第113話 カムヤグイサマ
夜、ジーンは王城の一角で壁に背中を預け、細めた瞳で天井を眺めていた。
ここは彼の部屋の近くだが、一連の事件ですっかり荒れてしまっている。
死体こそアンリエットたちのおかげで処理されているものの、酸化した黒い血がそこら中をべっとりと汚していた。
幸い、血は乾いているし、風の流れる方向のおかげで匂いはあまりしない。
「さんざん泣いたかと思ったらいきなり寝たんだぞ? あいつも所詮はガキだな」
フラムのことを言っているのだろうか、ジーンは心底忌々しそうに吐き捨てた。
彼の場合、そういった冷たい言葉にも愛がこもっている――などということは無い。
単純に、彼女のことを嫌っているのだ。
「疲れているからだと? はっ、僕が生かしてやったんだ、それぐらい働いてもらわなければ困るな」
ジーンは反省しない。
今日ここでヴェルナーを撃破できたのも、ほぼ自分の力だと確信している。
だがしかし、それも以前の彼であれば、“ほぼ”がつくことはなかっただろう。
「ま、反転の能力は確かに評価すべき点ではあるか。褒めるとはらしくない、だと? はっ、そうかもしれないな。今の僕はらしくない、どこまでも憎たらしいほど」
自虐的に笑うジーン。
以前では見られなかった表情だ。
「しかしそれこそが、僕が人間であるという証左だとは思わないか? 奴らとは違う。僕はこの生まれ持った人間という殻を使って、個を否定する愚かな神を越えてみせる。そして、この天才ジーン・インテージの名を歴史に刻んでみせよう!」
彼は両手を広げて、軽くのけぞりながら宣言する。
少し上ずった声が、虚しく王城の廊下に響いた。
気が済んだのか、ジーンは「ふぅ」と息を吐くと、再び壁にもたれる。
「……嘘だと? ははっ、違うな。
それもひょっとすると強がりなのかもしれない。
だが、あのジーンが一割でも弱音を吐いたのだ。
非常に貴重だが、別に聞いてもうれしくはなかった。
「あぁ……僕が、僕ともあろうものが、計画の履行を前にしてナイーブになっている。一生の恥だな、人類史に残る天才としてあるまじき有様だろう。だが幸いにも、誰もこの瞬間を記録には残せない……おい、なぜ笑う。貴様とて――いや、そうだな、お前はとっくに腹をくくっているんだったな。選択肢も、他は全て塞がれている」
ジーンがそうさせたと言っても過言ではない。
しかし、無駄死によりはマシだ。
彼もジーンに感謝している。
「僕にはわからん。君ほどの男が、なぜあのような下らん女に執心するのか」
それに限った話ではなく、ジーンは基本的に他人の心を理解できない人間なのだが――それを差し引いても、理解しがたい心理である。
その女は裏切り者だった。
その女は人殺しだった。
その女は信念もへったくれもないへたれだった。
何もいいところなどない。
あえてあげるとすれば、外見と、男性受けしそうな体型ぐらいだ。
「だが止めはしないさ」
そう言って、ジーンは偉そうに笑う。
「それが個だ。愚か者がいるからこそ、天才が生まれる。つまり僕以外の有象無象は、全て愛すべき愚者なのだから」
それは、オリジンに関連する一連の事件の中で、彼の学んだ真理だった。
おかげで愚者に少しだけ優しくなれた――と彼はいつも通り偉そうに語るのだが、はっきり言ってそれは他者から見れば区別がつかない程度の変化であった。
ジーンは上機嫌に話していたかと思うと、急に物憂げな表情に変わり、天井を仰いで「はぁ」と息を吐いた。
「あぁ……ここは少し寒いな」
また目を細め、狭まった視界で灰色の天井を観察する。
だが視線こそ上を向いているものの、彼の意識はそこにはなかった。
ぼんやりと、これから待つ未来のことを考えている。
「できれば早く王都を発ちたいのだが……名残惜しくはないのか、だと? ふん、惜しむものなどなにも無いな。貴重な蔵書もあるが、内容は全て僕の頭の中に入っている。なに、そうじゃない? なるほど、そういう意味か。お前と僕は違うんだよ。思い出とやらを、無闇やたらと残したりはしない」
効率的な生き方だ。
けれど今は少しだけ、そうじゃない生き方もあったのではないか、と思える。
選んだ道が過ちだったわけではない。
天才は間違えないのだから。
しかし、選択肢の二つの正解があるのだとしたら。
どちらを選んでも、ほとんど差のない、しかし異なる未来があったのだとしたら。
「……馬鹿馬鹿しい」
ジーンは首を振り、感傷を斬り捨てる。
「どうする、もう少し話して――いや、ここまでだな。邪魔が入った」
カツ、カツ、カツ、と足音が近づいてくる。
距離が縮まるたび、赤いツインテールが揺れた。
つり目気味の鋭い瞳がジーンの姿を捉える。
「どこにいるのかと思えば、こんな場所でしたのね」
「オティーリエか、何の用だ? 雑用なら断る」
先手を打っておいたのは、まさについさっき、雑用に使われたからだ。
リートゥスに脅されたので渋々従ったが、二度とやるつもりはなかった。
「もうあなたに頼むつもりはありませんわ、殺気がだだ漏れで避難者たちが怯えますもの。ただ、セーラという少女が、あなたに怪我が無いか心配していたので、確認しにきただけですわ」
「あのガキか。見くびられたものだな。この宇宙に名を轟かせる天才、ジーン・インテージがあの程度の戦闘で怪我をするはずなど!」
「はいはい、わかりましたわ無傷ですのね。でも一応、診てもらった方がいいですわよ、明日の朝には発つのでしょう?」
未だフラムは眠ったままだが、さすがに朝になれば目を覚ますだろう。
そうしたらすぐに出発だ。
もう時間はあまり残されていないというのに、必要なピースはまだ集まっていない。
「必要ないと言っているのだが……どこまでも面倒な奴らだ」
わざとらしくため息をついて、ジーンはオティーリエのあとをついていく。
最後に彼は一瞬だけ後ろを振り向いたが、風が吹くだけで、そこにはもう誰もいなかった。
◇◇◇
セーラはジーンの診察が終わると、苦笑いをした。
「びっくりするほど健康体っす、本当におねーさんと一緒に戦ってきたんすか?」
「僕の頭脳を使えばこの程度は造作もない」
「アホなのか天才なのかよくわかんないっすね」
「何だとガキ。貴様、僕のことをアホだとっ!」
「天才っす、天才でいいっすから騒がないでくださいっす! おねーさんも寝てるんすから!」
この程度で起きるほど浅い眠りではなかったが、それは別として単純にうるさかった。
しかし、ジーンで診察も最後だ。
重傷者もどうにか命をつなぎ、軽傷者の傷の治癒も完了した。
外はすっかり暗くなっているが、これでセーラの仕事は終わりである。
「おつかれさまっ」
ネイガスがセーラを真正面から抱きしめる。
すると後頭部の金髪だけを残して、セーラの頭は彼女の豊満な胸に埋もれてしまった。
「ぐるじいっず」
「あらごめんなさい、やりすぎちゃったわね」
「でも抱きしめられるのは嫌いじゃないっす」
「それは良かったわぁー!」
そう言って、ネイガスは再度セーラを胸に埋める。
そんな二人の様子を、同じ教会でセーラの成長を見守ってきたティナたちは、複雑な心境で見守っていた。
「まさかあのセーラが、魔族と……しかも女の人とあんな関係になっちゃうなんてねえ」
「オレら魔族もびっくりだって。確かに人間は嫌いじゃねえが、まさかさらってきた挙げ句に手篭めにしちまうたぁな」
ツァイオンは、ティナの隣に移動しながら言った。
「手篭めってあなたね……」
「間違っちゃいねえだろ?」
ツァイオンの容赦ない言い回しに、ティナの頬がひくつく。
肉体関係をもっているところまではさすがに伝えていないが、聞いたら修道女たちは卒倒してしまうのではないだろうか。
「そりゃそうかもしれないけど。でも……それがあの二人で良かったかはともかく、いずれは必要になることなのかもしれないわね」
「人間と魔族のこれからのために、か?」
ティナは頷いた。
これから――つまり、オリジンを倒したあとのことである。
王国はボロボロ、魔族領も壊滅状態、手を取り合わなければ復興は難しいだろう。
「オリジンさえいなけりゃ、オレらも人間と距離を置く必要はねえからな」
