EX5 セーラちゃんは開発済み

 



 医療魔術師組合――それはかつてのオリジン教会から宗教的要素を取り除き、純粋な王国民のための団体へと形を変えた組織。

 各地に診療所を開いたり、回復魔法や薬の研究、孤児院の運営にと、その役割は多岐にわたる。

 組織の暴走を防ぐために、以前のように騎士団を持つことはないものの、王国における影響力は大きい。

 若干十五歳のセーラ・アンビレンは、組合長として組織の頂点に立っている。


 日々忙しい生活を送っているセーラだが、まったく休みがないかと言われればそうでもない。

 まだ若い彼女に無理をさせないよう、周囲の優秀な部下たちがサポートしてくれているのだ。


 そんなわけで、平日の昼間であるにもかかわらず、早々に今日の仕事を終えてしまったセーラは、中央区の孤児院を訪れていた。

 かつての中央区教会の跡地に建てられた施設だ。

 つまり、彼女が育った場所でもある。

 セーラの保護者であるティナは、かつて修道女としてその教会に勤めていたが、現在はこの孤児院で子供たちの面倒を見ている。


「元気な子供たちっすね」


 孤児院の敷地内にあるベンチで、二人は隣り合わせで座り、言葉を交わす。


「まったくよ。あの子ら、遠慮ってもんを知らないんだから」


 ティナはついさっきまで、子供たちに掴まれ引っ張られぶら下がられていた。

 彼女の浮かべる苦笑いにはさすがに疲れが見えるが、しかし同時に、どこか幸せそうでもある。


「あの戦いで、どこの院もパンクするぐらい孤児が増えたっすから。ティナたちが協力してくれて、本当に助かってるっす」

「なによその大人みたいな言い方」

「立場が立場っすからね」

「あなただってまだ子供じゃない。世の中を俯瞰するのはほどほどにしておいて、もうちょっと誰かに守られておきなさい」

「なんかティナ、甘くなってないっすか? 前のティナなら『世の中を甘く見ちゃダメよ』とか言ってるところじゃないっすか」

「甘くもなるわよ」


 ティナは空を仰ぐ。

 晴天の青が、濁ることなく一面を覆い尽くしている。

 見ているだけで気持ちのいい光景だった。

 だからこそ、胸が痛む。

 四年の月日が過ぎても、それは消えない。


「犠牲になっていった子たち。エドも、ジョニーも、マリアも……みんな“ちゃんとした世の中”で生きていく前に死んでしまったのよ? だから、少しだけ考え方を変えたのよ。いつ終わるかわからない人生なら、今を精一杯楽しく生きて欲しいって」

「……おらは、昔のティナの厳しさも必要だと思ってるっす。きっと、死んでしまったみんなも、ティナには感謝してるはずっすよ」

「今だって最低限は厳しくしてるわ。ただ、セーラみたいにあまり早く成熟されると、それはそれで良くないと思うもの。大人だって甘えるときは甘えるんだから、もうちょっと隙を見せたっていいんじゃないかしら」

「言っておくっすけど、別におらは無理をしてるつもりはないっすよ? 組合長って役職も、大変は大変っすけど実は割と楽しくやれてるっす」

「あら、そうなの?」

「ストレスが無いわけじゃないっす。でも、ちゃんと発散する場所も方法もあるっすから」


 言いながら、セーラは最高に幸せそうな笑みを浮かべる。

 誰のことを想像したのか、一目瞭然だ。

 ティナは「ふっ」と軽く笑って表情を崩すと、


「なるほどねぇー」


 といじわるそうに目を細めた。


「な、なんすかその目は……」

「そうだった、忘れてたわ。セーラは私が思ってるよりずっと大人なのよねー。いやぁ、まさかセーラが女性の魔族とお付き合いを始めるとは……うん……ほんと、まさかよね」

「もう付き合いはじめて四年っすよ、いいかげんにそのいじりは飽きたっす」

「未だに受け入れきれないのよ。だって、あの魔族はセーラより遥かに年上だし、四年前ってセーラが十歳の……」

「戦いの最中っすから、そういうこともあるんすよ!」

「あるのぉー?」

「あ、あるはずっす!」


 普通は無い。

 四年経とうが百年経とうが、おそらくネイガスが十歳の少女に手を出したという事実は変わらない。

 今のところ、オリジンを倒した一連の流れ――つまり英雄譚に組み込まれているため、なんとなく『英雄だしそういうこともあるか!』みたいな雰囲気になってはいるが、実際のところみな薄々感づいてはいた。

