EX3 【書籍版二巻発売記念】私たちが温泉旅情を信じていた頃
「んっふふふふふふ……」
フラムの怪しげな笑い声が響き渡る。
彼女は部屋の中心に陣取り、腕を組んでいわゆる仁王立ちのポーズを取っていた。
「ふふふふふ……んふふふふふっ!」
別になにか企んでいるわけではないし、頭がおかしくなったわけでもない。
いや、半分ほどおかしくなってる可能性はあるが、薬などではなく、“嬉しいから”おかしくなっているのだ。
「ミルキットと……二人きりで、温泉だぁぁぁぁぁーっ! やったぁーっ!」
そして、腕を天に突き上げて、ぴょんぴょん飛び跳ねはしゃぐ。
ミルキットはそんな主の様子を、実に幸せそうな笑顔で眺めていた。
フラムがこんなにもハイテンションなのには、理由がありそうだが実は無い。
ただ単に、本当に単純に、二人きりで温泉旅に来れたのが嬉しいだけなのだ。
これまでも二人でパトリアに旅に出たことはあったが、それには“親への挨拶”という目的があった。
久しぶりの故郷なのでフラムはリラックスできたし、主さえ隣に居ればミルキットはどこでも幸せそうなのだが、やはりどこか緊張感があった。
しかし、今回は違うのだ。
完全にフリーダム。
完全にバケーション。
あらゆる
というかここが外なら、勢いに任せて天までジャンプしながらはしゃいだに違いない。
「いやぁー、しかしギルドも粋なことしてくれるよね。呼び出されたから、仕事だと思って行ってみれば、まさか温泉旅行をプレゼントしてくれるなんて」
「ご主人様の頑張りを、ギルドの人たちもわかってくれたんですよ」
「まあ、最近は無茶な依頼も増えてきたからね」
そんな無茶もあっさりこなせてしまうばっかりに、無茶振りはさらに加速していくのだ。
まあ、フラムにも断る権利はある。
ミルキットと過ごす時間があまりに減るようなら、容赦なく依頼を蹴ったりもしている。
そもそも、冒険者とギルドの関係は対等であって、ギルド側が一方的に依頼を押し付けることは不可能なのだから。
「でも今はそういうことは忘れよう! なんたって最新鋭の温泉施設に泊まれることになったんだから。しかも三泊四日も!」
「すごいですよね。ここ、最近できたばかりで、全然予約が取れないって有名なところだったはずです」
「施設も綺麗だもんねえ。ベッドもふかふかで……見てるだけで飛び込みたくなるっていうか……」
「久々にやります?」
「やっちゃおっか?」
二人は顔を見合わせてにやりと笑う。
そして"よーいどん"で同時に駆け出すと、
「え、えーいっ!」
「うわーい!」
両手をあげてベッドに飛び込んだ。
そしてぼふっと顔面から布団に沈む。
「おおぉ……シーツも高級品だ……」
「すべすべですねぇ……」
パリッパリの感触を想像していた二人だったが、実際には非常に滑らかな肌触りで、非常に体になじむ。
あの硬めのシーツの感触というのも、外泊しているという実感があるので悪くはないのだが、慣れない感覚に寝付けなかったりもするものだ。
その点、このシーツは今すぐにでも眠ってしまえそうなほどの心地よさを提供してくれる。
「ご主人様、大変です……!」
「どうしたミルキット隊員!」
「このままではシーツに呑み込まれて……意識を……失って……」
「ミルキット隊員ー!」
誰も見ていないのでもうやりたい放題である。
演技がかった声でミルキットを呼びながらガバっと起き上がったフラムは、自分の隣に横たわる嫁に馬乗りになる。
ミルキットもミルキットで、わざとらしく目を細めたり、苦しそうな顔を作ってみたり、すっかり謎の世界観に入り込んでいる。
「そ、そんな……ミルキット隊員がシーツの毒にやられてしまった……かくなる上は……」
ミルキットは何かを期待するように、チラチラとフラムのほうを見ている。
茶番である。
こんな小芝居抜きでも、ベッドに二人で転がった時点で、やることなど決まっているというのに。
フラムの顔がミルキットに近づいていく。
自らの唇を、包帯の隙間から見える桜色に寄せて――合わせた。
「ん……ふ……」
ミルキットは目を細め、幸せそうに声を漏らした。
まだ外は明るい。
ゆえに
しかしミルキットはこれだけでも十分に蕩ける。
もしもこのままフラムが彼女の耳や首筋にでも触れようものなら、スイッチが入ってそのまま本当に呑み込まれてしまうだろう。
