第65話 追想






 夜の移動は危険なため、今日は立ち寄った農村で一晩を過ごすこととなった。

 避難者があまりに多く、宿はどこもかしこも満員、馬車の荷車や、中には野宿を選ぶ人間も多い。

 そんな中、ミルキットたちはリーチの手配によって無事にベッドで寝ることができていた。

 もっとも、泊まるのは宿ではなく、彼の知り合いだという農家でだが。

 慣れない馬車の移動で疲れもあったのだろう、インクやハロムは早々に眠り、ミルキットも日付が変わる二時間ほど前に寝ていた。


「た、大変だよっ!」


 そんな三人が寄り添い眠る部屋に、ケレイナが駆け込む。

 その大きな声に、ミルキットが目をこすりながら体を起こし、「どうしたんですかぁ?」と気の抜けた声で聞き返した。

 遅れて、インクとハロムも目を覚ます。


「外がっ、王都が……ああ、なんて言ったらいいのかわかんないけど、とにかく大変なんだ!」


 ケレイナの様子からして、尋常でない事態が起きているのは間違いなかった。

 フラムの身に何かがあったというのか――ミルキットは真っ先にベッドから出ると、部屋から飛び出す。

 そして裸足のまま外に立ち、王都の方角を見た。


「あれは……」


 ミルキットは絶句する。

 フラムが戦ったという赤子よりもさらに巨大な化け物が、地面から上半身だけ生えているのだ。

 そのお腹はぽっこりと膨らんでおり、ドーム状に王都を包み込んでしまっている。

 そしてそいつは、まるで我が子を愛でる母のように、手のひらで優しく腹を撫でていた。


「まさか、あれが、あんなものが、マザーという人が作り出そうとしていたもの……?」


 内部がどうなっているのか、外からでは全く見ることができない。

 存在しているのか、消えてしまっているのかさえも。


「ご主人様……」


 体から力が抜け、膝をつくミルキット。

 他にも心配事はいくらでもあったが、とにかく彼女の頭の中はフラムのことでいっぱいだった。


「あ……ああぁ、ご主人様あぁぁぁぁっ!」

「ちょ、ちょっとミルキットちゃん!」


 家から出てきたケレイナは、突然走り出したミルキットを羽交い締めにした。


「どこに行くつもりなんだい!?」

「だって、だってご主人様がっ、あの中にいるんです!」

「だからって、今から走ったって間に合うわけがないだろう!」

「それでもっ、それでもぉっ!」


 何もできないなんて、嫌だった。

 ただでさえ離れ離れになって心が張り裂けそうなぐらい苦しくて痛いのに、主の危機にも駆けつけられないなんて――


「ご主人様あぁっ!」


 ミルキットはひたすらに呼びかけ続ける。

 その声は暗い夜の空に響き渡ったが、フラムまで届くことはなかった。




 ◇◇◇




 人の世は、結局のところ好みの押し付け合いだ。

 思いやり、気を使い、親愛、情愛、性欲、あれやこれやと、私たちはどこまでいっても独立した生き物である。

 そしてぶつかったら誰かが折り合いをつける、我慢をする。

 傲慢に食物連鎖の頂点に到達した人間が勝者である。

 恥など捨てろ。

 欲望をさらけ出した人間の勝利だ。

 ならば、真の勝者になるべきは、悪人ではないか。


「私はマイク・スミシーです」


 ご覧の通り。

 迎合する。

 諦観する。

 だから、彼らは子供する。

 マイク・スミシーという個へと変質して浮かび上がり孵化する。


「私はそういう人生を歩んできたの」


 歩んではいない。

 しかしなぞりはした。

 そこは繭の中。

 生暖かく、赤い、とても心地のいいきもちのわるいコロニー。

 私はそれを広義の子宮と呼んでいる。

 子供を育む場所、という意味ではもっともそれらしい器官かもしれない。

 すなわち同化機構であり、ギフト。

 記憶の注入。

 意識の同調。


「わ、わたっ、わたしはっ、わ、わわわ、わだ、し、しし、しいぃぃぃ、いいいい、いいいいい」


