第115話 せめて、今だけは

 





 かき消されていく“幻の王都”。

 侵食された現実が元の田舎村へと戻っていく様子を、エターナやミルキット、村人たちは呆然と見ていた。


「なぜだっ、なぜカムヤグイサマの領域に奴は踏み込めたんだ!?」


 戸惑うファースの住民。

 彼らの認識の中ではカムヤグイサマの作り出す神の領域は絶対だ。

 それが揺るがない限り、シアの“夢想”で作り上げられたそれも絶対に突破はできないはずだった。


「ヒューグ、これ以上あんたの好きにはさせないッ!」


 刹那の再会で活力を得たフラムは、ヒューグの懐に接近し神喰らいを薙ぎ払う。

 しかし彼も伊達に騎士団長を名乗ってはいない。

 切断された腕――そして傷口を腐らせる呪いの苦痛に顔を歪ませながら、後退し斬撃を回避する。


「理解できない。どうしてだ、神は絶対だと語りかけてきたじゃないか、なあヒューグ。いいやお前は誰だ? わからないがありえない!」


 カムヤグイサマの力を取り込んだのは、決してヒューグの意思ではない。

 村人たちが彼が神の化身であることを望んだ――いや、そう思い込んだ・・・・・からこそ実現した一体化である。

 理屈では説明できない現象ゆえに、今のヒューグの肉体がどのような状態なのか、誰にもわからない。


「痛い、痛い、これは誰の痛みだ、なあヒューグ。いいやママ! ああ、ママはどこにもいない! お空にママがいないいぃぃっ! だったら僕は、私は誰なんだっ、どこから生まれてきた、誰に望まれてきたッ!? 教えろ、教えてくれ、フラム・アプリコット!」


 しかし、瞬きも忘れ取り乱す彼を見るに、悪影響を与えているのは間違いないだろう。

 さらに腕の腐敗は進み、肩にまで及ぼうとしている。

 本来、彼の“数多の、あらゆる動物の死体を取り込んだ腕”は、斬られた程度ではダメージは与えられない。

 即座に、体内に飲み込んだ別の死体が補充され、再生してしまうからだ。

 だが、呪いのせいでそれすらできない。


「ぐ……ああぁぁああッ!」


 ゆえに彼は、自らの腕を、正常な方の手で引きちぎるしかなかった。

 そうやって、腐敗を進行させる神喰らいの呪いを止めるしかないのである。

 そして呪いから解放されると、ようやく新たな肉の腕が、じゅるりと生えてくる。


「あぁ……ママが……消えた……俺を肯定してくれたママが……悲しいよなあヒューグ、そうさ悲しいんだ。なぜだ、なぜこの世界は僕に夢すら見せてくれない!」

「何を言ってるのかは知らないけど――そんなに悲しいなら、自分でママのところに行けばいいじゃない!」


 フラムは急速接近し、神喰らいを切り上げる。

 再び後退し避けるヒューグ。

 そして着地と同時に、腕が剣のように尖った形に姿を変えた。

 今度は彼の方から近づき、フラムを袈裟斬りにする。

 彼女は大剣を振った勢いでくるりと回り、振り返ると同時に繰り出された刃で、ヒューグの腕を受け止めた。

 力同士がぶつかり合い、ゴオォッ、と周囲に風が吹き荒れる。

 パワーは互角――だがヒューグが剣を振るったことにより、正義執行ジャスティスアーツ浄化の刃スコッチメイデンが発動する。

 フラムの首を狙って繰り出される透明の刃。

 彼女は両手で握っていた神喰らいから片手を離すと、


「づ、あァッ!」


 ガントレットでそれを受け止め、力ずくで軌道をそらした。

 さすがにヒューグも腕でガードされると思っていなかったのか、次の対応が遅れる。

 その間に、フラムは真上から刃を叩き込む。

 ヒューグはまたしても腕でそれを受け止めたが、受け身であるがゆえに浄化の刃スコッチメイデンは発動しなかった。


「はあぁぁぁあああああああ!」


 両腕で剣を押し込むフラム。

 少しずつ後ずさるヒューグの腕。

 上さえ取れれば、力勝負では彼女の方が上だ。

 しかし、それだけでは神喰らいが神の領域を突破することはできない。

 傷さえ残せればあとは呪いで勝手に腐敗していくが、今はまだ、そこまで達していなかった。


 カムヤグイサマの力は消えたわけではない、いまだ健在だ。

 確かにフラムの神喰らいは、神の領域を突破する力を持っている。

 しかし、攻撃は当たるようになっても、オリジンコアを取り込んだヒューグ自身の丈夫さと、そして障壁のような形でフラムの攻撃を阻害する“領域”が健在なのだ。


 コアを取り込んだヴェルナーがあれだけの強さだったことを考えると、普通の人間だった頃からオティーリエやガディオに匹敵する力を持っていたヒューグは、さらに強力になっているはず。

 このまま一対一では、フラムも苦戦するだろう。

 だが魔力が尽き、民家の壁を支えにして立つのが精一杯のエターナは、少し離れた場所からその戦闘を見守ることしかできず、悔しげな表情を浮かべていた。

 今の彼女にできることは、せいぜい『神喰らいがなぜカムヤグイサマを取り込んだヒューグに傷を負わせることができたか』、その理由を考察することぐらいだ。


「ねえエターナ、この声、フラムだよね!?」


 そんなエターナの手を握りながら、インクが言った。


「うん、文字通りミルキットの危機に飛んできた。そして――どうしてカムヤグイサマが“現実を侵食する”なんて馬鹿げたことを出来たのか、魔力をどうやって調達したのか、その答えがわかった」

