最終章 そして気ままに暮らすハッピーデイズ

第128話 夢のような現実で

 





 フラムが目を覚ますと、白い天井が広がっていた。

 染み一つない、明らかに上質な壁紙が使われたそこを、じーっと眺める。

 はて、ここはどこなのだろうか。

 彼女の記憶は、我が家の玄関でミルキットと抱き合ったところで途切れている。

 心も体も疲れ果てていたし、あのまま眠ってしまったのだろう。

 だとして――それならなぜ、家の寝室ではなく、こんな見知らぬ場所で寝かされているのか。


 上半身を起こす、周囲を見渡す。

 部屋は無駄に広かった。

 家具一式を置いてもなおスペースが余っており、完全に面積を持て余している。

 いっそ二部屋にしてしまえばいいのに、と思ってしまうほどだ。

 そして、フラムの寝ているベッドも、傍らにある棚も、天井からぶら下がっているランプ――いや、シャンデリアも、どれもこれも高級品ばかり。


「すっごいところに来ちゃってるんだけど……ホテル、じゃなさそう。病院とも違うし、どこなんだろここ」


 やっと終わったと思ったのに、また厄介ごとに巻き込まれてしまったのだろうか。

 フラムはぽりぽりと頭をかく。

 そこでふと気づいた。

 やけに体が軽いことに。

 いや、軽いというか――元に戻った、と言うべきなのだろう。

 頭がぼやっとする感覚も、心臓の痛みも無い。


『さて、それじゃあさっそくおねーさんの治療を始めるっすよ』


 ふいに、セーラのそんな言葉を思い出した。

 そして体をひねって、大きな窓から見える外の景色に視線を向ける。

 どうやらここは一階ではないらしく、大通りの様子を眺めることができた。

 相変わらず密度の高い人ごみだったが、例のパレードのときに比べるとずいぶんと落ち着いている。

 というか、祭りの飾りつけなどもほとんど片付けられていた。


「なるほど、見えてきた。寝てる間に治療ってやつを受けたってことだ、つまりは……大聖堂の中ってことか」


 どんな方法を使ったのかは知らないが、気越一閃プラーナルオーバードライヴの負荷による肉体の損傷は、それで完治してしまったのだろう。

 いや、そんな簡単に治るものとも思えないのだが、自分の体のことを一番よくわかるのはフラム自身だ。


「こんなにすぐ対応できたってことは、セーラちゃん、四年前の時点で私の体に気づいてたのかな」


 あるいは他の誰かが、彼女に進言したか。

 とはいえ、治療は簡単なものではなかったのだろう。

 おそらく数日――下手をすればもっと長い期間、フラムは寝ていたのだと思われる。


「しょっぱなから迷惑かけちゃったなぁ……」


 オリジンを倒して、胸を張って帰ってくるつもりだったのだが。

 いきなり助けられてしまうとは、なかなかうまくいかないものだ。


「ま、そんなもんだよねー。だって私、ガディオさんたちと違って、英雄って呼ばれる器じゃないしー」


 不貞腐れ気味にそんなことを言いながら、再びベッドに体を投げ出すフラム。

 頭が枕の上でぼふっと跳ねた。

 さすが最高級品、沈み具合も絶妙である。

 布団もふかふかで、そのまままた眠ってしまいそうだ。

 さらに差し込む陽の光が絶妙に暖かくて、うつらうつらと、意識が曖昧になっていくフラム。

 すると、誰かがドアをノックした。


「ふぁ? ん……どーぞー」


 気の抜けた声で返事をする。

 さらに彼女は目をこすりながら体を起こした。

 ドアの向こうから現れたのは、セーラとネイガスだ。

 セーラは相変わらず、あのぶかぶかのゴージャスなローブを纏っている。


「目を覚ましたみたいっすね」

「うん、おかげさまで最高の目覚めだった。あとごめんね、迷惑かけちゃったみたいで」


