第52話 激発
誰もいない場所で膝を抱えて泣いていた。
どこに居場所がないと、嘆いて子猫のように泣いていた。
足音が近づいてくる。
それがキリルの前で止まると、彼女は顔をあげてその存在を認識する。
敵か、味方か。
彼女にとっては敵と呼ぶべき存在は、しかし彼女を敵として扱わない。
昨日、気絶したあと、キリルは気づけば人気のない小屋の中にいた。
特に縛られたりもせず、隣にはミュートが座っていた。
明らかに怯えた様子のキリルに対し、彼女はぽつぽつと語りだす。
チルドレンのこと。
オリジンのこと。
そして、自分たちがどういう存在なのかということを。
キリルはそのときようやく、あの旅の本当の目的が魔王討伐などではなかったことに気づいた。
最初から最後まで、彼女は道化に過ぎなかったのだ。
正体を知れたことで、あの肉の渦に対する恐怖は若干薄れたが、それでも容赦なく人を殺すミュートに対する感情は変わらない。
彼女もそれを知った上で、しかしキリルに何もしようとはしなかった。
夜が明けるとミュートは外に出て、王城前広場から少し離れた場所で、キリルに待っているよう伝え、どこかへ姿を消した。
なぜ――キリルは、ミュートにそう問いかけるのが怖かった。
言葉のクオリアが違う。
全く同じ発音の、全く同じ意味の言葉でも、彼女と彼女の間では受け取り方が異なっている。
騒動の中心にいながら、自分を取り巻く嵐の意味を知らない哀れなキリル。
彼女の心はぐずぐずになって、壊れそうで、けれど壊れてくれない一番痛くて辛い境界線上で揺れている。
いっそどちらかに傾くことができたのなら、この中途半端で醜いモラトリアムを脱することができたのに。
ごめんなさいの一言も。
どうでもいいの一言も。
キリルは、どちら側の人間になることもできなかった。
だから恐れているのだ。
完全に割り切って、ただ自分の信じた道だけを真っ直ぐに進むミュートのことを。
「キリル、一緒に逃げる」
一仕事終えた彼女は、キリルに手を差し伸べる。
キリルは死んだ目で、理由を思考することなく、その手を握る。
拒んだところで、きっとミュートは彼女が動くまで待ち続けるだろうから。
理由はわからないが、そうするはずだという根拠のない自信だけはあった。
立ち上がり、二人で駆け出す。
「どこにいくの?」
今にも立ち消えそうな小さな声で問いかける。
「……」
彼女は答えない。
どこか寂しげな表情を浮かべて走り続けるだけだ。
背後――王城前の広場からは、あらゆる感情をミキサーした怒号と悲鳴が聞こえてくる。
「いつまでやるの?」
無性に怖くなって、キリルはさっきより大きめの声で問いかける。
「……」
やはり彼女は答えない。
混乱に満ちたノイズが遠ざかり、小さくなっていく。
あるいは死者が増え、単純に人数が減って音量が下がったのだろうか。
キリルは深く考えないようにした。
その騒動の一端に自分が関わっていると考えたくなかったからだ。
自覚すると、押し潰れて赤い汁を撒き散らし死んでしまいそうだったから。
だから考えない。
ぼんやりと、ただ思いついたことだけを、ミュートに尋ね続ける。
「どうして、ここまでやるの?」
変わらぬ調子で問いかける。
「……キリル」
するとミュートは足を止め、振り返らぬまま答えた。
「私、どうしてキリル、連れてったか、わかる?」
「わからないよ、何も。裏切られたから憎んで、もう居場所がないから、覚えてもらうために傷を刻む。それは理解できないこともない。だけど……こんなに人を殺すなんて、どうかしてる」
常識的な答えだった。
それはミュートとはあまりに遠い価値観ではあったが、彼女は満足げに頷いた。
「そう、だから」
「だから?」
「ひとつ。私、死ぬ。マザーのため、死ぬ。覚えてくれる誰か、欲しい。化物、それ、望めない。でも欲した。人間じみた、感傷」
「……そんなものに巻き込まれても迷惑だ」
「ごめん。でも、キリル、逃げない。優しく、強い。だから、よかった」
逃げなかったのは、他に行き場所がなかったからだ。
逃げれば殺されるかもしれないと、ミュートのことを恐れていたからでもある。