「あら、そうなの?」
「そうなんだよ。あれさえ無ければ万事解決ってわけだ」
「つまり、王国に魔族が住むのが当たり前になる日が来るかもしれないのね」
「逆もありえるだろうな。つっても、染み込んだ価値観を変えるのは難しい。気長な仕事になりそうだな」
「まるであなたがやるような口ぶりね」
そう指摘され、ツァイオンはなぜか気まずそうな表情を浮かべる。
目をそらし、心なしか頬も赤い。
「なんで恥ずかしがってるの?」
「オレにも色々と事情があんだよ」
要するに、魔王であるシートゥムと結婚したら、自分もそういう政治に関与することに――と妄想してしまったのである。
もっとも、それもこれも全て、オリジンを倒せて初めて実現することなのだが。
「そういえば、あなたたちってオリジンを倒しにいくのよね」
ツァイオンとは目を合わせず、セーラの方を見ながらティナが問いかける。
「ああ、それがどうかしたか?」
「正直なところ……勝てそうなの?」
修道女といえど人間、今は避難者たちを支えようと気丈に振る舞っているが、他の人々と同じようにティナも泣きたいほど不安なはずである。
そんな彼女に、ツァイオンはさらりとこう答えた。
「はっ、勝つに決まってんだろ」
「自信があるのね」
「そんなもんねえよ」
「……無いの?」
「ねえだろ、そりゃ。でも勝つんだ、オレらは。どうあろうと、勝ってシートゥムを取り戻す、それしか考えねえ」
有無を言わせぬツァイオンの熱に、呆気にとられるティナ。
次の瞬間、彼女は思わず笑ってしまい、肩を震わせながら言った。
「ふふふっ、あなたってなんだか暑苦しいわね。襟も立ててるし」
「んだよ、襟は関係ねえだろ」
「いいえ、あるわ。そのせいで暑苦しさが増してるのよ、やめた方がいいんじゃない?」
「よく言われるが、それでもやめるつもりはねえっての」
まだ幼い頃、シートゥムに『かっこいい!』と言われてからずっと続けている習慣だ。
今じゃ彼女もすっかり忘れてツァイオンの襟に好き放題言っているが、そのやり取りも含めて、彼は一生それを続けるつもりだった。
「格好はともかく、その愚直さは見習わなきゃね」
「おう、ついでに格好も見習っとけ。負けたときのことなんて考えたって仕方ねえんだよ。明るい未来を想像すりゃ、少しは気持ちも楽になるってもんだろ」
ツァイオンが歯を見せて笑うと、ティナも釣られて笑った。
そんな二人の後ろから、とある男性が声をかける。
「いいですね、それ。オレも見習いたいです」
振り向いたツァイオンの視界に入ってきたのは、自信なさげな、金髪の男性の姿。
雰囲気からして、避難民のうちの一人にしか見えなかった。
「あんたは……どこかで見たことある顔だが」
「スロウって言います、一応国王ってことになってるんですけど」
「……あ、そういえばそうだったな。すまねえ、あのときと格好が違いすぎてわからなかった」
避難民に声をかけて回っている男性の存在には気付いていたが、まさかそれが国王だったとは――会談の時に一度顔は合わせているが、服が変わり、髪型もセットされていないとすっかり別人である。
何より、本人の纏う雰囲気が一般人のそれなのだ。
「見えないですよねー。わかってます、俺も自覚あるんで」
「いや……うちも似たようなもんだ」
なんせ魔王はあのシートゥムなのだから。
スロウよりよっぽどひどい。
「そういやそうですね。でも、置物として国王にされただけなんで、国王っぽい仕事とか全然出来ないんですけどね」
自信なさげに頭をかきながら、苦笑いを浮かべるスロウ。
しかしティナが、すぐさま彼の言葉を否定した。
「そんなことありませんよ、国王様。あなたの言動で勇気づけられた人たちがどれだけいたことか!」
「いや、ホント大したことしてないんで。ティナさんにも手伝ってもらいましたし」
スロウの自己評価が低いのは、今までの扱いを考えると仕方のないことだ。
しかし、自らの身を危険にさらしてまでイーラたちと共に避難所を巡り、民たちを安心させた功績は、彼が思っている以上に大きいものだ。
国王としての能力があるかどうかはさておき、どこに逃げたのかもわからない貴族や大臣に比べれば、よっぽどスロウの方が仕事をしている。
「んで、ちょっと小耳に挟んだんですけど、ツァイオンさんって魔王……っていうかシートゥムさん、でしたっけ。と、付き合ってるんですか?」
「あら、あなたそんな重要人物だったの? どうしましょう、普通に話しちゃってたわ」
「気にすんなよ、堅ッ苦しいのは苦手なんだ。あと、付き合ってるってわけじゃねえ、今んとこただの幼馴染だ。んで、それがどうかしたのか?」
「いやあ、そういう関係なら、今後のために挨拶ぐらいはしといた方がいいのかなー、と思いまして」
要するに――今後のお付き合いのために、繋がりを作っておきたいらしい。
こんなときにやることか? とも思えるが、魔族であるツァイオンと話す機会など滅多にあるものではない。
「なるほど、そういうことか。確かに、戦いが終わったら長い付き合いになるかもしれねえな」
「俺の方がダメにならなければ、ですけどね。王国の貴族たちが俺のことを国王って認めてくれるかわかんないですし」
「そんときゃオレが後ろ盾してやるよ。変な野郎に国王を名乗られるよりは、あんたぐらい謙虚な方が信用できそうだ」
「褒められてるのかわかんないですけど……それはありがたいです、マジで」
ツァイオン自身も褒めたつもりはなかったが、信用できるというのは嘘ではない。
いわゆる政治家タイプの人間ではないが、変に利益に執着していない人間の方が、こういう非常時は役に立つ。
「俺、戦ったりとかはさっぱりなんで、ほんと全然役に立てないですけど、ツァイオンさんたちのこと応援してるんで。マジ、頑張ってください」
「ああ、ありがとな。あとでその言葉、フラムにも言ってやってくれねえか? あいつが一番の主力だからな」
「んあー……フラムさんには……」
スロウは気まずそうに目をそらす。
「言えない理由でもあるのか?」
「なんつうか、チルドレンとの戦いでは守ってもらったのに、城に捕まってるとき俺なんだかんだ調子に乗ってたっていうか、困惑してたっていうか……それで何もできなかったんで、ちょっと気まずいです」
恩を仇で返したわけではないが、薄情だという自覚はあった。
もっとも、動いたところで何ができたわけでもない。
「んなことか。大丈夫だろ、フラムなら気にしてねえと思うぞ?」
「だと、いいんですけど。あはは……」
かなり申し訳なく思っているらしく、ツァイオンが言っても彼の表情は浮かないままだった。
確かに国王としてやっていくなら、もう少しだけ自分に自信を持つ必要があるかもしれない。
もっとも、母を失い、無理して明るく振る舞う彼に、それを指摘するのは酷かもしれないが。
「あれ、お前を呼んでんじゃねえのか?」
ツァイオンの視界に、こちらを手招きするイーラの姿が映る。
「げ、ほんとだ。すいません、行かせてもらいますね」
そう言い残し、駆け足でイーラに近づいていくスロウ。
その後姿を見て、ツァイオンが呟いた。
「ありゃ尻に敷かれてんな」
「ギルドで働いてた頃の先輩らしいわよ」
「国王が、ギルドで働いてた? なんだよそりゃ」
「つい最近まで、王族の血を引いてることを知らなかったそうなの。それでふつーに西区で生活してた、って」
「だからあんなに庶民っぽいわけか。なるほど合点がいった」
庶民っぽいというより、庶民そのものだ。
本来、王族とは幼少期からそれなりの教育を受けて成長する。
しかしそれがなかったスロウには、体に染み付いた鼻につく上品さとでも言うべきだろうか――そういったものが無い。
おそらくこれから先、彼がどんな経験をしても、身に付くことはないだろう。
染み付くとは、そういうことだ。
だがツァイオンは、それが悪いことだとは思わない。
「庶民国王か、キャッチーなフレーズで悪かねえんじゃねえの」
ツァイオンは腕を組み、スロウの背中に期待の眼差しを向けた。
◇◇◇
日付が変わって三時間後。
みなが寝静まった深夜に、フラムは目を覚ました。