 フラムが苦笑いを浮かべると、セーラは微笑んだ。

 その表情は、どこか安堵しているようにも見える。


「その様子だと事情は把握してるみたいっすね。おねーさんの気の抜けた表情を見られただけで、やってよかったと思えるっす」

「……そんなに気、抜けてる?」

「戦ってるときに比べたらふにゃふにゃっすよ」


 思わず手で触って確かめるフラム。

 その仕草もまた、神喰らいを握って戦っていた頃と比べるとはるかに柔らかになっている。


「そっちの方があなたらしくて似合ってるわよ」

「私もそー思ってる。真面目な顔なんて、表情筋が疲れるばっかりだもん」


 すっかりああいう顔に慣れてしまったので、今でもやろうと思えばいつだって凄める。

 だが、できればそんな表情をしないで済む平穏な生活を送りたいものである。


「ところでセーラちゃん、私が目を覚ますタイミングわかってたような雰囲気だったけど?」

「だいたい三日ぐらいだろうと予測はしてたっすからね」

「そんなのわかるもんなんだ」

「伊達に医療魔術師はやってないっすよ」


 えっへん、と胸を張るセーラ。


「ふっふっふ、これがうちのセーラちゃんの実力よ!」


 そんな彼女に便乗してやたら得意げなネイガスは、言いながらセーラに抱き着いた。

 さらにほっぺたに唇を近づけキスをしようとしている。

 無論、そんな空気を読まないスキンシップをセーラが許すはずもなく、


「ネイガス、大聖堂じゃそういうことしないって約束じゃないっすかー!」


 彼女はネイガスをうっとうしそうに振りほどこうとする。

 しかし、その表情は心なしか嬉しそうにも見えた。

 一連のやり取りも含めて、二人は本当に変わっていない。


「相変わらず仲がいいみたいでなにより」


 一人ほっこりするフラム。


「なによりじゃないっすよ、ここは神聖なる大聖堂なんすよ!?」

「神聖もへったくれも無いわよ、ここはもう宗教絡みの施設じゃなくて、ただの組合の本部なんだから。それに、私たちの関係なんてみんな知ってるわ」

「そういう問題じゃないんすよー!」


 どうやらセーラは、威厳やら何やらを気にしているらしい。

 それもそのはず、彼女は今や医療魔術師を束ねる団体のトップなのだから。


 オリジンが倒された今、教会はもう存在しない。

 今は修道士や修道女たちが中心となり、人々の命を救うための医療団体として形を変えている。

 その見た目からセーラはマスコットとして置物扱いされていると思われがちだが、回復魔法の腕は王国随一で、実務的にも団体のトップに君臨していた。


 じゃれあうセーラとネイガスを微笑ましく眺めていたフラムだったが、ふと誰もいない入り口の方に視線を向けた。

 今日目を覚ますのがわかっていたのだとしたら――なぜミルキットは、ここにいないのだろう。

 いや、そうでなかったとしても、彼女ならここで寝ている間も寄り添っていそうなものだが。


「もしかしてミルキットを探してるの? だったら――」


 ネイガスが何かを言いかけたところで、勢いよくドアが開いた。

 その向こうから現れる、息を切らしたミルキット。


「はぁ、はぁ、はぁ……なんとか間に合い……!」


 そしてフラムと目があった。

 がっくりと肩を落とす。


「ません、でしたね」

「おはよー、ミルキット」


 フラムは手をひらひらさせながら言った。

 その姿を見るだけで、自然と頬が緩む。

 よほど急いで来たのだろう、包帯の隙間から見える肌は紅潮し、汗ばんでいた。


「ご、ごめんなさい、本当は目を覚ます前に戻ってくるつもりだったんですが……」


 フラムが目を覚ます瞬間に立ち会えなかったのがよほどショックだったのだろう、露骨に落ち込むミルキット。

 そんな彼女に対し、フラムは――


