう、ならもう何も言わないわ。早く元気になって、みんなの前に顔を出してあげてね」


 ティナはオティーリエの横を通り、広間に入っていく。

 そしてぐずる赤子に駆け寄ると、木剣をおもちゃ代わりに高い声であやし始めた。

 オティーリエはその様子を見て微笑むと、その場を去った。




 ◇◇◇




 カンッ、カンッ、カンッ!

 ヘルマンの部屋からは、繰り返し金属がぶつかりあう音が響いていた。

 一心に刃と向き合い、ただひたすらに槌を振り下ろす。

 雑念は無い。

 自己すら無い。

 ただただ心を無にして、体に染み付いた動きを繰り返すだけだった。

 炉が部屋全体を熱し、額には玉のような汗が浮かぶ。

 その感覚すらも喪失している。

 もはやヘルマンは、剣を鍛えるための一つの道具と化していた。

 そうしなければ、家族の死という現実に向き合うことができない。


 そんな部屋の前で、オティーリエはドアノブに手を伸ばそうとして、直前で止めた。

 彼と顔を合わせたところで、何を話すつもりだと言うのか。

 食事もせずに、顔すら見せない彼のことを心配しているのは事実だ。

 しかし、今のオティーリエに家族を失ったヘルマンを励ませるほどの心の余裕はない。


 ヘルマンが打ち直している刃は、王都で見つけた二本の剣だ。

 エキドナと思われる化物の死体の近くに落ちていた、フラムの剣である魂喰いと、ガディオが使用していた両手剣。

 その二つを、一つに束ねようとしているのだという。

 本来は不可能――いや、出来たとしてもまともな強度にはならないだろう。

 しかし、一流の鍛冶師でもあるヘルマンが『できる』というのなら、そうするだけの価値はあるはずなのだ。


「ですが、彼女は……」


 剣を作り上げたところで、使い手であるフラムがいなければどうしようもない。

 いや、フラムがいたところで、ヒューグのような化物どもに勝てるはずがないのだ。

 それでもヘルマンは止まらない。

 理由はわからない。

 しかし湧き上がる使命感が、限界を越えて体を突き動かすのだ。


 オティーリエはドアの向かいにある壁に背中を預け、叩きつけられる槌の音を聞く。

 その中に、ヘルマンの心の奥底にある悲壮や虚無を感じ、彼女の表情はさらに曇っていった。


 そこに、先程までバルコニーにいたはずのヴェルナーが姿を現す。

 彼はオティーリエに近づくと、「こんなところにいたんだ」と軽く声をかけた。


「あなたもヘルマンに何か用事があったんですの?」

「いんや、おいらは外でグールでも狩ってこようと思ってさ。そんで一階まで降りてきたら、オティーリエの姿が見えたってワケ」

「好きですわね、あなたも。ここに来てから毎日のようにグールや死者と戦っていますわよね」

こんなときに・・・・・・よくできるなって、そう思う?」

「思わないと言えば嘘になりますわ」


 少なくともオティーリエには、わざわざ自ら出向いて戦いに参加する気力など無かった。

 アンリエットも同様に、あえてグールを狩るということはしないようだ。

 確かに数は減るかもしれないが、殺したところでまた別の死体がグール化するだけだ。

 それだけの人数の死体が、この廃墟と化した街の下に埋まっている。


「こんなときだからこそ、だよ。人間の心ってのはさ、追い詰められたときこそ真の姿をさらけ出すものさ」

「真の姿……」

「こうして落ち込んでるオティーリエは、戦いに向いてない。一見して勇ましく見えるけど、中身は女の子ってことだろうねェ」


 黙り込むオティーリエ。

 つまり、彼女を戦いから遠ざけようとするアンリエットの見立ては正しかったのだ。

 確かに才能はあるのかもしれない。

 だが、才能と人間性の向き不向きは別の問題である。


「アンリエットも優しすぎる、やっぱり軍人には向いてないかなァ。あと、ヘルマンは根っからの鍛冶師だねェ、見たまんまだけど」

「あなたはどうですの?」

「おいらは見ての通り、ただの戦闘狂さ。こんなときでも、肉を斬ってると心が安らぐ」

「それなら肉屋の方が向いてますわよ」

「他者を斬り捨てることで、自分の強さを実感することが大事なんだ。おいらは、誰よりも強くならなきゃいけないから」


 グール程度を斬ったところで、その欲求が満たされるものなのか――オティーリエには理解できなかった。

 いや、他者の執着など理解できるものではない。

 あえて踏み込んで否定する必要もない。

 オティーリエがアンリエットのそばにいれば気持ちが安らぐように、ヴェルナーにとってのそれが、グールを殺すことなのだろう。


「んじゃ、おいらは行くね」


 彼はおもちゃを買いに行く子供のように、無邪気に城を出ていった。

 一人になったオティーリエは、最後に一度だけヘルマンの部屋の扉を見つめ――その場を立ち去り、アンリエットのもとへと戻っていく。




