第104話 私たちはもう失わない

 





 集会所に戻ったツァイオン。

 彼の視界に、辛うじて生き延びた人々の姿が映る。

 怪我をしている人も多く、セイレルは彼らの傷を癒やして回る。

 ただし彼女は魔法があまり得意ではないので、すぐに完治させるのは難しかった。


「こんなことならもっと真面目に魔法を勉強しとくんだったなぁ」


 などとあえて明るくおどけながら、相手の笑いを誘う。

 彼女の存在は避難所の人々の体よりも、心の方を癒やしているのかもしれない。

 本来ならツァイオンがその役目を背負うべきなのだろう。

 だが、今の彼にはそれができなかった。

 笑っていても、心の奥底で『それでいいのか』と、シートゥムを守れなかった自分を責める己自身がいるからだ。

 トーロスも、性格は穏やかだし、魔法も得意なのだが、あまり人付き合いが得意な方ではない。

 昔から、友達はツァイオンぐらいしかいなかった。

 結局、セイレルに任せるしかないのである。

 とはいえ、何もしないわけではない。

 彼女ほどの功績をあげられないのは承知の上で、身を寄せ合う人々に声をかけていく。

 子供から老人まで、ネイガスの無事を祈る彼女の両親にも――「必ず生きてる」と無責任に、心にもない希望をばらまきながら。

 そして一通り声掛けが終わると、妹と母の看病をするトーロスの近くで腰を下ろした。


「二人の様子はどうだ」

「レーリスはずっと眠りっぱなしだよ、疲れてるんだろうね」


 椅子を並べて作った即席のベッドの上で、水色髪の少女が寝息を立てている。

 トーロスはツァイオンと同世代――つまり七十歳前後なのだが、レーリスとは四十ほど歳が離れている。

 つまり彼女は三十代。

 いくら魔族が長生きと言えど、これはかなりの年の差であった。

 ちなみに、レーリスはシートゥムよりも見た目だけなら年上に見えるが、これはシートゥムの外見が幼すぎるためである。


「でも母さんは見ての通り、今は調子がいいみたい」


 少し離れた場所で、レーリス同様に横になっていたサッシア。

 彼女は心配そうに額を撫でる、夫グロウスと会話しているようだ。


「邪魔しない方がいいみてえだな、相変わらず熱い夫婦だ」

「うん、仲いいよね。僕もああいうお嫁さんがほしいな」

「トーロスがんな話をするなんて珍しいな、好きな女でもいたのか」

「……シートゥムちゃんはいい子だなと思ってた、って言ったらツァイオンは怒る?」


 ツァイオンは思わず目を見開いて、トーロスの方を見た。

 長い付き合いだが、まさかシートゥムにそんな感情を抱いていたとは、ツァイオンですらまったく気づかなかった。


「怒るってか……意外だな。なるほど、道理でお前と話しててもそういう話題にならないわけだ」

「話を振ったら、きまずくなっちゃうからね」

「で、いつからなんだ」

「わかんない。いつの間にか、ツァイオンと一緒にいる彼女を見てるとさ、いいなって思うようになった」


 困ったように口をへの字に結ぶツァイオン。

 トーロスはその表情に、思わず苦笑いを浮かべる。


「でもさ、僕が好きだったのは、たぶんツァイオンと一緒にいる彼女なんだよね」

「どういうことだ?」

「好きな人と過ごす女の子の表情が、とても魅力的に見えた。それは届かないからこそ、焦がれてしまうものなのかもしれない」

「……深いな」

「うん、恋愛って奥深いよね。はまりこむとどうしようもなく、抜け出せなくなる」


 自嘲ぎみにそう言った。

 おそらく彼なりに、何度も諦めようとしたのだろう。

 しかし、結局は想いが消えることはなかった。


「あと、もう一個だけ、積極的に行かなかった理由があってさ」

「なんだよ」


 トーロスは眠る妹を見て、慈しむように頭を撫でた。


「さすがにレーリスより小さい子に手を出すのはどうかと思って……」


 ツァイオンは友人に痛いところを突かれ、頬をひくつかせる。

 彼とて、なかなか成長しないシートゥムに何も思わないわけではないのだ。


「……それは、なんだ。遠回しにオレに対しても言ってんのか?」

「いや、別にそういうわけじゃないんだけど……正直、どうなの? ほら、ツァイオンって結構でかいじゃん」


 彼の言う通り、ツァイオンは人間と比べても身長が高い方だ。

 さすがにガディオほどではないが、ジーンよりは大きい。

 そんな彼が、見た目が完全に子供であるシートゥムと並べばどうなるかなど、言うまでもない。


「オレも以前は、よくそういうこと考えて、あいつと距離取ったりしてたな」

「はは、あったんだ」

「そりゃな、悩むだろ。でも……そのうち、さほど気にならなくなったんだよ」

「どうでもよくなるぐらい、シートゥムちゃんのことが好きだった、と」

「まあ、そういうこった」


 恥ずかしげに、ツァイオンは口ごもり気味に言った。

 そんな彼を見て、トーロスはニヤニヤと笑う。


「ふふふっ、ごちそうさま」

「てめっ、自分で言わせておいてなんだよそのリアクション!」


 トーロスに掴みかかるツァイオン。

 軽くヘッドロックをかけられ、トーロスは「ごめんごめんっ、痛いってば!」と半笑いで彼の腕を叩く。

 歳不相応にじゃれつく二人を、グロウスとサッシアは微笑ましく見守っていた。


「本当に、ツァイオン君には頭が下がるよ」

「昔からずっと、トーロスと仲良くしてもらっていましたものね」

「ああ、彼のおかげでトーロスはずいぶんと明るくなった」


 幼い頃のトーロスは非常に暗い子供で、人付き合いも少なかった。

 どうにかして友達を作ってもらおうと、サッシアとも関わりのあるディーザの塾に行かせたりもしたのだが、状況は改善せず。

 だがある日、親の目の届かぬどこかでツァイオンと出会ってからは、毎日のように彼に連れ回されるようになったのだ。

 最初の頃こそ困った顔をしていたが、少しずつツァイオンに心をひらいていき、やがて友人と呼べる間柄になっていた。

 そして当時から今まで、それはずっと変わっていない。

 ツァイオンがシートゥムとの関係を深め、魔族の中で地位を向上させていっても、彼がトーロスとの付き合いをやめることはなかった。


「家の中の雰囲気も明るくなって……」

「ひょっとすると、私も少しは彼の影響を受けていたのかもしれません」

「サッシアもなのかい? 私もだよ、ついさっきもツァイオン君には大事なことを教えてもらった」


 そのとき、グロウスの表情がふいに曇る。


「彼とシートゥム様なら、魔族をよりよい方向へと導けただろうに」


 二人の婚姻は、もはや規定事項として魔族の間では語られていた。

 それほどまでにツァイオンとシートゥムは自分たちの関係を隠そうとはしなかった。

 とはいえ、二人はまだ恋仲にすらなっていない。

 それが何段飛びかで結婚まで進んでしまったのは、ネイガスが好き勝手に吹聴しまくった影響が大きかった。

 もっとも、結果的に周囲のその空気が、関係をより深めるきっかけになったのだから、結果オーライと言えばその通りなのだが。


「……そう、ですね」


