第10話 往こう、絶望の故郷へ
遠くに居るオーガが拳を地面に打ち付けると、フラムの足元がぐにゃりと歪んだ。
ガリ――ゴリ――
何かが削がれる音がする。
ガクガクとフラムの体が振動し、コンマ秒単位で視界が
彼女は恐る恐る下を見た。
するとそこでは――刃のように鋭く形を変えた地面が、まるでオーガの顔のように渦を巻き、回転を始めているではないか。
そして自らの足が、そこに飲み込まれ、砕き潰され飛び散っている様を見た。
「あ……え……!?」
フラムが、飛び散る赤い何かが自分の一部だと気づくまでに、少しの時間が必要だった。
みるみる渦に飲み込まれていく足、くるぶし、ふくらはぎ、そして太もも――引き抜こうにも、もはや足は力を入れられる状態ではない。
再生も間に合わないだろう。
このままでは、足どころか全身が渦に飲み込まれて、ひき肉にされてしまう。
「い、いやっ、足が……うごかなっ!?」」
「おねぇさんッ!」
縋る相手は彼女しかいない。
セーラは必死の形相で叫び、フラムの体を突き飛ばした。
「あぐっ……う、ううぅ……あ、かはっ……!」
太ももの半ばまで両足を失った状態で、フラムは這いずり渦から少しでも離れようとする。
餌である少女の肉を失った渦は、恨めしそうに“ウウゥゥ”とうめき声じみた駆動音を鳴らし、回転を続けた。
「はっ、あ……あぁぁあっ!」
両足を失った激痛が、フラムを襲う。
しばらく待てば再生はするだろうが、アンズーの時と違い、傷口が千切られたように荒い分、苦しみは今回の方が上だった。
大量の血液が流れ出し、地面を濡らす。
だが、これでもおそらく、まだ死にはしない。
死なないなら大丈夫、死なないなら大丈夫、死なないなら、平気なはずだから――フラムはそう何度も自分に言い聞かせる。
それでも、痛いものは痛い。死ぬほど痛い。
「う、げ……う、ぶぇ……っ」
呼吸がうまくできず、胃から内容物がせり上がり、地面にぶちまけた。
セーラはフラムが再生能力を持つことを聞いてはいたものの、今の彼女が負っている傷は明らかに致命傷。
治癒する前に失血のショックで死んでしまう――そう考え、急いで駆け寄り、手をかざした。
「ヒール!」
あくまで善意での行動である。
セーラの両手から光が溢れ、それらは彼女の意思に従ってフラムの足へと集まっていく。
人体に付着した光は体内に入り込み、患部を傷を負う前の状態に近づけようとした。
中級回復魔法、ヒール。
これだけの大怪我を治すには威力が足りないが、まずはこれで止血を試みる魂胆らしい。
だが――ジュッ、と何かが焼けたような音がしたかと思うと、太ももの切断面がどろりと溶け出した。
「あぁっ、あがあぁぁああっ! あっ……ぃ、ぎ、ぃっ!」
回復魔法を受けたフラムは、さらに苦悶の表情を浮かべ、悶えた。
地面に爪を立て、引っ掻く。
とにかく、痛みに耐えようと必死なのだ。
込められた力が強すぎた影響か、爪と指の間に血が滲んでいる。
「な、なんでっすか? なんで、回復魔法をかけたはずなのに――」
戸惑い、狼狽するセーラ。
だが聡明な彼女はすぐに気づいた。
「……反転、っすか? まさか、回復まで逆に……そんな、おねーさんっ、おらそんなつもりはっ!」
フラムにだってわかっている。
セーラはいい子だ、心の底からフラムのことを考えて、回復魔法を使ったのだろう。
大丈夫、そうすぐ伝えてあげたかったが、意識がうまく言葉にできない、口から漏れるのは呻き声ばかり。
それでも今にも泣きそうなセーラを少しでも安心させようと、深呼吸を繰り返し、言葉を絞り出した。
「だい、じょ……ぐ、うぅ……っ!」
「おねーさんっ!?」
「あ、はぁ……はぁ……ふ、それ、より……っ」
「それより、どうしたんですか?」
