138 ただいま。
馬車に揺られるフラムとミルキットは、肩を寄せ合いながら、窓から見える広大な草原を眺めていた。
風に揺れ、ゆるやかに動きを合わせ踊る黄金色の穂は、ミルキットにとっては息を呑むような絶景で、フラムにとっては懐かしい光景だった。
本当にあと少しで故郷に就くんだ――そんな実感が湧いてくる。
「この先にある森を抜けたら、すぐにパトリアに着くと思う」
「楽しみです……きっと素敵な村なんでしょうね」
「あんまり期待しないでよね、ほんっとうになにもない田舎なんだから」
そうは言っても、“ご主人様の故郷”というだけでミルキットにとっては特別な場所だ。
フラムがどう言おうが、なにもかもが素敵に見えてしまうに違いない。
「ふぁーあ」
あと少しだと思うと、なぜか急に訪れた眠気に、フラムは思わず大きなあくびをした。
三日も乗りっぱなしだと、馬車の揺れにもすっかり慣れて、むしろそれに心地よさを感じつつある。
近いと言ってもあと二時間はかかるだろう。
村についたら忙しくなるだろうし、少しぐらいはこの眠気に身を任せて、寝てもいいかもしれない。
「到着前になったら起こしますね」
「ありがと。あ……でもその前に」
ふとやり忘れていたことを思い出したフラムは、横に置いてあったバッグから水晶の板を取り出した。
ジーンから受け取った新型の通信端末だ。
現状、コンシリアで普及している端末は、設備が整っている街の中でしか連絡を取り合うことができない。
それを改良し、遠くとも話せるようにしたものがこれである。
もっとも、今はまだ特定の端末としか繋がっていないようだが。
もちろんフラムがジーンと話したがるわけもないので、対となる端末はセーラが持っている。
「便利なもんだよね、ほんとに」
「そうですね。列車にしてもそうですが、四年とは思えないほどコンシリアは変わりました」
以前から、王国軍はこれと似たような通信装置を使っていた。
だがあれはコスト面の問題が大きく、とてもではないが民間人が買えるものではなかったのだ。
それに、数が増えると“混線”し、会話が途切れやすくなる、という仕組み上避けられない欠点もあった。
つまり現在コンシリアで広く使われている端末は、全く別の理論を用いたものらしいのだが――フラムにはそんな難しい話はよくわからない。
とにかく“すごいもの”と認識するのがせいぜいである。
「んっと……ここを押すといいんだっけ」
「いえ、その右です」
「あ、これね」
未だ通信端末に慣れないフラムは、恐る恐る人差し指で表面に触れる。
すると画面上にいくつかのボタンが浮かび上がった。
さらに、その右側にタッチすると、通信が始まる。
“呼び出し中”の表示が消え、“通話中”と映し出されると、端末からセーラの声が響いた。
『フラムおねーさん、どうしたんすか? 緊急事態っすか?』
「私じゃなくてそっちがね。昨日立ち寄った町で聞いたんだけど、コンシリアでなにやら大きな騒ぎがあったらしいって聞いたから、心配になって」
『もうそこまで伝わってるんすか……』
言い方からして、ただの噂話ではないことを察するフラム。
「なにがあったの?」
『おねーさんがいないんで、神の血脈が総力戦を仕掛けてきたっす』
「大事件だよそれ! 私、戻らなくていいの?」
『もう片付いたっす。忘れてないっすか、コンシリアには英雄たちがいるんすよ?』
「それはそうだけど……怪我人は?」
『出たっすけど、死者はゼロ人っす。もう治療も終わってるんで、おねーさんが心配するようなことはなにも無いっす』
ほっと胸をなでおろすフラム。
だが怪我人が出たということは、かなり激しい戦いだったのだろう。
『これで神の血脈も壊滅したっすから、もうテロを警戒する必要もないっすね』
「油断は禁物だよ。似たような思想を持ってるやつがどこに潜んでるかわかんないんだから」
『それは身をもって痛感したっす。一応、コンシリア内の警戒レベルはまだ高いまま維持されてるっす。おねーさんが心配するほど油断はしてないっすよ』
「ならいいんだけど……ほんと、気をつけてね」
『わかってるっすよ。本当にマズいと思ったら、すぐにおねーさんを呼ぶっすから』
