第131話 王子様のキスでもこの夢は覚めない

 





 暗くてじめじめした場所が、私の生まれ故郷。

 人の悪意を糧にして、細々と命をつないでいきます。

 光の見えぬへどろの沼に沈んで、二度と――いや、一度も・・・光の当たる場所にたどり着くことなんてありません。

 沈んだまま。

 白骨と同じ。

 動くことなく、淀んで、静かに、腐り、伏す。


 無音。

 無色透明。

 無味無臭。

 無意味。


 虚無が並ぶ。

 私にはその先にあるものは見えませんでしたが、何となく、ここは水槽の中なんだろう、と思っていました。

 要するに見世物なんです、私は。

 現世と隔絶した容器に入れられて、泳げもしないのに汚水を満たされ、無様に溺れる姿を見て、勝者を楽しませるだけの。

 生まれつき、ショーの生贄となることを義務付けられていたんでしょう。


 それを不幸だと思ったことはありませんでした。

 もちろん幸せだと感じたこともありません。

 だって、そのような概念は、私の中に存在しませんでしたから。

 期待するだけ無駄だと、物心ついたときにはすでに学んでいました。

 もっとも、それを賢さだと思ったことはありません。


 例えば、ある少年は、叫び、苦しみ、この世の理不尽を呪いながら死んでいきました。

 きっとそれは、正しい姿なんです。

 しかし一方で、ある少年は、笑い、ここではないどこか遠くを見ながら、幸せそうに死んでいきました。

 彼は知っていたんです、けれど間違った姿だと思います。


 でも、正しいとか、間違ってるとか、そんなのは些細なことです。

 だって、私たち、最初から――生まれたときから、間違っていたんですから。

 でなければ、生後まもなく売られるなんてこと、ありえないじゃないですか。


 だから命に価値はなく、私たちの行く末は、いかに早く楽にこの地獄から抜け出すか。

 すなわち死。

 私が十四年間生き延びたことは、“幸い”などではありません。

 決して、そうではなかったはずなのです。

 水槽の外には出られない。

 絶対的な壁がそこにはある。


 ……だったらどうして、あなたは、私の手を取れたのでしょう。

 今でも、不思議でなりません。


 そして、どうしてあなたは、そんな私の手を握り続けてくれたのでしょう。

 あなたの感情を疑うのではなく――そんな奇跡が、私のような沼底の小石に舞い込んだ現実が、いまだに信じられないのです。




 ◇◇◇




 結婚式は終わっても、王妃としての仕事は山積みである。

 書類整理は得意な方だが、社交界における役目はそれとまったく違う。

 周辺諸侯との接見は、イーラの体力と精神をガリガリと削っていた。


「あぁー、やっと終わったわぁー!」


 いらだちのこもった声でそう言いながら、彼女はドレスのままベッドに突っ伏す。

 外はすっかり暗くなっており、ちょうどフラムの家で酔っ払い共が騒いでいるのとほぼ同時刻であった。

 スロウは苦笑いしながらそんな妻の様子を眺めている。


「イーラ、まだ従者が見ているぞ」

「いいのよ見せといて。私はこういう人間なの、いい子ぶるのは貴族連中の前だけで充分だっつの」


 王妃になったからと言って、西区育ちの根っこが消えるわけではない。

 結婚しても、イーラはイーラのままであった。

 というかむしろ、根っこまで王になりきっているスロウの方が異常なのだ。

 これも王族の血がなせる業なのだろうか。


(以前より頼りがいもあるし、男らしいし? それに顔も悪くないから、別に今のスロウに不満があるわけじゃないのよねぇ。なんかそれが余計にムカツクわ)