 最終工程が完了すると最上部へ。

 管が伸び、繭を捉え、凝固物質を注入。

 肉体を変質。

 卵のように割れる繭。

 粘液とともに王都上空よりそれは落ち、べちゃりと叩きつけられる。

 立ち上がったそれは、赤子であった。

 外殻と外見はそのままに縮小したような、しかしゆうに三メートルはある。


「私はマイク・スミシーです」


 精神と肉体が同一ならば、彼はもはや完全なるマイク・スミシーである。




 ◇◇◇




 だから正しさは、全てが私になることだった。

 なぜ過ちを過ちとして認めないのか理解に苦しむのは私の責務。

 仕方がない。

 感覚器官、いわゆる耳による交合の場合は齟齬が生じるのが人のコミュニケイション。

 根気強く重ねることが大切である。


「違う」


 しかし、そういう駄々をこねる子供にはどうするべきなのか。

 育児の難しさを痛感する。


『違わない』


 しかし諭すはマイク・スミシー。

 私たちの居場所は同一。

 つながる道理はあった。

 ここは血管で編み上げた繭の中、つまり擬似子宮の中、命の水で満ちる海。

 あるいは風船。

 もしくは細胞。

 むしろつながらない道理はない。

 なのになぜ、なぜ、あなたは。

 あなただけは。


『同情はあなたの得意技でしょう? なら私にも同情しなさい、もしくは共感でもいいわ』

「嫌だ、嫌だっ、嫌だっ!」

『違いは何? あなたが手を差し伸べてきた彼らと、私の何が違うと言うの?』


 それでも彼女は拒んだ。

 だから彼は語る。

 それは追想であり、インプリントだ。


『往生際悪く駄々をこねていないで、早く正しくなりましょう』


 そこは夜が明けない王の都。

 子宮に包まれた街並みは、薄暗く肌色に照らされる。

 それはまるで、閉じたまぶたの向こうから、瞳を照らす陽の光のよう。

 朝を拒むこの場所に、無数の紅色風船が、明暗とりどりにふわりふわりと浮かんでいる。


 彼らわたしを繭と呼びましょう。

 共感、増殖、そして接続。

 あるいは浮びあがるロジックは回転か。


 とにかく彼女はチルドレンだった。

 マザーは自分の産んだ子にマザーと名付け、そしてついに母となった。

 同時に幸福なる子となる。

 それはマイク・スミシーが過ごしてきた日々の精算。


『あなたなんか産まなければよかった』


 どこかで聞いたことのあるような悪意に満ちた台詞を、母はよく私に吐き出した。

 場末の娼婦は日々の食い扶持を稼ぐので精一杯で、堕胎のための費用など稼ぐ術も無かったのだ。

 望まれぬ子だった。

 何度も捨てようとしたが、そのたびに誰かに咎められたので、彼女にとって私という存在はおそらく呪いのようなものだった。

 あるいはマイクフラムだったら呪いすらも反転できたのだろうか。

 でも安心して、私はあなた、あなたは私、だから私は私。

 じきに溶け合い、


「来るな、来るなぁっ!」


 それはフラム・アプリコット、あるいはマイク・スミシーの、


「く、来るな……っ!」


 それはフラム・アプリコットマイク・スミシーの、


「わ、私はっ……が、がぼっ!」


 一つの記憶となる。

 管を追加、食道に接続、どろりとしたそれを流し込む。

 蒸せて目を剥く彼女の意志など関係ない。

 なぜなら彼女は私なのだから。


『せめて売り物になる女だったらよかったのに』


 母はそんなことも言っていた。

 思えば、その言葉がきっかけだったのかもしれない。

 五歳ぐらいのときに、母の機嫌を取るように、私は女の格好をして母の前に現れた。

 勝手に化粧道具を使って、ドレスも――のたれ死んでいた娼婦のドレスをくすねて、綺麗にして。

 母は言った。


『気持ち悪い』


 そして私を殴った。


『私の顔をしてそんな格好をするな』


 何度も殴った。


『私の現実を見せるな』


 泣いても彼女はやめなかった。