 ネイガスがロリコンであることに。

 かくいうセーラも、それが否定できないことは、彼女と一緒に暮らす中で重々理解している。


「不安なのよ。もしセーラがある日、突然、急激に成長したとするじゃない?」

「前提がおかしいっす」

「七十歳が十歳に手を出すこともあるのよ? なにがあってもおかしくないわ!」


 すごい説得力だ。

 セーラは全く反論できなかった。


「そのとき、果たしてネイガスさんはセーラのことを愛してくれるのか……」

「問題ないっすよ。なんとなく、ネイガスが幼い子供に興奮する変態みたいな風潮が広がってるっすけど、実際はそうじゃないっすから! ネイガスは、おらだから好きになってくれたっす。おらの幼い体型に惹かれることはあっても、他所の幼女に浮気することはないっす!」

「……それは安心していいの?」

「た、たぶん……大丈夫、っす……」


 言っててセーラも不安になってきた。

 とはいえ、二人の間にある愛情は本物である。

 セーラも本気で、心の底から、普段は表に出さないが、二人きりになると人が変わったかと思うぐらいネイガスへの愛情をオープンにするし、ネイガスに至っては普段からセーラへのラヴが溢れ出ている。

 なんだかんだ言いながらも、セーラが十六歳になったその日に婚姻を結ぶのは間違いないだろう。


「まあ、そういうわけっすから、おらへの心配は不要っす。ネイガスと支え合いながら生きていくっすから」


 そう言い切るセーラに、ティナはどこかほっとした様子であった。

 不安はあるものの、ネイガスが真摯にセーラと付き合っていることは彼女だって知っている。

 少なくとも二人の関係について、保護者として心配するべき部分はほとんど・・・・無いだろう。

 そう、ほとんど。


「それなら、いいんだけど」

「ティナ、浮かない表情っすけど、なにか心配事でもあるんすか?」

「笑ってるわよ、私」

「笑顔の中に不安が見えるっす。伊達にティナの娘はやってないっすよ。気づかれないと思ったら大間違いっすから」


 ティナはセーラの心の機微を見抜くが、逆も然りである。

 隠し通せないと思ったのか、ティナは眉間に皺を寄せながら、遠慮がちに問いかけた。


「セーラにまつわる噂を聞いたのよ」

「噂、っすか?」

「たぶん、医療魔術師界隈で広がってる話だと思うんだけど……その内容が、少しゴシップ的というか、できればセーラには聞かせたくない内容で……」

「どうせどこかのゴシップ記事が好きに書いた話だと思うっすよ。慣れてるっすから、遠慮せずに言ってほしいっす」


 それでもティナはなおも口ごもっている。

 神経の図太い彼女がここまで悩むとは、どうやら相当言いにくいようだ。

 だがそれならなおさら、そんな噂を野放しにしておくわけにはいかない。

 セーラのことを想い、ティナは心を鬼にして告げた。


「セーラの体がネイガスさんに開発されてるって、本当なの?」

「――」


 セーラは絶句する。

 最初は言葉の意味がわからなかった。

 一秒後に理解した。

 理解して、しかし脳がそれを拒んだ。

 二秒後に一旦思考をリセットした。

 なにかの間違いかもしれない、だからもう一度、脳に残された記憶領域からティナの言葉を取り出して、考え直してみよう、と。

 三秒後に二度目のトライを行った。

 やはり言葉も意味も変わらなかった。

 なお、ここで『開発ってなんですか?』と聞き返せるピュアな心は四年前にすでに消えていることを追記しておく。


「誰から……それ、聞いたんすか……?」


 プルプルと震えながら、セーラは問いかける。


「うちの職員から、お酒の席で」


 気まずそうにティナは答える。


「おらの……体が開発って……そ、そんなっ、そんな情報が外に漏れるわけないじゃないっすか! まさか誰かがおらとネイガスのプライベートを覗き見てるんすか!?」

「セーラ、否定は……しないの?」

「あ……」


 墓穴だった。

 セーラはマシンガンのように言い訳をはじめる。


「だ、だから、そのつまり、おらとネイガスのプライベートを覗き見てたら、それが嘘だってわかるってことっす! そんな根も葉もない噂、嘘に決まってるじゃないっすか! おらの体はキレイなもんっすよ! 上も下も前も後ろも全部キレイだってネイガスも褒めるぐらいっすからね!」

「……褒めるの?」

「うわー! 違う、違うっす! 今のは語弊っす! あれっすよ、その、えっと……一緒に暮らしてるから、お風呂に入ったんすよ! そんで一緒に湯船に浸かったんス! そのときに――ってダメじゃないっすか、これじゃネイガスがおらの体をまじまじと観察する変態にっ!」