 ぶっちゃけ現在のスロウは、程よくワイルドでイーラの好みど真ん中である。

 だが右往左往する自分をよそに、すっかり王に慣れている彼がどうしても恨めしく思えてしまうのだ。

 言葉にできないもやっとした気持ちを抱えたままベッドに顔をうずめるイーラ。

 すると扉の向こうから声が聞こえてくる。


「殿下、アンリエットでございます。お時間よろしいでしょうか」

「アンリエット将軍?」

「何かことづけていたのかい?」

「あー……あの子の件ね。いいわよ、入って」


 イーラが許可を出すと、外に待機していた二人の兵が扉を開いた。

 部屋の出入りだけで仰々しいものだ、と彼女は王妃の地位の高さに思わずため息をつきそうになる。

 それはさておき、さすがにアンリエットを前にだらしない姿を見せるわけにはいかない。

 イーラは素早く立ち上がり、アンリエットはそんな彼女の前に跪く。


「楽にしていいわよ、特に私の前では。そういう堅苦しいの苦手だって知ってるでしょう?」

「はっ、かしこまりました」


 スロウとのお付き合いは、かれこれ二年に及ぶ。

 その間、将軍であるアンリエットとは何度も顔を合わせてきた。

 彼女もまた、イーラがそういった対応を苦手としていることは知っているはずである。

 とはいえさすがに、王妃相手に無礼ができるほど、無謀な人間ではない。

 顔を上げたアンリエットは、イーラに書類の束を手渡す。

 その表紙には、『ミルキット・アプリコットに関する調査記録』と記されていた。


「ありがとね。それにしても早かったわね、資料の大部分は焼失してるって言ってたから、もっと時間がかかるものと思っていたわ」

「軍の総力をあげて調査いたしましたので」


 イーラは思わず『暇なのね』と言おうとしたが、ぐっと抑え込んだ。

 実際、最近はテロ組織の動きもなく、モンスターが暴れている様子もないので暇は暇なのだが。

 無論、王妃を前にして過剰な表現をしている部分もある。

 アンリエットの用事はそれだけだったらしく、報告書を渡し終えると部屋を出て行った。

 スロウはイーラの顔に自らの顔を近づけ、わざとらしく表紙をのぞき込む。


「顔、近いわよ」

「いいじゃないか、夫婦なんだから」

「……ほんと、別人みたいになったわね」

「たくましい男の方が好みだと言ったのは君の方だろう」

「まさかそれ、私の好みに合わせたの?」

「それ以外に変わる理由があると思うかい?」


 周囲からは『よく玉の輿をもぎ取ったな』と言われるイーラだが、言い寄ってきたのはスロウの方からである。

 付き合い始めるまでに二年もかかったのは、それまで彼女がスロウの口説き文句を突っぱねてきたからだ。

 別に嫌いではないし、付き合ってみてもよかったが、その程度の覚悟では少しばかり相手の立場が重すぎる。

 何せ王なのだから。


「弁も立つようになっちゃって、お姉さん寂しいわ」

「おかげさまでね。ところでその報告書、まさかこの間の話を真に受けたのかい?」

「まあ……馬鹿馬鹿しいとは思ったけど、ポーズだけでも『調査しました』って言っておけば、説き伏せやすいでしょう」


 この間の話――それは二人の結婚式当日、とある有力貴族が二人に告げた世迷言・・・のことである。


 ミルキットとフラムが恋仲なのは、もはや王国における常識のようなものだ。

 フラムの圧倒的な英雄性の前に、女性同士がどうこうと言うものは一人もいない。

 つまりはミルキットも、オリジンを倒した英雄を支えてきた者として、かなりの有名人であった。

 奴隷という過去も、包帯で顔を覆った奇妙な風貌も、今や人々が妄想する二人の物語を引き立てるエッセンスとなっている。