王城でぶっ倒れるように寝たまでは覚えているのだが、いつの間にか誰かがシーツをかけてくれていたらしい。
上半身を起こして周囲を見回すと、みな自由な体勢で雑魚寝している。
床が固くて寝苦しいのか、「うぅん」と唸りながらしきりに寝返りを打つ者もいた。
しかしツァイオンは寝心地など気にしていない様子で豪快に大の字になっているし、セーラにいたってはネイガスの胸を枕にして安らかに眠っている。
抱きしめているネイガスも重たいだろうに、口を半開きにして至福の表情を浮かべていた。
フラムは聞こえてきた「うへへぇ……」という声に、思わず噴き出しそうになる。
だが、二人ほど姿が見えない人物がいる。
ジーンは自分の部屋で寝ているとしても、アンリエットはどこに行ってしまったのか。
避難民たちを気遣ってか、オティーリエやスロウもこの部屋で寝ているというのに、彼女だけが自室で休むとは考えにくい。
広間を抜け出したフラムは、散歩ついでに彼女を探して城の中をさまよった。
窓から差し込む微かな明かりだけを頼りに、赤い絨毯の敷かれた長い廊下をひたすら歩く。
人の気配のない王城というのは、いやに不気味だ。
長い廊下に、フラムの足音だけが響き続ける。
ふと彼女は足を止め、外の景色を見た。
人の暮らしていない王都は夜に覆い隠され、ほとんど何も見えない。
見ているだけで気が滅入る光景など中々あるものではないだろう。
「王都が復興するまでに、どれぐらいかかるんだろうな……」
フラムはぼそりと呟いた。
五年か、十年か。
いや、魔族が協力し、魔法を使って復興を進めれば、三年ほどで見れるようにはなるかもしれない。
そこまでして、この悲劇の王都に執着する者がいるかはわからないが――願わくば、いつかまたあの賑わいを取り戻して欲しいものである。
ここはフラムにとって故郷ではないが、今は人でごった返していた、あの暑苦しい中央通りの風景が懐かしい。
当時――と言ってもせいぜい数ヶ月前だが――を思い出しながら目を細めて窓の外を見ていると、廊下に誰かの足音が反響する。
奥に姿を現したアンリエットは、少し驚いた様子でフラムを見た。
「誰かと思えば。もう起きていたのか」
「ついさっきですよ」
フラムに歩み寄るアンリエット。
他者が存在するというだけで、廊下の雰囲気は一気に明るくなる。
「何を見ていたんだ?」
彼女はフラムの隣に立ち、たずねた。
「見てたというか、以前の王都を思い出してたんです」
「懐かしんでいたのか? 意外だな」
「なんで意外なんですか」
「王都に来てから、君は碌な目に遭っていないだろう? だからてっきり、王都のことは嫌っていると思っていたんだ」
故郷を離れ、あのギスギスしたパーティーに加入し、奴隷として売られ、どうにか生き残ったものの、オリジンとの戦いに巻き込まれ。
確かに、碌な目に遭っていない。
「それ自体は、別に王都が悪いってわけじゃなくて、あのアホ眼鏡と自称神様が原因ですから」
「ははは、言われてみればそうだな」
「あと、ミルキットと出会えたんで。それだけで、全部を差し引いてもプラスになるぐらいだと思いますよ」
「愛だな」
「愛ですね」
二人は互いに顔を見ながらクスクスと笑った。
「そういえば――みんなの遺体は、どうなったんですか?」
「ああ……とりあえずチルドレンの死体は回収して、王城内に安置してある」
「ありがとうございます」
「当然のことだ。むしろ、私の方が死者の眠りを妨げてしまったことを謝らねばならない」
「もしかして、ヴェルナーが自分の部下だからって責任を感じてるんですか?」
「管理が行き届いていなかった。今回の一件は、言うまでもなく私の責任だ」
フラムは「はぁ」と大きく息を吐き出した。
まあ、こうなることはわかっていたが。
「いや……私は責任を感じているわけではないのかもしれない」
「どういうことです?」
「責任を背負いたいんだ。そうやって、罪の意識を軽くしようとしている」
アンリエットにとって、ヘルマンやヴェルナーは、何年も一緒に共に戦ってきた仲間だ。
それが、まさか同士討ちで命を落としてしまうとは。
考えてみれば、彼女が心を痛めるのは当然のことだった。
「ヘルマンは家族と共に眠っている。ヴェルナーも、いずれは墓を作ってやるつもりだ。本来、罪人と犠牲者を等しく弔うべきではないのかもしれない。しかしそうしなければ、私が耐えられそうにない」
二人の部下だけではない。
王都の人々も、ヴェルナーの攻撃を受け王城内で命を落とした避難者に関しても、その度に『守れなかった』という罪の意識がアンリエットにのしかかる。
王国軍の頂点に立つというのは、そういうことだ。
どんなに強い心を持っていようとも、そうたやすく耐えられるものではない。
「……すまないな、愚痴っぽくなってしまって。フラム、君も辛い立場だというのに」
「いえ、それで少しでも気が楽になるんならいくらでも聞きますよ」
「本当に頼ってばかりですまない、ただでさえひどいことをしてしまったというのに、私は自分が情けないよ」
「ひどいことって……ああ、あれですか」
アンリエットは、フラムの血を見て、極度の興奮状態に陥ってしまったことがある。
そのことをまだ悔やんでいるようだ。
「言われなきゃ忘れてましたよ、私。でも今回の戦いでは何もなかったですよね」
「元からオティーリエの血を舐めていれば発作は起きないはずだったんだ、今はその効果が大きくなっているのかもしれないな」
「関係が深まったから、ですか?」
「そう、なのだろうか。だとしたらオティーリエには感謝しなければ」
どうやら二人の仲は順調のようだ。
フラムも微笑む。
これで周囲の人たちがオティーリエの暴走に巻き込まれ無いようになればいいな――と願いながら。
「さて、そろそろ戻らなければ、オティーリエが起きてしまうかもしれない。フラムはどうする?」
「私はヘルマンさんに会ってこようと思います。剣のお礼を言いたいので」
「それはいい、きっと彼も喜ぶだろう」
そう言って寂しげに笑うと、アンリエットは広間へと戻っていった。
少し小さく見えるその背中を見送り、フラムは外に出る。
冷たい夜風を受けながら、手のひらの上に燃やした炎の光を頼りに、フラムはヘルマンの墓へとたどり着く。
そこには、彼が過去に作ったと思われる剣が突き立てられており、刃には家族の名前が刻まれていた。
また、刃の端の方にはヘルマン自身の名も刻印されていたが、他の文字とは筆跡が異なる。
おそらくアンリエットがつけ加えたものだろう。
フラムは剣の前に立つと、しゃがみ込む。
そして刃に刻まれた名前を、歯を食いしばりながら見つめた。
「死者の無念を感じます」
リートゥスはフラムの横にすぅっと、そう言った。
「じゃあ、ヘルマンさんたちはまだここにいるんですか?」
「いえ、もう現世には留まっていないでしょう。しかし感情の一部が、この場や、あなたの剣に宿っています」
「ああ……それは、わかる気がします。ここにいると、胸が締め付けられて、苦しくなってきます。怒りとか、怨みとか、そういうものが渦巻いてるんですね」
そしてそれらの感情が、フラムに縋り付いてくる。
必ず奴を、オリジンを殺してくれ――と。
彼女は唇を噛み、自らの胸のあたりの布をぎゅっと握りしめた。
「ヘルマンさん、ありがとうございます。あなたの想いは確かに受け取りました。この剣で必ずオリジンを倒して、みんなの無念を、晴らしてみせますから」
幾度となく繰り返してきたフラムの決意。
それは回数を重ねるたびに数多の想いを取り込みながら大きく、強く育っていく。
オリジンが他者の存在を拒みどこまでも“個”を求めるというのなら、人は他者との繋がりを武器にして立ち向かうしかないのだ。
◇◇◇
翌朝、もう一眠りしたフラムが目を覚ますと、視界をセーラの顔が埋め尽くしていた。
「おはようっす、おねーさん」
にこっと太陽のように笑うセーラ。
一瞬だけ驚くものの、フラムもすぐに笑顔になって「おはよう」と返す。
ネイガスが嫉妬しているが、見て見ぬふりをした。
「じゃれている時間など無いぞ、休息が済んだらすぐに出発だ」
「ジーン、夜は姿が見えなかったみたいだけど?」