「まず一緒に湯船に浸かってる時点でアウトだと思うわよ」

「そうなんすか!?」


 四年にも及ぶ濃密なネイガスとの蜜月は、すでにセーラの常識を歪ませていた。

 一緒に寝るのはもはや義務だし、お風呂に入るのは当然だし、なんなら食事だって口移しぐらい平気でやる。

 少なくとも、二人にとってはそれがスタンダードなのだ。


 そんな甘ったるい生活の一端を見て、複雑な心境を抱くティナ。

 組合長という地位だけでなく、プライベートでもセーラはとうに大人になっていたことを悟ったようだ。


「う、うぅ、言えば言うほど墓穴が深くなっていくっす……」

「私に隠したってしょうがないじゃない。四年も付き合ってれば、そういう関係になってることぐらい、私にだってわかるわよ」

「むうぅ……とはいえ、その噂を放置しておくわけにはいかないっすね。組合長が変態だと思われたら、威厳にも関わってくるっす」

「それは間違いないでしょうねえ」


 セーラは決めた。

 噂の出処を突き止め、必ずや払拭してみせる、と。

 そして原因として一番可能性の高い“彼女”のもとに、大急ぎで向かうのだった。




 ◇◇◇




「ネーイーガースーっ!」


 執務室に戻ったセーラは、そこで淡々と書類を片付けるネイガスに駆け寄った。


「おかえりセーラちゃん。どうしたのよ、いきなりそんな天使みたいな怒り顔をして」

「暗に迫力が無いって言ってるんすね!? まあいいっす、まずおらの目を見て欲しいっす」

「吸い込まれそうな目ね。キスしていいかしら?」

「職場じゃダメっす」


 ネイガスもネイガスだが、これで突き放しているつもりのセーラもかなり甘い。

 そのまま見つめ合う二人。

 じーっとにらみつけるセーラに対して、ネイガスの頬は紅潮し、次第に頬が赤らんでいった。


「ねえセーラちゃん、これに私を発情させる以外になんの意味があるの?」

「むしろその意味が無いっす! それにしても……むぅ、後ろめたいことはなにもなさそうっすね。となると出処はネイガスじゃない……」

「なんの話?」

「それがっすね……」


 セーラは顔を赤くしながら、ネイガスに事の次第を話した。

 全てを聞き終えると、ネイガスはぽんと手を叩く。


「なるほど、それでセーラちゃんは私が噂を流したんじゃないかと思ったと」

「流したとは思ってないっす。でも、どこかでポロっと言っちゃったんじゃないかと思ったんすよ」

「信用ないわねえ。私、これでもセーラちゃんのことに関して口は固いつもりよ」

「のろけ話になると途端に口が軽くなるじゃないっすか」


 じとーっと目を細めるセーラ。

 ネイガスはすっと視線を逸らした。

 どうやら以前、それでプライベートが流出してしまったことがあったようだ。


「でもさすがに、そんな話を職員には流さないわ」

「じゃあ、誰か別の人間が流したと……」

「そんな話が広まれば、私のセーラちゃんがいかがわしい目で見られてしまうわ。それだけは避けたいところね」

「ネイガスは自分が変態と思われることも心配するべきだと思うっす」

「もう手遅れよ!」


 力強く言い切るネイガス。

 セーラは呆れながらも、「確かに」と納得していた。




 ◇◇◇




 早速、組合本部での調査をはじめたセーラとネイガス。

 彼女たちはまず、事務方のトップの女性をこっそり呼び出し、話を聞くことにした。


「噂、ですか?」


 執務室の椅子にちょこんと腰掛けた二十代後半の女性は、シェーリア。

 組合に入る前、教会ではなくマンキャシー商会で働いていた彼女は、組合立ち上げ時の創設メンバーでもある。