「そのときはひとっ飛びで向かうからね」
『ふふふ、頼もしい限りっすね』
そのときは、冗談でも比喩でもなく、本当に“ひとっとび”で移動するのだろう。
「じゃあ、またなにかあったらこっちからも連絡するかもしれないから」
『了解っす。それじゃあ、旅行を楽しんで来てくださいっす』
フラムは再び人差し指で慎重に端末を操作すると、通話が終了した。
緊張していたのか、ほっと息を吐き出す主に、ミルキットの頬が緩む。
「ダメ、全然慣れない」
「最初のうちは、どうしてもそうなりますよね」
「なんか疲れたから今度こそ寝るね」
「はい、ごゆっくり」
当然のようにミルキットの肩にしなだれかかったフラムは、瞳を閉じた。
がたんごとんと回る車輪、進む馬車。
沈黙の中、風にそよぐ草木と、がたんごとんと回る車輪の音だけ聞こえてくる。
肩には温もり。
耳をすますと、かすかに聞こえる愛しい人の寝息。
心地よい空間に身を任せ、ミルキットは瞳を閉じて、その幸せを噛み締めた。
◇◇◇
『それで……スプリングさん』
『その名前はやめろ。茶谷か春樹で呼んでくれ』
無精髭を生やした白衣の男性は、不機嫌そうに言った。
彼の名は
またの名をスプリング・ブラウン。
現代においてあえて和名を使う人はほとんどいないが、彼の場合、自分の名前がよほど気に食わないらしい。
『じゃあ茶谷さん。あなたはどうして、こんな場所にいるの? とっとと死んだほうが幸せだし、利口だと思う』
フラムは死んだ目で言った。
彼女はもはや生きる理由を失っている。
大切な人は、もう誰ひとりとしてこの世界に残っていないからだ。
同級生も、友達も、家族も、そして――ミルキットも。
『
『逆に私はそう呼ばれるのに慣れてないから』
『そうか……ならば改めて言おう。ミルキット・ソレイユを失ったお前と同じだよ、フラム・ウォータームーン。俺が俺一人なら死んでも良かった。だが、ここにあるんだ』
胸を親指でさしながら、彼は言う。
『ぐつぐつと滾る復讐心ってやつが』
茶谷は、オリジンに妻子を殺された。
いや、正確にはオリジン・ラーナーズという個人に殺された、といったほうが正しいだろう。
『俺は
二つも名前は必要ないのだが、日本らしさを求める一部の層に配慮して、今のような形になったらしい。
もっとも、その名を使うのもまたごく一部で、今の日本では茶谷ぐらいのものだが。
なにせ、他の人間はほとんど死んでしまったのだから。
世界はオリジンによって滅ぼされた。
他国は脈絡もなく戦争をはじめ、大量破壊兵器の応酬により尽く壊滅。
残ったわずかな地域も、無意味に自爆し、大地ごと消滅した。
言うまでもなく、オリジンの“お告げ”によるものである。
そして最後に残った日本も、突発的な自殺、猟奇的な他殺、そして軍の暴走による虐殺により、少しずつ壊されていった。
フラムの大切な人たちも、彼女の目の前で、常軌を逸した死に方をしてきたのだ。
今だってそれは、現実に起きた悪夢として、彼女の脳に焼き付いている。
そんな中で、フラムだけが今日まで生き残れたのは、奇跡というほかない。
あるいは、そういう体質だったのだろうか。
そして死体だけが転がるゴーストタウンをさまよっているうちに、茶谷の仲間と出会い、車で数時間をかけてここまで連れてこられた。
フラムが知っているのは、ここが紀伊半島の南部ということだけ。
山中の地下だか地上だかに研究所を作って隠れていたらしいが、目隠しをされていたし、外に出ることは禁じられているので詳しい位置まではわからない。
一応、フラムは“協力者”という形でここで寝泊まりしているが、実質は監禁のようなものだった。
茶谷たち――いや、今は死んで彼しか残っていないので、茶谷にとって、ということにはなるが――その研究のためにフラムの体が必要だったのだ。
『すねる気持ちもわかる。連行の方法がいささか乱暴だったからな、そこに関しては謝ろう』
『反省してるならいいけど。私だって、復讐したいのは確かだから』