 ◇◇◇




 ヴェルナー・アペイルンは、王都の貧民街で生まれた。

 あの箱庭は、王国の法とは別の法律で統治されている。


 力が全て。

 力さえあれば何もかもが許される。

 力さえあれば、殺人だって――


 母は体を売って生計を立てていた、だから父親が誰かは知らない。

 暮らす家は、木片とボロ布で作ったテントとも呼べない代物。

 その中で、ヴェルナーは幼い頃から母が男に体を捧げる姿を見ながら育った。

 そして五歳のとき、母は薬物中毒で発狂し、糞尿を撒き散らしながら死んだ。


 そういった境遇の子供は、貧民街では珍しくない。

 運良く孤児院に引き取られる者もいれば、親の仕事を継いで・・・体を売る者もいたし、のたれ死んで死体を闇市場に流される者もいた。

 そんな中、ヴェルナーは一人の男に拾われた。

 彼は子供を駒のように使い、貧民街で力を振るう有力者の一人。

 子供たちは最低限の食事を与えられ、ひたすらに働かされ、その利益のほとんどを男に献上しなければならなかった。


 ある少女は、『あれは人の形をした化物だ』と言う。

 ある少年は、『生かしてくれるだけ優しい』と言う。

 ヴェルナーは、『どうでもいい』と自分以外の全てを切り捨て、ただただ力を求めた。

 空いた時間があれば己を鍛え、成り上がるための力を求める。


 結果的に、彼は支配者であった男を殺すことに成功し、そして貧民街を抜け出した。

 新たな支配者に成り代わることもできたが、そうしなかったのは、世界の広さを知っていたからだ。


 力さえあれば、外の世界でも成り上がれるはず。

 そう信じ、圧倒的身体能力であっさりと軍の登用試験に合格。

 さらに軍人となってからも次々と功績をあげ、笑ってしまうほど順調に出世し、副将軍の地位を手にする。

 全てがうまくいっている。

 このまま軍のトップに――いや、国のトップまで上り詰めてやる。

 そう考えていたヴェルナーだったが、すぐに世界の残酷な現実を知ることとなる。


 血筋。

 才能。

 努力だけではどうあがいても覆せないものの存在。

 副将軍より上の世界はあまりに遠く、どんなに手を伸ばしても更に離れていることがわかるばかり。

 あまりに理不尽だった。

 袋小路に迷い込んでしまったかのようだった。


 そんなヴェルナーは、オリジンの復活という危機を――チャンス・・・・だと考えた。


 王城から出ると、彼はその足で大聖堂へと向かう。

 広場を歩いていると、生きた人の気配を察知したグールどもが、肉を求めて近寄ってきた。

 彼は金属の爪を両手に装備すると、接近する数十体に向かって突っ込んでいく。

 すれ違ったのはほんの一瞬。

 目にも留まらぬ速さで群れを通り過ぎると、彼の背後でグールが細切れになった。

 血に塗れた爪を見て、満足げに微笑むヴェルナー。


「限界なんてない、おいらはまだまだ強くなれる……!」


 彼の纏う服の下では、マリアから与えられたオリジンコアが音もたてずに渦巻いている。

 また肉体も、彼の願望に応え、人の形を維持したまま変質していた。


 ヴェルナーは自らが切り刻んだグールの死体に近づくと、その一片を拾い上げた。

 そしておもむろに、肉を口に含む。

 くちゃ、くちゃと音をたてながら咀嚼すると、血なまぐさいそれをごくりと飲み込んだ。


「……相変わらずひどい味だ」


 もはやヴェルナーの体は、人肉以外を受け付けないようになっていた。

 代わりに、食らった相手の力を取り込んでいる――そんな感覚がある。

 かといって、味覚が変わったわけではないため、彼は腐った人肉を無理矢理にでも体に詰め込まなければならなかった。


 ヴェルナーは地面に膝を付くと、肉を次々と拾い上げ、口に放り込む。

 よほどひどい味なのだろう。

 嗚咽を漏らしながら、顔をしかめ、それでも必死に食らいつく。

 強くなるために。

 強くなって、才能など無くても頂点に上り詰められることを証明するために。


 だが同時に、虚しさもこみ上げてくる。

 地面に這いつくばって死肉を漁る姿は、最低ランクのモンスターであるグールと何ら変わりない。

 そこまでして、人の身を捨ててまで、強さを求める意味とは一体何なのか。

 自分は強くなるために強くなったんじゃない。

 強さの先に権力や支配があると信じて、力を求めたはずなのに――一体この姿のどこに、権力者としての威厳があると言うのか。


「考えるなヴェルナー、何も……力さえあればいいんだよ、力さえあればどうにかなる……うっ……ぐ……」


 渦巻く胃袋に満ちた生肉を吐き出しそうになりながら、よろりと立ち上がるヴェルナー。


「才能と血筋にも恵まれたクソみたいな女どもや、図体がでかいだけの甘ちゃんにだって勝てるんだよ……今は、それでいいじゃないか……!」