「に……げぇっ……て……!」
「……逃げ、て?」
セーラはフラムの惨状に気を取られ失念していたが、今はあの得体の知れないオーガから狙われている真っ最中なのである。
敵は、まっすぐに2人に向かって歩いていた。
距離が近づいたせいか、顔の肉の螺旋から、ぶちゅ、ぐちゅ、と不気味な音が聞こえてくる。
フラムの足は再生が始まり、徐々に元の形へと戻ろうとしていたが、オーガの次撃までに間に合うとは思えない。
「わ、わかったっす!」
フラムの言う通り逃げるしか無い、そう決断したセーラは、彼女の体を抱え上げ駆け出す。
体格差を考えると無茶な行為にも思えたが、身体能力の高いセーラには大した問題ではないようだ。
再びオーガとの距離が離れていく。
その時、緑色の拳が握られ、異形の化け物は腰を落とした。
またあれがくるのか――ちらりとオーガの方を振り返ったセーラは、地面が歪むのを警戒する。
だが腕は前方に突き出され、空を切った。
すなわち回転の対象は、セーラとフラムを取り巻く空気である。
「セーラ、ちゃ……走っ、て……!」
「っ……ふがぁぁああああああっ!」
吠えながらフラムを抱えたまま必死に前に向かって走る。
すでに大気は渦巻きはじめており、数秒後には2人を包む竜巻のような風の壁になっているだろうことは想像に難くなかった。
草に足が絡まり転げそうになりながらも必死で駆け抜け、どうにか脱出に成功。
ズザザザザザッ!
直後、生じた円形の嵐は荒ぶり、範囲内に存在するあらゆる物質は細切れにされ、かき混ぜられた。
「次、横……っ!」
「まだ来るっすか!?」
オーガは間髪入れずに拳で地面を叩く。
ウウゥゥゥゥゥゥ――!
セーラの足元で、土と岩が旋転し唸りを上げる。
彼女は倒れるように飛び退くことで回避したが、着地の衝撃でフラムが腕からこぼれ落ち、自身も転がる。
地面に叩きつけられたフラムは、どうにか再生が完了。
受け身を取り、投げ出された勢いを利用して立ち上がると、魂喰いを発現させた。
――消極的では勝てない、攻めなければ。
フラムは巨大な黒の剣を片手で握り、一直線に駆け抜ける。
背後では体勢を持ち直したセーラが背中のメイスを肩に担ぎ、弧を描いてオーガの背後を取るように移動を始めていた。
敵の視線はフラムの方を向いている。
ステータスに記されていた通り、狙いは彼女の方なのだろう。
緑の拳が握られる。
今度は――前に向かって突き出される。
虚空へ向かって放たれる殴撃。
直感的に危機を察したフラムは、その場で右側に飛び込んだ。
ゴパァッ!
見えない何かが拳の直線上の空間を通り、触れたもの全てを抉る。
遠方の土壁が器具を使って穴を空けたように、綺麗に円形にくり抜かれていた。
受けていたら――フラムの肉体は粉々に砕け散っていただろう。
今までの攻撃は発動までにタイムラグがあった、だが今のは違う、即時発動し圧倒的な破壊力を見せつけた。
適用時間はごく一瞬。
つまり、回転数を減らせば発動までの準備期間は縮むということである。
どちらにしろ、人を殺すには十分過ぎる威力だ。
基本的に魔法を扱えないフラムにとって、距離を取っての戦闘は不利なのだ、メイスをメインウェポンとするセーラも同様に。
ゆえに、なんとしても接近戦に持ち込まなければならない。
着地から側転し、すぐさま体勢を持ち直したフラムは再び疾走を開始する。
魂喰いの間合いに近づくまでの間、もう一度だけオーガは先ほどと同じ攻撃を放ったが、フラムは二度目も横に飛び込むことで危なげもなく避けた。
フラムより先に、セーラがモンスターの背後を取る。
「せりゃあっすっ!」
彼女は頭の高さまでジャンプすると、思い切り振りかぶって、メイスの先端、最も重い部分を後頭部に叩きつけた。
ガゴンッ!
