第80話 帰るべき場所
しかも今は非常時だというのに――いや、非常時だからこそ、だろうか。
ローブを羽織り、フードを深く被った怪しげな六人組が歩いていても、忙しいのか誰も声をかけてこない。
「相変わらず王都の警備はザルよねぇ……」
「敵国もいないっすし、まさか魔族が入ってくるとは思ってないっすからね。あと、おらたちと似たような格好をした人、意外といるっすからね」
家を失い、路上で暮らす人々も少なくはない。
彼らの中には、ネイガスたちのようにローブを纏っている人間もいた。
「でも、人質が脱走したことは伝わってるはずじゃない? だったらもっと厳重にやると思うのよ」
「厳重にしたら、なにかあったって勘付かれるかもしれないっすよ?」
「にしても……いや、結局は城に捕らわれてるフラムちゃんたちが逃げなければいいわけだから、城の周りを固めてるのかしら」
彼女の読みは当たっていた。
実際、城の周囲を警備するキマイラの数は日に日に増えている。
普通ならあんな化物が大量に並んでいたら、残った王都の住民も怯えるはずなのだが――
「……すごい光景です」
ミルキットがぼそりとつぶやく。
「こうもキマイラが馴染んでると、引いちゃうよね」
「街の連中も受け入れてるようだねえ」
ケレイナが言うと、抱きかかえられたハロムは、不安げに母の胸元に体を寄せた。
キマイラが、瓦礫の撤去や下敷きになった人々の救助に参加したおかげで、王都は事件直後に比べるとかなりマシな状態になっている。
命を救われた人間は数知れず、確かに見た目はおぞましいが、しかしその実績によって、住民たちはキマイラに信頼を寄せつつあった。
「使い方さえ間違えなければ、便利なのは確かっすけど……」
「あれもコアを使った化物なんだもの、いつ暴れだすかわかったもんじゃないわ」
しかし、一般人はコアの危険性はおろか、その存在すら知らないのだ。
あるいは知ったとしても、それが便利な力なら利用しようと思うかもしれない。
それが人間という生き物だ。
だからこそ、かつての勇者は魔族にオリジンの管理を任せたのだ。
「あれ、これは……」
ミルキットは腰をかがめ、地面に落ちていた紙を拾い上げた。
「新聞っすか?」
「みたいです、キマイラがどれだけ危険かを書いた記事みたいですけど……」
「これ、コアのことも書いてあるっすね」
一般人は、もちろんオリジンコアの存在など知らない。
知っている人間は、教会の関係者か、もしくは敵対する人間に限られる。
なおかつ新聞を作っている人間となると、特定は容易だった。
「もしかして、ウェルシーさんが書いたんじゃないでしょうか」
「ウェルシー、っすか?」
こてん、と首をかしげるセーラ。
「セーラさんも、リーチさんのことは知ってますよね」
「もちろんっすよ、キアラリィの依頼の件で指輪までもらったっすからね」
そう言って、右手の人差指にはめられた指輪をミルキットに見せつけるセーラ。
しかし、“指輪をもらった”という言葉を聞いて、ネイガスが反応しないはずがなかった。
「ゆ、指輪をもらったって、どういうことなのセーラちゃん!? 私というものがありながら! しかも十一歳の女の子に指輪を渡すなんて……とんだ幼女趣味じゃない!」
「ネイガスにだけは言われたくないっす」
「うっ……」
胸をおさえながらよろめくネイガス。
セーラの前に、彼女はあまりに無力だった。
「というか、ふざけてる余裕あるんすか? かなり無理してここまで来てたっすし、疲れてるんすよね」
「むしろセーラちゃんと話して気を紛らわせてないと、今にも倒れそうだわ」
全員を連れて空を飛び続けたネイガスの魔力はかなり消耗している。
情報収集を始めるまえに、まずは寝泊まりできる場所を確保して、彼女の回復を待つ――そのための隠れ家を探して、彼女たちは東区の方へ向かっていた。
「まあ、話してて気が紛れるならそれでいいっすけど。あ、おねーさん、話がそれて申し訳ないっす」
「気にしないでいいですよ、セーラさんって本当にネイガスさんと仲がいいんですね」
「そういうこと言うと調子に乗るんで、控えたほうがいいっすよ」
実際、ネイガスは「でへへぇ……」とだらしない表情で嬉しそうに笑っている。
セーラはそんな彼女を見てため息をついた。
もっとも、ミルキットからは、セーラもまんざらでもなさそうに見えたのだが。
「んで、ウェルシーって誰なんすか?」
「そのリーチさんの妹さんで、新聞記者をやっていたんです」