上気した白い肌はそれだけでフラムを誘うに十分すぎる色気だが、ここはぐっと我慢する。
「誰もいないんですし……遠慮は、しないでいいんですよ……?」
唇を離すと、ミルキットは寂しそうにそう言った。
ぎゅっとフラムの胸が締め付けられる。
「このまましたら、温泉どころじゃなくなるでしょ」
「それはそうですが……」
移動の都合で、この町、フラァダに到着するのは夕方前になったのだ。
なのでじきに夕食の準備が始まってしまう。
そんなときに二人がベッドでもぞもぞしていたら、気まずいなんて話ではないだろう。
「時間はたっぷりあるんだしさ、のんびり行こうよ。ね?」
「こんな馬乗りになっておいてそれはずるいです……」
「ごめんごめん、ちょっとした悪ノリだったんだって」
ぽんぽん、と頭を撫でられると、ミルキットの不満はどんなに大きくとも一瞬で霧散する。
それでもフラムは悪いと思ったのか、ミルキットの耳元に口を近づけ、いつもそうしているように、“彼女によく効く声”で囁いた。
「ちゃんとあとで埋め合わせはするからさ」
普段より少し低く、お腹に力を入れるのがコツだ。
そうすると、少しかっこつけたような声が出る。
ミルキットはそれに弱いのである。
「は……はい、ご主人様ぁ……」
途端に目がとろんとなり、夢見心地でそう返事をした。
こんな具合で、最近のフラムとミルキットは、お互いの扱い方というものを熟知しつつあった。
とはいえそれで関係が多少は冷めるか――というとそんなはずがない。
むしろさらに深く溺れ、遠慮が無くなりつつある。
もっとも、二人の関係を阻む障害が存在しない今、タガが外れたところで困るのはエターナぐらいのものだが。
◇◇◇
今日はなんてことないただの温泉旅行。
二人で風呂に備え付けの温泉を見たり、高級な調度品に戦慄したり、備え付けとして置いてあった地元のお菓子に舌鼓を打ったりと、ごくごくありふれた、旅行にありがちなイベントをこなしていく。
ひととおり部屋の中の探索が終わると、日は傾き、食事の時間になった。
隣り合わせでテーブルに座った二人の前に、次々と豪華な料理が運ばれてくる。
単純に「おいしそー!」と喜ぶフラムと、同調しつつも盗める技術が無いか目を光らせるミルキット。
「いただきますっ!」
「いただきます」
食前酒やスープに、いくつかの前菜が並んだところで、二人は手を合わせて食事を始める。
アルコールを見ると、いつぞやの悪夢がフラムの脳裏をよぎったが、度数も控えめなら量も少なめ。
この程度で酔っ払うミルキットではないだろう。
……とはいえ、やはり心配で、グラスを傾けるミルキットを、フラムは不安げに凝視していた。
白い喉が蠢きこくん、こくんとワインを嚥下していく。
「ふはぁ……甘くて飲みやすいです。ご主人様は飲まれないんですか?」
「へ? あぁ、うん、飲む飲む」
ほんのり頬は赤くなっているが、問題はなさそうだ。
フラムもグラスの中身をくいっと飲み干すと、甘い香りが口いっぱいに広がった。
「あ、ほんとだ甘い。ほとんどジュースみたいなもんだね」
「はい、これならいくらでも飲めそうです」
「い、いくらでもは飲んじゃだめだよ……?」
「わかっていますよ。もうお酒でご主人様に迷惑はかけないって決めましたから」
キリルとやりあった例の出来事は、ミルキット自身も知っている。
とはいえ、本人の記憶には残っていないらしく、あとでフラムから聞いただけなので、どうにも実感が伴っていないように思える。
いつかまた同じ失敗を繰り返すような――そんな気がしていた。
だが、いつまでも食前酒でうだうだ悩んでいるわけにもいかない。
メインは料理なのだから。
フラムはフォークを握ると、並ぶ前菜の数々を眺めた。
「これだけ数が多いと、どっから手を出していいかわかんないよね。たぶんシェフ的には『これから食べてね』ってのがあると思うんだけど」
「そうですね、口の中の状態によって感じる味も変わりますから、理想はあるんでしょうけど……やっぱり、食べたいものから食べるのが、一番おいしいと思います」
「それもそっか。素人が気にしたってしょうがないよね。じゃあ私はまずこのエビからもらおーっと」
「なら私はこちらの白身魚の……生の……なんでしょう、これ」
「カルパッチョ、ってお品書きには書いてあるよ」
「かるぱっちょ」
聞き慣れない名前に首を傾げながらも、薄く切られた白身を口に運ぶミルキット。