「自分の部屋のベッドで寝ていただけだ、何か問題でもあるのか」
「いや、別にぃ」
どこまでも空気を読まないやつだ――と愚痴ろうかとも思ったが、ある意味で空気は読んでいたのかもしれない。
彼が広間にいれば、一つか二つは面倒な騒動が起きていただろう。
「次はエターナさんを探すんすよね?」
「うん、ミルキットも一緒に行動してるはずだから」
「ヒューグという男の相手もしなければならない。僕としては戦闘に参加する人数が増えることを望んでいるが――」
嫌味ったらしく言いながら、ジーンは横目でアンリエットの方を見る。
「すまないな、私とオティーリエはここにいる人々を守らなければならない」
オリジンを倒すことが最優先だが、だからと言って民を見捨てていいわけではない。
ヘルマンやヴェルナーが健在なら戦力を割くこともできたかもしれないが、残ったのが二人だけではそれも不可能だ。
「それも大事な役目ですから、謝ったりしないでください」
「ところで、そのオティーリエはどこに行ったのかしら?」
「確かに姿が見えねえな」
ネイガスとツァイオンが広間を見渡すが、赤いツインロールはどこにも見えない。
すると扉が勢いよく開き、噂のオティーリエが現れた。
「お姉様っ!」
「どうしたんだ、倉庫まで食糧を取りに行くと言っていなかったか?」
「そうなんですがっ、途中で外を見たら、人がいたんですの!」
そういう内容は、まずアンリエットより国王であるスロウに話すべきではないかとフラムは思うのだが――当のスロウは、他の避難民と同じように遠巻きに口を半開きにして見ている。
「人というのは、死者ではなく?」
リートゥスがそう尋ねると、オティーリエはコクコクと頭を縦に振る。
「おそらく王都に来る途中でヒューグに追われて、はぐれた人たちの一部ですわ」
「じゃあミルキットも!?」
「彼女の姿は見えませんでしたわ」
「っ……そっか。でも、手がかりを知ってるかもしれないってことだよね」
「あれから外で生き残ってきたということは、かなり消耗しているはずだ。迎えに行くぞ」
アンリエットとオティーリエを先頭として、フラムたちは城の外に出た。
もちろんスロウも引き連れて。
すると広場の向こうから、小さな人影が五人ほどこちらに近づいてくる。
「あれは……」
一番前を歩く人影を見て、フラムは思わずつぶやいた。
背中に大きめの盾を背負った、短髪の中年男性。
教会騎士団副団長、バート・カロンだ。
彼がこちらを指差すと、一緒に逃げてきた人々が歓喜に湧く。
王都にアンリエットたちが逃げている保証などなかったはずだ。
それでも微かな可能性を信じてここまで歩いてきたのだろう。
「バートか! まさか君が来てくれるとは」
「国王陛下に将軍閣下こそ、お元気なようで何よりです。それと……フラム・アプリコットに、ジーン・インテージに、魔族に、修道女。何だ、この集まりは」
「味方ってことだけわかってもらえれば十分ですよ、バートさん」
「ならばそうしておこう、詳しいことを聞くのは後からでもいい。今はとにかく、彼らを休ませてやってくれないか」
バートの後ろにいる五人ほどの男女は、すっかり憔悴しきっている。
すぐにでも水と食糧を与えなければ、倒れてしまうかもしれない。
アンリエットが広間に案内しようとすると、フラムはその最後尾に見知った顔を見つけた。
「ケレイナさん、ハロムちゃん!」
「フラムちゃん、無事だったんだね」
「お姉ちゃん!」
ハロムはフラムを見るなり、その胸に顔から突っ込んだ。
フラムは「おっとと」とよろめきながら彼女を受け止める。
「そちらこそ、ご無事でなによりです」
「エターナがヒューグの気を引いてくれたおかげさ」
「でも水のお姉ちゃん、あのいっぱいくっつけた気持ち悪いのに追いかけられて、どこかに行っちゃった……」
エターナのことだ、うまく逃げ切ったと思いたい。
しかし、相手があのヒューグでは――と悪い方へ考えてしまいそうになる思考を、軽く頭を振って拒絶する。
絶対に彼女は生きている。
生きて、ミルキットやインクたちと一緒にまた再会できるはずだ。
フラムは、そう信じることにした。
その後、バートが連れてきた五人は城内の広間へと案内された。
するとそのうちの一人の男性が、そこにいた少女を見るなり駆け寄って抱きしめる。
どうやら離れ離れになった家族だったようだ。
他にも友人との再会を果たした者もいたようで、バートはその様子を見て満足げに笑んでいる。
フラムはそんな彼に近づくと、こう尋ねた。
「あの、バートさん。他の人たちはいなかったんですか?」
「他と言うと、君と行動を共にしていた包帯を巻いた……ミルキット、だったか。あの少女のことかい?」
「それもありますし、エターナさんや、インクもそうです」
「すまない、俺は後から追いついて、散らばってた人たちを集めただけなんだ。だから、団長と遭遇した場面すら見ていないんだ」
「そうですか……」
暗い表情を見せるフラム。
するとそんな彼女に、よろよろと男が近づいてきた。
「なあ、あんた、包帯の女を探してるのかい?」
低く、掠れた声だ。
やせ細っているのは元からなのか、それとも逃げているうちにそうなってしまったのか。
目の下には大きなくまがあり、眼球も血走っている。
「そうですけど、何か知ってるんですか?」
「途中まで一緒に逃げてたよ、でも奴らに連れ去られちまった」
「奴ら?」
フラムが首を傾げていると、バートが耳元で囁く。
「彼は、少し心がやられてしまっているようだ。話半分に聞いてやってくれ」
中にはそういう人間もいるだろう。
頷いたフラムは、再び男の話に耳を傾ける。
「カムヤグイサマの贄になったんだ」
聞き慣れない単語に、再び首を傾げるフラム。
「こっから東にずーっといったところに、ファースって村があるのは知ってるかい?」
「聞いたことはあります」
「あの村はよお、表面上はオリジン教を信仰してるってことになってたが、本当は違うんだ。カムヤグイサマっつう神様を祀ってんだよ」
「その、贄になった、と?」
「そうさ。俺の知り合いもあいつらに連れされられちまった。あの村の連中は、そうやって、逃げた人間を生贄にして、カムヤグイサマに守ってもらってるんだ!」
にわかには信じがたい話だが、『知り合いが連れ去られた』という部分に滲む悔しさがやけに生々しい。
「あいつら血で変な化粧して、頭がおかしくなりそうな言葉を繰り返すんだ。低く、腹の底が震えるように、『オン、メ、グイ、ホウ』って。そう言ってると、体に力が湧き上がってきて、不思議な膜みたいなので包み込まれるんだ。そうなると、触ることすらできなくなる。“神の領域”が俺を守ってくれて、どんなに殴られてもすり抜けていく。おかしいんだ、でも本当なんだよ。俺は、俺は必死で何度も殴ったんだ! 戦ったんだ! なのに……何も、できなかった……ううぅ……!」
男はうずくまり、頭を抱えた。
フラムはしゃがみ、その背中を優しくさする。
すると彼は、うめき声のように何度もこう繰り返した。
「オン、メ、グイ、ホウ。オン、メ、グイ、ホウ。オン、メ、グイ、ホウ」
バートは苦笑いを浮かべ、フラムに言う。
「ここに来るまで、何度もこの状態になったよ。一種のトランス状態とでも言うべきか。とにかく、そうなると話しかけたって無駄だ、放って置いた方がいい」
そうは言われても、と困った表情になるフラム。
そこに、何を思ったかジーンが近づいてきた。
彼は顎に手を当て、うずくまる男を見下ろしながら語る。
「カムヤグイサマか、久しぶりに聞いたな」
「知ってるの?」
「ああ、と言ってもファースという村のことまでは知らないがな。ただ、大昔にそういう神を信仰する集団がいたという文献が残っている。もっとも、そいつは邪神だがな」
「邪神……」
「贄を要求するタイプのな。実際に、太古の時代には何人もの人間が生贄に捧げられ、命を落とした。しかも生贄にするため周囲の村の人間を拉致していたため、戦に発展し、最終的には村自体が潰されて信仰も途絶えたと聞いていたが……田舎の村で細々と続いていたのか」
彼の話す内容は今の状況と合致している。