「コアのことも知ってたから、ミルキットはその新聞を書いてるのがウェルシーなんじゃないかって思ったんだ」
インクの言葉に、ミルキットは頷く。
「ウェルシーはサトゥーキになびいた兄に反発して、反政府活動をやってるのかもしれないねえ」
「つまり、私たちの味方ってことかしら」
味方は味方だが、新聞が捨てられていたことからもわかるように――おそらくウェルシーの新聞は、王都の住民から相手にされていない。
人間は、自分にとって不利な情報ほど受け入れにくいものだ。
キマイラは役に立っている。
サトゥーキは復興に全力を尽くしているし、薬草の解禁や一定期間の税の軽減処置で民衆の生活を向上させようという意思も感じられる。
また、人類の敵である魔族を潰すと明言し、なおかつキマイラを利用することで国の負担を最低限に抑える――彼曰く、“次世代の戦争”を実行しようとしている。
現状、そんなサトゥーキを支持しない理由がなかった。
スロウが傀儡であることは誰の目からみても明らかだ、もちろん反感を抱く人間がいないわけではないが、それでも支持派が圧倒的多数を占めている。
「戦力は多いに越したことはないわ、記者って言うんなら情報収集もお手の物でしょうし、どうにか合流したいところだけど……」
「こんな記事を書いてたんじゃ、とっくに軍とかに目を付けられてそうっすし、隠れてそうっすよね」
「それって私たちと同じ立場ってことでしょう? なら案外、あっさりと会えるかもしれないわよ」
「そうなるといいっすね」
広い通りをぞろぞろ歩いていると、どうしても人の目を引いてしまう。
彼女たちは薄暗い路地に入ると、ネイガスとセーラを先頭に歩く。
人通りは少ないが、地面に布を敷いて、暗い表情で膝を抱える人の姿が、ちらほらと見られる。
おそらく家を失った人間なのだろう。
男女問わず、中にはセーラとそう変わらない年齢の子供もいて――彼女は思わず手を差し伸べそうになったが、ネイガスがそれを制止した。
今は追われる身だ。
目立った行動は避けなければならないし、一人を救えば、周囲にいる人々が“私も救ってくれ”と集まってくるだろう。
セーラは目を細めて、「ままならないっすね」とつぶやいた。
そんな彼女の頭を、隣を歩くネイガスがぽんぽんと軽く撫でた。
◇◇◇
明かりのない暗い部屋が、紙に灯った火によって茜色に照らされる。
紙を燃やすにはいささか火力が弱すぎるが、その目的は表面に文字を描くこと。
それは、バーンプロジェクション――目で見たものをコピーする、ウェルシーが得意とする魔法であった。
彼女の視界に写るのは、たった一枚の紙切れ。
手書きの新聞。
それを複製し、少しでも多くの人間に真実を知ってもらうことが、今のウェルシーを突き動かす使命感だった。
「ふぅ……」
体力にも魔力にも限界がある。
どちらもさほど優れていない彼女では、一日に三十枚ほど複製するので精一杯だ。
そんな枚数をばらまいたところで、何かが変わるわけでもない。
たまに虚しくなる。
リーチは、おそらく彼女の身を案じているだろう。
ミルキットたちを差し出したのは、義姉が人質に取られていたからだ。
きっとウェルシーが同じ立場だったら、そうしていたはず。
仕方のないことだった、恨む必要などない。
「でも、私は……許せない」
正義感か、あるいは意地か。
どちらにせよ、理屈では許すべきだとわかっていても、ウェルシーの感情がそれを許容しないのだ。
例え無意味でも、抗い続ける。
権力に屈して、尊厳を捨てる――そんなダサい人間にはなりたくない。
だからやめるつもりはなかった。
たとえ一人でも、その意思がサトゥーキに届くことはなくても、一人でも自分の語る真実に耳を傾けてくれる人がいるかもしれない、そう願って記事を書き続ける。
ウェルシーは次の紙に手を伸ばす。
裏紙だったり、強引に張り合わせてあったりと酷いありさまだが、これを集めるだけでも一苦労なのだ。
一枚一枚が貴重な資材。
慎重に手のひらに乗せて、魔法を発動させる。
しかし、ガタッという音が彼女の集中を遮った。
兵士が場所を嗅ぎつけたのかもしれない。
彼らにとってウェルシーは脅威ですらないが、目障りではある。
嘘を羅列し、王や教皇を侮辱する新聞をばらまいている――それだけで、拘束される理由としては十分だ。
せっかく見つけた空き家だったのだが、また別の場所を探さなければならない。
ウェルシーは裏口へ向かい、見つかる前に脱出を図った。
「あら、ここなんか広くないかしら?」