「え、なんでだったの?」


 首をかしげるインク。

 エターナは苦笑しながら答えた。


「今のフラム、スキャンでステータスを見てみたら、どういうわけか全部三万近くになんてとんでもない数値になってる。装備を含めると、たぶん五万ぐらいになると思う」

「ご、ごまん……?」


 エターナの一万でも十分に化物レベルである。

 その五倍なのだから、もはや考えるまでもなく常識の範囲を超越している。


「それに、たぶんまだ他に仲間もいると思う。さっきのフラムは、飛んできたというより、誰かの風魔法あたりで飛ばされたって感じだったから」

「ミルキットがここにいることを知ってたってこと?」

「それはわからない。知ってたかもしれないし、フラムなら勘だったとしても驚かない」


 体内にミルキットレーダーを仕込んでてもおかしくないぐらいだ。

 あるいは、ミルキットの体内にフラムを呼び寄せる何かが備わっているか。


「でも問題はそこじゃない。フラムを飛ばしてくれる仲間がいるという部分」

「風魔法ってことは……」

「たぶんネイガスか、ジーンあたり。その他の誰かである可能性もあるけど」


 今のエターナには、ネイガスはともかくジーンがフラムに協力しているという光景が想像できなかった。

 それでも一応候補にあげたのは、彼が何を考えているのかさっぱりわからないからだ。

 しかし、ここまで聞いてもインクにはよくわからない。


「エターナ、それのどこが“カムヤグイサマがとんでもない力を持っている”って部分につながるの?」

「カムヤグイサマは最初、シアの持つ“夢想”の能力によって具現化し、信仰している村人たちから少しずつ魔力を拝借して、彼らの望む形でこの世に姿を現していた」

「うん、だから村人が『ヒューグはカムヤグイサマの化身だ』って思い込んだら、本当にそうなっちゃったんだよね」


 ヒューグが一体化した理由はそれだ。

 しかし村人にも困ったものである、いくらカムヤグイサマの存在に依存しているとはいえ、『姿が似ている』という理由だけでそんな勘違いをしてしまうとは。

 迷惑極まりない。


「つまり、カムヤグイサマの存在を信じた時点で、信じた人間の魔力の一部がカムヤグイサマに注がれてしまうということ」

「……あ。ってことはもしかして、フラムたちからも魔力が供給されてたの!?」

「そういうこと」


 フラムたちは王都で、実在するカムヤグイサマを見てしまった。

 その時点で、信仰する村人同様に魔力を吸われていたのである。

 5万を越える魔力――それが一部とはいえ流れ込めば、村人全員を束ねるよりも遥かに多い量になる。

 そこにネイガスやジーンまで加わったとなれば、多少の無茶はきいてしまうだろう。


「だけど一方で、それはフラムの想像がカムヤグイサマに反映されるということでもある。大量の魔力を提供していることを考えると、その影響は大きい」

「じゃあさっきフラムが言ってた、『この剣が神喰らいを名乗るのなら、神を殺せないはずがない』って言葉が、カムヤグイサマに影響を与えたってことなんだ」

「たぶんそう」


 つまり、神喰らいに神を殺す力があったのではなく、フラムの想像によってカムヤグイサマに『神喰らいで神の領域は突破できる』という設定を加えてしまったのである。

 もっとも、“呪い”や“反転”が神の領域に通用しない・・・・・と言い切れるだけの確証も無いのだが。


「それって、フラムたちが『カムヤグイサマは魔法で作り出されたもので実在はしない』って思えば、カムヤグイサマは力を失うってことだよね」

「そうもできるけど、この場合、もっといい利用方法があるかもしれない」

「もっといい?」


 エターナはまだ体力が戻っていないのか、「ふぅ」ときつそうに息を吐き出してから言った。


「想像が事実になるのなら、『カムヤグイサマは弱い』って信じ込ませて、ヒューグごと弱体化させればいい。そうすれば、カムヤグイサマごとあいつを倒すことができる」

「それは無理じゃない? だって、あの村人たちカムヤグイサマがすごい神様だって信じ込んでるよ」

「確かに今までは無敵の神様だったかもしれない。けど、彼らはついさっきフラムの剣に斬られるところを見たばかり。心が揺らいでる今なら、認識を変えることもできるかもしれない」


 だがあくまで、それは可能性の話だ。

 実行するには、手段が足りない。


「問題は、どうやってあの村人たちに声を届かせるか」


 奇妙な化粧を施した彼らは、フラムとヒューグの戦闘を遠巻きに眺めていた。

 もちろんエターナの声はここからでは届かないし、いちいち近づいて『カムヤグイサマは弱いぞー』と言って回れば相手は間違いなく怪しむだろう。


『聞こえタかい、ミルキットちゃん』

「は、はい……ですがライナスさん」

『おっと、俺はライナスじゃねえ。通りすガりの風の旅人だ』

「はあ。では、風の旅人さん。なぜ私なんですか?」


 風に乗って聞こえてきた声と会話をするミルキット。

 どうやらそばにいるシアにも聞こえているらしく、彼女は「え、え、誰?」と戸惑っている。


『ミルキットちゃん以上に、フラムについて語れる人間なんテいないだろう?』

「……それはそうですが。村人たちを説得するなんてこと、私にできるでしょうか」

『要するに、フラムとあの武器がどんだけカムヤグイサマに有効か、村の連中にプレゼンしてもらえばいイわけだ。なんだったら、ご主人様がいかに素晴らしいかを語ってもらうだけでモいい。どうだ、それならできるだろう?』