『実現するために必要な“適性”がお前にはある。フラム、お前は選ばれし人間ということだよ。あの町で唯一の生存者だった事実は――やはり、オリジンを排除したがる“星の意思”は実在するとしか思えないな』
『ふふっ、適性? そんなのどうだっていい。復讐ができるの?』
『ああ、命を犠牲にする覚悟があるのなら』
『ちっぽけな私にも、できることがあるの?』
『お前にしかできないことだ』
『なら……使って、私の体を』
無価値な肉体の意味が宿るのなら、それは生きる理由になる。
生きたくもないのに生き続けなければならないのは、相当な苦痛だ。
死ぬために生きる――たとえ矛盾していたとしても構わない、そうフラムは判断した。
『話が早いな』
『どうせ、生きてたって意味はないから。無抵抗な死と、抗おうとあがいた先にある死。結果が同じだって言うんなら、私は自分で選んだ道を進みたい』
オリジンにより自我を捻じ曲げられて死んでいた人たちの無念を、少しでも晴らすために。
数多の屍を乗り越えてここまできたフラムは、死ぬとしても、自らの意思で死なねばならないのだ。
フラムの迷いなき瞳を見て、茶谷は目を細める。
それは彼が久しく見ていない、若く、前向きな強さだった。
ここがまともな世界ならば、きっと明るい未来がフラムには待っていたのだろう。
しかしその前向きさは、今の狂った世界ではむしろ逆効果だ。
彼女は恐れずに、自ら死へ突っ込んでいこうとしているのだろう。
――それでも構うものか。
茶谷はそう思ったに違いない。
破滅へ向かっているのは、彼とて同じなのだから。
妻子の恨みを晴らすため、オリジンを殺すためならば、なんでもやる。
たとえそれが十代の少女を実験材料として使う鬼畜の所業だったとしても、迷いなく。
『そうか、なら問題はないな。素体さえ手に入ればついに始められる――』
茶谷は前のめりに、テーブルの上に両肘を付くと、笑いながら言った。
『“プロジェクトリヴァーサル”を』
それは人類が灯した最後の希望。
世界が滅びてもなお、その片隅に、オリジンが気づかないほど小さく燃え続けた、かすかな炎である。
◇◇◇
「ご主人様、そろそろつきますよ」
「んぅ……」
ミルキットの声に起こされ、フラムは目を覚ました。
目をこすり体を起こすと、彼女はぽーっとした表情で窓の外を見る。
木々が生い茂る、田舎の風景。
見慣れた景色だ。
しかし、ひどく懐かしい。
子供の頃、幼馴染であるマリンとパイルと走り回った記憶が蘇ってきた。
「……パトリアだ」
思わずつぶやく。
フラムがここを出ていってから、せいぜい一年ほどしか経っていない。
だというのに、なぜこうもノスタルジックな気分になってしまうのだろう。
まるで、数十年ぶりに帰ってきたような――そんな感覚すら覚えた。
「ご主人様、あれを見てくださいっ」
ミルキットが別の窓のほうを見ながら言った。
フラムもそちらに目を向けると――村の入り口に、人々が集まっている。
並んでいるのは、見覚えのある顔ばかり。
「みんな……」
村人たちも窓から覗くフラムの顔に気づいた。
「やっぱりフラムだ、フラムが帰ってきたぞ!」
「おーい、フラムーっ!」
「フラムちゃーんっ!」
「フラム、俺だーっ! 覚えてるかぁーっ!」
「フラム……本当にフラムよ、あなたっ!」
「あぁ……帰ってきたんだな。生きて……帰ってきてくれたんだな」
みな大きく手を振って、それぞれ思い思いの言葉で彼女に呼びかける。
今日のために作ったのか、門には『おかえりなさいフラム』と書かれた大きな旗をかかげられ、全体は花によって飾り付けられ、記憶にある姿よりも華やかだ。
もちろん、コンシリアのお祭りに比べれば質素なものだが、しかし込められた気持ちは決して劣っていない。
誰もが――そう、村にいる全ての人が、一人として欠けることなく、フラムの帰還を喜んでいた。
もちろんその中には、ソルム・アプリコットとローザ・アプリコット――つまり両親の姿もある。
五年という月日を経て、記憶よりも少し老けた気もする二人を見た瞬間、フラムはこみ上げる感情を抑えることができなかった。
「お父さん……おかあ、さん……つ」
もう、二度と会えないのではないかと思った。