「そうやって物件を探す感覚で不法侵入するのはどうかと思うっす」
「悪いことなのはわかっていますが、今は緊急事態ですから……」
「たぶん避難してるんだろうし、綺麗に使ったらきっと大丈夫だって」
「ママ……怖い……」
「暗いだけだから平気よ、ママもついてるわ」
聞こえてきたのは、六人分の声。
その中には、ウェルシーが聞き覚えのあるものも混ざっていた。
「まさか……どうしてここに」
彼女は脱出を中断し、物陰に身を潜めて様子を観察する。
しかし、ネイガスを前にその程度で隠れきれるはずがなかった。
「先客がいるようね」
彼女は敵意を込めて、ウェルシーが潜む壁を凝視した。
ただそれだけで、どくんと心臓が跳ねて、全身から汗が吹き出す。
「な……なに、これ……」
未知の感覚に、思わず胸元を掴むウェルシー。
人間というのは、ただ睨まれただけでここまで苦しくなるものなのか。
元より敵対するつもりもない彼女は、両手を上げてネイガスたちの前に姿を現した。
「ウェルシーさんっ!」
真っ先にミルキットが声をあげる。
「あら、彼女がそうなの? だったら威圧しちゃってごめんなさいね」
軽く手を合わせて謝るネイガス。
ウェルシーはその肌の色を見て、驚愕し目を見開く。
「ま、魔族っ!?」
「ネイガスさんです、私たちが捕まってたところを助けてくれたんですよ」
「ワタシ、ワルイ魔族ジャナイヨ」
呆気にとられるウェルシー。
もちろんネイガスのボケなどスルーである。
しかし、魔族が味方についたというのなら、ミルキットたちが王都にいることにも納得がいく。
サトゥーキも、よもや魔族が人質を解放するために介入してくるとは、想像もしていなかったはずだ。
「敵の敵は味方ってこと?」
「というよりは、最初から味方だったって言った方が正しいわね」
ウェルシーはなおも懐疑的だったが、それでも見知らぬ人間よりはよほど信頼できる、と自分に言い聞かせる。
「……ミルキットちゃんやインクちゃんが無事ってことは、信用していいのかな」
「はい、それが何よりの証明です。ところでウェルシーさんは……一人、なんですか?」
「うん、家から飛び出してきちゃったしねー。いくら奥さんを盾に脅されたからって、知り合いを売る兄さんを許せるわけないって」
「やっぱり、そういう事情だったんですね」
そんなことだろうと想像はしていたが、やはりウェルシーから直接聞けると安心する。
彼を悪人だと思いたくはなかったミルキットにとって、その事実は救いであった。
裏切られた事実に変わりはない。
だが、事情があったのなら、また元通りの関係に戻ることはできるはずだ。
「せっかく人質から解放されたのに王都まで来たってことはー、フラムちゃんたちを助けにきたわけでしょ?」
「フラムたちの場所、ウェルシーは知ってるの?」
「フラムちゃんの居場所は知らないかな」
ミルキットの表情が曇る。
しかし真っ先にそれを言ったのは、彼女に変な期待をさせないための気遣いだった。
「でも他ならわかるからー、とりあえず座って、落ち着いて話そっか。残念ながらお茶も出せないけど」
このボロ家に、椅子なんて気の利いたものが七人分もあるわけがない。
ウェルシーは、普段、編集作業等に使っている部屋に全員を案内すると、各々が好きな場所に腰掛ける。
疲れた様子のネイガスは、座ると同時に「はふぅ」と息を吐いた。
「それで居場所だけど、フラムちゃん以外は城の東棟にいるみたいなのね」
兵舎が建っているのが城の西側のため、フラムの居場所とは完全に反対側だ。
「東棟の牢屋に入れられてるってことっすか?」
「そこまで厳しくなくて、軟禁って言うべきなのかなー……部屋は客室みたいだし、ある程度は城内を歩くのも許可されてるみたいで、窓越しに歩いてる姿が見えたりするの」
「意外とゆるいんだ」
「人質さえいれば、変に拘束する必要もないからね」
「ということはつまり、あたしらが逃げたことが伝われば、ガディオたちは逃げようとするんじゃのかい?」
ケレイナの言葉に、ウェルシーは顎に手を当てて考え込む。
「それが、さっき言った軟禁状態にあるのは、ライナスさん、ガディオさん、エターナさんだけみたいでー、この三人は王様になっちゃったスロウくんの演説とかにちょくちょく顔を出してる」
「本当にスロウさん、王様になったんですね……」
話には聞いていたが、やはり信じがたい。
そこら辺にいそうなただの一般男性だったスロウが、果たして演説などして様になるのだろうか。