 むしろ、私の涙は母にとって興奮剤のようなもので、むしろエスカレートする要因にしかならない。

 しかし、“泣くな”と怒鳴りつけて泣き止む子供などいるわけもない。

 泣かないわけにはいかなかった。


 何度か、水桶に頭を突っ込んで殺されかけたことがある。

 それは母にとってのストレス解消の手段のようなもので、本気で命を奪おうとはしていなかったのだろう。

 しかし幼い私には恐怖だ。

 恐怖は共有したい。

 恐怖はもっともわかりやすいシンパシズムである。

 同調、同情、あなたのそのほんの少しの接続ツナガリが、あなたを私の子供にして、あなたを私にする。

 続きを始めましょう。


 もちろんそんな境遇で育ったフラムは学校教育など受けられなかった。

 路地裏で偶然にも見つけた、泥水で汚れた本。

 それだけが私の世界だった。

 読み書きさえできるようになれば少しは稼げるようになるだろう、そう思って独学で学んだ私だったが、母にはそれだけの知能がなかった。

 幼い私はそのとき気づいた。

 ああ、この人は無能なんだ、と。

 するととたんに楽になる。

 期待しなくてよくなったからだ。

 かわいそうで、むしろかわいらしくて、私は初めて、母に対して子供らしい愛情を抱くことに成功した。

 そんな私が余計に気味悪かったらしく、暴力はエスカレートした。

 けれど平気だった。

 暴力すらも愛おしく思えたから、私は母に流されながらマゾヒスティックな愉悦を覚えて、喘ぎながら果てたこともある。

 それが嫌だったのか、考えてみれば私の母なのだから彼女はサディストではなくマゾヒストだったのかもしれない、だったらお返しに殴ってやればよかったのかしらなどと今になって思うが、もはや遅い。


 二人で暮らしていた部屋が焼けた。

 私が十三のときだ。

 人生に絶望した隣の娼婦が焼身自殺して、それに巻き込まれる形でボロいアパートメント全体が焼け落ちた。

 母も焼けた。

 黒焦げの死体にすがりついた私は、その耳元(らしき)部位に口を近づけて語りかける。


『肌を焼かれる痛みは、気持ちよかった?』


 母がマゾヒストだと言うのなら、きっとさぞエクスタシーを楽しんだことだろうと思う。

 そして私はぺろりと彼女の肌を舐めた。

 おいしかった。

 苦くて、臭くて、あれだけ私を虐げてきた母がこんな惨めな姿になったのかと思うと面白くて悲しくてとても美味しかった。

 人の肉の味を覚えたのはそのときのこと。

 私がさらに一口二口かじりついていると、誰かが私を止める。

 きっと母親が死んで錯乱しているのだろう。

 そんな(私にとって)都合のいい解釈をしてくれたおかげで、私はかわいそうな被害者になれた。

 保護され、引き連れられた先は、教会。


 母が死ぬ前、私は首を切ったことがある。

 自殺しようとしたのかはわからない。

 動機は不明で、気づけばナイフが首に当たっていて、肉が裂けていた。

 教会の修道女にはそのときにお世話になって、あのローブは私が着たらきっととてもかわいらしいだろうなあと思った。

 そして、


「……っ、ぐ……は……けほっ、こほっ……!」


 フラムは管を噛みちぎる。

 そんな力が残っているなんてとても意外、拒むのはやっぱり体に流れる力があるから?

 そして魂喰いを引き抜こうとして、伸びた触手に手が縛り上げられた。

 それでも睨みつける。

 どこにいるのかもわからない、声の――いや、声と呼ぶべきなのかはわからないが、不愉快な“何か”を押し付けてくるそいつ・・・を。


「興味、ない。あんたの……過去、なんて、どうでも……いいっ!」

『あら酷いわ、同情してくれないの? インクを救ったじゃない、ミュートやルークの死体を弔おうとしたじゃない。なのに、私だけ、仲間はずれなの?』

「違う……加害者のくせに、被害者面しないでよッ! あんたさえいなければ、みんな……まだ八年しか生きてない子たちが、死ぬことなかったのッ! あんたとあの子たちは全然違うっ!」