舌に乗せると、まず柑橘の香りを感じさせる酸味のあるソースの味が広がる。
魚の風味がやってくるのはそのあとだった。
ゆっくりと上下の歯で圧迫すると、強い弾力が感じられた。
だが透けるほど薄いおかげか固くはなく、少し力を入れるだけで簡単に噛み切ることができた。
味自体は蛋白だが、かけられたソースとの相性は抜群だ。
「おいしいです。プロの技って感じがしますね。この手の料理を出されると、私にはお手上げです」
「あはは、勝負しなくていいのに。ミルキットが作る料理とはジャンルが違うから」
「ですが家でも毎日このレベルの料理が出せれば……」
「いいのいいの、こんなの毎日出てきたら胸焼けしちゃうって。特別な日に、特別な場所で食べるからこそだと思うよ」
「……そうですかね」
「そうなの。あ、こっちのゼリーみたいなのもおいしいよ?」
ネガティブモードに入りそうだったミルキットを、フラムは強引に話題を変えて引き戻した。
どうにも最近のミルキットは料理へのこだわりが強すぎる。
原因は、パティシエを目指すキリルの存在にあるのだろうが、当のキリルはミルキットのことをこれっぽっちもライバル視していない。
いや、実際のところ“ライバル”というほどバチバチ火花を散らしているわけではないのだが、ミルキットがひっそりと対抗心を燃やしているのは事実なのだ。
そしてキリルはそんなミルキットの手助けをする。
かみ合わないが、決して仲が悪いわけではなく、二人の仲自体は良好で――その関係は、フラムにもよくわかっていない。
「それにしても、こんな場所で生の魚なんて出てくるんですね」
「あー、なんかそれ、パンフレットみたいなのに書いてあった気がする」
フラムは手を伸ばし、棚の上に置かれた紙を手にとった。
そして二つ折りのそれを開くと、右下の隅あたりに書かれた文章を読み上げる。
「『昨今は水魔法の発展により、海辺から、新鮮な状態の魚を仕入れることが可能になりました。ですので当宿で提供する魚介はどれも、市場で買ったものと遜色ない、新鮮なものとなっております』、だって」
「最近の技術の発展はすごいですね」
「まったくだよね。昔の人がこんなところで生魚食べてるの見たら、卒倒しちゃうんじゃない? うちも魚と肉は絶対によく火を通せって小さいときから口酸っぱく言われてたし」
「私もなんとなくそういう意識が染み付いている気がします。でもそういえば、最近はコンシリアでもよく生魚を口にする機会が増えましたね」
「あー、言われてみれば。うちじゃ出さないけど、お店だと増えてるかも」
水魔法絡みではあるが、エターナは関わってはいないようだ。
彼女以外にも、人間魔族問わず優秀な術者が集まり、コンシリアでは様々な研究が行われている。
今後、魔導列車や飛行船が普及していけば、王国内の輸送事情はさらに劇的に改善されるだろう。
「……私も、生魚にチャレンジしてみたほうがいいんでしょうか」
「さすがに家庭じゃ難しいんじゃない?」
「チャレンジ精神を失ってしまっては、キリルさんに料理の腕で負けてしまいますから」
「あれはプロだし。それにお菓子以外ならまだまだミルキットのほうが上だと思うよ」
「そう言っているうちに追い越されてしまいそうな気がして……たとえ料理の分野だけだったとしても、ご主人様の中で私以外の誰かの存在が大きくなるのはいやです」
「ふふ、そんな心配しないでいいのに」
「ご主人様はそう言いますが、なんというか……私の、プライドの問題なんです」
ミルキットの口から出た“プライド”という言葉に、ちょっとした驚きを覚えるフラム。
奴隷として生きてきた彼女は、自己を徹底的に捨てることで、過酷な環境の中で自分の心を守ってきた。
だが今は違う。
フラムとも再会し、心に余裕ができた。
だからこそ“個”は強まり、プライドを持てるまでに至ったのだろう。
「……ご主人様、なんで嬉しそうな顔してるんですか?」
「それは嬉しかったから」
「……?」
言うなれば、今のフラムは子の成長を見守る親のような心境だ。
だがミルキットにはよくわからなかった。
そのまま食事を続け、最初に出てきた分が全てなくなる頃に、次の料理が運ばれてきた。
魚をまるまる一匹揚げ、その上から野菜をふんだんに使ったあんがかけられている。
大きな魚を使っているからか、どうやら一匹で二人分らしい。