 サッシアは暗い表情で、首を縦に振った。


「ああ、すまないねサッシア。ディーザさんがあんなことになって、君もショックだろうに」


 顔色の悪くなった妻に寄り添い、背中をさするグロウス。


「いいえ、気になさらないでください。あの方のせいで、数えきれないほどの命が奪われたのですから」


 別に彼は気にしていない。

 むしろ一番気になったのは――サッシアの言う、あの方・・・という呼び方についてだ。

 果たして、ただの塾の講師を、そこまで敬う必要があるのだろうか。

 サッシアに限った話ではない、それは塾に通っていた魔族全般に言えることだ。

 グロウスは、まだツァイオンからディーザの協力者に関する話を聞いていない。

 だが、一連の事件を一人で実行するのが不可能であることぐらいはわかる。


 オリジンの危険性は、魔族全員の共通認識。

 普通に考えれば魔族がディーザに協力することなどありえない。

 しかし子供の頃から思想を染められていたとすれば。

 崇拝するほど敬っている相手に、それを刻み込まれたのなら――


「……あなた?」


 グロウスは妻の言葉に、はっと正気に戻った。

 そして頭を抱え、首を横に振る。

 自分は何を考えているのだろう。

 家族を守ると決意した矢先に妻を疑うなど、まともではない。


「すまない、疲れてるのかもしれない」

「あなたも少し休んだ方がいいですよ」

「そうだね、そうするよ」


 近くの椅子に腰掛けたグロウスは、俯き、大きくため息をついた。

 そんな彼の姿を、サッシアは目を細めて、無感情に眺めている。




 ◇◇◇




 一時間ほどトーロスとツァイオンは歓談していた。

 世界が滅びる直前とは思えない穏やかな空気に、少しだけ彼らの心も休まる。

 ニアセレイドの集落は、今まで奇跡的に一度もキマイラの襲撃を受けていない。

 元からここに住んでいた人々は、ほぼ全員が死ぬか脱出している。

 つまり、キマイラが近づけない何かがあるわけではないのだが――とにかく現状では、幸運・・と言うほかなかった。


「っと、そろそろ昼飯作んねえとな」

「まだ食料は残ってたんだっけ?」

「今日の分ぐらいはある。あとは近くの集落から、かき集めるしかないな」


 雪の積もる魔族領の北部では、温かい時期のうちに食料を蓄えておく。

 そのおかげで、今日までツァイオンたちは、ニアセレイドから出ずにどうにか食いつなぐことができた。

 魔族が生きていくのに、さほど多くの熱量を必要としないのも功を奏している。

 だが、限界は近い。

 そろそろ他の集落に食料を集めにいかなければならない。

 しかし、外に出ればさすがにキマイラとの交戦は回避できないだろう。

 人狼型との一対一タイマンならともかく、複数体との戦闘、あるいは獅子型以上と戦うことになれば、ツァイオンでも命が危ない。

 いっそ全員で別の集落に移動した方がいいのかもしれないが、全員が五体満足で目的地へたどり着ける可能性は、限りなくゼロに近かった。


「おいセイレル、そろそろメシ作んぞ!」


 ツァイオンは、ご老人と歓談していたセイレルを呼んだ。

 彼女は相手に頭を下げると、彼の方に駆け寄ってくる。

 ニアセレイドでの雑用は、体力的にも余裕のあるこの三人の役割だった。

 もちろん他の魔族たちも手伝いはするが、それぞれ家族の面倒を見たり、自分自身の体調が優れなかったりで余裕が無いのだ。


「おまたせ二人共、んじゃ行こっか!」


 三人は集会所の外に出ると、近くにある民家に向かう。

 この家はキッチンが比較的広いため、大人数の料理を作るのに向いているのだ。

 ダイニングには、集落中の食料が集めて置いてある。

 そこから食材を見繕い――としていたのは一昨日までの話。

 すでに種類も量も少なくなっているため、メニューは自ずと限られる。


「こりゃ煮るしかないよね」


 セイレルが言うと、他の二人もうなずいた。

 とりあえず一番量の多い芋は、ふかしてこねて主食にするとして――ざっくりとメニューが決まると、三人はまず素材の下ごしらえを始める。

 まずは大量にある芋の皮を、ナイフで黙々と剥いていくのである。

 魔族領で取れるこの芋は皮が厚く、火を通すともっちりとした食感になる。

 小麦粉と混ぜればパンにもなるが、ここには無い。

 まあ、無くても十分うまいし、腹持ちもいい。


「ねえツァイオン、明日は食料探しにいくんだよね」

「ああ、そうだな」

「私も一緒に行った方がよくない?」

「やめておけ、生きて戻れる保証はない」

「でも、それだけのリスクを背負う割には、ツァイオン一人で持ち帰れる量に限界があるよね。ネイガスみたいに風の魔法で大量運搬もできないでしょ?」

「確かにセイレルさんの言う通り、ツァイオンの魔法ってそこまで器用じゃないよね」

「まあ、戦闘に特化してるからな」


 元はシートゥムを守るために磨いた魔法。

 ネイガスのように、日常生活でも役立つものが少ないのは当然のことだった。

 もっとも、火を点けられるというだけでも相当便利なのだが、それはトーロスをはじめとして火属性を操る魔術師なら誰でもできることだ。


「トーロスは家族のこともあるし、私はほら、一人だからさ」

「見つかってないだけだろ、どっかで生きてるに決まってる」

「あっはは、ごめんそこまで楽観的にはなれない」

「じゃあ余計に連れていけねえよ。言っとくがオレは死ぬつもりなんざねえからな、生きて戻ってこれる確信があるから行くっつってんだ」


 ディーザを殴る。

 その目的を果たすまでは、彼は何があっても死ぬことはできない。

 どんなに無様な姿を晒しても生き残ってみせる、そう誓う彼の決意は硬い。


「ふふ……相変わらず暑苦しいねえ、ツァイオンは」

「昔から変わらないから」

「変わってない? んなわけねえよ、滅茶苦茶変わってるはずだ」

「僕にはわからないけどなあ、具体的にはどう変わったの?」


 ツァイオンは得意げな顔で言い放つ。


「以前よりも温度が上がった。より熱い男になったってワケだ」


 まったく恥じらいを見せない彼に、セイレルとトーロスは思わず吹き出してしまった。

 そんなリアクションを受けて、戸惑うツァイオン。


「な、なんだよ、なんで笑ってんだよ!」

「はははっ、いや、うん、ツァイオンってやっぱかっこいいなあと思ってさ……ふふっ」

「僕も同感。どこまでもツァイオンはツァイオンだよね。確か熱さがどうこうって、お父さんの口癖だったんだっけ」

「ああ、オヤジの場合は酒や露出の多いねーちゃんを見たときも使ってたけどな。言っとくがオレは違うぞ」


 彼の口癖は父親の影響を受けたものだが、一方で割と誠実で生真面目な性格は母親似である。

 少なくとも彼が、セクシーな女性の姿を見て『熱くなってきたぜ!』とガッツポーズを見せることはないだろう。

 こうして雑談をしている間にも三人の手は止まることなく、どんどん芋が皮を脱がされ裸になっていく。

 するとセイレルの手がふいに止まり、虚ろに壁を見つめた。