頭蓋骨と金属塊が激突し、空気を震わす。
「どうっすか、おらの一撃は!」
着地し、一旦距離を取ったセーラは指で鼻の下をこすって不敵に笑った。
手応えはあった。
並のオーガならば今のだけで卒倒しているほどのクリティカルヒット。
しかし――オーガは全く動じずに、まるで初めて彼女の存在を認識したように、ゆっくりとセーラの方を見た。
ぶちゅっ、ぶじゅるっ。
赤い渦が、先程までより勢い良く血を吹き出す。
まるで彼の怒りを示しているように。
「効いてない、っすか……?」
「ならこっちはどう!?」
打撃に強いだけかもしれない、斬撃ならばダメージを与えられるかもしれない。
そんな望み賭けて、フラムは剣を振るう。
加速分を威力に載せて、魂喰いを水平に構え、脚部に向かって放たれた渾身の一刀――
だがそれは、オーガの肉を裂くこともなく、鈍い感触と共にその場で止まった。
「こいつ……体の硬さがオーガとはまるで別物……!?」
奇妙な力は持っていても、ステータスがオーガと同じなら。
そんな希望は、容易く打ち砕かれた。
さらにそれを粉微塵にしようと、オーガは拳を振り上げる。
「おねーさん、危ないっすっ!」
「くぅっ!?」
バックステップで回避。
拳の余波だけで、先程までフラムが居た場所が深く削りとられていた。
腕は見えない何かを纏っており、喰らえばひとたまりもなかっただろう。
その後さらに後退し、離れた場所で互いに向かい合った。
接近戦ならばどうにかなるかもしれないと思っていたが、それも叶わず。
セーラのメイスは全く効いておらず、フラムの魂喰いも文字通り歯が立たない。
この化物を倒すのは、私たちじゃ無理だ――そう確信する。
フラムは、オーガを挟んだ向こう側に居るセーラとアイコンタクトを交わし、頷く。
すると2人は同時に広場の奥へ向かって駆け出した。
もちろん敵も追跡を始めるが、スピードに関してはオーガとさほど違いが無いのか、みるみる距離は離れていく。
「どうするっすか?」
「とりあえず逃げるしかないって!」
先ほど塞がれた穴さえ無事なら、すぐに出口にたどり着けたのだが。
2人がそのまま奥へ奥へと進むと、木々を抜けた先に大穴が空いているのを見つけた。
サイズからして、おそらくオーガはここから出てきたのだろう。
自ら巣穴に突っ込むような真似をして果たして大丈夫なのか、不安しかない。
しかし背後からモンスターは迫っている。
ためらっている暇は無かった。
「行くんすか?」
「行こう、ダメだったらその時はその時だしね」
いざとなれば、自分を囮にしてセーラに逃げてもらえばいい。
覚悟を決め、新たな洞窟へと足を踏み入れる。
そこには、ひたすら直線で通路が続いていた。
壁の様子を見ると、ここもやはり、人工的に掘られた穴のようだ。
フラムが後ろをちらりと振り向くと――
「なっ……!」
「どうしたっすか……って、ひっ!?」
普通のオーガは、あの巨体ゆえに素早い動きが取れない。
しかし、そいつは違った。
まるで人間のようなフォームで走り、大きな歩幅で接近しているのだ。
肉体的には無茶をしているのだろう、足の至る所からブチッ、ブチッ、と筋が切れる音がし、うっ血して黒く変色している。
それでも痛覚など存在しないと言うように、ドス、ドス、ドス、ドスッ、と地面を踏みしめ、速度が緩むことはない。
生物としてのリミッターを完全に無視した挙動。
フラムはその肉体に、オーガとは全く別の意思が宿っているように感じた。
……いや、考察は後回しだ。
今はとにかく必死で逃げるしか無い。
みるみる距離は縮まっていく、外に比べて狭いこの洞窟内では、さっきほど融通の効く戦い方はできない。
そんな時、2人の目の前に現れたのは――行き止まりを示す壁、そして下に続く底の見えない、大穴だった。
「行き止まりっす……!」