「それなら、いくらでも」


 説得は無理でも、フラムがいかに素晴らしいかを語らせば、二時間でも三時間でも余裕だ。

 フラムは現在進行系で、ヒューグと剣を交わらせている。

 実力はほぼ互角。

 すなわち、カムヤグイサマの力さえ奪うことができればフラムの勝利である。


『フラムの勝ちはミルキットちゃんにかかってる』

「はいっ」


 自分の声がフラムを勝利に導けるのなら――と俄然やる気になるミルキット。


『いつでモいいぞ。思いの丈を存分に、事実を虚実を織り交ぜて、あいつらにぶちまけてやるといい!』


 ミルキットは「すぅ」と息を吸って、呼吸を整える。

 前方には、勇敢に戦う主の姿。

 これまでその背中に何度守られてきたことか。

 その腕に何度抱かれ、救われてきたことか。

 奴隷として生きてきた彼女には、語彙力と呼ばれるものはあまり無いかもしれない。

 だが、どれだけ学が無かろうとも、フラムを称える言葉だけはいくらでも浮かんできた。

 たとえそれが妄想やでっちあげの類のものだったとしても――である。


『みなさん、聞こえますか?』


 まずは試すように、控えめな声でミルキットがそう口にした。

 すると遠くにいる村人たちは怪訝な表情でキョロキョロとあたりを見ている。

 ちゃんと聞こえている、そう確信した彼女はさらに言葉を続けた。


『あの黒い剣――神喰らいには、神を殺す力があります。元はオリジンを殺すために作られた剣ですが、カムヤグイサマとて例外ではありません。その力の前では、神の領域などという子供だましは通用しないんです』

「神喰らいだと……?」

「そんなものが存在するはずがない、カムヤグイサマには何人たりとも触れることはできん!」


 ざわつく村人たち。

 だがこれしきの説得では心は変わらず、フラムとヒューグの戦闘に変化は無い。

 フラムの繰り出す連撃――ミルキットにはもはや同時に打ち込まれたようにしか見えないそれを、ヒューグは自らの腕で全て受け止める。

 そしてすぐさま心臓をえぐるように、彼女に腕を伸ばした。

 体を傾け避けるフラム。

 続けて襲い来る首狩りの刃を、体を仰け反らせ避ける。


『それに、剣を振るっているあの女性は、かの英雄フラム・アプリコットです!』


 ミルキットがその名を口にすると、村人たちはざわめきだす。

 魔王討伐の旅に出て、さらに王都でマザーと呼ばれる化物を打ち倒した英雄――その名前ぐらいは知っている。


『ごしゅ……え、英雄フラムは、この世界から人類や魔族を滅ぼそうとするオリジンと、文字通り身を削りながら戦い続けてきました。いわば、彼女自身も神殺しの英雄と呼べるでしょう。いいえ、呼ぶべきです! 神殺しの英雄と、神殺しの剣――その二つの力が合わされば、どんな神様だって怖くありません!』


 無論、ミルキットはたった今フラムと再会を果たしたばかりで、あの剣に関しては『名前が神喰らいであること』ぐらいしか知らない。

 その情報だけを頼りに、それっぽい理屈を並べているだけである。

 しかし、現実として触れられないはずのカムヤグイサマの化身と、互角に戦うフラムの姿がそこにあるのだ。

 ミルキットのでっちあげは、ある種の説得力を持って村人たちの心を揺らす。


「フラム・アプリコットだと……王都を救ったと言われる英雄じゃないか」

「俺は似顔絵を見たことがあるぞ。確かにあの頬の奴隷の印といい、顔がそっくりだ!」

「本物なのかもしれないわ、だからああやってカムヤグイサマの化身と戦えているのよ」

「じゃあ、あの剣が神殺しの力を持っているというのも事実なのか……なんてことだ、僕たちのカムヤグイサマが傷つけられてしまう!」


 そして彼らの『カムヤグイサマは神喰らいには勝てない』という想像は、具現化され、一体化したヒューグの肉体に反映されるのだ。


「はあぁぁぁぁああッ!」


 拮抗する鍔迫り合いに異変が生じる。

 今まで“神の領域”で防げていた刃が、じわじわとヒューグの腕に沈み始めたのだ。

 生じた傷から呪いが入り込み、肉は茶黒く腐敗を始める。


「ぐ……あ……!」


 苦しげな表情を浮かべるヒューグ。

 注ぎ込まれた呪いが与えるダメージは、単純な痛みだけでない。

 脳に響き渡る呪詛が、彼の心をも削っていく。


「僕は誰だ、お前は誰だ、ヒューグ、なあヒューグは誰なんだ? 誰なんだ、誰なんだ、誰なんだぁッ! 教えろよフラムウゥゥゥ!」


 脳内に同居する、ヒューグとカムヤグイサマと呪い。

 元より自己の存在意義が曖昧だった彼の精神は、異物が入り込んだことでさらに破綻していく。


「そんなもん、自分でどうにかしろってのッ!」


 神喰らいの刃が、ヒューグの腕を切断した。

 彼はすぐさま呪いに侵食されないよう自らの腕を引きちぎり、また新たな腕を生やす。

 ヒューグの腕が巨大で無尽蔵に再生できるのは、つまりそれだけの数の死体を体内に取り込んできたということである。


「はあぁ……あぁぁ……悲しいよぉ、おおぉ……悲しいんだよぉ、私は……! なあヒューグ、どうして、どうして僕はいつまでも僕になれないんだ……! ただ俺は俺でありたいだけだ、気持ちよく生きたいだけなのに、みんなが否定するんだよ、酷いよなあヒューグ!? だから、せめてママだけでもって、ママさえいれば!」