フラムは渡されたフォークとナイフを使って、一番膨らんだ腹のあたりに切れ目を入れる。
隙間が開くと、そこからふわりと湯気が立ちのぼり、同時に火が通ってふわふわになった身の香ばしい匂いが拡散された。
「もうおいしい」
「まだ食べてないですよ」
「わかってるけど、もう頭の中で食べたときのイメージが完成してるっていうか……うん、これはおいしい」
それはわかりきったことで、実際の味もその期待を裏切らないものだった。
外側の衣に、トロトロのあんが染み込んでいる。
だがまだ衣の食感は失われておらず、パリっとした感覚と、染みたあんが溢れ出すじゅわっという感触を同時に味わうことができた。
この時点で十分に美味なのだが、メインはその先にある。
白身魚の身である。
ほどよい脂の乗り加減で、水っぽすぎず、ぱさっともせず。
ふんわりとした優しい味が、薄切りのナッツを使った衣の香ばしさ、そしてあんの甘辛さと絡み合って口いっぱいに広がる。
「まちがいなひ……」
「れふね……」
二人は頬張りながら、『うんうん』と頷く。
もはや議論の必要すらない、満場一致の美味しさだった。
しかし――これはまだ、あくまで前座にすぎない。
メインディッシュはこの後に待つ、“肉”である。
この町、フラァダを訪れる旅行者にインタビューしたところ、『温泉が楽しみ』と答える客は三割で二位にとどまったのだという。
ならば何が一位かと言えば――“スノーフォレストバッファロー”のステーキであった。
フラァダの北側には、大きな山がある。
その山の頂上よりも少し下あたりに、“フィフ“と呼ばれる村があるのだ。
そこに暮らす住人の多くは狩猟者で、付近に生息するスノーフォレストバッファローを狩ることで生計を立てている。
話によると、一頭でも狩れたのなら、それだけで一年暮らせることもあるんだとか。
それほどまでに高級で、そして値段に見合った味――フラァダで提供されるステーキなのである。
揚げ魚のあんかけを完食したフラムとミルキットは、今か今かとそれを待ちわびた。
そしてついに、部屋の入り口が開く。
ジュウゥ、という景気のいい音は、すでに二人の耳に届いていた。
ごくり、とフラムがつばを飲み込む。
厚み三センチはあろうかという贅沢極まりないヒレ肉は、鉄板の上で王のごとく堂々と鎮座していた。
テーブルの上に置かれると、さらにその存在感は増す。
「これが、スノーフォレストバッファローのステーキですか……」
「コンシリアで食べたら、一食で一か月分の食費が賄えると言われる超高級肉……!」
もちろん、この肉の代金も宿泊費に含まれている。
つまり、タダなのである。
タダで、この肉が食べられてしまうのだ。
無論、フラムの収入であれば余裕で買える額ではあるが、しかし――タダで与えられたものとなると、急激にお得感が跳ね上がるのだ。
運んできたスタッフが、ナイフで肉を切り分ける。
切り方にもこだわりがあるらしく、まだ客は触れることは許されない。
これだけの高級肉、もちろん中はレアだ。
銀色の刃が茶色い焼き目の鎧を裂けば、肉汁が溢れ出し、内側から濃い赤が顔を出す。
本来は脂身の少ないヒレの部位でありながら、サシの量は並のバッファロー肉の比ではない。
それを見て、脂っこいと感じる者もいるかもしれない。
だがこれは違う。
良い肉の脂は、得てして甘いものだ。
決して臭みは無く、火を通したときに溶け出し、肉の旨味を引き出す調味料となる。
ゆえに、味付けはシンプルに塩コショウのみ。
それだけで、十分すぎるほどの味を、この肉は持っている。
切り終えると、スタッフは「どうぞ召し上がれ」とだけ言い残して部屋を去っていった。
今だ鉄板は冷めず。
ジュウ、という音が響く中、フラムとミルキットは“肉の王者“を前に、じっとそれを見ることしかできなかった。
圧倒され、気圧され、畏怖している。
……わけではない。
ただ、あまりに分厚い肉だったので、『これいくらするんだろう』と考えてしまい、食べるのがもったいない気がしているだけだ。
「コースの中の一品なので、正直、もっと小さいのを想像してました……」
「私も。こんな、単品で頼んだときみたいな量が出てくるとは……メイアさん、一体いくらのコースを頼んだんだろ……」
フラムは、イーラの後釜としてギルドの受付嬢になった女性の姿を思い浮かべる。
果たして金にうるさそうな彼女が、こんな贅沢を許可するだろうか。