ミルキットですら疑わしく思っていた。
「キリルちゃんも同じように表に出てくることはあるんだけど、いっつも不機嫌な顔してて、あと必ず一人でさ。フラムちゃんにいたっては、一度も出てきたことないんだよねー」
「サトゥーキって男が勇者やら英雄やらを捕まえたのは、政治的に利用するためって聞いてたけど――彼女だけは何か違う事情ができたのかしら」
「キマイラはオリジンコアを使ってるっすし、反転の力で破壊されるのを警戒して、監禁してるとかっすかね」
「以前、キマイラとは別の研究施設に行ったとき、ご主人様が近づくだけでコアを使った人たちに異変が起きたんです。もしかしたら、それを避けるためなのかもしれません」
「それか、フラムは二重の人質っていうか、私たちが逃げたときのための保険にされてるとか?」
想像は尽きない。
どれもありえそうな話ではあるが、確証はなかった。
「うーん……まー、理由はともかく、フラムちゃんが隔離されてるのは間違いなさそうってことで。だから私にも居場所はわかんないんだよね」
「まずは軟禁されてる三人と、連絡を取るところからっすね」
「簡単に言うけど、それが難しいんだよー? 王城の周辺はキマイラががっちりガードしてるから、近づくのも難しいぐらいなんだから」
もちろん、直接、顔を合わせようとは思っていない。
部屋の場所さえわかれば、連絡を取り合う手段がネイガスにはあった。
「こういうときに役立つ魔法があるっすから。そうっすよね、ネイガス?」
そう言いながら、セーラの視線がネイガスの方を向く。
その目からは、確かな信頼が感じられた。
「私、セーラちゃんに頼りにされてる……!」
ネイガスはいつになく燃えている。
とは言っても、ちょっとメモを飛ばすだけなので、そこまでの気合は必要ないのだが。
ウェルシーから紙とペンを受け取った彼女は、早速、伝言を記しはじめる。
「まずは、私たちが脱走したことを伝えるんですよね」
「ええ、でも直接は書かないわ。うっかり他の兵士が見たときに、私たちが王都に潜んでるってことに気づかれたらマズいもの」
「なるほど……そう言えば、私が見た最初のメモも、他の人が見てもよくわからない内容になってましたね」
「そういうとこ、意外と頭は回るんすよね。普段はあんななのに……」
「日頃の行いって大事だよね」
「そうだねえ、中身がもう少しマトモだったらってあたしもよく思ってるよ」
セーラに対するセクハラを見てきたからか、ネイガスの扱いは日に日に雑になっていた。
「私、頑張ってみんなのこと助けたんだけどな……」
「いつもはおらに罵倒されて喜んでるじゃないっすか」
「セーラちゃん以外のは嬉しくないのっ!」
高らかに宣言するネイガス。
他の面々は慣れたものだが、初対面のウェルシーは盛大に引いている。
「……ネイガス、そういうところっすよ?」
「別にいいわよう、セーラちゃんにさえ嫌われなければ!」
もはや、やけくそである。
ミルキットは、包帯の下に温かい笑みを浮かべながら言った。
「あはは……やっぱり、セーラさんとネイガスさんって仲がいいんですね」
「今のやり取りでそう思われるのはなんか嫌っす」
そんな下らないやり取りをしながらも、ネイガスはメモを完成させた。
部屋に満ちていた重苦しい空気はもう無い。
会話内容の良し悪しはさておき、彼女のおかげで結果的に場の空気は明るくなった、ようである。
そしてネイガスは外に出ると、風の魔法で、王城へ向かってメモを飛ばした。
◇◇◇
返事が来るまでの間、ミルキットたちは横になって旅の疲れを癒やす。
慣れない空を飛んでの逃避行は、経過した時間以上の疲労を彼女たちに与えていたらしい。
ハロムは目をつぶるとすぐに母の腕の中で眠り、そしてケレイナも一緒に壁にもたれて意識を手放した。
ミルキットとインクは、二人並んで床に寝そべり、寝息を立てている。
ウェルシーは、ずっと一人で寂しかったのだろう――しばらく彼女たちの姿をみて柔らかな表情を浮かべていたが、いつの間にか釣られるように目を閉じていた。
「ふぅ……」
一方でセーラは、家の外に出て、空を仰ぐ。
東区でもこの一体は被害が少ないのか、景色も、空気も、自分が王都を去ったときとそう変わらない。
懐かしい、どこか澱んだ空気を肺いっぱいに吸い込んで、しばらく会えていない大事な人の姿を思い浮かべる。
中央区の教会はどうなっているだろう。
ティナは元気にしているだろうか。
エドとジョニーは――眼球で異形になってしまった。