「いや、まだこの穴がある……けど」
「入るしか、ないっすかね……」
「この行き止まりであいつの攻撃をしのげるとは思えないし、それにどのみち逃げないと、私たちじゃあいつらには――」
逡巡の合間にも、オーガはどんどんこちらに接近している。
どうせ死ぬのなら、自分の意思で――ミルキットと出会った檻の中で、自分が選んだ道を思い出す。
記憶が彼女の背中を押す。
目を閉じ、息を吐いて、両頬をぱちんと叩いて、「よしっ」と声を出して――それでも全く足りないほど心臓は恐怖に悲鳴をあげていたが。
一歩を踏み出す。
先の見えない穴に、飛び込む。
続けてセーラも、フラムを追ってそこへ身を投げた。
オーガは穴の前で止まると、下に広がる暗闇を、肉の面でじっと見つめていた。
◇◇◇
ドサッ。
少しの浮遊感の後、フラムの体は微妙に柔らかい何かに叩きつけられる。
隣にセーラも落ちてきて、すぐさま体を起こして周囲を見渡した。
空間の中は暗い、しかしうっすらぼんやりとは見えていた。
「ここは……」
「どうも、ここもまた人が作った空間みたいだけど……うぇ、酷い匂いが……」
フラムは下に視線を下に向ける。
そこにある、自分たちの体を受け止めた何かの正体を知った途端、慌ててセーラを抱き寄せた。
「んぐっ!? むごっ!?」
「セーラちゃん、目を閉じてて」
「……んぐご?」
「いいから! 私が良いって言うまで目は開かないで」
そう忠告すると、セーラはこくりと頷いた。
そして彼女を抱え上げ、山を降りていく。
白骨、腐敗――中には生前の状態に近いものもあったが、そこに積み上げられていたのは、数多の死体だった。
種族問わず、モンスターと人間の物が織り交ざって積み重なっている。
ちらりと視界に入った人間の部位が、あるいは骨の一部が、渦巻きのように変形していたり、ねじれているのを見た。
いや、それだけではない。
部屋を構成する灰色の壁も、所々が渦を巻いたような形をしていた。
そう、あのオーガと同じように。
「何なの、ここ……」
セーラに死体を見せないため、とっさに視界を塞いだが、それも部屋を出るまでだ。
しかし――果たして、今だけ見せなかった所で、何かの意味があるのか。
フラムは自問しながら部屋の出口に近づき、幸い歪んでは居なかった半開きのドアを、肩で押し開けた。
部屋から出ると、すぐさま扉を閉め、セーラを解放する。
ようやく地に足を付くことができた彼女は「はふぅ」と息を吐くと、視線を左右させる。
やはりここも暗い。
セーラは壁に埋め込まれた水晶体を見つける。
「明かり、付けていいっすか?」
魔力式ランプの起動装置だ、手のひらに魔力を集めるだけで点灯できる。
王都で見るものとは形状が違ったが、機能は同等であるはず。
フラムが頷くと、2人の居る廊下が天井のランプによって明るく照らされた。
ようやくはっきりと見えた施設の姿に、2人は呆然と立ち尽くす。
「いきなり、すごい所に出たっすね。未来的、っていうんすかねこういうの」
「うん、あのオーガは追ってきてないみたいだけど……さらにとんでもないものを見つけちゃった感じ?」
フラムは冷たい壁を、実在するものなのか確かめるように触った。
こんな金属で作られた建造物なんて、見たことがない。
それに、洞窟からさらに下に降りた場所にあるということは、ここは地下ということになる。
先ほどの死体が積み上がっていた部屋だって、かなり広かった。
これだけの規模の施設を、それも地下に作るなんて、とんでもない技術力と資金力だ。
「とりあえず、出口を探そっか」
「そうっすね、色々と気になることはあるっすけど、それよりも命が最優先っす」
部屋から出て右側は行き止まりだ。
2人は左側に向かって直進する。
すぐに丁字路に当たり、左は行き止まり、右には長い廊下が続いていた。