 だが、心が壊れたと言っても、元からぶっ壊れているので、傍から見れば大差はないのかもしれない。

 あるいは――本当に、変わっていない可能性だってある。


「私にはあんたが、“自分が異常であること”を理由に好き勝手に暴れたいだけの人間としか思えない」

「ママあぁ、ママぁぁぁあ!」

「そうやって、自分にとって都合の悪いことを排除して生きてきたんでしょ? だったらその迷いは誰のせいでもない、ただの自業自得だよ」

「ママあぁぁぁぁぁああああッ!」


 叫ぶヒューグ。

 真実はさておき、フラムにはそれが、大声で不都合な現実から目を背けようとしているようにしか見えなかった。

 もはや――いや、最初から言葉なんて無意味だ。

 剣を握り直し、彼女はその場でヒューグの方へ刺突を放つ。

 射出される鋭いプラーナの弾丸、すなわち気穿槍プラーナスティング

 彼は相変わらず「ママぁ!」と叫びながら体を傾け回避する。

 そこにフラムは気剣斬プラーナシェーカーを十字に二発射出。

 ヒューグは飛び上がりながら避けると、突如その腕が細い無数の触手へと形を変え、取り囲むように彼女を襲った。


「フラムさん、私が」


 リートゥスがフラムに声をかけるが、彼女は首を振った。

 この程度なら自力で避けきれる、と。

 有言実行。

 飛び跳ね回りながらその全てを、かすり傷一つ残らず完全に回避する。

 そして着地した瞬間――フラムを取り囲むように無数の透明の刃が現れ、一斉に首目掛けて殺到した。

 つまり、ヒューグの放った触手一つ一つが一回の攻撃としてカウントされ、回数分だけ浄化の刃スコッチメイデンが発動したのだ。

 絶妙なタイミングで放たれたそれは、フラム一人の力でくぐり抜けるのは不可能であった。

 それぐらいは最初からわかっている。

 だから彼女はここまで、リートゥスの力を温存していた。


「リートゥスさん、今ッ!」

「行きますっ!」


 フラムの背中から黒い腕が伸び、周囲の木や民家に捕まり、彼女の体を持ち上げた。

 空中で体勢を持ち直したフラムは、足の位置にプラーナで板を作り出し、それを踏み台にしてヒューグを急襲する。


「はあッ!」


 その一刀は、彼の不浄なる右腕――ではなく、生身の左腕を切り落とす。

 すると傷口は捻れ、次の瞬間には右腕と同じように、無数の動物のパーツを固めた異形の腕が生えていた。

 斬り抜けたフラムは、着地と同時に体を反転させ、ヒューグの背中に襲いかかる。

 彼は振り向くと、両手を交差させてその斬撃を受け止め喚く。


「ああぁ、自分がわからなくなる、誰かが入ってくる! なあヒューグ、ヒューグはどこにいるんだっ!? こんなに俺は私を探していたのに、なのに、誰も、誰も助けてくれない、誰も私を助けてくれなかった、そうだろうヒューグッ! 僕はただ!」

「んなこと言いながら、あんたはもう十分に好き勝手に生きてきたじゃないッ! 何人もの人間を傷つけて、殺して! それでも足りないって言うんならっ――」


 両手で押し込むと、ヒューグはよろめき後ずさる。

 そこでフラムは、ギャンブルではなく確信を持って懐に入り込み、腹部にを叩き込んだ。


「この世界に、お前が生きていく居場所なんて無いッ!」


 右手のガントレットが消える。

 そしてフラムの肘あたりで反転の力が爆ぜると、手首の皮膚を突き破って骨が射出された。


「てええりゃあああッ!」


 つまり、肉体を使ったパイルバンカーである。

 骨の杭はヒューグの腹部を貫通し、その衝撃で彼は吹っ飛んだ。

 一方のフラムは、痛みこそあるものの、神喰らいにより射出した次の瞬間には傷がふさがっていた。

 ついに剣ではなく、素手でもダメージを与えてしまった――村人たちの動揺はさらに広がる。


「カムヤグイサマは偉大なる神だ、どんな敵からも我らを守ってくれるのでは無かったのか!?」

『偉大なる神だからこそです。その神が強ければ強いほどに、神殺しの力は強力になります!』

「私たちの信仰が裏目に出たっていうの……」

「信じれば信じるほどカムヤグイサマが傷つくなんて滅茶苦茶だ!」

『ですが事実です。見てください、英雄フラムの影響でカムヤグイサマの化身は動きが鈍ってきています』


 実際のところは、単純に体にダメージを受けてふらついているだけだ。

 しかし村人たちが一斉にそう認識したことで、ヒューグの体は、重りをくくりつけられたように重くなる。


『斬れば斬るほどに神喰らいはカムヤグイサマの力を食べて、奪っていくんです』

「あの剣にそんな力が……!」


 そんなものは無い。

 無くても、想像によって事実に変わる。


『こうなった英雄フラムはもう手がつけられません。たとえこの場に世界を滅ぼすほどの力を持った神様が襲ってこようとも、見事勝利を掴むことでしょう!』


 誇らしげに言い切るミルキット。

 この頃には、もう彼女の頭の中に“村人を説き伏せる”という意識は無かった。


『だって、英雄フラム……いえ、ご主人様は、いつだって勇敢で、かっこよくて、でも可愛かったり、茶目っ気があったり、弱かったりする一面もあって、それでも勇気を振り絞って私を、そしてみんなを守ってくれる、世界一の英雄なんですからっ!』


 もちろんその声は、フラムにも届いている。

 ああ、本当はいますぐにでも抱きしめて、抱きしめて、二度と離したくないほどにミルキットのことが愛おしい。

 だがそれは、ヒューグを倒してからだ。

 彼のことをミルキットと自分のスキンシップを妨げる壁だと思うと、さらにフラムの闘志がみなぎる。


「ぶった斬れろ、ヒューグッ!」

「お、おおぉ……何なんだ、これは。俺じゃない、俺じゃない、俺じゃないッ、こんなのは俺じゃないぃ!」


 腹部を押さえたヒューグがよろめくと、フラムの繰り出した気剣斬プラーナシェーカーが肩を掠める。

 続けてもう一撃――今度は避けきれずに手で受け止めるが、もはや神の領域は効果が無い。

 突き出した右腕が吹き飛ばされ、傷口の腐敗が始まる。

 呪いの侵食を止めるため、切り離される断面。

 そして腕の再生が始まるが、それより早くフラムの剣が襲い来る。


「せえいッ!」


 彼は振り下ろされた刃を、左腕で受け止めた。

 しかし切り落とされ、続けて側方からの攻撃を再生したばかりの右腕でガードするも、無残に斬り飛ばされる。

 防ぎきれなかったプラーナの刃が、彼の胸元に横一文字の傷を刻む。


「こんな……場所で……」

「ふッ!」


 今度は刺突。

 ギリギリ再生が間に合い、左腕を犠牲に心臓を守る。

 貫通したプラーナの矢が、肺に穴を空けた。

 腕ならば腐っても切り離せばいいが、胸はそうはいかない。

 その傷口から与えられるのは、赤熱した鉄のミミズが体内を這いずるような、吐き気を伴う痛み。

 さすがの彼も、胸元を押さえながら苦悶する。


「死にたく、ない。まだ、やりたいこと……が、たくさん……!」

「さんざん好き放題やってきたくせに、被害者ぶるなっ!」


 また再生した腕が切り落とされる。

 もはや文字通り手も足も出ない状態となったヒューグは、怯えるような表情を見せながら――しかし、その目にまだ殺意が残っていることをフラムは気づいている。


(――来る!)