 しかし――中には、その出自をよく思わない人間もいた。

 己や他者の地位を何よりも重んじる一部の貴族は、こう考えたのだ。


『奴隷として生まれた穢れた血が、気高き英雄の血と混ざることなどあってはならない』


 さらにこうも言っていた。


『フラム殿が目を覚まし次第、我が子との縁談を進めるのはどうだろうか。どうしても女性でなければ、と言うのであれば娘でもいい』


 馬鹿げた話だ。

 権威と金だけであの二人の心を動かせると思っているあたりが特に。

 もしこの言葉がフラムの耳に届けば、彼女の拳の一振りによって、彼の屋敷ごとその肉体は吹き飛ばされるだろう。

 もちろん、イーラもその場でグーパンチでもかましてやろうかと思ったが、やんわりとスロウに止められてしまった。

 そしてその場はどうにか誤魔化し流したのだが――冗談を言っている風でもなかった、おそらくまた彼は同じ提案をしてくるはずだ。

 それも、より具体的な案を添えて。


「もちろん中身を見せるつもりはないわ、アリバイ作りよ」

「それで諦めてくれるかな」

「諦めなければフラムにチクるだけよ」


 イーラの説得は、ある意味でその貴族の身を守るためでもあった。

 結果はそのときになってみないとわからない。

 今はひとまず、報告書の中身に目を通す。




 ◇◇◇




 ――ミルキットの両親は、すでに他界していた。

 母は西区でスリ集団の一員だったらしい。

 父は同じく西区で酒におぼれていたならず者で、口だけは達者だったため、色んな女の元を転々としていたそうだ。

 そんな男であるがゆえに、妊娠が発覚した途端に姿を消し、ミルキットが生まれる数か月前、強盗殺人を起こし処刑されている。

 母も母で、ミルキットを出産後、産まれたばかりの彼女を専門・・の奴隷商人に売り、手に入れた金で幻覚剤を買っていたそうだ。

 ちなみに彼女はその一年後、当時王都で広まっていた粗悪な薬物により中毒死している。


 この二人の記録が残っていたのは、共に犯罪者であったからに他ならない。

 泣く泣くミルキットを手放した一般人であれば、その出自が明らかになることもなかっただろう。


 さて、生後まもなく闇の奴隷商人の手元に渡ったミルキットは、その後すぐにとある貴族に売られた。

 労働力にもならない赤子を買いたがる者はあまりいない。

 それでも商人の商売が成り立っていたのは、大口・・の買い手がいたからだ。

 その女性は、当時東区に居を構えていた。

 三歳になったばかりの息子を失い心を病んでいた彼女は、いつからか闇商人から赤子を買い取るようになった。

 それも一人ではなく、五人も、十人も。

 曰く、予備・・なのだという。

 そして全ての子供に自ら名前をつけ、使用人と共に育てるのだ。

 “ミルキット”という名は、そのときにつけられたものなのだという。

 後にその所業が新聞によって明らかにされ、夫の商売に支障がでたため、その女は王都を離れた。

 ちなみに、当時育てられていた子供は王国に保護されて、教会の孤児院に預けられたそうだが――その中に、ミルキットの姿はなかった。

 それもそのはずだ。

 女は、息子が死んだ三歳になると、育ててきた子供を『こんなのは私の子供じゃない』と言って再び奴隷商人に売っていたのだ。

 そして売った金で、また新たな赤子を購入する。

 奴隷商人は、三歳になりまた別の需要が生まれた子供たちを売りさばく。

 理不尽に翻弄される子供の存在を除けば、win-winの取引であった。


 三歳になったミルキットは、その後も様々な主の元を転々とした。

 奴隷がやせ細る姿に性的興奮を覚える男。