今回の温泉旅行、どうにもメイアの手配とは思えなかった。
となると――イーラあたりが気を利かせてくれたのだろうか。
「……食べて、いいんでしょうか」
「食べないと、もったいないよ。今が、一番いい焼け具合なんだし……」
「そう、ですね。出てきたからには、一番おいしいタイミングで食べたいですもんね」
意を決して、ミルキットはフォークを肉の一切れに突き刺した。
すると尖った先端は、ほとんど力を入れずとも沈んでいく。
この時点で、凡百の肉とは違うことがはっきりとわかった。
そして持ち上げ、重力に引かれて湾曲することで自らの柔らかさを視覚に対し誇示するそれを、口に放り込む。
肉は――雪のように溶けて消えた。
大げさでもなんでもない。
口に入れ、舌の上に乗せた瞬間から、溶解が開始するのだ。
そこから放っておくだけで、勝手にとろける。
もはや『米が欲しい』などという次元ではない。
おそらく米の上に乗せたのなら、その熱で溶けて消えてしまうだろう――そんなレベルの柔らかさであった。
「これが……肉、なんですね」
「ずっと口の中に留めておきたくても、勝手にとろけちゃう……」
当然、それは“脂が乗っているから”こそ起きた現象である。
しかし、いくら食べても、胃がもたれることはないし、脂っこさも感じない。
それはもはや肉というよりは、食べた者を例外なく魅了する、魔法の物質であった。
◇◇◇
「いやぁー、こんな大きな温泉が、それぞれの部屋に付いてるなんてさあ」
「贅沢の極みですねえ……」
食後、しばらく休んだあと、フラムとミルキットは一緒にお風呂に入った。
このホテルでは、各部屋に温泉が備え付けられている。
室内温泉はもちろん、露天風呂まで完備しているのだ。
全身を癒やす少し熱めのお湯。
天を見上げれば満天の星空。
隣には天使よりも美しい嫁。
フラムにとっても、ミルキットにとっても、それは最高のロケーションであった。
二人は肩を寄せ合い、お湯の中で手をつなぎながら、無言で空を仰ぐ。
「信じられないぐらい……静かで……幸せだなぁ……」
「ですねえ……」
声も表情も、すっかり気が抜けてしまっている。
ほどよい満腹感と、全身を包む温かな心地よさ。
これでリラックスするなというほうが無理な話だ。
「でも……あれだねぇ」
「あれというと……ああ、あれですか」
「うん、あれ」
「確かに、あれですねえ……」
誰が聞いても意味のわからない会話だが、二人の間では成立しているらしい。
まあ、あえてぼかすということは、口にするのが憚られるような内容だということだ。
二人きりなのだから、曖昧にする必要などないのだが。
「うぅーむ……」
うなりながら、ちらりとミルキットのほうを見るフラム。
無論、風呂の中なのだから、彼女はそれなりの格好をしている。
「……」
対するミルキットも、頬を赤らめながら、視界の端に主の体を捉える。
もちろん、顔が赤いのはお湯の温度が高いせいではない。
「最近は……いつも一緒にお風呂に入っていましたもんね」
「まあ、入るだけじゃないんだけども」
「……そう、ですね」
ミルキットが視線を落とす。
水面が、少し冷たい風に吹かれて揺れている。
そこに映る自分の顔が少しにやけているのに気づいて、彼女は自分の頬をむにむにとつまんだ。
だが思い出すと、どうしても頬が緩んでしまう。
「こう、私の中でさ、毎日あんなことやってるもんだから、お風呂イコール“それ”みたいな固定観念……いや、そこまで大げさなものじゃないけど、こう、それを体が覚えちゃったっていうか……」
「とてもよくわかります」
「わかってくれる? よかった、お風呂に入るだけで気持ちがざわついちゃうの私だけじゃなかったんだ」
「私なんて、最近は石鹸を見ただけでドキっとしてしまうことがありますし……」
「あー……石鹸ね」
「はい、石鹸です……」
どうやら二人は、お風呂場で石鹸の泡を使ってあれやこれやすることもあるらしい。
エターナに見つかったら怒られそうなものだが、今のところそういった事態にはなっていない。
「まあ……別に遠慮する必要は無いんだよね。ここ、誰も見てないし」
「それは、確かに……」
「でもね、なんとなくなんだけど、外だからなのか、他所様の土地だからなのか、躊躇してしまう私がいるというか……でも一方で、ここでしてみたい私もいてさ」
「せめぎあってるんですね」