本当にミルキットたちがそこにさらわれたのだとしたら、今すぐにでも助けに行かなければならない。
だが、この男の妄想である可能性もまだ残っている。
時間の無い今、うかつに動いていいものなのか。
もっと確かな情報を見つけた方がいいのでは――と悩んでいると、
「うわっ!?」
突然、フラムがバランスを崩して倒れた。
男の背中をさすっていた腕が、いきなり支えを失ったのだ。
「……何だ、今のは」
バートはフラムの右手を見ながら、目を見開いている。
彼が見たものは、男の体をすり抜ける、その腕だった。
体勢を持ち直したフラムも、呆然と男を凝視する。
「オン、メ、グイ、ホウ。オン、メ、グイ、ホウ」
男の体には薄っすらと儀式めいた赤い化粧が浮かび上がり、紫のオーラが体を包んでぼんやりと炎のように揺れている。
「オン、メ……グイ、ホ……うぅぅ……」
やがて男の化粧はよりはっきりとした色になり、さらに彼は苦しそうにうめき声をあげた。
「馬鹿な、カムヤグイサマの加護とやらが実在するとでも言うのか?」
「リートゥスさん、あれどんな風に見えます?」
フラムの問いに、彼女は眉にシワを寄せて悩ましげに答える。
「わかりません、少なくとも霊的な物ではないようです」
「スキャンで見てみたっすけど、特に異常は無いっすよ」
つまり、オリジンが干渉しているわけでもないようだ。
試しにもう一度フラムが触ってみるが、やはりすり抜ける。
これが『神の領域に守られる』ということなのか。
何もできずに、周囲を囲んで見守っていると、男の様子に変化が生じた。
「わ、わかってる、わかってる、俺じゃダメなんだろ!? 俺は、ファースの人間じゃないから!」
誰かに向かって叫ぶ男。
だがその先には、誰もいないし何も無い。
ただ、灰色の壁があるだけだ。
「でも、もう、みんないないんだ。あんたらが連れて行ったから、あんたらが奪ったから、俺にはもう何も残っちゃいないんだよぉお!」
「お、落ち着いてくださいっ!」
必死に呼びかけるフラム。
しかし、男の意識は別の世界に行ってしまったかのように、反応が無い。
見えているものが、聞こえているものが違う。
さらに彼は、まるで何かに縋るように前に手を伸ばし、必死の形相で叫んだ。
「だから、だから――
響き渡る男の声。
誰もが固唾をのんでその姿を見つめる中、どこからともなく、鈴の音が聞こえてくる。
シャン、シャン、シャン、シャン。
一定の間隔で、リズムを刻むように、それは少しずつ広間に近づいてきた。
そして――
シャン、シャン、シャン、シャン。
揺れる錫杖。
それを握る手は、いくつもの生物の頭部を重ね合わせた、奇妙な形をしていた。
いや、腕だけではない、2メートルほどの人の形をした体は、全てが生物の頭部を積み重ねて作られていた。
ヒューグの腕を思わせる、異形。
「あぁ……来たのか、カムヤグイサマ」
男の顔が引きつる。
それは喜んでいるようにも、絶望しているようにも見えた。
「誰かは知らないけど、やらせない!」
人でごった返す狭い空間では、神喰らいは抜けない。
だが、目の前の敵を倒すために剣を抜く必要は無いのだ。
構えた右の拳を、ガントレットが包み込む。
反転の魔力を注ぎ、「ふうぅぅ」と大きく息を吐いて、フラムは前方に飛び出した。
「はあぁぁぁぁぁああッ!」
フォンッ!
風を切りながら繰り出される渾身の一撃。
突き出された拳は――カムヤグイサマの体をすり抜け、虚しく空を切った。
「くっ……せいっ! やっ! ええぇぇいッ!」
さらに繰り返しパンチとキックで応戦するも、やはり当たらない。
「どきなフラム、次はオレが行くぜ。こういうやつは、光とか炎に弱いって相場が決まってんだよ!」
続けて、ツァイオンの放つ炎がカムヤグイサマだけをピンポイントに焼き尽くす。
だがやはり、相手は炎がそこに存在していないかのように、平然と前進した。
「効かないどころかスルーかよ、どうなってやがる……!」
「こいつ、スキャンしても何も見えないっす」
「普通、生き物ならステータスが見えるはずよね」
何から何まで得体の知れないその神は、ついに男までたどり着く。
そして彼の頭に、自らの頭部を近づけ――顔が“ぐぱっ”と、縦に二つに割れた。
中身は黒だ。
光を反射しない黒。
どこまでも深く続く黒。
入口には鋭いギザギザの歯が生え揃っており、透明の粘液が糸を引いていた。
その“口”で、そいつは男の頭を喰らう。
「見るなっ、全員顔を伏せろッ!」
アンリエットが叫んだ次の瞬間、男の頭部の上半分が食いちぎられる。
次は首まで、その次は肩を噛みちぎり、落ちた腕を飲み込む。
もう一方の腕も同じように。
続けて胴体を、まるでパンでもかじるように綺麗に喰らい、足は腕と同じように一呑みで体内に消えていく。
そして、ほんの数十秒で、男は跡形もなく消滅した。
食事を終えたカムヤグイサマはすっと立ち上がり、背筋をピンと伸ばしたまま、壁の方を振り返る。
フラムたちに一切目を向けることは無く、また『シャン、シャン、シャン』と手に持った錫杖を一定のテンポで鳴らしながら、来た道を戻っていった。
そのまま壁をすり抜け、どこかへ消えていく。
「こんな……ふざけた神なんて、オリジンだけで十分なのに……!」
フラムはカムヤグイサマの消えた壁を見て、声を震わせながらそう言った。
◇◇◇
遠くに音が聞こえる。
どれだけ遠くなのかわからないほど遠くに。
インクはそれだけを頼りに、何も見えない真っ暗闇の中を、手探りで進み続けていた。
雨が降ったばかりなのか、インクの足元はぬかるんでいて非常に歩きにくい。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
もうどれぐらい一人で歩き続けただろうか。
ひたすらに、聞こえてくる音の方を目指す。
心は今にも折れそうなほど弱っていたが、その先にエターナがいるはずだ、と信じることでどうにか正気を失わずに済んだ。
雑草の厚い葉が肌を裂く。
もう痛みすら感じない。
足元はボロボロで、無数に刻まれた生傷が痛々しかった。
「はぁ……っく……ふぅ……エターナ……どこ……エターナ……っ!」
気持ちが逸り、進行速度が上がる。
すると手を使っての道の確保がおざなりになり、インクは真正面から木の幹に衝突した。
「ふぐっ! う……うぅ……」
強打した顔面がヒリヒリと痛む。
さらにツゥ、と鼻血が流れてきた。
彼女はそれを腕で拭うと、手で体を支えながらゆっくりと立ち上がり、また歩き出す。
音を頼りに――とは言うものの、もはや彼女自身にも、それが本当の音なのか、はたまた幻聴なのかわからなくなっていた。
エターナと離れ離れになってすでに二日が経過している。
正直、彼女がここまで生きていること自体が奇跡だ。
しかし、もう体力も、精神も限界だ。
「エターナぁ……会いたいよ……どこ、どこにいるのぉ!? わたし……やだ、一人で、こんなの……やだよぉ……!」
弱々しい声が、森に響く。
すると彼女の背後から足音が近づき、
「エター……むっ!? んぐっ、んー! んうぅぅっっ!」
その口を、強引に塞いだ。
それは顔に奇妙な化粧を施した、二人の男。
インクを捕まえたのと別の男が麻のロープを取り出し、素早く手足を縛る。
「んうぅぅっ! むぅっ、ううぅぅぅぅ!」
叫び、暴れるインク。
縛り終えた男は、そんな彼女の腹を蹴りつけた。
「うぶっ……ぅ……」
気絶したのだろうか。
大人しくなったインクは、男に担ぎ上げられ、どこかへ連れて行かれる。
「オン、メ、グイ、ホウ」
「オン、メ、グイ、ホウ」
向かう先は、王都東にある村、ファース。
男たち二人は、奇妙な呪文を唱えながら、自分たちの故郷へと戻っていった。
◇◇◇
薄暗く、ジメジメとした肌寒い石作りの部屋。
飾り気もなく、家具すら何も置いておらず、唯一天井からぶら下がる球体が、辺りを照らす。
冷たく無機質なその場所に、ミルキットはいた。
彼女の膝枕の上には、先ほど連れてこられたインクが眠っている。
他にも二十人近く、ミルキットたちと一緒に避難していたり、奇跡的に生き残り、近くをさまよっていたという人々が部屋に押し込められていた。