「そんなのいいから、ほら」


 再会したときと同じように両手を広げた。


「ご主人様……!」


 ミルキットの目がキラキラと輝く。

 彼女がやりたいことぐらいわかっている。

 三日も寝ていたのだ、目を覚ますことがわかっていても寂しかったに違いない。

 ミルキットは嬉しそうにぎゅーっと抱きついてくる。

 そして所有権を主張するように、頬をすりつけた。


「あぁ、ご主人様はやっぱりすごいです。私が想像していたご主人様よりずっと心が広くて、優しくて……!」

「大げさだなぁ。それを言ったら、ミルキットは私が想像してるよりずっと私のこと好きだよね」


 二人の腕が、互いの背中に回される。

 すっかり置いてけぼりにされたセーラとネイガスだったが、もちろんそんなことは想定の範疇だ。

 落ち着いた様子で抱き合うフラムとミルキットを眺めている。


「セーラちゃんもあれぐらい熱烈だったらいいのに」

「家じゃそれなりに甘えてるつもりっすけど……」


 セーラは頬を赤らめながら言った。

 この四年のうちに二人は一緒に暮らすようになったが、実際、二人きりのときの距離はかなり近い。


「もっと人目をはばからずに! 恥を捨てて!」

「だからそういうのが無理って言ってるんすよぉ!」


 要するに、セーラは恥ずかしがりやなのだ。

 決してネイガスのことを想っていないわけではなく、知り合いの多いこの街で無防備に甘える姿を見せたくない、それだけである。


「せっかく戻ってきたのに、寂しい思いさせちゃったね」

「以前に比べれば、そこにご主人様がいてくれるだけで十分です」

「あ、やっぱりずっと傍にいてくれたの?」

「もちろんです。ずっと手を握って、ご主人様がここにいる幸せを噛みしめてました」

「夜は一緒に寝てたっすね」


 セーラに言われ、赤面して俯くミルキット。

 なかなか熱烈な看病である。

 とはいえ、今更それでどうこう言うような関係ではないが。

 むしろ、一時も離れたくないという想いを強く感じて、フラムはうれしくなってくる。


「今日からずっと一緒になのに、我慢できなかったんだ」

「できるはず、ありません……」

「そりゃそうだよねぇ、逆の立場でもそうしてたと思う」

「ご主人様もですか? ふふ、嬉しいです。でも、寝ているときは満足していましたが、こうして話していると、やっぱり、目を覚ましたご主人様の方が何百倍もいいですね」

「おしゃべりとかしたいもんね」

「そう、ですね。他にも……色々と、したいこともありますから」


 他にもって何だ――と今度はフラムの頬が赤らむ。

 体温の上がった三人ほどの少女のせいで、心なしか部屋の温度が上がった気がする。

 ネイガスはわざとらしく「熱いわねぇ」と手うちわで顔を扇いだ。


「はしたないと思われるかもしれませんが……四年も、待ち焦がれました。そこから三日も、おあずけされてしまいました」

「おあずけって……」

「たぶんその分、私、欲張りになっていると思います」


 至近距離で向けられたミルキットの瞳は、熱く濡れている。

 四年という月日は二人の年齢を逆転させていて、今の彼女は十八歳だ。

 包帯の下を見ていないので何とも言えないが、顔つきが前より少し大人びていることだけはわかる。

 そして最大の変化は、顔より体つきの方で――今も、フラムの体にはやわらかな胸が押し付けられている。

 元々、彼女の体が細かったのは、長年栄養不足だったからで、それが改善されれば本来の彼女の体型に戻る。

 それが、今のミルキットなのだろう。

 そんな彼女に、フラムが同性ながら艶めかしさを感じてしまうのは、何もおかしなことじゃない。


(私とミルキットは恋人なんだしね、そこで戸惑ってどうするんだか)