 ふらふらとおぼつかない足取りで、大聖堂へと向かう。

 アンリエットたちが死体を処理したおかげか、建物の中に死体は無い。

 犠牲者たちの血痕や、散らかった儀礼具や書類などはそのままだが、街の有様に比べれば綺麗なものだ。

 ヴェルナーは、そんな白で統一されたオリジン教の総本山を進む。

 そして一階廊下の突き当りにたどり着くと、横の壁に触れた。

 見ただけではわからないが、ここには魔力駆動式のスイッチが隠されている。

 ただし、単純に魔力を流すだけでは動かない。

 特定の周期で魔力を流すことで動作する、特殊な作りになっているのである。


「最初に流してから一秒空けて魔力を流す。次は五秒後、さらにその次は三秒後、最後は二秒後」


 サトゥーキの部屋を物色しているときに見つけた資料。

 その記述を頼りにスイッチを軌道させる。

 すると、前方の壁がせり上がり、地下へ続く階段が現れた。


「よし、よしっ、よしっ!」


 ヴェルナーのテンションがあがる。

 王都での勇者たちとマザーの戦いの後、チルドレンと呼ばれた少年少女の遺体は、墓地に埋葬された。

 しかしマザーの遺体は、教会の希望で大聖堂に収容されていたのである。

 そしてそのまま、地下の秘密の部屋に保管されている――資料にはそう書かれていた。

 明かりすらついていない階段を、迷いなく降りていくヴェルナー。

 今の彼は、暗所でも視界が閉ざされることはなかった。

 その代わりに、全ての景色が元とは違う何かに見えるようになってしまったが、ただ強さを求めるだけならむしろ便利なぐらいだ。


 現れた扉を開くと、その先には、液体で満たされた透明のケースがずらりと並んでいる。

 その中には、人間の死体が、死んた当時の状態のままで浮かべられていた。

 サトゥーキを除く枢機卿――トイッツォ、タルチ、スロワナク、ファーモを始め、先代教皇フェドロや、先代王ヴァシアスの遺体まである。

 教会は、いずれ失敗したネクロマンシーの研究を見直し、彼らを蘇らせるつもりだったのかもしれない。

 しかし、ヴェルナーにとってそんなものはどうでもいい。

 重要なのは部屋の奥、隅っこに置かれている肉片だ。

 元人間だとわからぬほどただの肉塊だったが、それがマザー――マイク・スミシーの一部であることは、オリジンに与えられた知識によりすぐにわかった。

 ケースの蓋を素手で破壊し、ヴェルナーは両手で肉をすくい上げる。


「これがあれば……今までとは比べものにならない、力が……! はははっ、あっははははは!」


 壊れた笑みを浮かべながら、彼はそれに食らいつく。

 噛みちぎり、丁寧に咀嚼し、初めて死肉の味をじっくりと楽しみながら――その力を、体に取り込んでいく。


「お……おおぉ……」


 コアを破壊されれば、化物と化した人間から力は失われる。

 例えばヴェルナーがエキドナの死体を食らったところで、驚異的な力は手に入らないだろう。

 しかしマザーの場合は違う。

 これは、マイク・スミシーという男が産み落とした・・・・・・、いわばオリジンの力で産み落とされた生命体なのである。

 無論、フラムに破壊されたため、コアは残っていない。

 だが代用となるコアならヴェルナーが保持している。

 しかもオリジンの封印は解けており、コアに流れ込む力は以前の比ではない。


「ごっ、ごぶ……ぎ、ガアァァァアアアアアッ!」


 グールや死者ならまだ、人間の形を維持することができた。

 だがマザーを取り込んでしまったとなると、もはやそれすらも難しい。

 人の形では許容できず、膨張していく体。

 もう戻れないほど変わり果てながらも、肉体に満ちる圧倒的な力に、ヴェルナーは恍惚とした笑みを浮かべていた。




 ◇◇◇




 地面の揺れと、外から聞こえてきた大きな音に、アンリエットとオティーリエは慌てて立ち上がり、窓の外を見た。


「なんですの、あれ……」


 大聖堂が、内側・・から破壊されている。

 そして代わりに、赤いスライムのような物体がそこにはあった。

 部屋でくつろいでいたオティーリエは、突然の事態に動揺を隠せない。

 一方でアンリエットはすぐに駆け出し、部屋を出た。


「お姉様っ!?」


 慌てて追いかけるオティーリエ。

 アンリエットが向かった先は、一階の倉庫だ。

 そこには、王城の地下――玉座の間の真下にある宝物庫から持ち出した、とある道具が置かれていた。

 高さ1メートルほどの台座に、直径は50センチほどの青い水晶がはめこまれた、キマイラの制御装置を思わせる外観。


「これは、王城に戻ってきた日に持ってきた魔法具ですわよね」

「ああ、数年前にジーン・インテージに頼んで作ったものでな、この建物を一時的に強力な障壁で覆ってくれる。どれぐらい耐えられるかはわからないが、時間ぐらいは稼げるだろう」