 とはいえシェーリア自身が望んで参加したというよりは、セーラとネイガスに説得されて、という形なのだが。

 諸々の事情で、教会外部の人間かつ数字に強い人間が組合には必要だったのだ。


「存じ上げませんね。組合長もご存知の通り、そういった流行には疎いものでして」


 だが彼女自身が言う通り、シェーリアは真面目である一方で、世俗に疎い。

 黒縁の眼鏡と黒のロングヘアが、余計にその印象を強くしていた。


「組合長に不利益の生じる噂が蔓延っているのですか? でしたら私も対処のために――」

「あ、大丈夫っす! シェーリアの手を煩わせるほどのことじゃないっすから!」


 慌てて止めると、シェーリアは首をかしげる。

 だが素直な彼女は、それ以上噂話について首を突っ込むことはなかった。

 話を終えると、静かに部屋を出ていく。


「シェーリアにも協力してもらったほうがよかったんじゃない?」

「事をあまり大きくしたくないっす。できれば、噂の元凶を探ってるってことを気付かれたくないんすよ」

「ふーん……ねえ、私思うんだけど」

「ダメっすよ」

「まだなにも言ってないわ」

「『いっそおおっぴらに認めて公然といちゃつきたい』って言おうとしたんすよね?」

「すごいわセーラちゃん私の心を読むなんて愛がなせる技! 愛してる抱いて!」

「職場じゃ抱かないっすから!」


 セーラは“職場”とか言ってる時点で毒されていることに気付かない。




 ◇◇◇




 続いて呼び出されたのは、医療魔術師側の幹部であるミレイナという二十代の女性だった。

 白いローブを纏っているのでそれなりに聖職者っぽく見える彼女だが、実はかなり男癖が悪いという話がある。

 とはいえ職場の男性には手を出さないよう気をつけているようだし、仕事ぶりも優秀であった。


「組合長ちゃん直々の呼び出しなんて珍しいわねぇ、一体なんの用事なの?」


 本人にはそのつもりはないようだが、無駄に一挙手一投足が色っぽい。

 ミレイナならば、あの手の噂にも詳しいだろう。


「その……おらに関する噂が組合に広がってるって聞いたんすけど」

「ああ、組合長が恋人に調教されてるって話よね」

「調教!?」

「もはや開発を通り越してるわ……」


 噂特有の『伝達していくうちにエスカレートしていく』現象だ。

 これはいよいよマズイことになってきた。


「んー、私としては噂は信じてなかったけど、純潔そうな組合長ちゃんが調教って言葉をすんなり受け入れちゃったのが割とショックねえ」


 さらに、思わぬところでツッコミが入る。

 しかしすかさずネイガスがフォローした。


「こう見えてもセーラちゃん、実は私と付き合う前から耳年増だったのよ。いわゆるむっつりってやつね」


 しかしまったくフォローになっていなかった。


「あらそうなの? まあ、でもそうね、女の子って案外見た目より大人びてるもので――」

「そこはどうでもいいっすから! ミレイナはそのちょ、調教って話……誰から聞いたんすか?」

「セーラちゃん、今さら恥じらって清純アピールしても無駄なんじゃ……」

「ネイガスは黙ってるっすー!」


 図星だったのか、セーラは顔を真っ赤にして吠えた。


「誰って、私は部下から聞いたわよ。ちょうど今は待機してるはずだし、呼んできましょうか?」

「お願いするっす」

「一応確認しておきたいんだけど……噂って、嘘なの?」

「断じて嘘っす。調教はされてないっす」

「調教?」

「なにもされてないってことっすよぉーっ!」


 ミレイナは完全にセーラをからかっているようで、ケラケラ笑いながら部屋を出ていった。