右側はまだ暗い、どこかでランプの起動装置を探さなければならないのだろう。
左の行き止まりの手前に部屋が1つだけある、まずはそこの探索から。
フラムが扉に耳を当てて、中に誰も居ないか確認し――そしてゆっくりと、魂喰いを片手に押し開いた。
入り口のすぐ傍の壁を手探りで探すと、そこにも水晶があった。
彼女がこの起動装置を使うのは初めてだったが――スキャンと同じ要領、いや手のひらに魔力を集めるだけだからもっと簡単だ。
軽く念じると、部屋が明るくなっていく。
中には高めの机と戸棚が1つずつに、本棚が2つ。
あとは向き合ったソファに、その間にあるテーブル、こちらは応接用なのだろう。
先ほどの部屋ほどではないが、そこそこの広さがある。
偉い人が使っていたのかもしれない、第一印象でフラムはそう感じた。
「棚の中は全部からっぽっすね」
「うん……」
棚を漁るセーラとは対称的に、フラムは部屋の壁を見回している。
するとそこにも、何箇所かねじれている場所があった。
大きさは様々だが、やはり“回転”している。
「おねーさん、それどうなってるんすか?」
「わかんない、でもさっきの部屋でも見たんだよね。それに私たちを襲ってきたオーガもそうだった」
「回ってる、っすか」
時計回りにねじれる壁、人体、そしてモンスター。
この施設は――その現象、あるいはそういった存在を取り扱っていた場所なのだろうか。
地図を探すついで、と自分に言い聞かせて机の引き出しを探っていると、一箇所だけ鍵がかかっていて開かない場所がある。
「壊しちゃっていいんじゃないっすか? どうせ誰もいないっすし」
セーラは平然と物騒なことを言うが、今は緊急時だ。
フラムは大剣で鍵のあたりを破壊する。
するとあっさりと引き出しは開いた、さすがにここまでされることは考慮していないのだろう。
中にあったのは、一冊のノート。
フラムがそれを手にとって開くと、セーラは横から中身を覗き込んだ。
『あれの制御ができなくなってから2日が経った。ようやく上から連絡が来る、資料を全て廃棄しろとのことだ。救出はまだかと尋ねたが無視された。どうやら俺たちは見捨てられたらしい』
それは日記とも呼べない殴り書き。
日付は書かれていないが、ノートの状態からして10年は経過しているだろう。
『世襲なんてロクなもんじゃない。そもそも俺はこんな場所に来たくなかったんだ、ただ地道に功績を上げて、偉くなるだけでよかった。なのにどうして。被験体は部屋に押し込めたが、漏れ出したエネルギーが周囲を歪め始めた。犠牲者だって出た。もう俺たちはダメなんだろうか』
文章には悲壮感が溢れている。
被験体――その言葉に、フラムはねじれた死体を思い出す。
「ここで実験してたんすね、ってことはあのオーガも……」
「人工物、かも。だとしても、ノートの感じだと制御はできてないのかな」
文字はどんどん荒れていく。
元々あまりきれいではなかったが、ついには位置までもが上下にぶれだした。
『何が天啓だ、何が国のためだ。俺はそんなものどうだっていい、ただ、正しいことをしたいと思って入っただけだった。国は人じゃないのか? 俺は国の一部じゃないのか? わからない、あいつらの考えていることがわからない』
『望まれた通りにやっただけだ、悪かったのは俺が完全では無かったからだろうか。繋がりが足りなかったからだろうか。確かに接続不足だった、知識が足りない。だから間違った? いや、違う、違うはずだ、俺は正しいことをやってきた!』
『俺は俺だ。俺は俺だ。俺は俺だ。巡る、いや、巡らない。俺は俺で、だからこそ正しい。けど、本当に正しいものはなんなんだ? ああ、接続している。みんなが接続している。巡る知識は叡智に到達するのか、だとしたらそれが本当に正しいものなのか?』
ついには10文字ほどでノート1ページを使うほどガタガタになり、読むのも難しくなってくる。