「……これは、どうして脱走騒動のときに使わなかったんですの?」


 ネイガスの攻撃や、フラムたちの脱走も、これがあれば防げただろう。


「致命的な欠陥があったからだ。この装置は、確かに王城を守ってくれる。だが障壁展開時――」


 アンリエットは困った顔で告げる。


「反動で、王城の周辺にいる人々が吹き飛んでしまうのだ」


 自分のことしか考えない――ある意味でジーンらしい装置である。

 しかし王都に人間がいない今なら、気兼ねなく使うことができる。

 アンリエットは水晶に手を置き、機動のために魔力を注ごうとした。

 しかしそれをオティーリエが止める。


「待ってくださいませお姉様、まだヴェルナーが外にいますわ!」

「オティーリエ、わからないか?」

「何が、ですの?」

「さっきの化物は、ヴェルナーだ。おそらくあいつは、遺跡から脱出した時点ですでに我々を裏切っていたんだ!」

「そんな……」

「フラムがさらわれ、ヴェルナーが遺跡の外で無事だった理由も、それで説明がつく」


 つまり、アンリエットは王都に戻ってきた時点で、彼の裏切りに勘付き始めていたのだ。

 それでも、彼は実際に避難民を助けてくれたし、今日まで長い間、同じ軍の仲間として付き合ってきた。

 できることなら、気のせいであってほしい――そう願っていたのだが。


 ズウゥゥゥンッ、と建物全体が揺れる。

 ヴェルナーが迫っているようだ、もはや一刻の猶予もない。


「起動するぞ、いいな!」

「わかりましたわ」


 今度こそ魔力を流し、水晶が淡く光を放ち、装置が起動する。

 ぞわりと、中に込められた魔力が一気に広がっていくのを、オティーリエたちは肌で感じた。


「これで、起動しましたの?」

「そのはずだが……」


 部屋自体に変化はない。

 だが間違いなく、東棟は魔力による障壁で包まれていた。

 二人は倉庫から廊下に出て、窓から外の様子を眺める。

 するとほんの少しだけ青く色のついた膜が、建物を覆っていた。

 そして、肉の塊から伸びた触手がそれに触れると、バヂッと弾かれる。


「ちょ、ちょっと何があったのよ!?」


 広間から飛び出してきたイーラが、アンリエットに詰め寄った。


「ってひやああっ!?」


 そして窓の外から見える不気味な肉塊を見て、腰を抜かす。

 アンリエットは彼女に手を差し伸べ、体を引き上げる。


「あ、ありがとう……でも何よこれ、どうなってるわけ?」

「ヴェルナーだ。彼は裏切って、オリジンコアの力を得た」

「それ大丈夫なの!?」

「ひとまず建物を障壁で囲んだ、三日はこれで誤魔化せる」

「地下に脱出路はないの?」

「東棟に地下通路は無い……いや、地下牢は遺跡を利用して作ったものだったはずだ、壁を破壊すれば脱出路は見つかるかもしれないな」


 考え込むアンリエット。

 だが、外を見ていたオティーリエは彼女の袖を引き、慌てた様子で言う。


「お姉様、ヴェルナーの様子がおかしいですわっ!」


 今までは様子を見るように触手を伸ばすだけだったが、今度は薄く広がり、建物全体を覆っていく。

 そう、かつてマザーが王都全体を包み込んだように、コアによって生まれた子宮・・で、この東棟を包もうとしているのだ。

 陽の光が遮られ、内部に闇が満ちる。

 すぐにオティーリエがスイッチに手を伸ばし、魔灯で廊下を照らした。


「私は広間に戻るわね、パニックになってるだろうから」

「ああ、ならば私も――」


 そう言って一歩踏み出したアンリエットは、そのまま固まってしまった。


「どうしたんですの、おねえさ……ま」


 オティーリエも、彼女の方を見た状態で止まる。


「がああぁぁぁあああっ!」