優しいその声と表情を何度も夢に見て、そのたびに“帰りたい”と強く願った。
でも今は、夢じゃない。
たしかにそこにいる。
ずっと、ずっと会いたかった、大好きな両親が……フラムと同じように目に涙を浮かべながら、彼女に手を振っている。
「……っ!」
「ご主人様っ!?」
もう我慢できなかった。
まだ止まっていない馬車の扉を開くと、フラムは飛び降り、そして転がりながら着地する。
もちろん村人たちは驚いた。
しかし今の彼女にとって、それぐらいは造作もないことだ。
そして走って、誰もがさらに驚くほどの速度で駆け抜けて――一番前で待ってくれていた両親に、飛び込むようにして抱きつく。
「お父さんっ、お母さんっ、ただいまぁっ!」
そして涙で声を震わせながら、たくましい父の腕と、柔らかく温かい母の腕にしがみついた。
その勢いにバランスを崩しかけるローザだったが、ソルムがその背中を支えた。
「おとうさん……っ、う……、おかあさん……っ」
「フラム……おかえりなさい。夢みたいだわ、もう一度、あなたをこうして抱きしめられるなんて」
「うんっ、うんっ……私、帰ってきたよぉ……!」
「こうして、また会えて……本当に嬉しいよ、フラム」
「わたしも……わたしもねぇ、絶対に生きて、お父さんと、お母さんに会うんだって……そう、思ってて……でも、叶わないかもって、何回も思ったけどぉ……でもぉっ!」
親子の再会を、誰もが優しく見守っていた。
中には涙ぐむ者もおり――止まった馬車から降りてきたミルキットも、そのうちの一人だった。
流れた雫が顔を覆う包帯を濡らす。
主が、パトリアで暮らす幼馴染や家族のことを愛していることは、一番そばにいたミルキットはよく知っている。
いつか必ずこの村に帰って、大好きな人たちと再開する。
その想いが、フラムを突き動かす原動力のうちの一つだったことは間違いない。
「フラムちゃん、よかったね……」
すると隣に立つパイルは、以前と変わらぬ調子でぶっきらぼうに言い捨てる。
「子供みたいに泣きやがって、ちったぁ成長すると思ったら相変わらずだな」
「あんただって涙目じゃない」
マリンに肘で小突かれると、パイルは「ちげぇし」とそっぽを向きながら、目元を腕で拭う。
彼女らも、心のどこかでは『もう帰ってこないかもしれない』と思っていたに違いない。
なにせ、五年も経ったのだ。
まだ子供らしさを残していた二人はすっかり大人になり、一児の両親となった。
流れ行く月日の中で、喪失の悲しみもいつか消えてしまうのだろう――そう思っていた矢先、コンシリアから“フラムが戻ってきた”との報せを受けた。
しかしそれは、どこか現実感のない報告だった。
本当にフラムは存在するのだろうか、四年前の姿そのままだなんて、ただの噂話ではいのだろうか。
今日、こうして本人が戻ってくるまで、少なからずそう思っていた人間がいた。
だから余計に、実感が一気に押し寄せてきて、感動もひときわ大きくなったのだろう。
「う……うぅ、ひっく……ぐず……っ」
「そろそろ顔を上げないとね、みんなあなたが帰ってきたのをお祝いしたくてうずうずしてるわ」
「そうだな、世界を救った英雄の――いや、ずっと帰りを待っていた村の一員の顔を、みんなが見たがっているようだ」
「……無理だよぉ。お願い、あと少しでいいから……このままで……」
「あらあら、甘えん坊さんなんだから」
「変わってないな、フラムは」
仕方無さそうにしながらも、両親の笑みは耐えない。
もちろん、村人たちだって、甘えたがりのフラムを諌めたりはしなかった。
彼女が乗り越えてきた地獄については、伝聞ではあるものの、ほぼ全員が知っているのだから。
少し離れた場所から様子を見ていたミルキットは、ぼそりと呟く。
「暖かくて、優しくて……やっぱり、とても素敵な村じゃないですか」
涙を流し、親に甘える、これまで見たことのないフラムの姿。
主の幸福は、ミルキットにとっての幸福でもある。
熱を帯びた胸に手を当てて、彼女は満足げに微笑むのだった。
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