また内容も、書いた人物の正気が失われているのは明らかだった。
「巡る叡智……接続……」
「よくわかんないけど、でもこれって、漏れ出したエネルギー、ってやつの影響だよね」
「……だと、思うっす」
人知を超えた力。
それが人間の精神に影響を与えてもそうおかしくはない。
さらにページを捲ると、今度は指でなぞらなければ読めないほど、文章の並びは滅茶苦茶になっていた。
『接続したい、繋がりたい。それが叡智に到達する手段だ。俺達は、そうか、ずっとこれを目指してきた、求めてきた、信じてきた。ようやくたどり着けたのに、俺はなんて小さいことに拘っていたんだろうか』
『研究員たちはみな接続した、俺も行く。どこへ? 死ぬのか? わからない。叡智は人の身では到達できない地平にある、だからそこに行かなければ。だが、ああ、そこすらもまだ安住の地ではないのか? 真なる叡智は、真なる平和は、実現されるには、裁き、あるいは支配を』
だがしかし、指でたどっていくとよくわかる。
文字の並びには規則性があった。
そして最後のページになると、それは完全なる――
『フラム・アプリコット』
――螺線形となる。
「……」
2人は、同時に黙り込んだ。
ノートを持つフラムの手は震え、ページの端がくしゃりと歪む。
「……また、なの?」
「おねーさん……」
「しかも、これかなり前のノートでしょ? なのに、まだ私は小さくて、田舎町に居た頃なのに……なんで、私の名前がここに出て来るの? おかしいじゃないッ!」
自分にも、湧き上がる感情が怒りなのか恐怖なのかわからなかった。
ぐちゃぐちゃに混ざった気持ちが衝動を呼び起こし、彼女はそのノートを床に叩きつけ、荒い呼吸で肩を上下させた。
「私はただ……故郷で平穏に暮らしたかっただけだっての。もう、今の私じゃそれは叶わないけど、でもミルキットと出会ってさ、あの子となら王都で気ままに暮らせるかもーとか思ってたのに……なにこれ、なんなのこれ、偶然来た場所で、なんでこんなことになるわけ!?」
「ご、ごめんなさいっす」
フラムをここに導いたのは、間違いなくセーラだ。
自らのうかつさを悔い、彼女は両手をぎゅっと握って、瞳を潤ませた。
「……あ」
今にも泣きそうなセーラを見て、冷静さを取り戻すフラム。
しゃがみ込み、視線を合わせると、優しく頭を撫でた。
「ごめん。そういうつもりじゃ、なかったんだけど」
「悪いのがおらなのは、間違いないっすから。おらがこの洞窟の情報を見つけてこなければ、もっと楽に終わったかもしれないっす」
「それは違う。セーラが居なければ、たぶん私、キアラリィのある場所なんて見つけられなかったと思う」
「おねーさん……ほんと、ごめんなさいっす。本当は、こういう時、おらがおねーさんのこと慰めないとダメなんすよね」
「いいって、おかげで気持ちが落ち着いたから」
お姉さんぶって無理をしているうちに、フラムの恐怖は失せていた。
1人だったらこうはいかなかっただろう。
だから心の底から感謝する、セーラに、一緒に居てくれてありがとう、と。
「ここに地図は無さそうだし、とりあえず他の部屋も探そっか。ね?」
溢れてセーラの頬を伝う涙を、フラムは指で拭う。
柔らかな体温に勇気をもらった幼い少女は、やっと笑顔を取り戻して、力強く頷くのだった。
◇◇◇
その後も探索は続いたが、地図らしきものも、出口らしき扉も見つからない。
とにかく施設は広く、全ての場所を歩ききるまでにはまだ時間がかかりそうだ。
進めば進むほど、壁の歪みは増え、中には壁だけでなく、廊下そのものがねじれている場所すらあった。
途方もない力だ。
あのオーガにも、全く勝てなかったわけである。
「本当にとんでもない施設だよね、これ作った人たちは、よっぽど研究に賭けてたんだろうね」