 残されたセーラは、肩を上下させながら息を整える。


「ミレイナは相変わらずね」

「呼んだ時点でこうなるって薄々わかってはいたんすけどぉ……」

「よしよし」


 ネイガスは胸にセーラを抱きしめ、彼女を落ち着かせる。

 今ばかりは素直に甘えて、胸いっぱいに恋人の匂いを吸い込み心の平穏を得ようとするセーラ。

 ネイガスは内心では『こんなことをしているから噂が立つのでは……』と思っていたが黙っておく。

 だがすぐに、ミレイナの呼んだ魔術師がやってくる。

 名残惜しさを抱きつつも体を離し、セーラは魔術師を招き入れた。




 ◇◇◇




 しかしネイガスの予想通り、噂の出処にたどり着くのは難しく――


『えぇっ、あの噂って嘘だったんですか!?』


 それでもセーラは必死に情報を集め続けたが、


『組合長とネイガスさんならそれぐらいやりそうだってことで、みんな気にしてませんよ?』


 話を聞けば聞くほどに、


『むしろやってなかったんだー、意外ー』


 ひょっとしてこれ噂じゃなくて、ただの共通認識なのでは――という疑念がセーラの中で膨らんでいく。


『今さら隠さなくていいんだよぉ。今どきのカップルはそれぐらいやるもんだから!』


 しかし、意固地になったセーラはなおも情報収集を継続し、


『言うほどみんな、組合長のこと綺麗な聖女とは思ってませんよ?』


 結果、心に大きな傷を負ったのだった。


「ネーイーガースぅー!」


 呼び出した魔術師が部屋から出ていった瞬間、涙目になってセーラはネイガスに抱きつく。

 ネイガスは再び「よしよし」と彼女の頭を優しく撫でた。


「おら……おら……今日まで組合長としてがんばってきたんすよぉ! 一生懸命、力が足りないなりにやってきたつもりなんすよぉー!」

「そこはわかってるわ。組合長としてのセーラちゃんを、みんな認めてるのよ」

「だったらなんであんなこと言われるんすかぁ! おら、少なくとも職場ではちゃんとしてたつもりだったんすよ?」

「それは……」


 口ごもるネイガス。

 実は、彼女にはその理由がわかっていた。

 確かにセーラは、職場では不用意にネイガスとスキンシップを取らないように気をつけている。

 だがそれが逆に、周囲から見ると“ツンデレ”にしか見えないのである。

 決してセーラの考え方が間違っているわけではない。

 職場で節度を守るのは大事だし、互いに距離を取っていれば周囲に二人の関係を邪推されることもなかっただろう。

 しかし、セーラはネイガスのことが好きすぎた。

 どんなに意識して距離を取っても、どうしても“好きオーラ”が溢れてしまうのである。

 しかも、それは誰が見ても気づくレベルのものであった。


「でも……もうそう思われてしまった以上は仕方ないっす。ネイガスっ!」

「なあに?」

「おらを慰めるっす」


 唇を尖らせ、不機嫌そうに言うセーラ。

 その表情は組合長としての彼女ではなく、家でネイガスと二人きりのときに見せる、“プライベートモード”のものであった。


(ショックのあまりスイッチが切り替わっちゃったのね……)


 かわいそうだ。

 かわいそうだが――


(これは職場でいちゃつくまたとないチャンスだわ!)


 ネイガスにとっては好機であった。


 最近は徐々に緩んできているものの、職場でのセーラはガードが硬い。

 ネイガスとて仕事中に抱こうとまでは考えていないが――いや可能ならやってみたいとも思っているが――それでも最低限、軽めのタッチと、せめてキスぐらいは許してほしいのである。