 社会の最底辺である奴隷に見下されることでストレスを解消する女。

 女児を壊すことに執着する教会の幹部――違法奴隷を求めるのは、その他にも列挙すればキリが無いほどの変態ばかり。


 特に教会の幹部に買われたときは、ミルキットもさすがに『もう死ぬだろう』と思っていた。

 だが運良く――あるいは運悪く、男の犯行・・が王都の記者に嗅ぎつけられてしまったらしい。

 発覚を恐れた彼は、泣く泣く全ての奴隷を手放し、死体を隠蔽した。

 そして数か月後、隠したはずの子宮が破裂した死体が発見され、犯行が露見……したものの、何故か貧民街の男が処刑された。

 教会からの圧力があったと思われる。

 ちなみにその男は、オリジンが王都で引き起こした惨劇により命を落としている。


 再び商人の元に戻ったミルキット。

 彼女はそのとき十歳だった。

 つまり三年以上も、次の主――サティルス・フランソワーズに買われていたということになる。

 実際、ミルキットにとっても一番付き合いの長い主だったようだ。

 この頃になると顔立ちも整い、無表情で無反応なこともあって、サティルスはミルキットのことをひどく嫌っていたという。

 食事にムスタルド毒を混ぜたのも、嫉妬心からのことだ。

 だが顔が爛れてから、しばらくの間は手厚く可愛がっていたらしい。


『そんなに醜い顔をしてかわいそうに』

『汚らしい面ねえ、かわいそう、かわいそう。どうしてそんな風になってしまったのかしらぁ』


 白々しくそう繰り返しながら、にたにたと笑い――だがその代償としてサティルスの機嫌はよくなり、十分な食事と寝床が与えられた。

 その間も、別の奴隷は鞭で打たれ、ナイフでふくらはぎを開かれ、細いヒールで腹を繰り返し踏まれ、終いには血を吐いて死んだりしていた。

 彼女もまた、奴隷を殺すタイプの主であり、ミルキットもやがてそうなるのだろうと思っていた。

 だが結局――彼女は一種の“オブジェ”として扱われ、美人を自称するサティルスの美しさを引き立てるための道具として利用されていたようだ。

 やがて彼女もそれに飽き、ミルキットはまた商人に引き取られ……もはや買い手もつかなくなり、地下牢に入れられた。

 腐肉の匂いが充満する冷たく暗い場所で、このまま命を落とすのだろう。

 ミルキットはそう考え、ただその瞬間がやってくるのを、空っぽの心で待ち続けた。

 そこから先は――あえて語る必要もないだろう。




 ◇◇◇




「はぁ……」


 一通り資料に目を通し終えると、イーラは大きくため息をついた。


「予想はしてたけど、あの子も壮絶な人生を送ってきたのねえ。そりゃフラムに心酔するわけだわ」


 ひょっとするとミルキットにとって、フラムは初めて出会ったまともな人間だったのかもしれない。

 それぐらい、世界の暗部にどっぷりと漬かっていた。

 もしフラムがジーンに突き落とされなければ、二度と這い上がることはなかっただろう。


「文字通りの英雄だったわけだな」

「そして追い詰められたフラムにとっても、ミルキットの重すぎる愛情がいい具合に支えになってくれた、と。持ちつ持たれつ、奇跡のバランスで成り立った関係ね」


 それだけに、がっちりとはまった場合の絆の深さは尋常ではない。

 冗談抜きで、二人を引き離す可能性を示唆しただけで、件の貴族は消し飛ぶことになりそうだ。


「勇者が殴られたときは、さすがにヤバいと思ったけど……それも納得したわ。褒めるつもりはないけど」

「はは、あれはな……」


 後にミルキットとキリルは和解し、殴られた側も『殴られたおかげで正気を取り戻せた』と笑いながら語っていたが――国王であるスロウとしては、思い出すだけで胃が痛む事件だった。