「確かに、実用化できればとんでもない力になるっす。それこそ、魔族にだって負けないぐらいに、っす」
人間が力を求める理由など、魔族を退けること以外にあるだろうか。
そう考えると、施設の規模から考えても、この研究に王国が関わっていたことは間違いないだろう。
薬師を潰した教会と繋がっているぐらいなのだ、腐敗していることぐらいは国民は誰でも知っている。
代わり映えしない、無機質な灰色の廊下を歩いていると、微かに、何かの音が聞こえてきた。
ここまでは全くの無音だったせいか、本当に小さな音だというのにすぐに気づき、2人は同時に足を止める。
「……て……ぇ……」
「声、かな」
「誰か生きてる人がいるのかもしれないっす!」
フラムは、駆け出そうとするセーラを制止した。
まだそうとは限らない、モンスターである可能性もあるのだ。
慎重に、ゆっくりと近づいていく。
「ああぁ……けてえぇ……! だれ……ええぇ……!」
それは、女性の声だった。
距離が近づいてくるとよくわかる、モンスターのものではなさそうである。
「ああぁぁ、助けてえぇぇ! 誰か、助けてえぇぇ!」
彼女は、助けを求めているらしい。
廊下の向こうに、声の主の姿も見えてきた。
白衣を纏った髪の長い女性は、曲がり角の手前で壁を背もたれに、膝を抱え、俯いた状態で頭を抱えて座りこんでいる。
声が少しくぐもっていたのはそのせいか。
念のため、セーラを離れた場所に置き、フラムが女性に駆け寄り、顔を覗き込む。
「ああぁぁ、助けてえぇぇ! 誰か、助けてえぇぇ!」
フラムが目の前に居るにも関わらず、女性は同じ言葉を繰り返していた。
よほど恐ろしい目にあったのだろう。
安心させようと、フラムは肩に手を置いて話しかけようとした。
「ああぁぁぁ、助けてえぇぇ! 誰か、助け」
すると、女性の声がぴたりと止まる。
「もう大丈夫ですよ、私たちはまともな人間ですから」
そうフラムが話しかけると、彼女はゆっくりと顔をあげる。
いや――顔は無かった。
赤い肉が渦を巻き、ぶじゅる、ぶじゅると血液を滲ませているだけである。
そして、
「みいつけた」
くぐもった声が響く。
俯いていようが上を向いていようが関係なかった、最初からそういう声だったのである。
彼女の両腕がフラムの腕をつかみ、そして顔の肉の渦をそこに押し付ける。
ずぶずぶ。渦が、その手を飲み込んでいく。
温かい生肉に包み込まれる気色の悪い感覚に、フラムの全身が一気に粟立つ。
引き抜こうと必死に力を込めるが、女性の両腕の力は人間のそれではない、呪いの装備で強化された筋力でもびくともしない。
さらに追い打ちをかけるように、こちらに駆け寄る
フラムを助けようと近づいてくるセーラとは別のものである。
それは曲がり角の向こうの見えない場所からとてつもない速度で近づいてきて、直前でぴたりと止まった。
そして、そいつは、フラムの様子を伺うように、ゆっくりと顔を出す。
肉の顔、緑の肌。
上に居るはずの、異形のオーガであった。
フラムの表情筋が引きつる。
廊下は人間が通るために作られたもの、巨大なオーガは通れないはずである。
だが――そいつは四つん這いの状態で、施設内を移動していたのだ。
そして誰かが、この“女性の死の間際の声をひたすら再生し続ける”という、人の善意を利用し、踏みにじる悪辣な
「っ……離してっ、離してよぉっ、離せえぇぇぇええっ!」
「おねーさあぁぁんっ!」
フラムとセーラの叫びが虚しく響く。
どんなにあがいても女性は彼女を離さず、顔面でうごめく肉の渦はすでに二の腕まで飲み込んでいる。
逃げられない。
こんな至近距離で攻撃を受ければ、今度こそ即死だ。
オーガが、今度こそ彼女を仕留めるべく、腕を振り上げた。
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