「ツァイオンのお父さんも……無事なのかな」

「はっ、あれはそう簡単には死なねえって。そんでオヤジが生きてるってことは、おふくろも間違いなく生きてる」

「うらやましいよ、なんで言い切れるかなあ」

「ツァイオンだからとしか言いようがないんじゃないかな」

「貶してんのか褒めてんのかわかんねえな。でも、お前らより先にセレイドを脱出した奴らもたくさん居たんだろ?」

「まあね、私たちやネイガスのご両親は、避難するみんなを誘導してたから」


 つまりたくさんどころか、セイレルやトーロスたちは最後尾だった。

 それで二桁人が生き残っているのだ。

 だったら、もっと離れた集落には、何百人――いや、ひょっとすると数千人のセレイドから逃げた魔族が、普通に生き残っているかもしれない。

 生き残っていない可能性もあるが、ツァイオンはそれを考えなかった。

 たとえ、ここに来る途中で無数の死体を見かけていたとしても、彼らは最悪に不運だっただけだ、と自分に言い聞かせて。


「あ、そういえば……」


 今度はトーロスが手を止めて、眉間にしわを寄せる。


「今度はどうしたんだよ」

「確か、昨日作ったときに、もう水があんまり残ってなかったよね」

「そういやそうだったな……もらってきた方がいいか?」

「煮るんなら、水も結構必要になると思うし、私は行った方がいいと思う」

「りょーかい。じゃあちょっくら行ってくるわ」


 集落の外れには川が流れている……が、基本的に飲み水には使われていない。

 井戸も設置されているものの、中に魔族の死体が数体分落ちていたため、誰も使いたがらなかった。

 というわけで、飲料水を得るためには集会所に向かい、水属性の魔法を使えるネイガスの母からもらってくる必要がある。


 ツァイオンが席を立ちトーロスとセイレルの二人きりになると、会話は途切れた。

 元々二人は、ツァイオンが共通の友人というだけで、ほぼ繋がりはない。

 どこか暗いトーロスと、天真爛漫なセイレル――正直、二人の相性はさほど良いとは言えなかった。

 シャリシャリと、ひたすら芋の皮を剥く音だけが響く。


 五分後、集中が途切れたのか、セイレルはナイフをテーブルの上に起き、天を仰いで「ふぅ」と肺の重苦しい空気を吐き出した。

 するとトーロスがナイフを持ったまま立ち上がる。

 そしてテーブルを回り、正面に座っていたセイレルの首筋に、ナイフの刃を当てた。


「え……?」


 呆然とするセイレル。

 首に冷たさを感じる今でも、何が起きているのか理解できていなかった。


「立って」

「ま、待ってよトーロス。いきなり何を……」

「立てって言ってるんだけど、聞こえない? なんならこのまま殺してもいいけど」

「ひっ……」


 彼は本気だった。

 言葉のトーンからそれを理解したセイレルは、言われるがままに立ち上がる。

 そのままナイフを突きつけられたまま後ずさり、すぐに部屋の隅まで追いやられた。

 彼女は怯えた表情で、目に涙を浮かべながらトーロスの顔色をうかがう。


「脱いで」


 彼は冷たく言い放つ。

 それで、セイレルは何をされようとしているのかを理解した。


 殺されたくないと思った。

 けれどそれ以上に、汚されたくないと思った。

 今の世界は、ちょっとしたことで死んでしまうほど、命が軽い。

 そして尊厳の重さは変わっていない。

 だったら後者を取るべきだと、瞬時に選択したのだ。


 素早くセイレルの腕が動き、ナイフを握る手を掴む。

 その手首を外側にひねり、同時に足をかけて取り押さえようとしたが――トーロスの腕力が強く、びくともしない。

 運動神経では、セイレルの方が上であるはずだ。

 彼にこんな力があるなんて、だったら避難中でももっと重い物を持ってくれれば、と彼女はトーロスを睨みつけた。

 だが彼は視線に動じることもなく、冷静沈着に腕を振り払い、ナイフで服の袖を斬り裂く。

 セイレルは、せめてもの抵抗としてクソ野郎とでも罵ってやろうと思った。

 しかしその表情を見て、そんな気も失せた。


「荒っぽいことはしたくなかったんだけどな」


 性欲のかけらもない、冷めきった顔。

 このときはじめて、セイレルはトーロスの目的が、自分を犯すことではないと気づいた。

 どちらにしても碌でもない目に会うのは間違いないのだが――




 ◇◇◇




 水をもらって戻ってきたツァイオンは、真っ先にトーロスに問いかけた。


「なあトーロス、セイレルはどこ行ったんだ?」

「お手洗いに行くって」

「そうか……」


 トイレの割には、皮むきが進んでいないようだが――体調でも崩したのだろうか、と心配するツァイオン。

 だがトーロスが落ち着いてるということは、そういった素振りは見せなかったのだろう。

 彼は水の入った桶をキッチンに置くと、棚から器を取り出し、皮の剥かれた芋を入れていく。

 そして持ってきたばかりの水で、一個ずつ洗っていった。

 魔王城にいる間はディーザの作った食事を食べていたが、彼にも自炊の経験ぐらいはある。

 手料理を振る舞うとシートゥムは喜んだし、不器用な彼女に料理を教えたりもした。

 こうして料理をしていると、嫌でもそのときの記憶が蘇る。

 あのときはなにも考えていなかった。

 あたりまえに一緒にいて、あたりまえに契りを結んで、あたりまえに添い遂げるのだとばかり思っていた。


「……クソが」


 ちらつく、ディーザの顔。

 全ての幸せな記憶を、彼が台無しにしていく。

 怒りをぶつけるように芋を握ると、やりすぎてぐちゃりと潰れた。


「やべっ……」


 食べ物を無駄にすると、セイレルに怒られてしまう。

 だが、彼女はまだ戻ってきていない。

 お手洗いにしては長い、いくらなんでも異常だ。

 ツァイオンは布巾で手を拭い、トーロスには何も告げずに部屋を出、とりあえずトイレへ向かった。

 明かりはついていない。

 ノックする。

 返事はない。


「セイレル、いるのか?」


 声をかけても、返答はナシ。

 ドアノブを握り、「すまん」と謝りつつ開く。

 ……誰もいなかった。

 ぞくりとした悪寒が背筋を走る。

 慌ててダイニングに戻ったツァイオンは、焦燥感滲む表情でトーロスに問いかけた。


「セイレルは本当にトイレに行っただけなのか!?」

「そう言ってたけど」

「外に出たような音はしなかったか?」

「ううん、聞こえなかったな」


 明らかに不自然である。

 だがツァイオンにとっては、トーロスも信頼すべき対象。

 疑うこともせず、真っ先に『キマイラにさらわれた可能性』を考えた。


「チッ、なんで屋内でんなことに……だが、まだ間に合うかもしれねえ。トーロス、集落の中であいつを探してもらってもいいか? オレは周辺を探す」

「いなくなっちゃったの?」

「トイレにいなかったっつうことはそういうことだろ!」


 戸惑ったフリをするトーロスを置いて、ツァイオンはすぐさま家を出た。

 そして空を飛び、周辺地域に彼女をさらったキマイラがいないか探す。

 一人残されたトーロスは、