「光のフラムと闇のフラムが戦ってる」
フラムの脳内に天使と悪魔のイメージが浮かび上がる。
なお今の段階ですでに悪魔のほうが明らかに巨大だ。
「……私は、闇に勝ってほしいかもしれないです」
「あぁ……そんなこと言っちゃったら一気に闇に傾いちゃうから……!」
「勝ってほしいんですから仕方ないです。頑張れ闇っ、負けるな闇っ」
両手を握り、揺らしながら応援するミルキット。
当然、別の場所も揺れる。
目の前で繰り広げられる楽園のごとき光景に呑み込まれ、光はすでに死にかけである。
というか、最初から勝ち目などほぼなかった。
「ぐわぁー! 応援が可愛すぎて闇が大きくなるぅー!」
「がーんばれっ、がーんばれっ!」
「く……くく……くくくくくっ……愚かなミルキットめ……ついに闇の私を蘇らせてしまったようだな……!」
「まさか私を襲うつもりですか!?」
「ふふふふ……それがわかっている割にはやけに嬉しそうな顔をしている……そんな素直なミルキットはこうしてやるー!」
「きゃーっ!」
ばしゃっと水しぶきをあげながら、がばっと抱きつくフラム。
とんだ茶番である。
半ばのしかかるような形でミルキットの顔を見下ろしたフラムは、空気のおかげで頭が冷えたのか、ふいに素に戻った。
「ご主人様、しないんですか?」
「いや……ミルキットとこういうことするようになってから、そこそこ経って、回数も重ねてきたけどさ」
「そろそろ数えきれないぐらいになってきましたね」
「慣れれば慣れるほど、自分がアホになっていく気がする……」
元から陽気な十六歳ではあったが、ここまでではなかったはずだ。
それだけミルキットの前では全てをさらけだしている、ということなのかもしれないが――にしたって、少々はっちゃけすぎである。
「いいじゃないですか」
ミルキットは爽やかに笑う。
「憂いが無いから、頭を空っぽにできるんです。確かに真面目なご主人様はかっこいいですけど、今の毎日楽しそうに生きるご主人様はとても輝いて見えます」
「私……輝いてるの?」
「はいっ、キラッキラです!」
フラムを励ますための方便――などではなく、実際ミルキットの目にはそう見えている。
もちろんかっこよさも損なわれたわけではなく、白馬の王子様なんて足元にも及ばないほどの美麗さはなおも健在である。
あくまで、彼女の目から見た場合ではあるが。
「そっか……なら気にせずにミルキットを食べちゃうぞー!」
「ひやぁっ、食べられちゃいますーっ」
そんなわけで、二人はアホなノリのままじゃれあい始め――ほどなくして情熱的なキスを交わし、その“先”を始めるのだった。
◇◇◇
フラムとミルキットはのぼせるまえにそれを切り上げた。
しかし温泉から出ても体の熱は引かないまま。
体を拭いて髪を乾かし、適当にバスローブを羽織って脱衣所から出る。
もちろんその間も、軽いスキンシップは忘れない。
切り上げたのは、あくまで温泉でのあれこれだけ。
“事”はまだ続いているのだ。
手をつないで駆け足で寝室へ向かうと、ちょうどこの部屋を訪れたときのように、二人でベッドに飛び込む。
バスローブはすぐにお役御免となった。
まず二人は見えない引力によって近づき、唇を重ねる。
それは彼女たちにとって、一種の合図のようなもので、事を始める前には必ず行うようにしていた。
そして絡め、味わい、体を暖めるのだ。
もっとも、今日の場合は、温泉につかったり、すでに何度か重ねているおかげで、すでにある程度の熱は帯びているのだが。
そのせいか、いつもよりは激しい。
普段は大人しいミルキットも、少しでもフラムを味わおうと、貪るように押し付け、食む。
二人の目はとろんとしており、理性などという野暮ったいものは、すでにその場に存在しないことは明白だった。
だから恥も外聞もない。
理屈めいた考えが浮かぶこともない。
理由なんて、“欲しい”だけで十分だ。
その欲望にしたがって、ひたすらに互いを求め合うフラムとミルキット。
体中、触れていない部分など一箇所も無いぐらいに激しく、狂おしく愛で――そんな想いのぶつけ合いは、日付が変わって、空が白む直前まで続けられた。
◇◇◇
寝たのが早朝なら当然、起床時間は昼ごろになる。
一足先に目を覚ましたフラムは、部屋に差し込む陽の光に、眩しそうに目を細めた。
霞む視界を晴らすため、軽くまぶたあたりをこする。