 今までミルキットに感じてきた感情とは少し違う形をしている。

 だが、それだけだ。

 恋をしているのなら、愛しているのなら、あって当然のもの。


「なら私も、安心して遠慮せずにミルキットのこと愛せるね」


 ミルキットの頬に手を当てて、フラムはそう告げた。

 その手の上から、柔らかく、暖かな掌が重ねられる。


「軽蔑、しませんか?」

「恋人に求められて軽蔑する人なんている? いたらそいつは恋なんてしてないね」

「きっといると思います、でもご主人様は違うんですね。どんな私でも、大らかな心で受け入れてくれる。だから私は、ご主人様に身も心も全てをささげたいと思うんです」


 そう言うと、ミルキットはフラムの瞳をじっと見つめた。

 フラムも無言で視線を絡める。

 二人の間に言葉はなかったが、おそらく心と心で通じ合い、会話を交わしていたに違いない。


「いきなり最高速で見せつけてくるっす、さすがおねーさんたちっす」

「あの十分の一の大胆さがセーラちゃんにあれば……!」

「だから、家ではくっついてるじゃないっすか」

「違うのよ、距離じゃないわ、あの言葉よ。甘い愛の言葉を耳元でささやき、見つめあう。私が欲しているのはそういう――」

「あんな歯の浮くような言葉、おらには思いつかないっすよぉ。ネイガスは言えるんすか?」

「私はほら、体で語り合うタイプだから」

「ただの変態っすよそれ」


 別にフラムとミルキットも特別意識しているわけではない。

 相手のことを想うと、自然とそういう言葉が溢れ出てくるのだ。

 そして止められない。

 感情が強く背中を押して、止めどなく流れ出る。

 結局、そのまましばらくフラムとミルキットは見つめあい――今後の説明をセーラが始めたのは、それから数十分後のことだったという。




 ◇◇◇




 セーラの話を要約するとこうだ。


 四年前の時点でフラムの体の異変には気づいていたが、消耗しているのが心臓と脳ということまではわかっていなかった。

 それを調べるため、彼女は王都で焼失せずに残っていた騎士剣術キャバリエアーツに関する資料を漁ったのだという。

 すると文献の中に、『理論上にのみ存在し、使用できたものは誰もいない』と言われる奥義を見つけたそうだ。

 それこそが、気越一閃プラーナルオーバードライヴ


 フラムの肉体に起きた異変の原因がはっきりすると、セーラはそこから彼女を癒すためだけの魔法の研究を始めた。

 もちろん一人ではない。

 ネイガスはもちろん、ティナを始めとしたセーラの同僚である修道女や、エターナやジーンまで、さらには魔王として忙しく働くシートゥムも、職務の合間を縫って参加してくれたそうだ。

 それでも、心臓はともかくとして、脳細胞の再生には手間取った。

 結局、魔法が完成したのは、半年前だったのだという。

 もしもフラムが去年戻ってきていたら――体を治癒する術はなく、衰弱し、命を落としていたのかもしれない。


 治療が終わったとはいえ、フラムの体は万全ではない。

 ひとまず、今日は家に戻っていいことにはなったが、少なくとも一か月は運動を控え、安静に過ごすよう注意を受けた。

 言われずとも、彼女は元からそのつもりである。

 今までずっと戦い詰めだった、それなら一か月ぐらいは何もせずぐうたらしたってバチは当たらないはずだ。

 それに――今のフラムは、オリジンとの最終決戦の状態のまま。

 つまり100万を超えるステータスを維持した状態である。

 仮に軽く体を動かしたところで、ちょっとやそっとのことで倒れたりはしないだろうが。




 ◇◇◇




 その後、いつの間にか着せられていた寝間着から、普段のシャツとショートパンツに着替えたフラム。

 なんでもそれは、彼女が戻ってくるときに備えて、ミルキットが自分で作ったものらしい。

 プロが作ったものと遜色ない出来に、彼女の手先の器用さを改めて感じるフラム。


 なにはともあれ、それを着て大聖堂の外へ。

 ミルキットと手をつなぎ、家路につく。


「おー、オティーリエだ」

「なんですの、その珍しい生き物を見つけたような言い方は」


 そこには、髪を下ろし、ずいぶんと落ち着いた印象を受けるオティーリエが立っていた。

 彼女がいるということは、当然その隣にはアンリエットもいる。


「なんか顔つき柔らかくなった?」

「戦場を離れたのでそう見えるのかもしれませんわね」

「軍、辞めたんだ。じゃあ、今はどういう立場でアンリエットさんと一緒にいるの?」

「今は私の個人的な秘書をしてもらっている」

「仕事でもプライベートでも支えさせていただいておりますわ」


 それは四年前から進んでいた話だ。

 王都の壊滅でうやむやになってしまったが、戦いが終わり、復興が進んできた頃にアンリエットから切り出した。

 軍をやめて、自分の傍にいてほしい、と。

 オティーリエが歪んでしまったのは、元をただせばアンリエットが中途半端な態度を取り続けてきたせいだ。

 それは彼女なりの、責任の取り方だったに違いない。

 オティーリエとしても断る理由などなかった。

 軍に入ったのだって、アンリエットを追いかけるためだ。

 それが、今度は向こうから自分に近づいてきてくれたのだから、むしろ願ってもない提案である。


「ふぅん、前よりうまくいってる感じがするね。それで、なんで二人が私たちを待ってたの?」

「ひょっとして、護衛でしょうか」

「そういうことだ」

「護衛? 私に? 確かに安静にしてとは言われたけど……」

「体だけではない。フラム、君は有名人なんだ、何の対策もせずに街を歩けば、すぐに人だかりができてしまう。だが、軍人が周りを固めていれば野次馬が近づいてくることもないだろう」