 なにせ、国民の精神的支柱である勇者が仲間に殴られた上に、落ち込んで引きこもってしまったのだから。

 オリジンとの戦いの後遺症だの、古傷が痛んでいるだの、それっぽい理由をつけてどうにか取り繕っていた当時を思い出し、苦笑する。


「ところでイーラ、その資料、アリバイ用に作らせたと言っていたな」

「もちろん中身を見せるつもりは無いわよ。本当に犯罪者の娘だってわかったら、どんないちゃもんをつけられるかわかんないもの」

「ああ、それがいい。しかし――その二人から彼女のような可憐な少女が生まれてきたのは奇跡だな」

「可憐も何もあなた、ミルキットの顔を見たこと無いでしょう?」

「雰囲気でな」

「まあ、フラムがべた惚れってことはそっちも中々なんでしょうけど……」

「イーラも見たことが無いのか?」

「私どころか、フラム以外は誰も見たことないんじゃないの?」


 実はエターナも一度だけ見たことがあるのだが、それでも一度だけだ。

 当時のミルキットは14歳で、今とは違う。

 謎多き彼女の素顔は、コンシリアで発行される新聞でも度々取り上げられており、中には風呂場を覗いて明らかにしようとした女性記者もいたほどだ。

 まあ、すぐに家付近に待機していた兵に見つかり連行されたのだが。


「一度ぐらいは見てみたいものだな」

「見る機会があっても、見ないことをおすすめするわ」

「イーラ一筋の俺が、彼女に惚れるとでも思っているのか?」

「違うわよ、バカ」


 イーラの人差し指が、スロウの額を小突いた。


「たぶんミルキットは、自分の顔をフラムしか知らないって部分にこだわってんのよ。こういうの、被支配欲って言うのかしら」

「独占されたがっているわけか」

「そういうこと。だからそっとしておいてあげなさい」


 なんだかんだフラムと付き合いの長いイーラは、彼女のいない間、ミルキットを頻繁に気にかけていた。

 根っこの部分で面倒見がいいというか、姉さん気質というか――スロウが惹かれたのも、そういった部分なのだろう。




 ◇◇◇




 混沌なる夜が明ける。

 甘い夢から覚めると、空っぽの現実が待っている。

 ……今までは、ずっとそうでした。

 四年の間、最初のうちは辛くて、朝が来るたびに涙を流したものです。

 いつの間にか、そんな色のない目覚めにも慣れてしまいましたが。

 ですが――今は、そこにご主人様がいます。

 寝息が聞こえるぐらいすぐそばに、幸せそうに目を閉じる、最愛の人の姿が。


「ご主人様……」


 触れたら消えてしまうのではないか。

 そんな恐れから、私はその頬に手を伸ばしました。

 ふにゅりと、暖かくて柔らかい、けれど弾力のある感触。

 ああ、本当にいるんだ――そう思うと、自然と目が潤んできました。

 再会はとっくに済ませたはずなのですが、こうして共に朝を迎えてみると、また違う感動があるものです。


「おはようございます、ご主人様」


 私がそう言うと、ご主人様の口元がふにゃりと緩みました。

 まだ起きていないと思うのですが、夢の中まで聞こえているのかもしれません。


 ああ……それにしても、なんてかわいらしい寝顔なんでしょう。

 いつも凛々しくて優しくて頼りがいがあって、見ているだけで胸がぎゅーってなるんですが、今はまた別の魅力があります。

 ギャップ、っていうんでしょうか。

 ご主人様はかっこいい部分とかわいい部分が混ざり合ってて、どっちか片方でも好きになるには十分すぎるぐらいなんですけど、どっちもあるんで、見るたびにどんどん好きになっていって、好きになっていって。