 そしてイーラも含め、三人が同時に頭を抱えて膝をついた。

 まるでオリジンが復活したあの日のように、強烈な思念が、脳に流れ込んでくる。

 立つことはおろか、自己認識すら出来ないほどに、思考をかき乱す。


「おね……さま、おねえ……さまぁっ!」


 オティーリエはアンリエットへの強い執着でどうにか正気を保っていたが、イーラはそうはいかない。


「ああぁぁぁあああ! あああああああっ! ああああああぁぁぁああっ!」


 おもむろに立ち上がると、頭を振り乱しながら廊下を一直線に駆け抜ける。

 そして突き当りの壁に顔面から衝突し、その反動で仰向けに床に倒れた。


「はっはははははっ、あー、はははっ、はぁああんっ、んぁっ、あー、ああぁああ!」


 さらに寝転がったまま、ダダをこねるように手のひらで床を叩き、足をばたつかせ奇声をあげる。


「オティ、リエ……これは……何、が……が、ががが、がっ、ぎゃっ、ぐ、ぎ……っ!」


 障壁は物理的な侵入を防ぐことはできても、精神汚染を防ぐことはできない。

 いや、本来王城にはそのための防御魔法もかけられているはずなのだが、オリジンの力が増した今、それは意味をなさない。

 脳内に、意味不明な思考と文字と声と死と快楽と痛みと極楽浄土の混沌が、一気に流入する。


「お姉様、お姉様、お姉様っ……!」


 オティーリエは、必死にアンリエットにしがみついて、彼女を呼ぶことしかできない。

 そうして、アイデンティティをつなぎとめているのだ。

 比較的精神力が強いはずの二人ですらこのザマである。

 広間の一般人がどうなっているかなど――考えるまでもなかった。




 ◇◇◇




 国境を越えたフラムたちは、王都に到着するまでにいくつかの町に立ち寄った。

 どこも魔族の集落に比べれば被害は小さい。

 また、途中で遭遇したキマイラの数もせいぜい人狼型が二体、獅子型が一体程度のもので、やはり魔族領に比べると少ないようだ。

 それでも人間たちの怯えようは相当なもので、フラムが『人間だ』と言っても信じてもらえず、何度も命を狙わそうになった。

 まあ、フラムは亡霊を連れているし、さらに二人も魔族を連れているのだから、混乱させてしまったのも事実である。

 しかし一方で、魔族を好意的に受け入れてくれる人間も増えており、王国と魔族の交わした停戦協定の効果を実感することもあった。


 結局、王都にたどり着いたのは王国に入った翌日。

 王都北側にある高い崖からその街並みを見下ろそうとしたフラムは、王城に起きている異変にいち早く気づき、険しい表情を浮かべる。


「フラムおねーさん、何か見えたんすか?」


 崖の下で待機していたセーラが尋ねる。

 するとフラムは一言、


「私は先に行くから、みんなもすぐに王都に来て!」


 そう言い残して、王都に向かって跳躍した。

 今のフラムに全力で走られると、追いつける者は誰もいない。


「どうやらあっちで何か起きてるみたいね」

「オリジンめ、死んだ街で何を企んでるんだ?」

「そんなん行きゃわかるだろ、オレたちも行くぞ!」


 セーラがネイガスの腕に収まると、三人は一斉に駆け出し、王都に向かった。




 ◇◇◇




 先行したフラムは城壁の前で飛び上がると、上に着地し肉塊と対面した。

 フラムが真っ先に思い出したのは、マザーのことだ。

 見た目が似ているわけではないが、なんというか、纏う空気がそっくりなのだ。


「気味の悪い姿ですね」

「私が以前戦った化物と似てるんです。生き返ったのか、誰かが利用しているのか……」


 どちらにしても、潰すだけだ。

 飛び降り、一気に肉塊に接近するフラム。