「ほんと変わんないよね、昔から」


 表情のない顔で、そう呟いた。




 ◇◇◇




 その後、数時間にわたってツァイオンはセイレルを探し続けたが、結局見つかることはなかった。

 戻ってきた彼は、重々しい表情で、集会所の魔族たちにそれを告げる。

 全員に衝撃が走った。

 中には、気分を悪くしてよろめく者すらいた。

 それだけ、セイレルの明るさはみなの心の支えになっていたのである。

 そして事態だけを告げたツァイオンは、再び彼女を探しに外に出た。


「そんな、セイレルちゃんがそんなことに……」


 話を聞いたグロウスは、拳を握り悔しさを露わにした。

 ツァイオンははっきりと明言しなかったが、間違いなくやったのはキマイラだろう――と推察できたからだ。

 幸いにも、娘のレーリスはまだ寝ている。

 だが起きたとき、セイレルがいなくなったという事実を伝えれば、さらに体調を崩してしまうだろう。

 とはいえ、伝えないわけにもいかず――どうしたものかと頭を悩ませていると、起き上がったサッシアが彼の後ろから近づき、肩に手をおいた。


「あなた、話があります」


 聞いたことのない、感情のこもっていない声。

 まるで亡霊のようなサッシアに連れられて、グロウスは集会所を出る。

 彼女に連れられて向かった先は、数多く建ち並ぶ民家のうちの一つだった。

 サッシアはその家のリビングで椅子に腰掛けると、グロウスに向かいの席に座るように促す。

 勝手に集会所を出ていいのか、と戸惑う彼をよそに、彼女は相変わらず不気味なトーンで話を始めた。


「あなたは、私と出会ったときのことを覚えていますか?」

「急にどうしたんだい」

「覚えていますか?」


 答えなければ話が先に進まない、と言わんばかりに繰り返し尋ねるサッシア。

 その異様な雰囲気に押されながら、グロウスは戸惑いながら答える。


「ああ、覚えているよ。たしか、同じ塾に通っている生徒に、君がいじめられていたんだったね」


 昔から体の弱かったサッシアは、よく同世代の魔族にいじめられていた。

 そもそもそういった行為に出る魔族自体が少ないのだが、まったくいないわけではない。


「そう、あなたは助けてくれました。それが、私とグロウスさんの出会いでした」


 子供が生まれる前まで、彼女はグロウスのことを“グロウスさん”と呼んでいた。

 懐かしい呼び名に、彼は恥じらい頭をかく。


「それから何度も交流を深めて、子供ができて、私たちは結婚することになりましたね」

「両親を説得するのは大変だったよね」


 付き合っていることは伝えていたが、まさかいきなり子供ができるとは思っていなかったのだろう。

 だが当時、グロウスと同世代の魔族が複数人、子供ができたことを理由に結婚したおかげか、想像していたよりは両親の説得は楽だった。

 もちろん、まだまだ若かったグロウスが、子供を産めるかわからないほど体の弱いサッシアを身籠らせてしまったことを、こっぴどく叱られたことに間違いはないのだが。


「トーロスを産んでからしばらくは私も体調を崩して大変でしたが、グロウスさんが支えてくれたおかげで、立派に育てることができました」

「私だけじゃない。周囲のみんなが助けてくれたおかげさ」


 もちろん、両親も協力してくれた。

 なんだかんだ言っても、初孫を喜ばない祖父母はいないものである。


「でも、それがどうしたんだい? 大事な話って言ってたけど……」

「ここからがその大事な話なのですが」


 グロウスは思い出話に浸る一方で、いいしれぬ不安を覚えていた。

 なぜサッシアは、幸せな過去を思い出しても、まったく笑わないのだろう。

 そしてなぜ、死んだように無表情のままなのだろう。

 何か良くないことが起きる、そんな強い予感が気のせいであることを、心の内でひたすらに祈る。

 だが彼は、すぐにそんなものが無駄だったことを知った。


「私、あなたとはじめてしたとき、処女ではありませんでしたよね」

「な、なにをいきなり。いや、確かにそうだったけど……!」

「十五歳のときでした。あのお方の塾に通い始めて半年ほど経った頃のことです」

「えっと、十五歳って言うと私と出会う前のことだ。塾って、ディーザさんの?」

「はい、そのとき私は初めて、ディーザ様に祝福していただきました」


 祝福という宗教めいた言葉に、グロウスは首をかしげる。

 そんな彼に対し、サッシアは同じ意味の言葉をもう一度繰り返した。


「私は初めて、ディーザ様に犯されました」

「……え?」


 絶句する。

 確かに、サッシアは処女じゃなかったし、慣れていた・・・・・

 体も弱く、大人しい彼女が誰と関係をもったのだろう、と気にしたこともある。

 しかし――過去のことだ。

 グロウスは今のサッシアが好きなのだから、それ以上は何も思わなかった。


「塾では、ディーザ様に犯されることを祝福と言っていたんです。一部の女だけが選ばれ、みんな祝福を受けることを目指してディーザ様に尽くして――」

「待って! 待ってよ!? ごめん、ちょっと……意味が、わからない。ディーザに、犯された? 祝福? そんなことが、あの場所で行われていたって!?」

「むしろ、そのための場所でしたから」

「そんなのはおかしいだろうっ!? 誰か止めなかったのか? 誰か気づかなかったのか!? そもそも、十五歳って……まだ、子供が作れる年齢ですらないじゃないか……!」


 魔族の成長は、人間よりも遅い。

 外見の成長には個人差があるものの、少なくとも十五歳で子供が作れる状態まで成熟することは無いのだ。

 それを、そんな幼い子どもにすら、ディーザは手を出していた。

 全ては――自らの血を引く子供を産ませ、都合よく操れる手駒を増やすためだけに。


「私の母もそうでした、なので私は母に連れられてあの場所に生きました。その後も繰り返し私はディーザ様の祝福を受けて」

「やめてくれ……」

「そろそろ妊娠できる年齢になると、他の子たちと同じように次のフェーズへの移行を言い渡されます」

「やめてくれ……っ」

「さすがに産まれてくる子供があのお方の子供だと気づかれるといけないので、代わりに父親となってくれる男性を探すんです」

「頼むから、もう……!」

「私の相手に選ばれたのは、人が良さそうで、騙しやすそうな……グロウスさん、あなたで」

「やめてくれええぇぇぇぇぇえええええッ!」


 ガンッ! とグロウスの拳がテーブルを叩いた。

 サッシアがここまで感情をむき出しにする彼を見るのは、いじめから守ってくれたとき以来である。

 思い出して、嬉しくて、一瞬だけ微笑み、そしてすぐに無表情に戻った。


「ふざけるな……そんなことが、事実であっていいはずがない……頼む、嘘だと言ってくれ」

「事実です」

「嘘だと言ってくれよ、サッシアッ!」

「全て事実です。なのであのとき私をいじめていた人たちは、ディーザ様から命令されてそうしていただけです。思った通り、あなたは私を守って、そしてディーザ様の脚本通りに動く私に惹かれていきました」