 その気配を感じた瞬間、彼女はすでに地面を蹴っていた。


「おぉぉおおおおおあああぁぁあアアアアアアアッ!」


 ブジュルルルゥッ!

 獣の咆哮と共に透明な液体を撒き散らし、胸元に開いた傷から巨大な腕が現れる。

 しかし、今の神喰らいなら問題なく潰せるはずだ。

 剣を構え、プラーナを練り上げるフラム。

 だがその後ろで――


「ひ、ひぃっ」

「きゃああぁぁっ!」


 二人の女性の叫び声が響く。


「ミルキット!?」


 ミルキットとシアに、キマイラをさらに醜悪にした、寄せ集めの怪物が迫っていた。

 エターナと戦闘していたときに切り離した、ヒューグの腕の一部である。

 戦闘中、建物の影に潜ませていたそれを、不意打ちで無防備な彼女たちを襲うために待機させていたのだ。


「ヒューグ、あんたはっ!」


 胸から溢れ出す腕と、ミルキットたちを襲う異形、二重の罠を使ってフラムから距離を取るヒューグ。

 この隙を使って逃げるつもりらしい。

 フラムは、『やはりあいつは正気だ』と、そう確信した。

 真っ当な神経の持ち主ではないが、狂っているわけでもなく、それが正常なのだ。

 己の欲望を満たすためなら手段を選ばない、生粋の悪。

 なにがなんでも斬り伏せなければならない。

 だが今は、ミルキットたちを救うことが優先である。

 地面を蹴り、二人を襲撃しようとする敵に飛びかかるフラム。


「ご主人様っ!」


 彼女はミルキットの頭上を飛び越え、刃を突き立てる。


爆ぜろリヴァーサル!」


 そして反転の魔力を注ぎ込み、怪物を爆発四散させた。

 すぐさま振り返ってヒューグの背中を追うも、すでに追いつくには難しい距離まで逃げてしまっている。


「カムヤグイサマ、どこへ行かれるのですか!」

「カムヤグイサマ、我々を見捨てるのですかっ!」


 敵前逃亡するヒューグを見て、失望する村人たち。

 口々に「カムヤグイサマ!」と呼びかけているが、元より彼はそんなものに興味などない。

 たまたま獲物を狙ってこの村に来てみたら、偶然にもカムヤグイサマの力を手に入れただけである。

 失望が広がり、ヒューグの体に宿る力は弱まっていくも、今やそれはただの足手まとい。

 逃げることに、ためらいなどなかった。




 ◇◇◇




「僕はまだ死なない、やりたいことがたくさんあるんだ、そうだろうヒューグ? ああそうさヒューグ、犯し足りない、殺し足りない、あと美味しいものも食べたい」


 ぶつぶつと、まるで休日の予定でも決めるように楽しそうに呟くヒューグ。

 そうやって彼は村から出て、街道を進む。

 すると、五人分の人影が彼の前に立ちふさがった。

 フラムを追ってここまできた、ネイガス、セーラ、ツァイオン、ジーン、そして――バートだ。

 ヒューグは、自らを睨みつけるバートから数メートル離れた場所で足を止める。


「久しぶりだな、団長」


 部下の挨拶にも、ヒューグは一切興味を示さない。


「……ひい、ふう、みい、よ、いつ。ああ、腹は満たせそうだし、魔族の感触というのを確かめてみたくもあるな、ヒューグ」

「また狂人遊びか、飽きないなお前も」

「いつかは男も悪くないと思ったが、やはり本物の女がいると違うな、ヒューグ。ああそうだなヒューグ、肉は柔らかい方がいい」

「ふん、そのつもりならそれでもいい。俺は俺の責任を果たさせてもらう!」


 背負っていた盾を構え、バートはヒューグに向かって駆け出す。

 オリジンの力を手に入れた彼にとっては、バートの動きは止まっているように見えたに違いない。

 後ろの四人も、フラムがいない以上は恐るるに足りぬ相手だと判断し、ヒューグは完全に見下した様子で部下の接近を待った。


「餌が自分から飛び込んでくるのは滑稽で笑ってしまいそうだ」


 そして、バートは盾を裏返し、持ち手側を敵に向けた。


「根本的にお前は、世界の全てを舐めている――閉じろ、破邪の封壁ブレイズンブル!」


 障壁が、ヒューグを包み込む。

 それはバリアのように外から内への攻撃を防ぐものではなく、内から外へ出ることを禁じる檻だ。

 猛獣を捕らえるにはおあつらえ向きであろう。

 だがヒューグの表情は変わらない。

 彼は右手を前に突き出すと、二回りほど巨大化させ、障壁に殴りかかった。


「ぐっ……ぅ……!」


 いかなる攻撃も完全に防ぐ壁。

 しかしオリジンの力を得たヒューグの一撃に、その正球形がぐにゃりと歪む。


「邪魔だなあ、ヒューグ。ああそうだねヒューグ、私は昔から、ママにクローゼットの中に閉じ込められるのが一番嫌いだったんだ」

「貴様の……都合など、知るものか……!」