 走りながら各種装備を身につけ、赤いマントをはためかせながら駆け抜ける。


「ふっ!」


 まずは挨拶代わりの右ストレート。

 十分な加速を付けたそれは、もはや砲弾並みの威力となっていたが――拳を突き出した途端、肉塊がフラムの目の前から姿を消した。


「逃げたようですね」

「そうはいかないっ!」


 東棟を包んでいた肉塊はあっさり撤退したかと思うと、王城前の広場で一箇所に固まっていく。

 元は大聖堂を破壊するほど巨大だったと言うのに、それは物理法則を無視して小さく凝縮していった。

 やがて人の形となり、見覚えのある顔で挑発的に笑う。


「久しぶりだねえ、フラム・アプリコット」

「ヴェルナー!」


 怒りに表情を歪め、叫ぶフラム。

 避難所が潰され、彼女がさらわれた最大の原因は、間違いなくヴェルナーの裏切りだ。

 フラムにとっては彼も、憎悪の対象であった。


「君と戦うにはちょっと準備が必要かなァ、ここは撤退させてもらおう」

「そうはいかない! ここでお前も殺してやるぅっ!」

「いいのかなァ、おいらなんかに気を取られてて。あの建物の中の人たち、死にそうになってるよん?」

「くっ……」


 一瞬だけ東棟に気を取られるフラム。

 その隙に、ヴェルナーは素早い動きで姿を消した。

 元々、速度には自信のあった彼だ、オリジンコアでその能力はさらに強化されている。

 フラムならば探そうと思えば見つかるだろうが、まずは東棟の人々を助けるのが先決だ。

 ヴェルナーと対峙している間に、他の四人も王都に到着したようだ。

 罠が仕掛けられている可能性も考慮し、フラムたちは固まって建物に向かう。

 覆っていた障壁はフラムの手によってあっさり破壊されたが、それでなぜジーンが不機嫌になったのかは、誰にもわからなかった。




 ◇◇◇




 ヴェルナーの汚染から解放され、正気に戻った人々は、広間で放心状態になっていた。

 障壁起動から、一日が経過している。

 広間は血に体液にとひどい有様で、部屋の隅には死体が積み重なっていた。


「ひゅー……ひゅー……」


 その山の中から、微かに呼吸音が聞こえる。

 オティーリエだ。

 彼女は、狂い、互いを傷つけ合う広間の人々を身を挺して止めようとしたが、自身もそれに巻き込まれてしまった。

 そして丸一日に渡って暴行を受け続け、もはや瀕死の状態であった。

 それでもオティーリエは、アンリエットのことばかり心配している。

 一緒に人々を止めようとしたことは覚えている。

 やむを得ず、虐殺規則ジェノサイドアーツで動きを拘束していた姿も、覚えている気がする。

 だがそのあと、広間から姿を消してしまった。


「ひゅー……かひゅ……おね……さ……は……ひゅ……」


 オティーリエは必死に前に手を伸ばし、死体の山から這い出る。


「げほっ……お、ぅ……ヒー……ルっ!」


 すると近づいてきたティナが、オティーリエに回復魔法をかけた。

 傷を癒やすには足りないが、少しだけ体が軽くなる。


「ヒ……ィル……っ! ヒー、ル……っ!」


 さらに何度も回復魔法を受けるうちに、オティーリエは両手を使って立ち上がれるまでになった。

 するとそんな彼女にティナはよろめきながら、しがみつく。

 その目には涙が浮かんでいた。


「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……」


 振るえる声で告げられる懺悔。

 おそらく彼女も、オティーリエに対する暴行に参加していたのだろう。


「あなたがたは、誰も悪くありませんわ……」


 全ての原因はヴェルナーにある。

 しかし、急に攻撃が止まったということは、外で何かが起きたということ。