あの状態から助かるのは難しいだろう。
親しい誰かが、お墓ぐらい作ってくれているといいのだが。
時間ができたら、いつか墓参りに行きたい。
自分を大事にしてくれた兄たちとの別れを、まだセーラは済ませていないのだから。
「……そういや、インクだったんすよね、あれの正体は」
旅の途中で、インクはセーラに謝罪した。
自分のせいでセーラが王都を追われてしまったこと。
大事な人の命を奪ってしまったこと。
それが彼女の意思でないことぐらい、すぐにわかった。
憎むべきはオリジンだ、彼女がそのために協力してくれると言うのなら、むしろセーラの方から礼を言ってもいいぐらいだ。
だが――
「難しいっすね、それでも割り切るのは」
思うところが無いかと言えば、嘘になる。
インクという人格を憎むことはない。
しかし彼女がエドやジョニーを殺したのは事実で、それを完全に受け入れるには、もう少し時間が必要だった。
「セーラちゃんっ」
突如、青い腕が体を包み込み、柔らかな感触がセーラの背中に押し付けられた。
日常茶飯事なので、彼女がそれに戸惑うことはない。
「ネイガス、寝なくていいんすか?」
魔力の回復のために休憩が必要と言っていたのは、彼女自身なのだが。
「セーラちゃんがいないから、不安になったのよ」
「子供じゃないんすから」
「子供みたいで悪かったわね。でも……ほら、セーラちゃんって、王都に帰る場所があるわけじゃない?」
セーラを抱きしめる両手に、少し力が籠もる。
ネイガスの表情は見えなかったが、さぞ彼女に似合わない顔をしているに違いない。
「いなくなったら嫌だな、と思ったの」
「ほんと、子供みたいっすね」
「誰かを好きになったら、大人も子供もないわ」
「そういう本気っぽいの、むず痒いんでやめて欲しいっす」
「あら、私はいつだって本気よ? ふざけているように見えても、嘘は一度だってついたことないわ」
それは、セーラにだってわかっていた。
二人きりで過ごした時間はそこそこ長く、それに気づかないほど彼女は鈍くはない。
いくら魔族が人間に優しい種族だとしても、誰に対してもここまでべったりなわけではないのだ。
魔族の秘術である、
「ずっと気になってたんすけど、ネイガスって何歳なんすか?」
「何歳に見える?」
「二十代半ばぐらいっすかね」
肌が青いので、正確には判断し辛いが、大体それぐらいだろう。
「あら、若く見えてるのね。実際の年齢はそこからいくつか……」
「何歳か上ってことっすか?」
「いえ、いくつか倍にしたぐらいかしらね」
「倍っすか!?」
つまり、少なくとも五十前後。
下手したら、七十や百の可能性もあるということで――確かに魔族を名乗るぐらいなのだから、それぐらいはあってもおかしくない。
だが、それだけ年上のくせに、セーラに本気というのは、倫理的にマズいのではないか。
「この年齢差で本気って犯罪っすよ」
「人間相手じゃ、誰を好きになったって犯罪みたいなものだわ」
ネイガスは完全に開き直っていた。
だからタチが悪いのだ、セーラが何を言おうと彼女が折れることはない。
「今度からおばあちゃんって呼んでいいっすかね」
「血の繋がりが感じられて素敵な呼び方ね」
「……き、気持ち悪いっす」
「ならやめておきなさい」
本気だったのか、それともやめさせるための方便だったのか。
どちらとも考えられるのがネイガスの恐ろしいところである。
ある意味で、オリジンよりよっぽどおっかない。
「ネイガス、やっぱり声が少し疲れてる気がするっす」
「あら、声だけでわかるなんて」
「ふざけてる場合じゃないっすよ。その、やっぱりおらがいないと……眠れないんすか?」
「ええ、安眠は難しいわ。もっと言えば、抱きまくらになってくれると快眠が保障されると思うんだけど」
「はぁ……仕方ないっすねえ。わかったっす、おらも戻るっすよ」
深い意味などない、ただ室内に入るだけだ。
しかしネイガスにはそれが――セーラが王都よりも自分を選んでくれたような気がして。
“ああ、だから気持ち悪いとか言われるんだ”と自嘲しながらも、喜ばずにはいられない。
「ありがと」
ネイガスは、セーラの耳元で囁く。
やけに色っぽくて、ぞくりとして――感情を置き去りにしてセーラの体は勝手に熱くなる。
それがなんだか恥ずかしくて、彼女はそっぽを向いて、頬を赤く染めた。
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