時計を見れば、針はちょうど正午のあたりを指し示していた。
「さすがに起きないとね……」
フラムが体の重さを感じることは無いが、それでも寝起きのだるさというのは消えないものだ。
どんなにステータスが高まろうとも、人間は人間。
気持ちまで無敵になるわけではないのである。
「おーい、ミルキット。もうお昼だよ」
「んゅ……そこ……だめです……ご主人様ぁ……」
「夢の中でまでそんなことを……かわいいやつめ。ほらほら、起きないと現実でそういうことしちゃうぞー」
フラムは指でミルキットの頬を軽くつついた。
すると、それが主のものだと本能的に察知したのだろうか、口元に笑みが浮かぶ。
「えへへ……ご主人様ぁ……」
「この子はちょっと私のことが好きすぎる……でも私も負けないぐらい愛してるぞー」
「わらひも……愛してまふ……」
「いや絶対に起きてるでしょこれ」
「ぐぅ……」
「寝てる……!」
いつもはミルキットのほうが先に起きることが多いため、フラムも今の状況を楽しんでいるようだ。
しかし、昼食の問題がある。
いつまでも嫁の寝顔を堪能しておくわけにもいかない。
できるだけ驚かしたりつまんだりせずに、一発でミルキットを起こす方法――それをフラムは知っていた。
それを実践するために、口をミルキットの耳に近づける。
あとは、
「愛してるよ、私のミルキット」
と囁くだけである。
するとミルキットはぱちりと目を開いて覚醒し、フラムの顔を見て言うのだ。
「私も愛してます、私だけのご主人様」
そして二人は口づけを交わす。
これがお決まりのパターンであった。
エターナがその場で胃腸薬を探しだしそうなやり取りだが、本人たちに恥じらいは無い。
フラム曰く、『慣れだよ、慣れ』とのこと。
だが、この起こし方に欠点が無いわけではない。
なにせ、必ずキスというスキンシップが発生してしまうため、下手するとそのまま数時間ベッドイン――なんてこともありえるのだ。
今日も危うくそうなりかけたが、フラムの理性が既の所で阻止したようだ。
そのまま二人はベッドを出て、衣服を纏い、宿のフロント近くにあるレストランへ向かう準備を整える。
昨夜の夕食と違い、朝食と昼食はレストランで食べることになっていた。
場所が変わっても、上等な食事が出てくることは間違いない。
果たしてどんな高級食材が並ぶのか――ウキウキしながら着替えを進めていたフラムだったが、突然部屋に、“ピピピピ”という音が鳴りはじめた。
音源は、彼女のバッグに入っているなにか。
「この音って……」
「通信端末の呼び出し音です。ご主人様のほうみたいですね」
バッグの中を探り、薄い透明の板切れを取り出すフラム。
彼女はにらみつけるように画面を凝視し、ゆっくりと人差し指で、表示された通話ボタンを押した。
『ああ、ようやく繋がりましたか。お疲れ様です、フラムさん』
「あれ、メイアさん? どうしたんですか」
通話相手は、西区ギルドの現受付嬢であるメイアであった。
彼女がフラムに直接連絡をとってくるのは非常に珍しい。
『フラァダの宿はいかがでしたか?』
「そりゃもう、最高だよ! この宿とるの、大変だったんじゃない?」
『イーラ様の力でどうにかなったようです』
「王妃パワーってやつだ。さっすがイーラ」
王妃からの頼みとあっては、部屋を提供しないわけにもいくまい。
そこまでして手に入れた宿を、ただの休暇で消費するのは、少しもったいないような気もするが。
『ところで、チケットと一緒にお渡しした封筒に入っていた手紙は読まれましたか?』
「手紙……? そんなの入ってたっけ」
話しながら、バッグの中を探すフラム。
確かに封筒はそこにあったが、中にはなにも入っていない。
「いや、なにもないよ」
『そんなはずは……』
「そう言われても、チケットしか入ってなかったはずだけど。なにか別に入れてたの?」
『……少々お待ち下さい』
「んー?」
声が途切れたかと思うと、端末の向こうからガサゴソとなにかを探す音が聞こえてくる。
「なにか問題が起きたんですか?」
「よくわかんない。なんか、私に渡しそびれたものがあるみたいだけど……」
『あ……ありました。どうやら、入れ忘れていたようです』
「なにが入ってなかったの?」
『今回の依頼に関する書類です』
固まるフラム。
メイアも気まずそうに黙り込む。
ミルキットも、心なしか悲しそうな顔をしていた。
「……」
『……』