「そんなことになるのかなぁ」


 言われても、あまり実感はわかない。

 なにせ、フラムがそこらを歩き回っても仮装扱いされるぐらいだったのだから。


「アンリエットさんの言う通りだと思います。私ですら、それなりに声をかけられますから」

「ミルキットが? 単純に可愛くてナンパされたとかじゃなく?」

「有名人でもなければ、そんな包帯ぐるぐる巻きの女性に声をかけたりはしませんわ」

「わかってないなぁ、それが可愛いんじゃん」


 ただののろけである。

 オティーリエは大きくため息をついた。


「かつては奴隷紋と呼ばれたその印も、今では英雄紋扱いだ。その原因はフラム、君にあるんだぞ?」

「ああ、そういやそんなこと言ってる人いたっけ……」

「そのおかげで実質奴隷制度は消えたようなものですし、自分の影響力は早いうちに理解しておいた方が、後々厄介なトラブルに巻き込まれずに済みますわよ」

「いまいちピンとこないけど……まあ、気を付けとく」


 奴隷紋改め英雄紋を触りながら返事をするフラム。

 彼女にとってそれは、相変わらず辛い記憶を思い出すものでしかない。

 ジーンを多少は許せたことで、その苦痛も和らいではきたものの、英雄紋と呼ばれて素直に喜べるものでもなかった。


「それでミルキットが生きていきやすくなったんなら、いいのかな」

「私がどうかしましたか?」

「ううん、なんでも。そういや、セーラちゃんたちも一緒に来るって言ってたんだっけ」


 言いながら、大聖堂の方を振り向くフラム。

 するとそこからちょうど、着替えたセーラとネイガスが出てきた。

 セーラが着ているローブは昔の質素なものに近く、こうなるとますます四年前と違いがない。


「お待たせしたっす。アンリエットさん、オティーリエさん、お手数かけるっすけどよろしくっす」

「今や名ばかりとなった軍人にとって護衛は貴重な仕事です、きっちりこなしてみせましょう」


 恭しく頭を下げるアンリエット。

 セーラは気まずそうにしているが、今の彼女は間違いなく王国における権力者の一人である。


 魔族との対立も終わり、オリジンも消え、王国軍はその役目を失いつつある。

 今は神の血脈のような新しい社会に馴染めない者たちがいるため、治安維持のため比較的忙しく動き回っているが、それもやがて落ち着くだろう。

 周辺貴族に威厳を示すため、と言っても、それもフラム一人がいれば事足りる問題である。


「ところでさ」


 歩き始めたフラムは、ふいにセーラたちに尋ねる。


「一緒に来てるってことは、家に何か目的があるの?」


 経過観察のためとはいえ、いくらなんでも家まで来るのは過保護すぎないだろうか。

 単純に遊びに来るため――だったらそう言えばいいし、セーラとネイガスの住処はこの大聖堂の近くなので、帰宅ついでに立ち寄る、といった雰囲気でもない。

 別に何かを疑ったわけではないのだが、何となくフラムは気になってしまったのだ。

 そしてセーラは、


「ぎくっ」


 とあまりにわかりやすい反応をした。

 まさか口でそんなことを言う人間が実在するとは思わなかったので、逆にフラムの方が戸惑う。


「ねえフラム、嘘がつけないセーラちゃんってかわいいと思わない?」


 話をそらし誤魔化そうとするネイガス。

 ……いや、彼女の場合は素で言っている可能性も十分にありうるが。


「もしかして、聞かない方がよかった?」

「……お、おらは、何も知らないっす」


 目をそらし、明らかに嘘をつくセーラ。

 そして興奮するネイガス。

 どうやら、触れてはいけない話題だったらしい。


「うん、わかった、忘れたことにする。セーラちゃんの名誉のために」

「できれば、そうしてあげてください」

「ううぅ……」


 へこむセーラに、苦笑いを浮かべるミルキット。

 フラムにはだいたい事情が理解できてしまったが、何も知らない体で、そのまま歩き続けた。


 それにしても、何もかもが平和すぎる。

 自然と頬が緩んでしまう。

 意識を失っていたフラムにとって、あの死闘は、せいぜい数時間前の出来事だというのに。


(世界に満ちる空気って、こんなに柔らかくて、軽かったんだ……)


 肺に満ちる酸素一つ取っても、まったく違う。

 呼吸が軽い、生きていても苦しくない、常に胸にまとわりつくような不安が、どこにも見当たらない。

 それが、フラムの勝ち取ったものだ。

 彼女のおかげで、世界が得たものだ。


 落ち込むセーラも、荒ぶるネイガスも、それを暖かく見守るオティーリエとアンリエットも、そして――手を繋いだだけで幸せそうに微笑むミルキットも。

 全てが平和で、全てが光り輝いて。

 生まれ変わった世界の暖かさに、堪えきれずフラムは「ふふっ」と吹き出すように笑った。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る