それを優しさと評されても、素直には喜べない。
しかしキリル自身がどう考えているかなど、些細な問題だ。
結果として、彼女はミュートに最期までついてきた。
それはミュートにとって、優しさだと感じられたし、救いだった。
「ふたつ。私、キリル、求めただけ。代わり、何か、与える、望んだ」
「そのために、人殺しを私に見せつけたの?」
「そう」
即座に頷くミュートを見て、キリルは歯ぎしりをした。
それが彼女のためなどと、独善的にもほどがある。
価値観の違いだ、人の死を見せつけられても嫌がらせにしかならないというのに――そうキリルが怒鳴りつけようとしたとき、ミュートは言った。
「私たち、それしか、できない。人じゃない、人を殺すために生まれた、それが、私たち」
「……え?」
「マザー、感謝、してる。でも、思う。私たち、力ある。声、聞こえる。でも、世界、狭い」
五人の子供は、閉じられた世界の中で、決められたレールの上を歩くために生まれ、生きていく。
逸れることは許されない。
なぜならば、その胸には人ならざる者の力が宿っているからだ。
ミュートたちは、それをずっと誇りに思ってきた。
だからこそ、第一世代であるインクを見下してきたわけだが――彼女が普通の人間として生活するようになったことで、状況は変わった。
強い力がある、すなわちそれは、彼女たちが引き返せないことを示している。
第二世代は完成形ではない、やがて“チルドレン”に取って代わられる存在。
マザーもいつか、そちらに興味が移って、ミュートたちのことなどどうでもいいと思い始めるかもしれない。
そうなったとき、彼女たちに居場所などないのだ。
さらに、チルドレンはサトゥーキから見捨てられ、オリジンからも切り捨てられた。
彼らは囁く。
『脚本通りに死ね、それが役目だ』と。
マザーの子供であると同時に、オリジンの子供であるミュートたちは、それに従うしか無かった。
死を目前にして、それを素直に受け入れるつもりでいたが――しかし、生まれたときは人の子だった彼女たちは、中途半端に人を捨てきることができなかった。
マザーに恩返しをしたいと思った。
誰かに自分たちの存在を覚えていて欲しいと思った。
それは共通の願い。
そしてミュートは――キリルと出会ったことで、もう一つの望みを抱く。
「キリル、違う。色々、できる。殺す以外、救える、守れる、他もたくさん」
「そんなの過大評価だよ。みんなそうだった、私は勇者なんかじゃない、私なんかに、何もできるはずが――」
全てを諦めるキリル。
ミュートはその手を両手で包み込んで、目を合わせ、笑った。
「生きてる。心臓、脈、打つ。それだけで、可能性、ある」
キリルは彼女を、恐ろしい化物だと思った。
だけど違う。
本当は、死が怖いのだ。
全く異なる価値観で動いていると思い込み、その言葉を理解しようとしなかったのがまずかったのだ。
辿ってきた道が違うだけで、人間だろうが化物だろうが、同じ結末に到達する可能性は十分にある。
確かにミュートの肉体は化物かもしれないが――彼女の思考は、とても人間的じゃないか。
「なのに、どうして、自分、したいこと、しない?」
感情に任せて暴れて、他人を巻き添えにしようとする。
迷惑極まりない。
勇者として、彼女を許すべきではない。
しかし、理解できないものではない。
「私、もう、おしまい。でも、キリル、違う」
初めて、ミュートの言葉がキリルに染みた。
ミュートは――違う道を歩み、袋小路に達してしまった者として、まだ道が残されているキリルを導こうとしていたのだ。
確かに、贅沢なことだ。
周囲に流されて、期待に答えられないからって、ただそれだけで何もかも投げ出すなんて。
目の前には、その選択すらもうできない八歳の少女がいるというのに。
「私は――」
だからといって、全ての悩みが消えるわけじゃない。
けれどキリルは、一つの答えを出そうとしていた。
だがそのとき――
「危ないッ!」
キリルは遠くから迫る殺気を感じ、とっさにミュートの体を押し倒す。
ビュオォッ!