「……ねえ、メイアさん」
『なんでしょうか』
「切っていい?」
『駄目です』
駄目と言われつつも、フラムの指は通話終了ボタンに近づいていた。
『駄目ですからね!?』
珍しく必死に声を荒らげるメイア。
「くっ……おかしいと思ったんですよ、あのギルドがいきなり私に三泊四日の温泉旅行なんて……!」
「それでは、裏があったんですね」
『ミルキット様もおられるのですね。いえ、裏というか、本来は『浮かれて温泉に到着したところで依頼書を発見し水を差す』というのがイーラ様のご提案でして、まさか『一日たっぷり温泉を楽しんだところで依頼のことを知り水を差す』なんて残酷なことになるとは……』
「どっちも変わらないよ!? というかやっぱりイーラはイーラだった! 見直した私が馬鹿だった!」
最近は王妃としてまともになってきたかと思えばこれだ。
ひょっとすると、抑圧された生活の中で溜まったストレスのはけ口にされているのだろうか。
どちらにしてもひどい話である。
「ってことはさ……今の私でも、三日とか四日もかかる依頼なの?」
『いえ、そういうわけでは。運が良ければ二日ほどで終わります』
「運が良くてなんですね……」
『いかんせん、敵の正体が不明ですから。わかっているのは、“人間至上主義”を掲げているということと、コンシリアに居を構える大貴族とつながっているという可能性があるだけです』
「なら直接その貴族の首根っこを押さえたほうが早いんじゃない?」
『そのための証拠が足りないのです。それを見つけ出し、フラァダでうごめく陰謀を阻止していただくのが、今回のフラム様への依頼になります』
「まためんどくさそうな……ああそうか、だから報酬を奮発してくれたわけね……」
宿の料金は料理込み。
あんなステーキが出てくるようなプラン、金貨がいくらあっても足りないはずだ。
『ご安心ください、報酬は別にお渡しいたします。宿を確保したのは、イーラ様の善意で……』
「悪意しか感じないよ! はぁ……わかった、とにかく依頼を完了すればいいわけね。わかった、よーくわかった!」
『よろしくお願いいたします』
「ううぅ……わかんないことあったら、こっちから連絡するから」
『はい、それでは』
ぷつん、と会話が切れる。
同時にフラムの腕から力が抜け、だらんと垂れ下がった。
「ごめんよお、ミルキット……」
「ご主人様は悪くありません。それに、温泉は昨日で十分に堪能しましたから」
「うん……」
全ての時間が消えて無くなったわけじゃない。
だが、残り二泊の予定はすでに脳内で組み立てられていたのだ。
そのほとんどはおじゃんである。
フラムはイーラの罠に、まんまとハマってしまったわけだ。
今頃あの性悪王妃は、メイアの報告を受けて、王城の一室で高笑いでもしているに違いない。
その姿を想像すると――フラムの心は、ぐつぐつと煮えたぎった。
怒りというより、憎しみというより、“ミルキットに悲しそうな顔をさせてはいけない”という使命感のようなものだ。
「……よし、決めたっ!」
ぐっと拳を握ると、瞳にも決意が宿る。
「ご主人様、なにを……?」
「この依頼、私が今日中に終わらせてみせる! 残りの二日間を昨日と同じように全力で楽しむ!」
「ええぇ!? ですが、そんなことが……」
「できる! っていうかやる! このままイーラの思い通りにもやっと旅行で終わらせてたまるもんか!」
久しぶりに闘気が湧き上がってくる。
体にも力が満ち、今ならなんだってできそうな気がした。
そう――不可能なんて無いのだ、フラムに宿る力を総動員してしまえば。
「ミルキット、一日だけ寂しい思いをさせるけど、我慢してくれる?」
「我慢だなんて……私にもなにかやれることはありませんか? 少しでも早く終わるように、手伝いたいんです!」
「そうだね。ミルキットも一緒にやろう! そして、イーラのやつの思惑も、この町の陰謀だかなんだかも、ぜーんぶ台無しにしちゃおう!」
「はいっ!」
ひしっと抱き合う二人。
そして、彼女たちは動き出す。
当然、本気になったフラムを前に、計画通りに事が進められるはずもなく――“彼ら”の数年に及ぶプロジェクトは、実行当日に儚くも破綻しようとしていたのだが、首謀者たちはまだそれを知る由もなかった。
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