 いくら実力で優れていたとはいえ、こんな化物を騎士団のトップに立たせてはならなかった。

 どんなにサトゥーキが便宜を図っても、枢機卿に逆らえば首が飛ぶとわかっていても、みなで団結して反対しなければならなかったのだ。

 そうすれば、こいつの危険性はもっと早く、周囲に広まっていたはずである。

 なまじ権力を持ってしまったものだから、被害が騎士団内で収まってしまい、そして惨劇に繋がってしまった。


「俺は、部下として……そして、先輩として、責任を果たさねばならんのだ!」


 ヂヂヂヂヂ――少しずつヒューグのパワーに押され、力を失っていく破邪の封壁ブレイズンブル

 障壁の形が変わるたびに、彼の持つ盾にヒビが入っていく。


 後ろで見る四人は、それでも手を出そうとはしなかった。

 それがバートの望みだったから。

 元々、王都が平和だった頃はそこまで責任感のある団員では無かったが、王都で失われた数多の命を見て気持ちが変わったのだろう。

 プライドが、そして使命感が、『ヒューグを止められなかった自分』を許せない。


「食べられる人間と、俺。ヒューグ、世界には二種類の生き物しかいない。そうだった、やっとそれを思い出せたんだ、さっきまでのは悪い夢だった」

「いいや現実だッ、この世には三種類目――貴様を殺す人間が存在する!」

「夢は、夢じゃなくちゃならない。そうだよねヒューグ。ああそうだヒューグ、夢見る大人なんて、痛々しくて死ぬべきだとしか思わないよ、ヒューグ」


 パキ……バートの持つ盾は、今にも砕けそうなほどボロボロになっている。

 壊れれば、同時に障壁も消える。

 タイムリミットは近い。

 だが一方で、ヒューグにも時間制限はあった。

 追いつかれる前に逃げなければならない。

 というより――逃げられる、つもりでいた。

 もう数秒もすれば盾は壊れる、目障りなバートはそれでおしまい。

 そう、思っていたのだ。


「それは貴様の狭量さだ! 大人が夢を見て、何が悪いと言うのかぁぁぁぁあッ!」


 ヴゥンッ――一度は消えそうになっていた障壁が、明るく光を放つ。

 盾は相変わらず砕けそうだというのに、なぜか、ギリギリのところで形を保っている。


「……?」


 腕を叩きつけながら、首をかしげるヒューグ。

 彼はさらにもう一方の左腕も巨大化させ、今度こそ本気で障壁とぶつかり合う。


「ぬ、おおぉぉおおおッ!」


 しかし彼が叫ぶと、障壁はなぜか硬度を増した。

 予定では、計算上ではとっくに突破できているはずなのに、理屈では説明できない何かが、バートに力を貸しているとしか思えない。


「執念も執着も、壊し喰らうしか脳のない貴様には縁遠い概念だろうな! だが嫌でも思い知るさ。さあ観念しろ――断罪の時は来た!」


 高らかな勝利宣言が響き渡る。

 すると、ヒューグは背中にチリリと殺気を感じる。

 ちらりと後ろを見ると、そこには自らの身長よりも大きな剣を握った少女――フラムの姿があった。

 カラララ――街道の石畳を黒い刃の先端で削りながら、彼女はヒューグに近づく。

 そして大剣を腰の高さで構えると、その先端を、障壁に捕らわれた彼に向けた。


「フラム、遠慮なくやれ!」

「待て、まだ僕は気持ちいいことを――」


 ヒューグの言葉など聞こえない。

 バートの声に応じ、フラムは構えた剣を、前に突き出した。


反・気穿槍プラーナスティング・リヴァーサルッ!」


 神喰らいの切っ先から放たれた、細く鋭いプラーナの弾丸。

 それは破邪の封壁ブレイズンブルの内側で立ち尽くすヒューグの脇腹を貫通した。


「犯し、足りっ」


 さらに反転の魔力により、障壁に当たった瞬間、威力を減衰せずに跳ね返り、彼の足を貫く。


「足りな」


 今度は胸を、さらに肩を、太ももを、首を、頭を、指を、腹を足を肩を腕を腕を足を腹を胸を――ガガガガッ、と何百回、何千回と跳弾・・し、穴だらけを超えてミンチに変えていく。

 喉を破壊されたヒューグはもはや不快な声を出すことすらできず、衝撃でビクビクと体を震わせながら、為す術もなくプラーナに刺し貫かれるしか無かった。

 人ならとっくに死んでいただろう。

 だが彼は今や、オリジンの怪物だ。

 人としての形を失うほど徹底的にボロボロにされても、まだ奇跡的にコアは破壊されていない。

 あるいは、フラムがわざとそうしたのかもしれない。

 可能な限りの苦痛を。

 今までの己の行いを反省し、地獄で犠牲者に詫びさせるために、死を越えた苦痛で矯正する。

 もっとも、彼の意識がどう変わったか、それを確かめる術は無いが――その肉体が、コアと周囲の肉だけになったとき、ようやく気穿槍プラーナスティングはそれを貫き、破壊した。