「ありえない……ありえない、ありえない、そんなことはあぁぁぁッ!」

「あったんです。なのですでに察しがついているとは思いますが――」


 彼女はこともなげに、淡々と告げる。


「トーロスは、あなたの子供ではありません。ディーザ様と、私の間にできた子供です」


 息の根を止めるように。

 事実、グロウスは呼吸すら忘れて、口を半開きにしたままサッシアを見つめた。

 それはほんの数秒間、けれど彼にとっては永遠に思える時間。

 乗り越えた後に、体から力が抜けたグロウスは、床に膝をつき、うなだれる。


「……馬鹿げている」

「紛れもない事実です」

「どうして、それを今、打ち明けたんだ……?」


 涙の雫が頬をつたい、顎から落ち、床を濡らす。

 木目に染み込んでいく一滴を見ているうちに、グロウスの視界は次第にかすんでいった。

 けれど聴覚までは霞んでくれない。

 いきなり部屋に入ってきた何者かは、サッシアと同じく感情の籠もっていない声で言い放つ。


「頃合いだったから」


 グロウスが顔をあげると、そこには息子である――いや、息子であった、トーロスが立っていた。


「悲しまないでよ、血の繋がっていないお父さん。僕はずっと前から、それを知ってたから」

「なん……だって?」

「そして僕は、それを誇りだと思ってきた。あの偉大なディーザ様の血を引いて産まれてきてよかったって、心の底から思ってる」


 歯を食いしばるグロウス。

 だが、彼にはこみ上げる感情が怒りなのか、悲しみなのか、判別がつかなかった。


「っぐ、あああぁぁぁあああああああああッ!」


 ただ、叫ぶ。

 行き場のない感情を吐き出さないと、破裂してしまいそうだったから。


「あああぁぁぁああっ! ああぁっ! ああぁ……あ……ぁ……」


 そして肺の中の空気を全て使い果たすと、途方もない虚無感に包まれる。

 サッシアと出会ってから、今日までの日々は、一体なんだったのか、と。

 幸せになってほしいと、体の弱い彼女を支えてきた。

 幸せになってほしいと、最愛の息子をかわいがってきた。

 けれどどちらも、嘘で固められた関係だったのだ。

 無駄だったとは言わない。

 しかし、なにもかも、馬鹿らしくなってくる。

 誠実に、真面目に生きてきた自分の人生は、一体何だったのだろう。


「ディーザと繋がっていたということは……世界がこうなることも、知っていたのかい?」


 力ない声で尋ねると、サッシアは「もちろんです」とはっきり答えた。

 そしてトーロスが付け加える。


「ちなみに、セイレルさんをやったのは僕だよ。回復魔法を使える彼女は邪魔だったから」

「そんな理由で……そんな、くだらない理由で、命を奪っちゃだめだ……命は大切なものだって、トーロスには教えてきただろう!?」

「ごめんね父さん。でも父さんは本当の父親じゃないから、僕の心には響かなかったみたい」


 グロウスはその言葉に、心臓が潰されたかと思うほど胸を痛めた。

 大きく口を開き、叫ぼうとするも声すら出ず、目を閉じ、唇を噛んで服の胸元を握りしめる。

 力の籠もった腕は、悲痛に震えていた。


「母さん、そろそろいいんじゃないかな」

「そうですね、そうしましょう」


 サッシアは頷くと、立ち上がる。

 椅子の足が床をこすり、その音に反応して、グロウスは再び目を開いた。

 涙に滲む視界の中で、ぼんやりと写る二人の顔は――赤い。

 ぶちゅっ、と吐き出された血液が、顎を流れて胸元を汚した。


「……ああ、そうか」


 それは、グロウスにとって、ちょっとした救いだったのかもしれない。

 魔族の顔で殺されるより、化物の、渦巻く肉の面で殺される方が言い訳・・・ができる。

 二人はとっくに死んで、別の何かに入れ替わっていたのだ。

 そうだ、そうに違いない。

 でなければ――


「死んでください、グロウスさん」


 ――こんな悪夢が、現実になるはずが無いのだから。

 サッシアの放った螺旋の弾丸が、グロウスの胸を貫く。

 そのまま後ろに倒れた彼は、二度と動くことはなかった。

 滲む血で赤く濡れる服を少しだけ眺めると、トーロスは父の肉体に背中を向ける。


「母さん、いかないの?」


 そう問うと、サッシアは返事をしなかった。

 ただただ、螺旋から血を吐き出しながら、自らてにかけた夫を見つめている。


「……まあいいけど」


 トーロスは彼女を待たず、外へ出た。




 ◇◇◇




 セイレルを探し、ニアセレイドの南を飛んでいたツァイオン。

 しかし痕跡すら見つからず。

 ツァイオンは別の方向を探そうと、ニアセレイドの方を振り向いた。


「な……なんだよこれっ!?」


 天高く立ち上る煙に、炎に包まれつつある集会所。

 想定外の事態に、彼は猛スピードで集落に戻り、地上に降り立った。

 中にいた人たちが避難している様子もない、明らかに異常だ。

 民家の中に溜め込んでいた水を使おうかとも考えたが、どう考えても量が足りない。

 他の方法を探して集落内を駆け回っていると、