 この手の“壁”は一度壊してしまえば、一気に抵抗感が薄れるもの。

 うまくやれば、今後の組合での仕事を色んな意味で潤わせることができるはずだ。


 待ってましたと言わんばかりにセーラの体を抱き上げる。

 そしてネイガスはチェアに腰掛け、自らの膝の上にセーラを座らせた。

 もちろん向かい合った状態で。

 そのまま、とろんと潤んだ瞳を向けるセーラと唇を重ねる。


 もはや数千回と繰り返してきたキスだが、しかし一切飽きることはない。

 むしろ回数を重ねるごとに、唇は敏感になり、より強く相手のことを感じられるようになっていく。

 以前は、唇同士をあわせるこの行為で心が満たされていた。

 だが今は、唇をこすり合わせるだけで、体までもが甘い感覚でいっぱいになる。


 まずは押しつけあって、上下の唇で相手の肉を食むように、ゆるやかに交わらせる。

 そのまま数分間、たっぷりと相手の感触を楽しむのが二人のお決まりだった。

 朝、起きたとき。

 夕方、家に帰ったとき。

 夜、寝る前。

 休日にいたっては朝、昼、晩、数えるのが億劫になるほど、そんなキスを繰り返す。

 それがセーラとネイガスの日常風景で、そんな日々に慣れてしまっては、『仕事時間中はスキンシップNG』という縛りが辛くなるのも当然であった。


 だから貪る。

 セーラはただ唇をこすり合わせるだけで、歳不相応の女の顔をして、ぎゅーっとネイガスを抱きしめながら相手の感触を確かめる。

 ネイガスはそんなアンバランスな恋人の表情を前に、『その顔をさせたのは自分だ』という優越感をスパイスに、情感を高めていく。

 互いに鼻息荒く、鼓動も早く、理性は削れ獣じみた本能がむき出しになっていく。

 ここまで来て、はじめて二人は舌を絡める。

 ぬらりと、たっぷりと唾液をまぶしたむき出しの粘膜同士を、ねとりねとりと、わざとらしく音を立てながら触れ合わせるのだ。


 焦らした分だけ、鋭敏に相手の粘膜を感じることができる。

 味も、匂いも、もちろん触れ合う感触も、どれもこれもがセーラにとっては極上で、夢のような一時だった。

 ネイガスも年上としてリードしているように見えるが、実際はそこまで余裕ではない。

 彼女もまた、セーラのことを狂おしく愛しているのだ。

 だから目の前でそんな乱れた表情を見せられて、余裕などあるはずがない。


 そしてたっぷりと、時間も忘れて互いの唇を貪りあった二人が顔を離す。

 唾液の橋が、桜色の唇同士をつなぎ、一瞬で消える。

 セーラもネイガスも、肌は鎖骨のあたりまで紅潮し、じっとりと汗ばんでいる。

 彼女たちは「はぁ……はぁ……」と肩を上下させゆっくりと呼吸しながら、欲望に潤んだ瞳でじっと見つめ合っていた。

 雰囲気は、完全にできあがっている。

 ならばここから先、やることはもう決まっている。

 セーラはここが職場であるという意識を完全に捨て、服を脱がそうとするネイガスに身を委ねる。

 ネイガスもネイガスで、こちらに足音が近づいていることに気づきながら、その手を止めようとはしなかった。

 しかしさすがに、“コンコン”とノックされたのでは、中断するしかない。


(く……そのまま前を通り過ぎてくれればよかったのに)


 心の中で毒づいたってしょうがない。

 ネイガスは立ち上がり、セーラと体を離そうとしたが――


「……いやっす。ネイガスと離れたくないっす」


 甘えたがりモードのセーラは、上目遣いでネイガスを見上げ、ぎゅっとしがみつく。


(これを抱けないとか生殺しもいいところよもおおぉおおおおお!)


 心の中で叫んでも仕方ない。

 しかしこのセーラを無理やり引き剥がすのも酷だ。


「組合長、いないんですか?」


 ドアの外から声が聞こえてくる。

 どうやら声の主はシェーリアらしい。

 真面目な彼女に、セーラのこのような姿を見せるのは忍びないが――やむを得ない。


「どうぞ、入っていいわよ」


 ネイガスは仕方なく、シェーリアを部屋に招き入れた。

 あとになって思えば、『今は忙しい』とか適当な理由をつけて時間を稼げばよかったのだが、言ってしまったものはしょうがない。


(断じて、職員にこの姿を見せることで既成事実を作ろうとしているわけじゃないわ!)


 そう自分に言い訳をするネイガス。

 もっとも、当のセーラはそんな思惑など関係なしにネイガスの胸に顔を埋めていたのだが。


「失礼いたします」

「失礼しまーす……って、あら」


 部屋に入ってきたシェーリアとミレイナは、その姿を見て固まる。


「く……組合長、なにをなさっているのですか! ここは仕事場ですよ!?」


 焦るシェーリアとは対象的に、ミレイナは「あらあらー」とどこか嬉しそうである。


「ネイガスさんとそういう間柄であることは理解しておりますが、その、職場でそういった行為はよろしくないかと!」


 よっぽどショックだったのか、黒縁メガネをせわしなくクイッと上げながらまくしたてるシェーリア。

 そんな彼女に対し、「ぷはぁっ!」とネイガスの胸から顔をあげたセーラは、じとーっとにらみながら言った。


「どうせシェーリアも含めて、みんなおらのこと“ネイガスに開発されてる”と思ってるんじゃないすか! おらがどんなにがんばって職場で真面目に働いても、どうせそんな目で見られるんなら、もう我慢するのやめるっす。今日からは職場でも、家にいるときと同じようにするって決めたっす!」