「はあぁ……倒せた、のか……」


 ヒューグの死が確定した途端、破邪の封壁ブレイズンブルは解除され、バートはその場に崩れ落ちた。

 さらに限界まで耐えた盾も、バキッと真っ二つに割れてしまう。

 フラムはそんな彼に近づくと、肩に手をおいて一言、


「ありがと、おかげで助かったよ」


 とだけ告げて、とっととファースに戻っていってしまった。

 ヒューグの死体の確認すらしてないというのに。

 よほどその存在に興味が無かったらしい。


「おい待てフラム、どうなったのか事情ぐらい説明を――チッ、これだから愚かな奴隷は」

「きっとファースにミルキットおねーさんがいたんすよ、少しでも一緒にいたいおねーさんの気持ちはわかるっす」

「この状況で色ボケされるのが一番困るんだ」


 色ボケでキリルを追い詰めたジーンが言っても説得力が無い。

 一方で、ツァイオンはバートに歩み寄り、


「やるじゃねえか、あんた」


 と言いながら、彼に手を差し伸べた。

 その表情には満足げな笑みが浮かんでいる。

 己のプライドを通し、勝利を掴んだ男の戦い――そういう展開は、彼の大好物なのだ。


「ああいう熱いの、嫌いじゃないぜ?」

「そう言って貰えると、年甲斐もなく無謀なことした甲斐があった」


 バートはツァイオンの手を取り、立ち上がる。


「しかし、せっかくの盾が壊れてしまったな。長年連れ添ってきた相棒だったんだが」


 そして握っている盾の一部と、壊れた破片を順番に眺めて悲しげに言った。


「あんだけの敵を抑え込んだんだし、相棒さんも本望なんじゃないかしら」

「……そうだといいがな」


 バートは目を細めながらしゃがみこむ。

 相棒の破片に手を伸ばし、指先で触れる彼の脳裏に浮かぶのは、今までの戦いの記憶だった。




 ◇◇◇




 フラムがファースの村に戻ると、血の匂いが鼻を突いた。

 一瞬、嫌なイメージが脳裏をよぎる。

 彼女とて、何も考えずにミルキットを置いてヒューグを追跡したわけではない。

 エターナが『戻ってくるまでは守ってみせる』とアイコンタクトで伝えてきたからこそ、任せてその場を離れたのだ。


 しかし、フラムはすぐに無事なミルキットの姿を見つけ、ほっと胸をなでおろす。

 彼女はインク、シアと肩を寄せ合いながら一箇所に固まっていた。

 そして、彼女らを守るようにエターナが立っている。

 ならばこの血の匂いは何なのか、と村人がいた広場の方を見てみると――そこは文字通り“血の海”と称すしかないような有様だった。


「なにこれ……もしかしてキマイラがやったの?」

「ち、違うんです。こ、これは……たぶん、カムヤグイサマの加護を、受けてしまったから……」

「カムヤグイサマの加護を受けた人間は、神が消えれば自らも共に溶けて無くなる――村人たちはそう信じてたらしい」


 エターナが補足説明するものの、そもそもシアの能力を知らないフラムは、何のことだかわからない。

 そのあとに続く“夢想”という希少属性の説明を聞いてようやく理解したが、それにしたって解せなかった。


「今までは自分たちに都合のいい伝承ばっかりだったのに、なんで最後だけそんなの信じちゃったんだろ」


 赤く染まった地面を見ながら、フラムは物憂げに言った。


「罪悪感に耐えられなかったんじゃないかな」

「無関係の人を生贄にしちゃったことの?」

「うん、いくらオリジンのせいで追い詰められたとはいえ、無実の人間を殺して許されるはずがないもん。心のどこかでは『やっちゃいけない』ってわかってたのに、オリジンが怖くて、そうするしかなかったんだと思う」