 というか、ご主人様はご主人様なので、かわいいとかかっこいいとか関係なしに、好きなんですけどね。

 それはそれとして、とにかく寝顔が素敵なんです。

 四年前――戦いの中で苦しんでいた頃よりも、心なしかその表情は安らいでいるようにも見えます。

 ずっと、いつ命を狙われるかわからない状況にあったんです、きっと眠っていても安心できなかったんでしょう。

 でも今は無防備で、警戒なんて微塵もしていなくて、だからこそ……もっと、かわいく思えて。

 ご主人様はよく私の顔を見て綺麗だとか可愛いだとか言ってくれますが、全然、かないっこありません。

 世界一です。

 私のご主人様は、どこをとっても世界一なんです。

 理想的すぎて、そんなご主人様が私の隣にいる現実が都合がよすぎて、作り物なんじゃないかって疑ってしまうぐらいに。

 まぎれもなく私の理想。

 いえ、そもそも私の中にある理想という概念そのものが、ご主人様のために作られたものです。

 出会うまでは存在しなかったのですから、ご主人様の全てが理想的であるのは当然のことではないでしょうか。


 はあぁ……ダメです、見てるだけでくらくらして、体が熱くなってきました。

 心臓がバクバク言ってます、もっともっと触りたいって本能が訴えてます。

 我慢しきれず、私は足を絡めました。

 肌のほんのり冷たい感触を感じて、さらにどくんと心臓が跳ねます。

 それでも起きそうにないので、私は大胆に、膝のあたりまで触れ合わせてみました。


「んぅ……」


 ご主人様の喉が、声を鳴らします。

 私はぴくりと震えて驚き――ですがまだ、起こしてはいないようです。

 一安心。

 本当は太ももまで絡めてしまいたくて、もっと言えばぎゅって抱きしめたいんですけど、さすがにそれは起こしちゃいますよね。


 ……というか、昨日、私どうやって寝たんですっけ。

 そういえば、パーティで料理を食べたところまでしか覚えていません。

 確か、お酒を飲むことになって……そこから、ぷつりと記憶が途絶えていました。

 着替えたはずもないのに、いつの間にか寝間着になっていて。

 パーティ会場の片づけをした覚えもありませんし、一体、何が起きたんでしょうか。

 うむむ……ご主人様に迷惑をかけていなければいいんですが。


 本当は、昨日の夜に、いろいろやりたいことがあったんですけどね。

 まずは包帯を外してもらって、四年ぶりに、私の姿をご主人様にさらして。

 ご主人様がいない間も、誰にも見せたことはありません。

 だって私の肌は全てご主人様だけのものなんですから。

 見ていいのも、触っていいのも、全部。

 ご主人様は『こんなに綺麗なのにもったいない』って言ってくれますが、そんなことありません。

 私はご主人様の所有物。

 あなたが綺麗だと言ってくれるのなら、余計に、この顔はあなただけのものでなくては。

 実を言うと、それも自分のためなのかもしれませんが。

 だってドキドキしませんか?

 顔も、体も、何もかも――自分という存在が、好きな人のためだけにあるって。

 離れていても、ただそれだけで、支配されている、所有されているっていう実感があって。

 だから私は、これから一生、ご主人様以外の誰にも素顔を見せるつもりはありません。

 ……あ、病気とかになったら、それは別ですけど。

 でも、できる限りは。


「ミルキットぉ……」


 ご主人様は甘い声でそう言うと、もぞりと動き、私の胸元に近づいてきました。

 体温を直に感じて、さらにドキドキ、バクバク。

 私の名前を呼んだということは、夢の中にも私はいるんですか?

 あなたの心のそんなに深い部分まで、入り込めていますか?


 私はご主人様に出会うまでずっと空っぽでした。

 けれど今は、愛情で満たされています。

 全てはあなたに与えられたもの。

 私はご主人様から得た感情で動く、ただそのためだけに生きる存在。

 親しくしている人もいますが、他者に向ける存在も、またご主人様に与えられたもの。


 一方でご主人様は、私以外にも、いくつも大切なものを持っています。

 ご両親だったり、故郷のお友達だったり、エターナさんやキリルさん、インクさんをはじめとする仲間やお友達――沢山の人から向けられる想いや感情、そしてこれまでの月日がご主人様を作り上げたのです。