 余計にアンリエットが心配になったオティーリエは、ティナをなだめ、その場に座らせると、広間から出ようとした。

 すると、ちょうど出入り口のところで、予想外の相手と出くわす。


「オティーリエ!」

「あなた、フラムですの? どうしてここに!?」


 王都から逃げたはずのオティーリエ。

 さらわれたはずのフラム。

 互いに驚くのも当然であった。

 さらにフラムの背後に待機する四人を見て、オティーリエはさらに困惑する。


「魔族に修道女にジーン・インテージまで……本当にどうなってますの? いや、そんなことどうでもいいですわ。それよりお姉様を見なかったかしら!?」


 オティーリエはフラムの肩を掴み、顔を近づけながら問いただす。

 もちろん心当たりなどはない。

 手を振り払って、広間に入ろうとしたフラムだったが――ぐちゅっ、と肉を潰すような微かな音に気づく。


「……二階から何か聞こえた」

「まさかお姉様がっ!?」


 駆け出すオティーリエ。

 フラムも並走し、二人は猛スピードで階段を――いや壁を蹴り上がり、二階に着地する。

 そして上がってすぐの廊下で、血まみれになったアンリエットと、笑うヴェルナーの姿を見た。

 その光景が、オティーリエの逆鱗に触れる。


「てめえはッ、何してんだよぉおおおおお!」


 フラムのトラウマを刺激する荒々しい声で、剣を抜きヴェルナーに突っ込むオティーリエ。

 その速度は、彼女のステータスから想像できる速度を遥かに凌駕していた。

 彼女の暴走する感情は、どうやら人の肉体のリミッターを外してしまうようだ。


「おぉおおおおおおおッ!」


 ある程度まで近づくと、素早い剣の動きで血蛇咬アングイスを放つ。

 しかしヴェルナーは溶けるように地面に姿を消し、そしてオティーリエの背後に立った。


「遅いなあ、オティーリエ」

「舐めんじゃねえぞクソッタレエェェェェッッ!」


 振り向きざまの一閃。

 しかしそれも溶けて回避。

 そして今度は、完全に見えなくなってしまう。


「やっぱ弱いし遅いよなァ、人間って。あっはははははははは!」


 ヴェルナーはそう言い残すと、フラムが感じていた気配すら消えてなくなる。

 どうやら遠くへ移動したようだ。

 オティーリエはすぐにアンリエットに近寄り、ぐったりと倒れる彼女の体を抱き上げる。


「お姉様っ、お姉様あぁぁぁぁぁぁっ! ああ、どうしたらいいの、お姉様の体が、血だらけで、こんな、傷が……ああぁっ、死んじゃう、お姉様が死んじゃううぅぅぅ!」」

「オティ……リエ、私は、まだ……」

「お姉様ぁっ!」


 ギリギリ命はあるようだが、腹部を貫かれてしまっている。

 フラムは、遅れて階段を上ってきたセーラに急いでアンリエットの治療をするよう伝えた。

 セーラのリカバーなら、すぐに傷は癒えるだろう。


「なんか釈然としないな……」


 少し離れた場所でその光景を見ていたフラムは、顎に手を当て考え込む。

 全体的に、ヴェルナーの引き際が良すぎる。

 どんなに怪我を負わせても、回復魔法で癒やされれば意味は無い。

 なのになぜ、アンリエットにトドメを刺さずに彼は去ったのか。


「ああ、よかった……お姉様が死なない……よかった、よかったあぁ……」

「泣くなオティーリエ、人が見ているぞ」


 ボロボロと涙を流すオティーリエを、アンリエットは頭をなでて慰める。


「ありがとうな、えっと……セーラで良かったか」

「お礼はいいっすよ、おらも人の命が救えて嬉しいっすから」


 相変わらずセーラの笑顔は眩しい。


「オティーリエがいて、アンリエットがいる。ヴェルナーは裏切って……あとは……」