直後、二人の頭上を
勇者ならば助けるべきではない。
彼女とて死は覚悟している。
だがキリルには、まだミュートに伝えたい言葉があったのだ。
だから考えるより前に、反射的に体が動いた。
「っ……キリル、今のは」
「ライナスさんだ……逃げようっ!」
「いい、私、戦う」
「でもっ!」
「わかってた、騒ぎ、大きい。私、逃げられない。これが、最後」
「そんな、最初からこのつもりでっ!」
これだけの騒動を起こせば、ミュートの存在が忘れられることはないだろう。
キリルに伝えたいだけのことも伝えた。
まだ完全に立ち直ったわけではないが、あとは一人でも大丈夫。
なら――死を恐れる必要など、もうない。
ミュートはポケットに手をいれると、そこにある固く冷たい球体を指先で確認した。
「キリルちゃん、退いてくれッ!」
いつの間にか真上にまで接近していたライナスが、そう言って複数本の矢を放つ。
キリルはミュートの体を抱えると、その場から飛び退いて攻撃を回避した。
「キリル、離す。それは、だめ。私、人殺し、敵、化物」
「それでも私はっ、私はぁ……っ!」
わかっている、ミュートが罪人で人殺しだということぐらい。
たった今、ちょっと交わした言葉だけで心を揺さぶられたからって、庇って仲間と対立するなんて馬鹿げている。
馬鹿げているが――今さら、自分の心を動かしておいて“助けるな”だなんて都合が良すぎる。
「例え化物だとしても、行き場所がなかったとしても、ただ無駄死にする姿を眺めているだけなんてできないッ!」
「おい待てキリルちゃん、なんでそいつを庇うんだよ!」
戸惑いながらも、追跡するライナス。
速度では元よりライナスの方が勝っている。
幅の狭い路地では逃げ道もなく、じわじわと差は詰められていく。
剣を抜くかどうか迷うキリルに対し、
「いい。もう、終わり。私、十分」
ミュートは必死で呼びかけ止めようとした。
それでも、それでもどこかにご都合主義の一手は無いのかと、キリルは彼女を諦めない。
しかし、インクのときとは違うのである。
ミュートは自らの意思で人を殺し、そして教会からも追われる身。
もはやこの王国で生きていくことなど不可能なのだ。
「ジャッジメント」
そんな二人の前から、巨大な光の剣が迫る。
薄暗い通りを明るく照らすその魔法は、容赦なくキリルの眼前に迫り――体を傾け回避したが、肩を掠め、軽い火傷を負わせる。
痛みに腕から力が抜ける。
その隙を見て、ミュートは自らの意思でキリルを突き飛ばし、地面に転がった。
「セイクリッドランス」
前方で待機していた“仮面をかぶった女性”が手をかざすと、天空に光の槍が浮かび上がる。
腕を振り下ろす。
すると槍は地上を這うミュート目掛けて、高速で射出される。
「ミュートッ!」
「あ……がっ……!」
魔法は足に直撃し、彼女の足を焼いた。
人間の肉の焼ける不快な匂いが路地に充満する。
しかし火傷した部分はすぐに捻れ――剥き出しになった筋肉が捻れたような外見に変化する。
「マリアちゃん、さすがに今のは危ないぞ。キリルちゃんが避けきれなかったらどうするつもりだったんだよ」
「ああでもしないと止められないと思いました」
「そりゃそうだが……」
どうやら、仮面の女はマリアらしい。
昨晩、ライナスの隠れ家に泊まった二人は、広場の異変を察知してすぐさまそこに向かった。
もちろん彼は、付いてこようとするマリアを止めたのだ。
いくら仮面を用意したとはいえ、教会絡みの異変に彼女を関わらせるのは可能な限り避けたい。
しかし、彼女はなぜか、意地でもついてこようとした。
結局、そんなマリアを止めきれなかったライナスは、二人で広場に向かうこととなったのである
だがその途中――彼の目がキリルとミュートの姿を捉えた。
そして、ミュートが騒ぎの元凶であると判断したライナスが、矢を放ったというわけだ。
女の正体を知ったキリルは、躊躇なく剣を抜いた。
そして彼女を睨みつけ、構える。
「マリアさん、あなたは……っ!」
敵意を向けるキリルに、ライナスは戸惑いを隠せない。
「お、おいキリルちゃん、待てって! 俺らは敵じゃないだろ!?」
「この人は……この人は、私にコアを与えて化物にしようとしたんだ! 自分の都合のいいように私を操ろうとした!」
「何を言ってんだよ、まさかそこのミュートってやつに何かされて……」
「違いますよ、ライナスさん」
マリアは落ち着いた様子で告げる。
「事実です。わたくしは、自分の望みを叶えるために、キリルさんを化物に変えようとしました」
「……そんな、馬鹿な」
ライナスはまだ、マリアから何も聞かされていない。
昨晩だって、黙り込む彼女に、ただただ寄り添っていただけだ。
それが優しさだと思った。
そうやって一緒に過ごしていれば、きっと全てを話してくれるはずだと。
「待ってくれよ、じゃあ、マリアちゃんのその姿は……!」
「ええ、自分でやったことですよ。そしてキリルさんやジーンさんにも同じ力と、同じ
「だからジーンのやつあんな……」
マリアを罵倒していたジーンのことを思い出す。
それこそが、彼が憤っていた理由だったのだ。
「でも、だからってキリルちゃんがその子を庇う必要はないはずだろ!?」
それぐらい、キリルだってわかっている。
ミュートは殺されても仕方ないほどの罪を重ねてきた、それを彼女自身も自覚している。