 だから、その全てを私で染め上げることはできません。

 それを“寂しい”とは思わないんです。

 だって、そういうご主人様だからこそ、私を光の当たる場所まで引き上げてくれたんですから。

 でも、心のうち、できるだけ大きな範囲を私のものにしたいって思ってしまうのは、恋をしている人間としては避けられない感情です。

 身の程知らずの独占欲。

 きっとあなたなら許してくれるだろう、という甘えから来るわがまま。

 私はこの欲求に抗えません。

 だから、少しでもあなたの中に私の存在を見つけられたら、バカみたいに喜びます。


「んうぅ……ミルキットぉ……どこぉ……」

「ふふふ、それは私のセリフですよ、ご主人様」


 ずっとあなたの帰りを待っていたのは私の方なのに。

 でもきっと、私にはわからない辛さが、ご主人様にもあったんでしょう。

 私は布団の下でそっと手を握って、指を絡めました。


「私は、ここにいますよ」


 そう言うと、ぱちりとご主人様の目が開きました。


「……」

「……」


 私の顔をじっと見つめます。

 そのまま、私たちはじーっと見つめあいます。

 寝てるご主人様もかわいいですけど、やっぱり起きているときが一番ですね。

 このまま、何時間だって見ていられそうです。

 でもせっかくなら、声が聴きたい、言葉を交わしたい、心を通じ合わせたい。


「おはようございます、ご主人様」

「んへへ。おはよ、ミルキット」


 にへっと笑うご主人様。

 釣られて微笑む私。

 ただの朝の挨拶なのに、ここ四年で感じたことのない幸福が胸を満たします。

 どうやらそれはご主人様も同じだったらしく、さらに「えへへー」と脱力した笑みを浮かべると、そのまま私の胸に顔をうずめました。


「ど、どうしたんですかご主人様」

「寝て起きたらミルキットが目の前にいて、うれしすぎて我慢できなかった」


 そんなの私だって一緒です。

 今だって、ご主人様の感触を胸に感じて、とても満ち足りています。


「やばい……このまま二度寝しちゃいそう……」

「いいですよ、私はずっとここにいますから」

「うう、甘えちゃいたいけど……やることあるし、起きる」

「やること?」

「まだミルキットの顔を見れてないもん。本当は昨日のうちにやりたいと思ってたんだけど……あんなことになっちゃったから」


 ご主人様は苦笑いを浮かべました。

 あんなこととは一体、何が起きてしまったんでしょう。


「実は私、昨日の夜なにがあったのか覚えていないんです。どうして私はここに寝ていたんですか?」

「んっとぉ……私とエターナさん以外がすっかり酔っぱらっちゃって、最終的にみんなを二階に運んでベッドに寝かせたの」


 その過程がすごく気になります。

 ですがこのご主人様の表情、そしてあえて飛ばしたあたりを見るに、聞かない方がいい内容なんでしょう。

 私も忘れることにします。

 そうした方がいいような気がするんです。


「まあ、昨日のことは忘れるとして! 早く包帯を外して、ミルキットの顔を見せて? ね?」


 よっぽどご主人様は私の顔が見たいようで。

 私としても素顔をご主人様の前に素顔をさらす日を心待ちにしていましたから、望むところです。

 ひとまず布団から出て、改めてベッドの上に膝をついて座り、私たちは向き合います。

 そしてご主人様の手が私の首の後ろに回り、結び目を解こうとしたところで――


「あっ」


 私は声をあげました。


「ん? どうかした?」


 ご主人様の顔が間近にあることで、ふいに思い出したのです。

 そういえば、まだ大事なことを済ませていない、と。


「あの……おはようのキスは、しないんですか?」


 いざねだってみると、割と恥ずかしくて、もじもじしてしまいます。

 キスは何度もしてきたはずなんですが。


「包帯を取る前がいい?」

「取ったあとだと、別のキスになりますから」

「別のキスなんだ……」


 微妙な違いがあるんです。

 それに、今のうちにキスをしておけば、少なくとも二回はできるわけじゃないですか。

 お得です、これはぜひしておくべきです。


「じゃあするね」

「はいっ」


 思わず声に嬉しさがあふれてしまいました。

 仕方ありません、実際に嬉しいんですから!