 インクの言葉が事実だとすれば、なんとも虚しい結果だが――この村の人々が、罪を犯してきたのは事実だ。

 ミルキットたちがさらわれるより前にも、すでに何十人という人々が犠牲になってきたはずである。

 これは村人たちが自ら科した、因果応報の罰なのだろう。


「失われた命は戻らない。嘆くより、今は生きて再会できたことを喜ぶべき」

「そう、ですね。聞きたいことは色々ありますけど、まずは――」


 本当なら最初にそうしていたかった。

 せっかく再会できたというのに、まだ抱き合うことすら出来ていないだなんて、あまりに馬鹿げている。

 二人はそんな想いを共有していた。

 だからこそ、視線が合っただけで、互いに何をするべきなのかすぐにわかったのだ。


「おいで、ミルキット」


 両手を広げてそう言うと、


「はいっ」


 ミルキットははにかみ、その胸に飛び込んだ。

 彼女はフラムの体をぎゅーっと力いっぱい抱きしめ、肩に顔を埋める。

 すぅぅ、と胸いっぱいに息を吸い込むと、大好きなご主人様の匂いでいっぱいになった。

 感情がこみ上げて、涙がこぼれそうになる。

 どれだけこの瞬間を求めてきたことか。

 きっとその回数はミルキットの瞬きよりも多いに違いない。


「ご主人様が、ここにいる……」

「うん、私はここにいるよ」

「ご主人様の匂いがして、ご主人様の声が聞こえて……私、他には何もいりません。それだけで、世界一の幸せ者です」

「私だって、こんなにかわいい恋人に愛されて、世界一幸せだよ」


 フラムの言葉にミルキットはがばっと顔をあげて、目の前の主を凝視する。


「こ、恋人……ですか?」

「あれ、キスしたよね?」

「しましたけど、その、恋人とはっきり言われたのは、初めてだったので……」


 言われてみればそうかもしれない。

 告白したのも、王都での惨劇の真っ只中で、とてもまともとは言えない精神状態だった。

 だから今、改めて言葉にする。


「好きだよ、ミルキット。この世界の誰よりも」

「あ……」


 ぽんっ、と赤くなるミルキットの耳。

 フラムはそんな彼女の上昇した体温を、包帯の隙間から指先で触れて感じていた。


「ひゅーひゅー」

「……今それ言う? しかもなんか古いし」

「六十歳児だから仕方ない」

「それ言い訳に使っちゃうんだ」


 エターナは茶化し、インクはそんな彼女に呆れ、そしてシアは完全に置いてけぼりだが――三人はフラムとミルキットの視界に入っていない。

 それどころか、互いに夢中で声すら届いていないだろう。


「私も、好きです。誰よりも、ご主人様のことが」

「うん、じゃあこれで、私たちは正式に恋人だね」

「はい……恋人、です。えへへ……」


 今にも溶けてしまいそうなほど幸せな笑みのミルキット。

 自分の言葉だけでこんなにも笑顔になってくれる人がこの世に存在することが、フラムはとにかく誇らしかった。


「信じられません、ご主人様みたいに素敵な人が私の恋人だなんて。きっと私、人生の幸せの全部を、ご主人様と出会うことに使ったんですね」

「それは言い過ぎだよぉ」

「言い過ぎなんかじゃありません。だって、こんなに、勝手に顔がにやけて、言うこときかなくなるぐらい幸せなんですよ?」


 確かにだらしない表情だ。

 釣られて、フラムもにやけてしまうほどに。


「でも困るんだよね、それで幸せ全部とか言われたら」

「どうして、ですか?」

「これからもっと幸せになってもらうから」


 今まで平静を保ってきたインクの顔が、ぼっと赤くなった。

 どうやら二人のやり取りに耐えきれなくなったらしい。

 無論、フラムとミルキットは彼女の存在など眼中にないのだが。


「そ……そんな……これ以上だなんて。あぁ、私、どうなっちゃうんでしょう。たぶん、幸せ死にしちゃいます。うぅ、絶対に耐えきれませんよぉ……」


 肩に額をこすりつけながら、恥じらうミルキット。

 そんな彼女を見ていると、今までとは異なる欲求が湧き上がってくる。


「ねえ、ミルキット」

「なんですか、ご主人様?」


 名前を呼ぶと、ミルキットは顔をあげフラムの方を見てくれる。

 真正面から、くりくりとした大きな瞳と、柔らかそうな唇が見えた。

 フラムは、そんな彼女に向かって包み隠さず“したいこと”を告げる。


「キスしてもいい?」


 フラム自身も、自分がそんなことを言うとは思ってもいなかった。

 ファーストキスと違って、理由なんてない。

 ただミルキットを見ていたら、したくなった。

 たぶん、果てしなく膨れ上がった彼女への愛情がそうさせるのだと思う。


 もちろんミルキットは赤くなる。

 さっきよりもさらに、包帯の薄い部分から肌が紅潮しているのがわかるぐらいに。

 それでも、彼女がフラムの求めを拒むはずなどなかった。


「私は、ご主人様から求められる以上の幸せを知りません。ですからどうぞ、したいと思ったら、いつでも奪ってください。それが私の望みでもあります」


 目を潤ませながらミルキットは言った。

 視界の外ではエターナが顔を手で覆いながら目をそらしている。


「私からだけじゃ一方的だから、ミルキットもしたくなったら言ってよね」

「それではダメなんです」

「なんで?」

「私はいつでもしたいので、ご主人様が、私から離れられなくなってしまいます」


 欲するだけ求めれば、二十四時間ハグしたいし、なんなら一日三十時間だってキスしていたい。

 それだけの“わがまま”を、ミルキットは胸の内に秘めていた。


「確かに、それは困るかも……」


 苦笑するフラムだったが、しかし『いつかは叶えてあげたいな』とも考えていた。

 なんにせよ、キスをするにもいちいち許可を取る必要はないらしい。

 顎に手を当てると、ミルキットは自ら捧げるように顔を上げた。

 桃色の唇が、誘うように微かに揺れている。

 過酷な日々を過ごしたせいか、肌は荒れ気味だったが、今はそれすら愛おしい。

 意識せずとも、フラムの唇は無意識下で勝手に吸い寄せられた。

 少し顔を傾け、少女と少女の唇が触れ合う。

 一度目は、ふわりと、軽く触れるだけ。

 顔を離した瞬間、二人はほぼ同時に『はぁ』と熱い吐息を漏らした。

 そして至近距離で見つめ合うと、今度はどちらが主導するでもなく、互いに顔を寄せる。

 触れて、離れて、触れて、離れて――何度も、少しずつ角度を変えながらフラムとミルキットは口づけを繰り返した。

 愛おしさが止まらない。

 この胸の熱をどうにかして伝えようとして触れ合わせているのに、キスするたびに相手を好きになるからキリがない。


「んぁ……ミル、キット……」

「はふ……ごしゅじん、さまぁ……」


 とろけた声で名前を呼び合う。

 フラムの微かに残った理性が止めなければ、きっとそのまま何時間でも続けていただろう。

 そして二人は少し荒い呼吸で胸を上下させながら、見つめ合う。

 また、吸い寄せられてしまいそうだ。

 さすがにフラムは自重したが、いつか心置きなく口付けられる日がきたら、と心から望んでいた。


「はしたない、と思われるかもしれませんが……」


 スキンシップを終えると、ミルキットは少しうつむきがちに口を開く。


「一人のとき、何度も、ご主人様とこうしてキスすることを夢に見ていたんです」

「それは、はしたないどころか、すっごく嬉しいんだけど」

「んふふ……そう、ですか。そう言ってもらえると、安心します。でも、どんなに夢を見ても、朝起きたら、そこにご主人様はいないんです。夢は夢で、けれど虚しさは本物で、涙が止まりませんでした」

「今は夢なんかじゃないよ」

「わかっています、だから――」


 顔をあげると、瞳から大粒の涙が流れ、目元の包帯を濡らしていた。


「今は、満たされすぎて涙が止まりませんっ」


 要するにミルキットは、『悲しくて泣いてるわけじゃないです』と言いたかったわけだ。

 フラムは再び、彼女を胸に抱きしめる。

 すると涙は包帯ではなく、彼女の服に染み込んだ。

 育った花がもたらす蜜は、物理的には触れられない心を、涙のぬくもりであたためる。

 その熱で溶けて、絡んで、一つになってしまったような気がした。

 小賢しい理由なんていらない。

 今はただ、好きで、好きで、好きで、好きで。

 だから、一緒にいたいと思った。

 依存とか、適切な距離とか、メリハリとか、どうでもいい。

 とにかく、一緒にいたいと思った。

 自分たちはそういう愛し合い方をするべきだと、フラムは確信する。


 そのまましばし抱き合っていると――遠くから聞こえてきた足音で、フラムは少しだけ冷静さを取り戻す。

 どうやらバートたちがようやく到着したようだ。

 そんな彼女が、ふとすぐ近くにいたはずのエターナたちの方を見ると――


「なにやってるんですか?」


 三人全員がフラムとミルキットに背中を向け、両手で顔を覆っていた。

 インクは目が見えないはずなのだが、その行動になんの意味があるのだろうか。


「……フラムたちは、自分が何をやってたか落ち着いて思い返すべき」


 エターナはくぐもった声でそう言ったが、フラムはよくわからなかったので、こてんと首を傾けるのだった。





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