 その間も考え続けていたフラムは、まだ姿を見ていないのことを思い出す。


「ねえアンリエットさん」


 そして、彼女は回復したばかりのアンリエットに尋ねた。


「ヘルマンさんはどこにいるの?」

「フラムか……ヘルマンなら一階の自分の部屋に……まさかっ!?」


 アンリエットも、どうやらそれに気付いたようだ。

 フラムは「チッ」と舌打ちをして、再び壁を蹴り、建物の内部を破壊するほどの勢いで一階に降りた。


 なぜもっと早くに気づかなかったのか。

 ヴェルナーがアンリエットを襲撃したのは、殺すためじゃない。

 アンリエットがいなくなれば、絶対にオティーリエが騒ぎ出す。

 それに釣られて、他の人間の興味もそちらに向くだろう。

 つまり――これは囮。

 オティーリエを始め、他の人間たちの意識をそちらに向けるための罠だったのだ。


 廊下を駆け抜け、フラムはすぐさまヘルマンの部屋の前にたどり着いた。

 乱暴にドアを蹴破ると、そこで彼女が見たものは――


「ほんっと、人間って遅いよねェ」


 ご機嫌に笑うヴェルナー。

 そして、その爪で心臓を貫かれ、ぐったりとうなだれるヘルマンの姿だった。

 アンリエットと違い、その肉体からは生気が感じられない。

 もう死んでいる。

 ひと目みてわかってしまったフラムは、その場に立ち尽くした。


「あはははっ……ははははっ、あっははははは! やっべえ、やっぱこれやっべえよ! オリジンってすげえ、コア使ってよかった! おいら強えぇぇぇぇっ! あのヘルマンが無抵抗で死んだぞ? おい、おい!? あっはははははっ! 強い! 強すぎるうぅぅぅ!」


 ヴェルナーは爪を引き抜くと、ヘルマンの体を床に投げ捨てた。

 そして笑いながら、死体に馬乗りになり、ずたずたに引き裂いていく。

 繰り返し、繰り返し、何度も何度も、壊れたおもちゃで遊び続ける子供のように。


「希望もぉっ! 未来もぉっ! なんにもありませーん! 終わりだ、お前が弱いから終わったんだよヘルマン! 家族が死んだのも、妹が死んだのも、全部お前が弱いから! 弱いからっ、ざまあぁぁぁぁみろっ! 甘っちょろいことばっか言ってるから嫌いだったんだよ、嫌いなやつを殺せるのが強者の特権だぁっ! きっはははははぁっ!」


 のけぞりながら、口の端からよだれを流し、ひたすらに体に傷を刻み続ける。

 それはオリジンによって狂わされたというより、ヴェルナーという男の人間的な醜さそのものであった。


「フラム・アプリコット、残念でしたー! お前に渡そうとしてた剣はぁ、もうおいらが壊しちゃいましたぁっ! ざんねぇんっ、ざあぁぁぁぁんねええぇぇんっ! おいらのエクスタシーを邪魔することはでぇきませぇんっ! 素手じゃおいらを倒すこともでっきませえぇぇんっ! んああぁぁっ、最高だあぁぁぁぁっ! 絶頂するうぅぅぅぅ!」


 部屋の床には、彼が渡そうとしていた両手剣が、無残に砕かれ転がっていた。

 入り口で立つフラムは、剣の破片を、ヘルマンの死体を、そしてヴェルナーの声を聞き、感情を憤怒で滾らせる。

 拳を握り、肩を震わせる。


「お、怒るか? 怒っちゃうかな? フラムちゃぁぁんっ?」


 挑発に乗るつもりはない。

 それを差し引いても、ミルキットが傷ついた原因は彼にある、フラムがさらわれた原因は彼にある。

 元より恩義などないし、情けをかけるエピソードだってない。

 生粋の、正真正銘のクズだ。

 ぶっ殺す以外に、他の処断が思いつかない。


「ヴェルナアァァァァァァァァッ!」


 フラムは絶叫し、不快に笑うヴェルナー目掛けて弾丸のように翔けた。





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