『違わないわよ、だってたくさん殺したじゃない。あれはあの子たちが勝手にやったことよ。私もあの子たちも同じ、加害者なの』

「選択肢を奪ってそうさせた張本人が白々しいこと言わないでっ!」


 フラムはきゃんきゃん泣きわめく。

 うるさい。

 とても耳障り。

 だから管を伸ばして、先端を回転させる。

 ぎゅいいいいぃぃぃ、と威勢のいい音を鳴らして、両こめかみに接近。


「あ――」


 穴を開き、穿孔する。


「あっ、あが、がっ……!」


 口を開いたまま、ガクガクと震えるフラム。

 なおも沈む。

 じきに脳に接触、先端よりどろどろとしたあなたはだあれと液体を流し込む繰り返し尋ねる


「がひゅっ、ひ、ぎゅっ……あっ、わ、わら……ひ、ぎ……っ、が……!」


 ねえフラム・アプリコットマイク・スミシー

 ねえマイク・スミシーフラム・アプリコット

 ねえ|マイク・スミシー。

 あなたはマザー。

 同化しましょう。

 共感しましょう。


「ぢ、が……っ、ぐううぅぅ……ッ!」


 月日は流れる。

 教会で学んだ日々。

 オリジンコアとの出会い。

 チルドレン計画の発案。

 第一世代――失敗。

 挫折、苦難を乗り越え、私はまた強くなる。

 第二世代――第一世代よりはマシなものの、失敗。

 けれど私は理想の母になる必要があった。

 なぜなら母になるわけにはいかなかったから。


「――な、に……それ」


 礎。

 最終的には壁にもなる。

 とても便利だった。

 寄る辺は私しかいない。

 そういう意味ではインクは意外だったが、第一世代が離脱したところで特に問題はなし。

 むしろあれに必死になる人間がいることに驚き笑う。

 そこまでする価値などないというのに。

 その後、採取したデータを用いて、第三世代の創造に着手。


「み、みんな、あんたの……ごっ、ごど、を……母親、だっ、て……がああぁぁぁぁっ!」


 私は母親になりたかった。

 それは私を産んだあの出来損ないの母親を否定するために。

 私は子供になりたかった。

 それは私が過ごしてきた苦しく無様な子供時代を上書きするために。

 そのためのチルドレン。

 そのためだけ・・のチルドレン。

 代償は大きかった。

 けれど、私はついに成し遂げたのだ。


「……て、ない……! あんた、は……何も、成し遂げ、て……なんかっ……!」

『そう……ああ、確かに、オリジンがあなたを特別扱いする理由はよくわかるわ。“どうせできっこない”、“無駄だ”、そんな声が聞こえてくるから私は見逃されているのかしら。だったら――』


 フラムの腕、その特に肉がついて美味しそうな部分にそれは突き刺さった。

 そして注ぎ込む。


「ひぎううぅぅぅ!」


 どくんどくんと脈打って、濁った液体が記憶とともに流れ込む。

 同化が進むと子供になり、繭は浮き上がり、飲み込まれる。

 だからまた突き刺した。

 次は脇腹、


「あっが――」


 太もも、


「ぎっ、ぎひゅっ」


 頬、額、首、おへそ、ふくらはぎ、胸、肩――


「あっ、ああぁぁぁあああああああッ!」

『かわいそうに』


 彼女は思う。


『そんな力さえなければ、もっと早く楽になれたのに』




 ◇◇◇




 王城のバルコニーに出たサトゥーキは、その光景を見てため息をついた。


「まったく悪趣味だな」

「私も同感ですわぁ。ある意味でオリジンらしくてぇ、乱雑でぇ、何より可愛らしくありませんものぉ」


 隣に立つエキドナも、不愉快そうな顔をして言い放つ。

 地表に張り巡らされた、うごめく赤い網。

 それを糸として作り上げられた赤い繭。

 繭は“同化”、あるいは“共感”の進行とともに浮き上がり、中身が完全にマイク・スミシーと化すのと同時に内膜・・に接触。

 すると粘膜から紫の管が伸び、突き刺さり、内部に大量の粘液を注ぎ込んだ。

 完了するとさらに紫に色が変わる。

 にちゃぁ、と割れたそれの内側から、肌色の何かが産み落とされた。

 そして地面に叩きつけられる。

 血まみれになりながら赤子は立ち上がり、王都をさまよい始めた。


「教会にも困ったものだ、ネクロマンシーはともかくとして、このような研究に予算を注ぎ込んだところで、兵器として運用することなどできるはずもなかろうに」

「彼らはオリジンに対して盲目的で甘いすからぁ。母親、かつ子供になるために、自分で自分を産み落とし、そして他者も自分に染め上げる――自身のコンプレックス解消という動機さえ除けば、マザーがやっていることはオリジンの思想ともっとも近いですわぁ」