「ああ、戻ったんだ」


 集会所前に立っていたトーロスは、微笑みで彼を迎えた。


「トーロス、これはどうなってん……だ」


 明るい声で駆け寄るツァイオンだったが、彼の胸元を見てトーンダウンしていく。

 服が、血で濡れている。

 それに炎を前にしても平然と笑うその姿――立ち止まったツァイオンは、トーロスを睨みつけた。


「中の人たちはどうした」

「そのまま中にいるよ、出口を塞いだんだから当然じゃないか。ああ、ちなみに簡単には開かないよ?」


 ギリ……とツァイオンは歯ぎしりをする。

 それでも激情を抑え込み、トーロスに問いかけた。


「燃やしたのはお前か、トーロス」

「うんっ」


 彼は語尾を跳ねさせながら、無邪気に言い切る。

 トーロスもツァイオンには劣るとはいえ、火属性の使い手だ。

 建物を燃やすことぐらい、造作も無いだろう。

 しかし、内部の人間を閉じ込めたのはどういった手段なのか。

 本来、彼の持ちえない力を使っている――その現象に、ツァイオンは心当たりがあった。


「てめえ、コアを使いやがったなッ!?」

「ふふふ、そうだよ。話が早くて助かるよ、ツァイオン」


 笑うトーロスの顔が歪んでいく。

 捻れ、位置も形も滅茶苦茶になった顔面は、やがて赤く染まり、血を吐き出す螺旋となる。


「どうしてお前が……いや、そうか、そうだったな。お前も、ディーザを信仰・・してんだな」

「その通りだよ」

「いつからだ」

最初から・・・・。友達になれって、ディーザ様に言われたんだ」


 それが、ディーザの常套手段だった。

 手駒だけでなく、その周囲の人間関係を作り出すことによって、制御しやすくする。

 それはいわば、洗脳のための下準備のようなものである。

 ディーザはトーロスをツァイオンに近づけることで、ツァイオン自身を自分の手駒に加えようとしたのだ。

 だが――ディーザ自身が言っていたように、ツァイオンは思うようには動かなかった。

 思惑通りに動かなかったどころか、シートゥムへの洗脳を邪魔したのである。


「聞いたよ。ツァイオンは、あの塾に通ってた人間が、ディーザ様の手駒だってことを知ってるって」


 ツァイオンは「ああ」と相づちをうつ。

 自分に差し向けられた追手の顔ぶれをみれば、それぐらいはわかった。


「じゃあどうして、僕のことを疑わなかったの?」


 あえて以前と変わらぬ仕草で、問うトーロス。


「友達だからだ」


 それに即答するツァイオン。

 トーロスは吹き出すように笑った。


「ふふっ、友達か。じゃあもしかして、今もいきなり殴ってこないのは、友達だと思ってるから?」

「そうだ。お前の力があれば、消す方法も見つかるかもしれねえ」


 炎で炎を消すことはできない。

 つまり、ツァイオンにもトーロスにも、あの炎を消す手段はなかった。

 だが二人なら、魔法に頼らない形で解決できるかもしれない。

 ツァイオンは本気で、その希望に賭けているのだ。


「あっはははははははははっ!」


 だがトーロスは、そんな彼をあざ笑う。

 かと思えば、突如渦の脈動が止まり、低い声で言い放つ。


「僕はさ、君のそういうところが大嫌いだった」


 ツァイオンは無言で、彼の言葉を聞いた。


「昔から、自分が優位に立ってることを知った上で、他人に優しくするよね。ディーザ様が言ってたよ、『あれは善人を装った、打算と卑しさの塊だ』って。まったくもってその通りだ。ツァイオンはいつも、僕を見下している。だから、憐れむように僕に優しくしたんだ!」


 そういう性格だったからこそ、ディーザはツァイオンにトーロスをあてがった。

 彼なら必ず、哀れなトーロスを救ってくれるはずだ、と。


「ディーザ様の命令とはいえ、そんな君と友達として過ごした日々は、それはもう苦痛だったよ! タチが悪いことに、そういうやつほど力に恵まれる。どんなに努力をしても届かない。希少属性持ち。闇と炎の力を同時に使える上に、魔力の才能にも溢れていた君に、僕が勝てるわけがなかった」


 吐き出される感情に合わせるように、螺旋が血を吹く。

 醜いその姿を見てもなお、ツァイオンは動かない。


「性格も、見た目もそうだ。本性がどうであれ、顔も良くて他人に優しくできる君は、とても慕われた。シートゥムだって、そうやって打算で近づいたんだろ? 無理だよ、顔もよくて才能にも溢れた人間が、そんな手を使ったんじゃさあ! どんなに誠実な恋をしたって勝てっこないじゃん!」


 その嫉妬は、おそらく本心だ。

 トーロスは温和で優しい心の奥底に、そんな闇を抱えて生きてきた。

 彼に限った話じゃない。

 魔族も人間も、誰だってその手の闇は抱えている。


「日に日に僕の中の劣等感は大きくなっていったよ。絶対に越えられない壁が、友達面をして隣にいるこの苦痛、きっと君にはわからないだろうね。でも、でも、でもでもでもッ! それも、今日でおしまいだ! オリジン様が復活してから今日を迎えるまで僕は吐き気がするほど楽しみにしてた! この時を、君を越えられる瞬間がやってくるのをぉ!」