ここがどこなのか、誰も知らない。
ミルキットたちをここにさらってきた、赤い化粧を施した人間たちは、ただ『オン、メ、クイ、ホウ』とよくわからない言葉を発するばかりで、他には何も言わなかった。
「ふぅ……ふぅ……」
ミルキットの呼吸は、少しだけ荒い。
エターナに崩れた遺跡から救い出されたのはいいものの、無傷とはいかなかった。
体の痛みは引いても、まだ体の調子が戻っていない。
そんな状態で、エターナとはぐれ、数日間森をさまよったのだ。
この部屋でしばらく休んで多少の体力は戻ったものの、普段の半分も力は出せそうにない。
他の人たちも似たような状況だ。
特に、ミルキットより前にここに入れられた人々は、食事どころか、まともに水も与えられていないようで、死んだように床の上に寝そべっている。
ここを見ていると、フラムと出会ったあの牢屋を思い出す。
何の罪もない人間をさらって閉じ込めるという悪趣味さも、似ていると言えるかもしれない。
「ご主人様……」
だったら、フラムがどこからか現れて、助けてくれないだろうか。
あの時のように、私の手を引いて――そんな妄想をするミルキット。
マリアにさらわれたという話はエターナから聞いているが、そこからどうなったのか、生きているのかさえ定かではない。
フラムが死んだかもしれないなんて、本当は、この場で狂って叫んで暴れまわってしまいたいほど不安でしょうがない。
そうしないのは、狂う気力すら残っていないだけだ。
「う……うぅ……」
インクが目を覚ます。
目の見えない彼女を安心させるため、すぐさまミルキットは彼女に声をかけた。
「大丈夫ですか、インクさん」
「ミルキット……?」
「はい、私です」
「ここ……どこ……? なんか、空気が臭い……」
「わかりません、いきなりここに連れてこられたんです。他にも二十人近く、部屋に閉じ込められています」
インクは体を起こすと、手探りでミルキットの手を探す。
意図を察したミルキットがインクの手を握ると、彼女の表情が緩んだ。
「ごめん、エターナがいないから、ちょっと不安で、つい」
「いえ、私も似たようなものですから」
「ああ、その様子じゃまだフラムとも会えてないんだ」
「森をさまよって、そのあと気付いたらここにいましたから」
「……たぶんここ、地下だと思う。風の音が遠いし、匂いもそんな感じ」
目の見える者にはわからない感覚が彼女にはある。
確かに言われてみれば地上とは匂いや肌を撫でる風の感触が違う。
「地下……つまりここも遺跡みたいですね」
王国の地下は、過去に作られた遺跡だらけだ。
避難所に使えてしまうほど、いたるところに地下空間が広がっている。
だが、場所によって状態や広さはまちまちだ。
「避難所よりも、かなり大きいと思う」
「逃げるのは大変そうですね」
「うん……」
ドアは両開きのものが一つだけ。
男性陣が何度も開こうと殴ったり、体当たりしてみたものの、びくともしなかった。
誰かの助けがなければ、外に出るのは難しいだろう。
会話が途切れ、ミルキットとインクは肩を寄せ合いながら虚空を見上げる。
二人が想うのは、大切な人の姿だ。
ただひたすらに、会いたい。
多くは望まない、顔を見られるだけで十分。
だから、この世界に本物の神様が存在するなら、こんな些細な願いを叶えて欲しい、と。
そう、強く願う。
しばらくそんな時間が続き、徐々に眠気が意識を侵食し始めてきた頃――インクの肩が、ぴくりと震えた。
ミルキットはその微かな変化に気づき、彼女の方を見る。
「どうかしましたか?」
「なんか……鈴の音が聞こえる」
ミルキットにはまだ聞こえない。
だが確かに、インクはその音を聞いていた。
シャン、シャン、シャン、と錫杖についた鈴が鳴る音を。
「近づいてきた」
その頃には、ミルキットや他の人々にも聞こえるようになっていた。
音は徐々に入り口に接近し、自然とみなの視線が扉の方を向く。
シャン、シャン、シャン――
やがて、それが部屋の目の前にまで到着すると、鈴の音はぴたりと止まった。
そして、扉が開く。
入ってきたのは一人の老人と、二人の大柄な男。
彼らは顔や体に赤い化粧を施しており、紫の色のオーラを纏っていた。
その異様な風体に、ミルキットはごくりと生唾を飲み込んだ。
『オン、メ、グイ、ホウ』
三人は声を揃えて、例の呪文を唱える。
すると閉じ込められていたうちの一人――二十代前半ほどの男性が、ふいに立ち上がり、大股で彼らに近づいた。
その表情には怒りが満ちており、今にも殴り掛かりそうだ。
「おい、俺たちをこっから出せ」
そう言いながら睨みつける男性。
しかし三人は相変わらず、呪文を繰り返すばかりだ。
「ふざけるのもいい加減にしろよ!」
激昂し、彼は目の前の大柄な男の胸ぐらをつかもうとした。
だが手はするりと男の体をすり抜け、彼はバランスを崩す。
「なんだこれ……?」
その後も何度か手を伸ばしたが、やはり触れることはできない。
すると老人が呪文を中断し、口を開く。
「我らは、カムヤグイサマの神の領域に守られておりますので」
「わけのわからないことを言うな!」
今度は老人に殴りかかる男性。
しかし、やはり当たらない。
「くそっ、どうなってるんだ!」
「これが、神の領域です。カムヤグイサマはこの村ファースの守り神。ゆえに、我らはオリジンなどというまがい物の神には屈しない」
「それと俺らを閉じ込めることに何の関係があるんだよ!」
「カムヤグイサマも、腹が減りますゆえに」
老人は歯を見せながら笑うと、目を大きく開いて男性を凝視した。
「人の命が、必要となるのです。それもとびきり恐怖に満ちて、生に溢れた、新鮮な命が」
そう言いながらも、彼自身も、この行為を楽しんでいるようだ。
「俺らを、殺そうってのか?」
「結果的にはそうなりますなあ、かっかっかっかっ。しかしこれも、我らが生き抜くためには仕方のないこと。大人しく、贄になってもらえないものですかのう」
なるわけがない。
それを理解した上で、老人は煽るようにそう言った。
さらに怒りを増した男性は、何度も何度も老人に殴りかかるが、やはりすりぬけるだけ。
そうこうしているうちに、扉の向こうからまた例の鈴の音が聞こえてきた。
シャン、シャン、シャン――と、どこか荘厳さを感じさせる音を鳴らしながら、部屋に入ってくるカムヤグイサマ。
「それでは、カムヤグイサマの食事の時間ですので、我々はこれで」
三人は、また『オン、メ、グイ、ホウ』と唱えながらその場を去る。
彼らが去っても、扉は開いたままだ。
逃げようと思えば逃げられるが、そこに立ちふさがるように、異形が存在している。
そいつは錫杖を縦に振り、シャン、シャン、と鳴らし続けており、襲いかかってくる様子は無いが――果たして脇を抜けていいものか、みな様子を伺っていた。
そのとき、先ほど老人に食ってかかった男が動く。
一歩、また一歩と、扉に近づきはじめたのだ。
すると彼を追うように、カムヤグイサマの首から上が回る。
「は……は……ぁ……」
恐怖から、男性は足を止めた。
浅く早い呼吸に胸は小刻みに上下し、口の中がカラカラに乾く。
腔内に張り付いた唾液を飲み込もうと、彼がごくりと喉を動かすと――シャン、とカムヤグイサマは一歩、前に踏み出した。
同時に男性も、一歩後ずさる。
「ひ……」
表情筋が引きつり、頬がひくつく。
一歩、また一歩と二人は同時に移動し、その度に錫杖が鳴った。
そして男性の背中が壁に当たると、彼はついに耐えきれず、走り出そうと地面を蹴った。
しかし――ガゴンッ、と壁が揺れ音が鳴ったかと思うと、岩で作られた腕が現れ、彼の両腕を拘束した。
「はっ……あ、なんで、どうして腕が!?」
シャン、シャン。
鈴の音が鳴る。
男性はじたばたと暴れて逃げようとするも、岩の腕の力は強く、びくともしない。
目の前にまで近づいたカムヤグイサマの顔が、ぐぱっと縦に割れる。
「嫌だ……嫌だあぁぁぁぁ!」
男性は狂乱して叫び、頭を振り回す。
その必死さも虚しく、鋭い牙を持った口は彼の顔に近づき――
ゴリュッ。
頭部の前半分を、一口で削り、飲み込んだ。