 ご主人様の顔が私に近づき、首を傾け角度を調整して、ふわりと――甘くすぐったい感触が、私の唇に触れました。


「おはよ、ミルキット」


 そして、爽やかに微笑んでそう言うのです。

 寝起きでそんな顔を見せられて、ときめかないわけがありません。

 私は頭がぽーっとなって気づいたらまた、ご主人様と顔を近づけていました。


「ほんと積極的なんだから」


 ご主人様はどこか嬉しそうにそう言って、私からのキスを受け入れます。

 今度は少し強めに唇を押し付けて、時間も長めに、たっぷりとお互いの感触を確かめて。

 顔を離すと、お互いに目がとろんとしていました。

 これ以上やると脱線してしまいそうなので、目覚めのキスはここまで。

 今度こそご主人様は結び目に手を伸ばし、包帯を外していきます。


 最近はずっと自分で変えていたので、人に変えてもらうのは久しぶりです。

 まるで衣を脱がせられるように、私の肌が外気に触れるにつれて、心臓も高鳴ります。

 たまにご主人様の手が私の顔に当たったりすると、思わずぴくりと体を震わせてしまいました。

 ただ、顔を見せるだけなのに。


「あ、あはは……」


 私の顔を見て、ご主人様は笑いました。

 一瞬、不安が私の脳裏をよぎります。

 四年経った私の顔を見て、がっかりしたんじゃないか、って。


「こんなに美人さんになってるなんてずるいよ、ミルキット」


 でもそれは杞憂でした。

 思えば、ご主人様が私にそんなことを言うはずがありませんもんね。

 でも――お世辞なんかじゃなく、本気で言ってくれてるっていうのはわかってます。

 よかった。

 他の誰にどう言われようが興味なんてありません。

 ご主人様さえ好いてくれれば、それで。


「お気に召していただけましたか?」

「当然! 今まで見てきた誰よりも綺麗だよ。見てるだけで、心臓がうるさくってかなわないんだから」


 そういって、ご主人様は私の手を取り、胸に当てました。

 確かに、どくんどくんって激しく鼓動しています。

 でもそれより、私としては、ご主人様の胸の柔らかな感触が手のひらに感じられて、そっちの方に気を取られているんですが。


「わかる? 世界で一番綺麗な女の子が私の恋人なんだ、って喜んでるんだよ、これ」

「わかります、私と一緒です。世界で一番素敵なご主人様が私の恋人だって、いつもドキドキしてますから」

「相思相愛だねえ、私たち」

「ですね」


 見つめあって、笑いあいます。

 ちょっと心配になるぐらい、私たち、想いあってます。


「こんなに好きになっちゃったら、離れらんないね」

「ですね」

「手始めに、今日は一日中、ずっとくっついてよっか」

「ご主人様さえよろしければ、私もそうしたいです」


 今日ぐらいは、みなさん許してくれると思います。

 だからそうしましょう。

 一時も離れずに、ずっと、あなたのぬくもりを感じる一日にしましょう!


「そうと決まればまずは――」


 ぐいっとご主人様が顔を近づけます。


「おはようのキスとは違うキス、しないとね」


 私もそっと、ご主人様の腰に手をまわしました。


「これは、何のキスになるんでしょう」

「“愛してる”のキスじゃない?」


 それは大変です。

 そんな感情をキスで表そうとしたら、キリがないじゃないですか。

 深くて、長くて、溺れてしまうような――そんな、キスになるにきまっています。


「ミルキット……」

「ご主人様……」


 寄せられる唇は半開きで、その向こうに唾液でぬらりとてかる、艶めかしい舌が見えました。

 それが私のと絡むことを想像すると、生唾を飲んでしまうほど体は反応して、火照って。

 そしていざ実際に唇を重ねると――想像の何倍も、感覚は強烈でした。

 四年間ためにため込んだ欲望が爆発して、目がちかちかして、頭が真っ白になるような。

 ただキスをしているだけなのに、体を重ねるのと同じぐらい背中をのけぞらせて。

 いつの間にか私はご主人様に組み敷かれていました。

 求められている。

 欲望が押し付けられている。

 らしくない獣じみた情動がぶつけられることに、私はさらなる高まりを感じていました。

 あぁ、ご主人様も待ち望んでいたのだな、と。

 はっきりとした共鳴の証明を手に入れた歓び。

 しばらくすると、気づけば私がご主人様を押し倒していたりして。

 私が押し込む欲望を、ご主人様は汗ばむ額に前髪を張り付けながら、笑みすら見せ受け入れるのです。

 あぁ、なんて、狂おしく、愛おしい――


 私たちは絶え間なく求めあって、熱を交換して、感情を交歓させました。

 とどまることを知らずに膨らみ続ける感情。

 浅ましさ、貪欲さを“不潔だ”と忌避するラインはとうに過ぎています。

 重ねるたび、さらにその線は遠ざかっていって――私たちは羞恥心すら捨てるのです。

 獣でもいい。

 みっともなくたって構わない。

 いや、むしろその汚らわしさすら、今は愛おしく感じられました。




 ◇◇◇




 ずずず、とエターナはお茶を啜った。

 一見して落ち着いた朝の光景に見えるが、天井からはギシギシと音が鳴っている。

 耳を澄ませば、誰かさんの甘い声まで聞こえてきた。

 今まで微笑ましく見守ってきた二人の恋人の、生々しい一面を見せられてエターナは――特に取り乱したりはしなかった。

 いずれこうなるであろうことは想像に難くなかったからだ。

 ゆえにいつも通り、感情に乏しい顔で、ひたすらお茶を飲み続ける。

 しかし、視線はじっと虚空を見つめている。

 どうやら、何かを考えこんでいるようだ。


「……リフォームを、考えるべきかもしれない」


 そう、ぼそりとつぶやいた。

 フラムの帰る場所を残すため、この家は可能な限り改装しないようにしてきた。

 だが、全面改修はしないにしても、最低限防音設備ぐらいは必要になりそうだ。

 音を聞き、苦いお茶で口を潤しながら、「出費がかさむ」とエターナはぼやくのだった。





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