 燃え盛る炎がパチパチと弾ける中、トーロスの声が響いた。

 あまりに正直すぎる嫉妬の吐露。

 それに対してツァイオンが発した言葉は、


「そうか」


 という一言だけだった。


「……そう、か?」


 唖然とするトーロス。

 何もかも、今まで溜め込んできた全てを打ち明けたというのに――たった、それだけだなんて。


「どうして……どうしてそんな、簡単に流せるんだよっ!」

「なんだよ、怒ってほしかったのか? それとも笑って欲しかったのか? すまねえな、だったらどっちの期待にも添えない」

「なんだと?」

「はっ……そんなもんを期待してるってことはよう、お前自身が、オレのこと友達だって思ってくれてる証拠だろ?」


 嫌って欲しい、失望して欲しい――そう願うのは、トーロス自身がツァイオンへの未練を断ち切れていないからだ。

 見抜かれ、彼は明らかに狼狽した。


「ち、違うっ……僕は……そうだ、僕はセイレルをやったんだぞ!?」

「やったって、何をだ?」

「コアを埋め込んだ。もう彼女は帰ってこない! 残念だったな、僕はとっくに友達を殺してる、手遅れなんだよ!」

「なんで殺さなかったんだ?」

「……へ?」


 ツァイオンの素朴な疑問に、トーロスは間抜けな声を返した。


「回復魔法を使えるから邪魔だったんだろ? でも、だったらなんでその場で殺さなかったんだ? いいや違う、殺せなかったんだ」

「コアを埋め込まれれば同じことだ!」

「もしかしたら、生き残るかもしれねえだろ?」


 その実例を、彼は知っている。

 インクという少女だ。

 彼女は心臓をコアと入れ替えられながら、別の人間の心臓を移植するという無茶な方法で命をつないだ。

 その影響で今でも薬が手放せないが、それでもちゃんと生きている。

 ならば、魔族の心臓を失わず、コアを埋め込まれただけなら、助ける方法はあるかもしれない。

 ツァイオンはそう考えていた。


「お前は可能性を残した。怖かったんだよ、完全に殺してしまうのが。それだけじゃねえ。なんでディーザの手下のくせに、俺のことすぐに殺さねえんだよ。仲間にも報告しねえんだよ!」

「そ、それは……僕が、自分の手で殺したかったから……」

「じゃあとっととやればいい。集会所の中の人たちだってそうだ、いちいち外を燃やさなくても、中に火を点けりゃいい。全部、まるで本当は殺すのを拒んでるみてえに、回りくどい」


 トーロスは反論できなくなっていく。

 そんな彼が頼れる最後の砦は、父を手に掛けた母だけであった。

 彼は、父の亡骸があるはずの民家の方を見る。

 するとその玄関から、サッシアと――その肩を支えに歩く、グロウスが現れた。


「母さん、何をやって……」


 彼女はいまだ顔を肉の渦にしたまま、うつむいている。

 何も言わないサッシアに変わって、グロウスが苦しげに答えた。


「嫌だったんだよ……サッシア、だって。だから、私を、殺しきれなかった」


 彼女の放った螺旋の弾丸は、グロウスの急所を絶妙に外していた。

 血は流れたし、傷は深いが、即死させられなかったのである。

 それに気づいたとき、サッシアはもちろんグロウスを殺そうとした。

 だが彼の言葉に、手を止めてしまったのである。


『君と、二度目に触れ合ったときのことを……思い出したよ』


 それは、トーロスが産まれてから二十年以上が経過した頃のことである。

 そのときまでサッシアは、あまり人に触られるのが好きではなかった。

 グロウスは理由を深く考えたことはなかったが、今になって、その謎が全て解けた。


『本当は……ディーザに触られたことが、嫌だったんじゃないのかい?』


 そもそも、望んで抱かれたのなら、犯された・・・・などという言い方はしない。

 まだ幼いサッシアにとって、彼の欲望を受け止める行為は、さぞ苦痛だったに違いない。

 元より他人とのコミュニケーションを取るのが苦手だった彼女だ、相当年上の異性と裸で抱き合うなど、もってのほかであろう。

 それは、サッシアのトラウマとして、深く刻み込まれることとなった。


『でも、君は、僕を受け入れてくれた。レーリスが生まれた。あの子は、血の繋がった子供……だろう?』


 その傷を癒やしたのは、グロウスと過ごした日々である。

 いや、正確には傷は癒えていない。

 今でも他人に触れられるのは嫌なままだ。

 だが――夫ならばいいと思った。

 そう思えるほど、いつの間にか、本気で愛してしまっていた。

 それに気づいてしまうと、もう、彼を殺すことなどできるはずもない。


「お前も、嫌なんだろう、トーロス。だって……お前は私の子供で、ツァイオン君の……友達、なんだから……」

「僕はディーザ様の子供だっ! 今さら何を言ったってそれは変わらないんだよッ!」

「違うっ! トーロスは、私が、育ててきた……私たちの、子供なんだ……!」


 もはやトーロスが頼れるのは、建物を包みつつある炎だけだった。

 あの過ちが、あの罪が、ディーザの子供としてのアイデンティティを支えている。

 ツァイオンはそれを見抜いた上で、どうにか鎮火できないかと考える。

 胸に宿ったディーザへの怒りと、そして友への想いで温度を増す、この自らの炎で。


「誰がどう言おうと手遅れだって言ってるだろ! 僕は、僕はもう……ッ」

「熱くねえな」

「えっ……?」


 魔法とは想いの力だ。

 実際はそんな理屈ではないが、少なくとも彼にとってはそうだった。

 心が熱く燃え上がれば燃え上がるほど、熱量を増していく。


「ああそうだ、熱くねえんだよ。あの程度の炎、俺の熱に比べれば、熱くともなんともねえはずだ」

「な、なにを言って……」


 水をかけるとか、酸素を奪って消すとか、難しい理屈は考えなくていい。

 思えば簡単なことだった。


「オレの炎に、焼き尽くせないモノなんてねえんだ。だったら、あの炎を焼けねえ理屈なんてねええぇぇぇぇッ!」


 彼の両手に魔力が滾る。

 胸に宿る、星を溶かし尽くすほどの熱量が、魔力を通して具現化する。


 誰かが言う、馬鹿げていると。

 だからどうした。

 誰かが言う、そんなのできっこないと。

 だからどうした。

 できると言えばできるのだ。


 ――そんな根拠のない自信が、ツァイオンを、そして彼の魔力を突き動かす。


「アップビート・スカーレットッ! 全部ッ、持ってけえぇぇぇぇぇえええッ!」


 法外呪文イリーガルフォーミュラの、さらにその先へ――ツァイオンは、ほぼ全ての魔力をつぎ込み、彼の持つ最大威力の炎魔法を発動させる。

 集会所を囲むように地面に赤い魔法陣が浮かび上がり、そこから天高くめがけて、炎の柱が打ち上げられる。

 雲を裂き、星にすら届くほどどこまでも高く伸びたその柱が顕現していたのは、ほんの数秒間だけだ。

 だが、超越呪文イクシードイリーガルとも呼ぶべきその力により、さらに増大したその熱量は――建物はそのままに、それを包んでいた炎だけを焼き尽くすことに、成功したのである。