「う……う、うわあぁぁぁああああッ!」
周囲で眺めていた人々は一斉に悲鳴をあげ、扉から逃げ出す。
ミルキットもインクの手を取り、立ち上がった。
「なにっ、なにが起きてるの!?」
「私にもわかりませんっ。とにかく逃げましょう、インクさんっ!」
「うんっ!」
他の人々よりは少し遅れたが、無事に部屋から脱出するミルキットとインク。
その頃にはすでに男性は足を残すのみとなっており、カムヤグイサマが次の標的を求め動き出すのは時間の問題だった。
部屋から出ると、道は三つに分かれている。
右、左、前。
右は行き止まりが見えるせいか、ほとんど誰も向かっていない。
前と左はどこまで続いているのか、ここからでは見えなかった。
「風は、左から吹いてる」
「左ですねっ」
インクの感覚を頼りに、ミルキットは左を選択。
さらに突き当たりの丁字路を左へと曲がった。
するとその向こうに、鉄格子で塞がれた階段が見える。
「ううぅ、ここから逃げられるのになんで開いてないのよぉおっ!」
そこでは先に逃げていた女性が格子を握りしめ、怒りをぶつけるように揺らしていた。
ミルキットは彼女に駆け寄り、声をかける。
「ひっ!? な、なんだ驚かせないでよ。あなた……確か、あの部屋に一緒に閉じ込められてた子よね?」
一方は包帯で顔を覆い、もう一方は目を縫合されている。
こんな場所でそんな二人に話しかけられたら、怯えもするだろう。
「はい、ミルキットと言います。そこ、開いて無いんですか?」
「ええ、鍵穴が三つあるんだけど、もちろん私は持ってないわ」
「鍵穴のところに何か絵が書いてありますね。これは……空と、土と、水でしょうか」
「それぞれ対応した鍵があるんじゃないかしら。でも、そう都合よく落ちてたりはしないわよね……」
とにかく、今はここから逃げることはできそうにない。
「風が吹いてるのはここだけ。他のところは、地上にはつながってないと思う」
「じゃあ、どうにかしてここを開けるしかないってことですね」
二人が話していると、遠くから「ぎゃあぁぁぁぁっ!」という叫び声が聞こえてきた。
その場にいる全員の体が、びくっと震える。
誰かが、カムヤグイサマの犠牲になったのだ。
「もう嫌……どうして私がこんな目に合わなきゃならないのよぉおお!」
女性は鉄格子をつかんだまま崩れ落ち、ヒステリックに声をあげる。
だがミルキットたちも、彼女を慰めるほど余裕があるわけではない。
ここでじっとしていても仕方ない、近くにある部屋からしらみ潰しに探索することにした。
まずは鉄格子のすぐそばにある、木の扉を開く。
ギィ、と蝶番が鳴り、室内のカビ臭い匂いがあたりに漂った。
しかし、謎の球体に薄っすらと照らされた廊下と違い、中は暗い。
微かに差し込む光を頼りに、ミルキットは周囲を見渡した。
「ここは……倉庫でしょうか」
部屋は狭いわりに、ものでごった返している。
しかし、長い間使われていないのか、ホコリが積もっていた。
「奥の方から、変な音がする。ゴウン、ゴウンって」
インクは言った。
ミルキットも試しに耳を澄ませてみると、確かにそんな音が聞こえてくる。
だが、この暗さでは探すのは難しい。
天井には廊下と同じように、コードで繋がれた球体がぶら下がっており、スイッチさえ入れれば明かりが灯るはずなのだが。
すると、ミルキットは入ってすぐの壁のところに、不思議な装置があることに気付く。
材質はわからないが、白いプレートが張り付いており、その真中に黒い、指ほどの大きさの出っ張りがついている。
試しに触ってみると、カチッという音とともに出っ張りが動き、天井に下がった球体が光を放った。
「これがスイッチなんですね。魔力式というわけでは無さそうですが……」
「そんなに変わった形なの?」
「少なくとも私は見たことがありません。とはいえ、私もあまり見聞が広いわけではありませんが」
なにはともあれ、これで部屋が明るくなった。
音の正体を確かめるため、ミルキットはインクを入り口で待たせ、物を乗り越えて部屋の奥へ進む。
するとそこには、透明の、布とは異なる物質で作られたカバーで覆われた、鉄の塊があった。
それが震えて、ゴウンゴウンという音を鳴らしている。
また、塊からはいくつものケーブルが伸びており、それは壁に空いた小さな穴を通って他の部屋へと繋がっているようだった。
ミルキットが積もっていたホコリを払うと、下から文字が現れる。
古いもののため字体がかなり異なるが、読めないことはない。
「タイヨーデンキセイ……カテイヨウ、ジェネレーター……?」
意味のわからない単語が並んでいる。
他の部分を読んでも何もわからなかったので、諦めてインクの元に戻った。
「なにかわかった?」
「いえ。ただ、もしかするとあの装置が、天井から下がっている明かりに繋がっているのかもしれません」
鉄の塊から伸びたケーブルは、球体に接続されたものと酷似している。
あれが同じ類のものだとするのなら、装置で生み出された何らかのエネルギーを、ケーブルを通して送っているのかもしれない。
だがそれは、脱出とは無関係だ。
その後も探索してみたが、めぼしいものは見つからなかったため、二人は部屋から出る。
さっきの女性が、後頭部を壁に叩きつけられて死んでいた。
「う……」
思わず口を抑えるミルキット。
「え……さっきまで、血の匂いなんてしなかったのに……」
外で人が死ねば音もするし、匂いだって漂ってくるはずだ。
しかしインクですら、彼女が死んだことに一切気付くことはできなかった。
「行きましょう、インクさんっ」
「う、うん」
ここは人が簡単に死ぬ場所だ。
ミルキットはこみ上げる吐き気に耐えながら、一刻も早くその場を離れることを優先した。
「待って」
だが、女の声が彼女を引き止める。
振り返ると、後頭部が半分えぐれた例の女性が、まばたきもせずにじっとミルキットの方を見ていた。
「苦しいの……助けて、嫌だ……こんなの、嫌だ……私を、助けてぇっ……お願いよぉ……! 痛いの、すっごく痛いのおぉおお!」
あれは、とっくに死んでいる。
これまでの経験からそう判断したミルキットは、再び目をそらして駆け出した。
一心不乱に走り、角を曲がると、女性の声はそれきり聞こえなくなる。
いや、聞こえなくなったのではなく――ぷつりと、声そのものが途切れたのだ。
恐る恐る角から死体のある方を除きみるミルキット。
すると、ちょうどカムヤグイサマが死体を咀嚼しているところだった。
「う、ぐ……っ」
漏れそうになる声を、口を手で塞いで必死に抑える。
目には涙が浮かび、視界がぼやけた。
だが、カムヤグイサマが死体に夢中になっているということは、今は安全ということ。
そう割り切って、できるだけ遠くへと移動する。
今度は、最初の広間の真正面の道を進む。
すると、戻ってきた夫婦らしき二人組とすれ違った。
「左の道から戻ってきたの?」
女性がそう尋ねてきたので、ミルキットは頷く。
「あっちには階段がありました、でも鍵のかかった鉄格子に塞がれてて通れないんです。それに、あのカムヤグイサマとかいう化物も、今はそこにいるみたいです」
「そう……なら別の場所に逃げるしか無いわね」
「こっちの道はどうだったんですか?」
女性は悲しげな表情で首を横に振った。
「突き当たって左はすぐに行き止まり、右の道は長く続いてるけど、その先も部屋があるだけで出口は無さそうだったわ」
隣の男性も難しい表情で頷いている。
出口が無いということは無駄足かもしれないが、何かの手がかりが見つかるかもしれない。
ミルキットとインクは二人に「ありがとうございます」と告げて、あえてその道を先に進んだ。
確かに聞いた通り、突き当たって左は比較的すぐに行き止まりだ。
しかし、その先には話には出てこなかった扉があった。
他の扉に比べるとやけに派手で、頑丈な作りである。
ミルキットはその佇まいに違和感を覚えながらも、真っ直ぐにそこまで進み、開いた。
中に入ると、目の前には似たような廊下が広がっている。
完全に扉を通り抜けたあと、後ろを振り返ると、そこには扉などなかった。
「え……?」
「ミルキット、どうしたの?」