「困ります組合長、そのような状態では仕事が捗るはずがないじゃないですか!」

「捗るっすよ? ネイガスからご褒美がもらえるって聞いたら、おらのやる気は百倍ぐらいになるっす!」

「ご、ご褒美って……そんなはしたないことを……! ミレイナからも組合長を説得してください」

「仕事ができるならいいんじゃないかしら」

「ミレイナ!? ダメに決まってるではないですか、組合長の威厳だってあるんですよ?」

「それはほら、さっき組合長ちゃんが言ってた通り、真面目にやってもみんなそういう風に思ってるから……」

「ですが“開発”がどうこうという噂が広まった件については、ちゃんと原因が見つかったではないですか」

「そうなんすか!?」


 二人が執務室を訪れたのは、どうもその“原因”を報告するためだったようだ。

 最初にシェーリアを呼んだとき、セーラは『気にしなくていい』と言ったが、それで気にせずにいられるほど彼女は単純な性格ではない。

 すぐさま部下から噂の存在を聞き、その発信源を調べていたのだ。


「あのようなはしたない噂が広まった原因は、組合に探りをいれていた、とある新聞記者のせいだったようです」


 そしてシェーリアは、事の発端をセーラたちに語る――




 ◇◇◇




 後日、セーラとネイガスは、フラムの家を訪れた。


「二人がこんな時間に来るなんて珍しいね」


 フラムは二人にお茶を出しながら言う。

 ミルキットは、ちょうどおやつ用に作っていたケーキを切り分けていた。


「最近は組合のほうも落ち着いてきたっすからね」

「それに、一応これは“仕事”でもあるのよ」

「仕事? 私に話すことが?」


 さっぱりわけがわからないフラム。

 ひとまず椅子に座ると、ケーキの準備を終えたミルキットがその隣にちょこんと腰掛けた。


「その話をする前に、まずは組合で起きたちょっとした事件について話さなくちゃならないんだけど――」


 さすがにセーラ自身の口から話すのは憚られたのか、ネイガスが一連の騒動について語りだす。

 フラムとミルキットは、最初こそ真剣な表情で聞いていたものの、中盤からは必死に笑いをこらえている様子だった。

 そしてセーラは一人、不機嫌そうに頬を膨らますと同時に、恥じらいから赤くなっている。


「そんなわけで、セーラちゃんは心に傷を負いながらも、ひとまず“開発された”という汚名は晴らせたのね」

「セーラちゃん、災難だったね……」

「しかし新聞記者さんも紛らわしい聞き方をするんですね」

「『組合長の“アレ”、開発は進んでるんですか?』だもんねえ」

「それを聞いておらの体が開発されてるって発想にたどり着くのがおかしいんすよ! なんでおらが被害を受けなくちゃならないんすかー!」


 それは回りくどい聞き方をする新聞記者と、全く事情を知らない平職員――そんな二人の行き違いが起こした、悲しい事故だった。

 どうやら記者は、セーラが秘密裏に何か・・を開発しているという情報を得たらしく、それについて数人の職員に聞き込みをしていたらしい。

 しかし、そんなものは存在しない。

 記者はデマを掴まされていたのだ。

 なので聞かれた職員は、記者がなにを言っているのかさっぱりわからない。

 結果、『組合長はなにかを開発しているらしい』という噂が組合の中で広まり始め、人から人へと伝達されていくうちに形を変え、最終的に『組合長はネイガスに開発されている』というとんでもない内容に変わり果ててしまったそうだ。


「あはは……だけど、なんでそれを私たちに話に来たの?」

「そこなんすけど、どうも記者が掴んだ情報っていうのは、全部嘘ってわけじゃないみたいなんすよ」

「どういうこと?」

「フラムおねーさんは、ネクロマンシーって覚えてるっすか?」


 セーラは真剣な表情で言った。

 忘れるはずがない。

 フラム以外の面々には“過去”の記憶かもしれないが、フラムにとってはほんの数ヶ月前の出来事なのだから。


「もちろん覚えてるよ」


 ネクロマンシー――それはオリジンコアを使い、死者を蘇らせる研究。

 ダフィズ・シャルマスという男がリーダーとなり、“完全な死者の蘇生”を目指し進められていたが、結局は“オリジンに操られ動く死体”が生まれただけだった。

 死者の蘇生が絶対不可能だとは言わない。

 事実、フラムは時を巻き戻すことで、似たようなことをした経験がある。

 だが少なくとも、オリジンコアを使って人を蘇らせることは、どんなに研究を進めても不可能だろう。


「どうしてそこで、ネクロマンシーの名前が出てくるんですか?」

「私とセーラちゃんはそこにいなかったけど、確かその研究資料って、リーチ・マンキャシーの妹が王都に持ち帰ったのよね」

「はい、それを記事にすることで教会の信用を失墜させようとしたんです。あれ……でもあの資料って……」

「王都がオリジンの攻撃を受けたときに、紛失してるわ」

「どうもその資料が、どこかの物好きの手に渡ってるらしいんすよ」


 フラムは眉間に皺を寄せた。

 もうこの世にオリジンコアは存在しない。

 しかし、“死者の蘇生”にロマンを感じ、狂気に手を伸ばす愚か者はいくらでもいる。


「あんなものを真似したって……傷つく人が増えるだけなのに」


 ダフィズは、自分の妻が変わり果てた姿を見せつけられ、無惨に死んだ。

 特にミルキットは、その惨劇を目の前で目撃している。


「そんなの、誰も幸せになりません……」


 うつむき、そう零すミルキット。

 そんな彼女を見て、セーラは気まずそうに口を開く。


「オリジンコア絡みは、どうしても湿っぽくなるっすね。おらたちが掴めたのはそこまでで、どこの誰がネクロマンシーの資料を手に入れたのかまではわかってないっす。でも一応、フラムおねーさんには報告しておいたほうがいいと思ったんすよ」