「へ……へへ……これが、炎すら焼き尽くす炎だ……!」


 額に汗を浮かべ、片膝を突くツァイオン。

 それでも彼の顔には、笑みが浮かんでいる。


「どうよ……やって、できねえことはないだろ……?」

「本当に……火が、消えた……」


 残ったのは、多少焦げているものの、原形を留めたままの集会所。

 おそらくこの様子では、中にいる人々も無事なのだろう。

 トーロスは体から力がぬけ、地面に両膝をつく。


「これでわかったろ、まだ手遅れじゃねえってことがよ」

「トーロス、もういいんだ。私たちと一緒に、また家族としてやり直そう」

「……私も、それを望みます」


 三人がかりでの説得。

 しかしトーロスは全てを諦めたように投げやりに肩を震わせながら、こう言った。


「ツァイオン、父さん、母さん……ごめん」


 その言葉とほぼ同時に、ずぅんと周囲の地面が揺れた。

 振り返るツァイオン。

 立ちはだかる、飛竜型キマイラ。


「ここからが、本命なんだ」


 空から無数のキマイラの鳴き声が聞こえてくる。

 人狼型獅子型が入り交ざり、三十体に迫る数が一斉に、ニアセレイドに近づきつつあった。


「トーロス……これはあなたが呼んだのですか!?」

「うん、まだ足りないと思って」


 最初から全てを諦めるつもりだった彼は――加減を知らない。

 当然、魔力の大部分を使い果たしたツァイオンが、飛竜型に勝てるはずなどない。

 鋭い爪を見せつけるように歩み寄ってくる敵を前に、彼のこめかみを冷や汗が伝う。


「ごめん。さすがにこれは無理だよね、ツァイオン」

「こうやって呼び出せるっつうことは……今までキマイラをこの集落に近づかせなかったのは、お前か?」

「だったらなんだって言うのさ」

「だったら、諦めるわけにはいかねえってことだ」


 ツァイオンは、ぶれない。

 絶対に勝てるはずのない敵を前にしても、己の決意を曲げないのだ。

 意固地になっているわけではない。

 彼はどこまでも、彼を貫いているだけである。


「うおぉぉおおぉおおおおおおおッ!」


 炎を纏った腕で、飛竜型に殴りかかる。

 飛び上がり、その顔に拳を叩きつけた。

 ……だが、相手はびくともしない。

 そしてキマイラは大きく口を開き、ツァイオンに噛み付いた。


「なんのォッ!」


 敵の顔を蹴り後退、攻撃を回避する。

 続けて攻撃を仕掛けようと構えるツァイオンだったが、飛竜型が素早く彼を薙ぎ払った。

 その巨大な腕による殴打をモロに食らい、彼の体は吹き飛び、建物の壁に叩きつけられる。

 衝撃で外壁が破壊され、ツァイオンは瓦礫の中に埋もれた。


「ぐ……ぅ、はああぁぁぁぁあッ!」


 声をあげ気合を入れ、再びの特攻。

 口からブレスのように吐き出される螺旋の力を避け、開かれた目に火の矢を飛ばす。

 ひるませた所で、さらにもう一方の目へ攻撃を仕掛けようとしたところ、尻尾が叩きつけられる。

 地面に衝突し、右腕から嫌な音がした。

 力が入らず、ぶら下がったようにゆらゆらと揺れる。

 左腕で立ち上がると、その瞬間に頭上から腕で押しつぶされる。

 転がりながら避け、折れた腕の痛みに顔をしかめた。

 そこにもう一方の手が迫る。

 避けられるはずがない。

 殴られ、内臓や脳が激しく揺さぶられ、吹き飛ばされる。

 加減されているのか、今度は地面を転がるだけで済んだ。

 朦朧とする意識で立ち上がる。

 そこを殴られ、転倒。

 また立ち上がる。

 殴られ、転倒。

 立ち上がり、殴られ、立ち上がり、殴られ――それを何度も繰り返す。

 まるで、おもちゃとして遊ばれているように。

 上空を飛び回るキマイラたちは、その様を観戦しているようにも見えた。


「あ……は、ぁ……まだ、だ……」


 両腕はとうに折れている。

 肋骨も何本かダメになっているし、足も怪しいものだ。

 それでも、彼は立ち上がる。


「トーロス、やめさせるんだ!」

「僕はディーザ様の子供なんだ。ディーザ様の目的を果たさないと。そうしないと、存在意義がない。この世にいていい理由がない」


 彼は念仏のようにそう繰り返す。

 父の声も、友の声も、届かない。

 飛竜型の爪が、ツァイオンの腕を裂いた。

 血を流しながら倒れる。

 それでもやはり、彼は立ち上がる。


「お、おぉぉ……おぉおおおおッ! 諦めねえ、オレは諦めねえからな!」

「無駄だよ、ツァイオン。どうしようもないことは、この世に存在するんだよ」

「いいや、そんな熱くねえ理屈は存在しねえ。シートゥムも、セイレルも、そしてトーロスも、オレは全員、絶対に、諦めねええぇぇぇええええッ!」


 握る拳は、もはや振り上げることすらできない。

 威勢よく叫びながらも、逆に振り上げられる飛竜型の爪に向かって吠えているだけだ。

 無意味だった。

 ツァイオン以外、その場にいる全ての者が諦めていた。


 ――ポツリ。


 そんな中、トーロスの腕に水滴のような何かが落ちてくる。

 腕を見ると、赤い液体が肌を濡らしていた。

 続けて、他の部位にも似たような感触があった。

 トーロスは空を見上げて――その瞬間、その真横を獅子型の頭部が落下し、かすめていった。


「天使、だ」


 彼はそうつぶやく。

 上空高く、翼のようにも見える黒い腕を無数に伸ばし、キマイラたちを粉々にするフラムを見て、そう感じたのだ。

 パパパパパァンッ!

 遅れて聞こえてきた破裂音が、他の魔族たちの視線を空に導いた。

 灰色のキャンバスが、赤で彩られていく。

 ものの数秒で空のキマイラは全滅。

 その後、彼女は反転の魔力を停止し、自然落下でツァイオンと飛竜型の間に降り立ち、腕力で・・・振り下ろされた爪を止めた。

 受け止めた腕、さらにはアビスメイルから伸びる計十本の腕が、キマイラの体に掴みかかり、肌に触れる。

 そして彼女は、その全てから反転の魔力を敵へ注ぎ込んだ。


尽く無残に死ねリヴァーサル・パラレルコネクトッ!」


 手から注ぎ込まれる量の十倍――とまではいかないものの、数倍の魔力が、一気に飛竜型の肉体を満たす。

 ゴパアァッ!

 次の瞬間、醜く膨らみ歪んだ飛竜の肉体は、中身と異臭、そしてコアの破片を撒き散らしながら、盛大に爆散した。

 もはや飛竜型であっても、フラムの前に数秒と立つことすら不可能であった。





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