「だけど――」
だからといって、マリアにミュートの罪を裁く権利などあるだろうか。
同じ罪を背負う者が、何のつもりで偉そうに彼女を傷つけると言うのか。
「はああぁぁぁああッ!」
キリルはマリアに向かって突っ込んだ。
マリアは――表情こそ見えないものの、落ち着いた様子で小さな光の剣を無数に作り出し、彼女に放とうとする。
その冷静さは、まるで
「キリル……っ」
ミュートは苦しげに唇を噛み、駆け出した。
そして剣同士で鍔迫り合いをする二人の横を抜けて、逃げ出そうとする。
「何がどうなってんだよ……くそッ!」
マリアのこともキリルのことも、そしてあのミュートという少女のことも、ライナスには何もわからない。
だがはっきりしていることがある。
ここで――ミュートを逃がすわけにはいかないということだ。
「……マリアちゃんもキリルちゃんも、あとで戻ってきたら全部話してもらうからなッ!」
苦悩の末、ライナスは跳躍し屋根の上に飛び乗って、ミュートの行方を追った。
マリアとキリルは彼の言葉など聞こえていない様子で、剣と魔法による近接戦闘を繰り広げている――
◇◇◇
フラムたちはようやく広場に到着し、その地獄のような光景を前に立ち尽くしていた。
数百体の死体が転がる舞台の上で、冒険者たちがそれを踏み潰しながら戦っている。
空中で剣同士がぶつかりあったかと思うと、一方が地面に向けて吹き飛ばされる。
すると砂埃ではなく、赤い血が霧のように吹き上がるのだ。
「ひどい……」
エターナはそれを見て、感じたことをそのまま言葉にした。
「どうなってるの、これ」
殺し合っているのはまともな人間同士だ。
中には軍の兵士と教会騎士で争っている者もいた。
一見して気が狂った人間たちが戦っているようにも見えたが、その理由は、スキャンをかければ明らかであった。
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オージス・クリアーデ
属性:光
筋力:4871
魔力:4219
体力:5783
敏捷:5236
感覚:4091
--------------------
一人目。
--------------------
オージス・クリアーデ
属性:光
筋力:4871
魔力:4219
体力:5783
敏捷:5236
感覚:4091
--------------------
二人目。
--------------------
オージス・クリアーデ
属性:光
筋力:4871
魔力:4219
体力:5783
敏捷:5236
感覚:4091
--------------------
三人目。
そして四人目も、五人目も、六人目も――みな、同じステータスをしている。
名前に意味などない。
問題は、その言うまでもなく、文句無しの、Sランク級の化物じみた数字の羅列であった。
それを持つ人間が、目の前に数人どころか、数十人にも立っているのだ。
「ミュートだ。あいつが、広場に集まったSランク冒険者に力を使ったんだ」
そして他の人間たちを次々と繋げ、無差別な殺戮を行うように指示をした。
一人がSランク並の能力を持っていれば、繋げた全員が同じステータスを持つ。
筋力の高い冒険者と魔力の高い冒険者を繋げれば、その両方を備えた人間が生まれる。
冒険者だろうと、一般人だろうと、子供だろうと、老人だろうと――例外なく、全員が、Sランクになるのである。
そんな圧倒的な暴力の前に、人々は為す術もなく倒れていくしかなかった。
ガディオは周囲を見回す。
兵士の姿はあるが、軍の将軍も、教会騎士団の団長も、キマイラの姿だってない。
やはりそうだ、最初から彼らは、そのつもりで人を広場に集めたのだ。
沢山の人々を殺し尽くし、その上で三人をおびき寄せるために。
また一人、戦闘中の人間が息絶え――次の獲物を探して彷徨う視線が、三人を捉えた。
すると他の敵も、一斉にこちらを向く。
押し寄せる壁のように迫る殺気に、フラムは心臓を鷲掴みにされたような気分だった。
彼女が生唾を飲み込むと、ごくりと喉が上下する。
背中を冷や汗が伝う、握る手のひらが湿り気を帯びて滑る。
立ちはだかる全員が、自分よりも遥かに高いステータスを持っている。
それが、数十人も。
勝てるのか勝てないのかを考える前に、脳裏によぎったのは“生きて帰れるのかどうか”という疑念だ。
口の中が乾く、呼吸が荒くなる。
だというのにやけに寒くて、フラムの手は震えている。
大抵のことには慣れたと思っていた。
しかし――どうあがいても自分では敵わない脅威を前に、彼女は恐怖する。
「まだ生存者はいる、彼らが逃げる時間を稼ぐぞ」
そう言って、ガディオは背中の剣を抜いた。
しかし彼も“勝つ”とは言わない。
エターナも意識を集中させ、魔法発動の準備を始める。
その表情は、いつになく緊張していた
一方でフラムは――こういうときに考えるのは、いつだってミルキットのことだ。
恐怖を押し殺すには、帰る場所のことをひたすらに想うしかない。
魂喰いを握りしめ、そして――
「……はい」
震える声で、精一杯の勇気を振り絞り、そう返事をした。
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