「ありがとう、セーラちゃん。せっかく平和になったんだし、個人の興味や欲でそれを乱されたくないからね。見つけ次第、しっかり潰しておくから」

「頼もしいわね」

「ご主人様から逃げられる悪人なんて、この世には存在しませんからねっ」

「あはは、悪人だったらいいんだけどねー」


 ネクロマンシーの中心人物だったダフィズは、決して悪人だと言い切れるような人間ではなかった。

 最終的にミルキットを人質に取り、フラムを殺そうとしたが、その動機は『妻と一緒に暮らしたい』という至極まっとうなものだったのだから。

 今回も似たようなケースでないことを祈るばかりだ。

 まあ、そもそもコアが無い今、資料があったところでネクロマンシーと同じ現象を引き起こすことは不可能なのだが。




 ◇◇◇




 かくして噂は消え、組合は元の状態に戻った。

 セーラは正式に新聞社への抗議を行い、記者による聞き込みはシャットアウトされている。

 もちろん失われたネクロマンシーの資料探しは続けていくが、組合として動くというよりは、プライベートでフラムと連携して調査を続けることになりそうだ。


 そして騒動が終息してから数日後――組合本部の廊下を、ミレイナとシェーリアが並んで歩いていた。

 正反対のタイプの二人だが、仕事後に二人で飲みに行く程度には仲がいい。

 仕事場で顔を合わせると、軽く雑談を交わすこともしばしばあった。


「実際のところ、どうなのかしら」

「なにがですか」

「組合長ちゃんのことよぉ。あの噂、本当にただの噂だったのかしら?」

「まだそんなことを……噂に決まっています。そんな、まだ幼い組合長の体が、か、か、開発されてるなんて……」

「シェーリアは初心ねえ」

「ミレイナが擦れているだけですっ。とにかく、噂のことはもう忘れるべきです。組合長も嫌がっていたんですし」

「そこなのよ! あの嫌がり方、どーも引っかかるのよねぇ……」

「どういうことです?」

「嘘を広められて嫌がってるというよりは、事実を広められるのを嫌がっているような……」

「邪推はよくありません。あんまりそういうことを言っていると、組合長を怒らせますよ」

「怒った組合長ちゃんも割とかわいいと思うのよねぇ」

「ミレイナ、あなたって人は……」


 呆れ顔のシェーリアに、ケラケラと笑うミレイナ。

 そんな二人は話しながら、セーラとネイガスのいる執務室の前を通り過ぎていく。

 そして足音が遠ざかっていくと、室内から「ふぅー」と大きく息を吐く音が聞こえてきた。


「危なかったわね」


 ネイガスは不敵に笑い、セーラの耳元でささやく。


「こ、こんなこと……職場でするなんて最悪っす」

「セーラちゃんだって拒まなかったじゃない」

「そうっすけど……」

「体にこんなもの付けてるなんて、あの二人に見られてたらドン引きされてたでしょうね」

「今度は噂じゃ済まないっす。おらも社会的に死ぬっす」

「案外、『それぐらいやると思ってました』って言われたりして」

「それもそれで最悪っすね……」


 あの噂の発端は、新聞記者と職員の勘違いである。

 だから決して、セーラとネイガスが二人きりのときになにをしているのか、誰かがそれを目撃したわけではない。


「こういうおらを見て、ネイガスは引かないんすか?」

「引くわけないじゃない。どこまでも私好みに染めてるみたいでゾクゾクするわ」

「変態っす」

「お互いにね。私たち、そういう意味でも相性抜群なのよ」

「……否定できないのが悔しいっす」

「悔しがらなくていいのよ」


 しかし、当てずっぽうが的中する確率はゼロではないのだ。

 もしも奇跡的に的中していたら――噂の当事者は、それはもう焦るだろう。

 そして噂を消そうと躍起になるかもしれない。


「二人きりなんだから、家にいるときと同じように甘えちゃいなさい。どうせシェーリアたちには、甘えん坊なセーラちゃんの姿を見られちゃったんだから」

「あのときはおらもどうかしてたんすよ! でも……そうっすね。こういうときは、素直に楽しんだほうが、いいっすもんね」


 だがそれも、あくまで仮定に過ぎない。

 セーラとネイガスが恋人として、それ・・をどう愉しんでいるかなんて、二人にしかわからないことだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る