「あ、いえ、扉を通ったはずなのに、さっきまであった扉が、そこに無いんです」
「なにそれ」
そう言いながらインクは後ろを振り向き、前に手を伸ばす。
確かにそこには、壁も扉もなかった。
ただ、さっきまで自分たちが歩いてきた廊下があるだけである。
「扉を通ったら、前の場所に戻ったってこと?」
「だと、思います」
どうやって、何の意図があってそんなことを。
首を傾げるミルキットは、再度同じ扉へと近づき、開いた。
――また、同じ光景が広がっている。
振り返るとやはり扉は無く、元の廊下に戻るだけ。
だがこの現象に違和感が拭えないミルキットは、最後にもう一度だけ、同じことを繰り返すことにした。
くぐり抜けたドアの先、そこに広がるのはやはり同じ――いや、一点だけ異なっている。
女だ。
黒くて長い髪の、白いワンピースを着た細い女が、そこに後ろ向きで立っている。
服も肌も髪もやけに綺麗で手入れが行き渡っており、どこからどう見ても閉じ込められた人間ではない。
かと言って、先ほどの老人や男性二人のような紫のオーラを纏っているわけでもなかった。
「あの……」
意を決して声を掛ける。
すると女は振り向いた。
顔は前髪でほとんど隠れていたが、その隙間から、ぎょろりとした瞳がこちらを見ている。
その姿に怯みそうになるミルキット。
だが物怖じせず、続けて話しかけた。
「ここから、どうやって出られるか、知ってますか?」
女は無言で、自分の背後にある扉を指さした。
そこはミルキットが三度くぐり、同じ場所に出たあの扉だ。
「いや、そこは……」
「ミルキット、音がする。あいつが近づいてきてる」
シャン、シャン――と、まだ遠いが、カムヤグイサマが近づいてくる音が、ミルキットにも聞こえてきた。
まさかこの女性は、二人に逃げ道を示しているのだろうか。
信じられる相手ではなかったが、信じない理由も無い。
彼女のその行動が善意だと信じて、ミルキットは再び扉へと進む。
「ありがとうございます」
頭を下げると、女はかすかに目を細めた。
そして彼女の横を通り過ぎ、扉の前までたどり着いたとき、インクが小さな声で言った。
「そこにいる誰かの正体がわからないなら、スキャンを使えばいいんじゃない?」
言われてみればその通りだ。
だが、助言をくれた相手の正体を探るような真似をするのは、少し気が引ける。
とはいえ、今は少しでも情報が欲しい。
ミルキットは小声で「スキャン」と宣言し魔法を発動し、一瞬だけ振り返った。
--------------------
シア・マニーデュム
属性:夢想
筋力:37
魔力:5612
体力:81
敏捷:56
感覚:3876
--------------------
極端に偏ったステータス、そして見慣れぬ夢想という属性。
それを見たミルキットは、直感的に、彼女こそがカムヤグイサマという存在の謎を解く鍵なのだと思った。
しかし今は考えている暇はない。
カムヤグイサマは、シアの前を素通りして二人に迫ろうとしているのだから。
ミルキットはインクの手を引いて、扉を通る。
すると目の前の空間が歪み、気がつくと最初に入った倉庫に出ていた。
もちろん、周囲にカムヤグイサマの気配は無い。
「この匂い、倉庫に戻ってきたの?」
「そうみたいです。仕組みはわかりませんが、あの女性――シアさんという方に、助けられたようですね」
それでも、まだ同じフロアにカムヤグイサマはいる。
一刻も早く逃げる方法を探さなければ。
「たぶんですけど、鉄格子を突破する方法がどこかにあると思うんです」
「どうしてそう思ったの?」
「絶対に出られないなら、あの女性が私たちを助ける必要性がありません」
「つまり、鍵がどこかにあるってこと?」
「それか、別の方法で壊せるかの、どちらかです。もしかしたらこの部屋に飛ばされたことも意味があるかもしれませんし、もう一度探索してみますね」
今度はより念入りに、重なった木箱や錆びた儀礼具を調べるミルキット。
何も見えないインクはそれを手伝うことができないため、手持ち無沙汰にそのあたりをふらふらとさまよっていた。
「……ん?」
すると足元に違和感を覚え、足を止める。
そして床のある部分を、つま先で繰り返し叩いた。
「ねーミルキット、ここの床、変じゃない?」
「どこですかー?」
インクに駆け寄るミルキット。
するとその足元の床石だけが、ぐらぐらと揺れている。
手を伸ばすと、あっさりと石が外れ、その下には空の刻印が記された鍵が隠されていた。
「鍵、ありました……」
「他の二つの鍵も、似たような感じで隠してあるのかもね」
「なんだか、遊ばれてる気分です。悪趣味で嫌な感じがします」
まさかこんな、子供の宝探しのような隠し方をしてあるとは。
「実際そうなんじゃないかな。ほら、あの部屋で話してたジジイが言ってたでしょ、とびきり恐怖に満ちて、生に溢れた、新鮮な命が必要だ、って。言葉通りに受け取るなら、あたしたちが怖がるほどにカムヤグイサマにとって美味しい餌になるのかも」
「そのためにあえて脱出できるかもしれない、という希望を見せていると?」
「希望があった方が、絶望は映えるから」
「……やっぱり、悪趣味だと思います」
「あたしもそう思う」
だが今は、その趣味に乗っかるしか無い。
残る鍵は二つ。
おそらくこのフロアのどこかに、空の鍵と同じような方法で隠されているのだろう。
それを、カムヤグイサマの追跡をかわしながら探さなければならない。
他の人たちも仕組みに気付いてくれるといいのだが――それよりは、すれ違ったときに伝えた方が早いだろう。
まだ二十人弱は、生存者が残っているはず。
できるだけ多くの人間が、生きて脱出できるように。
二人は鍵を手に、倉庫から出ようとした。
ひとまずは近くの部屋から順番に調べていこう、などと話し合いつつ、入り口のドアを開く。
その直後だった。
ガゴォンッ! とすさまじい音がしたかと思うと、階段の前を塞いでいた鉄格子が、二人の目の前を猛スピードで吹っ飛んでいく。
「ふうむ、少しやりすぎた。でも憂さ晴らしも兼ねてたから仕方ない」
さらに、廊下の方からそんな声が聞こえた。
途端にインクの表情が変わり、部屋を飛び出し声がした方へと駆ける。
「エターナッ! エターナ、エターナ、エターナぁっ!」
まるで久しぶりに主と再会した犬のようにエターナに抱きつくと、インクはぐりぐりと頬ずりをした。
「お……おお? インク、ここにいたんだ」
「いたよ、いたよぉっ、ずっと会いたかったのぉ!」
「しかもすっごいデレてる。よしよし」
「じかたないじゃん……だって、寂しかったから……一人が、怖かったからぁ……っ!」
わんわんと泣きわめくインク。
そんな彼女を左腕で抱きしめながら、エターナの頬は緩んでいた。
「エターナさん、ヒューグから逃げ切ったんですね」
「ミルキットも一緒だったんだ。うん、どうにかね。でも良かった、ここに長居はしたくなったから。あいつら魔法もすり抜けるし、わけのわからないちょっとヒューグに似た化物もつきまとってくるから面倒で仕方ない」
おそらく化物というのはカムヤグイサマのことだろう。
エターナの魔法すらもすり抜けるとなれば、まともに戦うことは難しい。
今はただ、逃げ続けるしか無さそうだ。
幸い、鉄格子は破壊されたので、もう鍵を探す必要はない。
ミルキットは空の鍵をためらいなくその場に捨てた。
「って……あの化物、ここにもいる」
エターナの視線の先、廊下の奥から近づいてくるカムヤグイサマ。
試すように彼女は氷の矢を放ったが、やはり効果は無さそうだ。
「ミルキット、ここに閉じ込められてるのは二人だけ?」
「いえ、他にも二十人ぐらいはいるはずです」
「わかった、なら――」
ミルキットの答えで、エターナは方針を決めた。
幸い、相手の速度は遅い。
その代わりに、怪奇現象が足止めをしようと逃走者を襲うが、エターナならそれも力尽くで突破できるだろう。
「あの化物を引き連れながら、こっから脱出する」
柔らかく微笑みながら、彼女はそう宣言した。
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