「つまり、むしろキマイラの方が異端だったということか」


 教皇も、王も、喜んで自らの命を捧げるほどオリジンに心酔していた。

 研究の副産物――オリジンの意志をシャットアウトする遮断機構の存在を知れば、彼らはむしろそれを糾弾しただろう。

“なぜ偉大なるオリジン様を拒絶するのか”、と。


「そういえば、また大将軍様が怒ってらしたようですがぁ」

「あぁ――詳しくは話していなかったからな」

「裏切られますわよぉ?」

「だが彼女は話せば止めただろう、さきほど必要なことは伝えておいた」

「信用できますのぉ?」

「問題はない。彼女も私も、“人類を愛している”という一点がブレることはない。どれだけの犠牲を許容できるか、その差があるだけだ」


 サトゥーキは改めて王都を見渡す。

 チルドレンによって変わり果てたその姿を見て、心を痛めないわけではない。

 だが――


「汚染された傀儡を駆除し、この国を変わるためには痛みが必要だ。必要最低限の人員さえ生き残れば、あとはどうとでもなる。もちろん、スロウの救出は済んでいるのだろう?」

「それは当然ですぅ、今は意識を失っていますがぁ、城内で休まれていますわぁ」

「域内でのキマイラの活動にも問題はないということか」

「ふふふ、そちらに問題があればぁ、私たちも無事では済まないですものぉ。遮断機構はキマイラの技術の応用ですからぁ」

「ならば何も案ずることはない、あとは見守り、彼らの勝利を見届けるだけだ」

「そこが一番心配ですけどぉ」


 エキドナは唇に手を当て、横目で地上を見下ろす。

 彼女の視線は、グロテスクな光景の中で一人走り回る彼女の姿を捉えた。


「あらぁ、そういうこと・・・・・・ですかぁ」




 ◇◇◇




「はっ、はっ、はっ……」


 変わり果てた王都を、たった一人駆ける。

 これも計画通りだと言うのなら、手を差し伸べる必要はないのかもしれない。

 誰も彼女の手助けなど必要としていないのかもしれない。

 だが――放ってはおけなかった。

 きっと知れば、みなは“中途半端だ”とあざ笑うだろう。

 自分でもよく理解できない。

 何をしたいのか、どうしようとしているのか、どこへいきたいのか――


「はっ、はっ、は……」


 立ち止まる。

 ぶじゅる、と仮面の下から血が溢れた。

 未だ慣れないその不快な感覚に、体を震わせながらも、彼女は目の前に浮かぶ繭を見上げる。

 精神汚染の度合いによってその色と高度は変わる。

 最初は半透明の薄い赤だが、次第に濃くなり、最終的には紫に近くなるのだ。


「あなたは、どんな顔をするのでしょうね」


 ライナスを発見することはできなかった。

 できれば彼も救いたかったが、そうしたところで、根源を断たないことには問題は解決しない。

 だからマリアは、意識を失っているからなのか、あるいはそれも“勇者の性質”なのか、目に見えて汚染進行の遅い、キリルの繭の前に立つ。

 そして手をかざし、


「ジャッジメント」


 光の剣で彼女を包む繊維を裂いた。

 中身である透明の液体がぶちまけられ、どろどろに汚れたキリルの体が地面に落ちる。

 生臭い匂いが周囲に広がった。

 汚染進行が軽微だったために、繭を破壊したことによる負傷も軽い。

 しかし手足の何箇所かに裂傷が確認できた。

 マリアはキリルの傍に立つと、回復魔法でその傷を癒やす。


「ん……んん……っ」


 すると彼女は苦しげな声をあげながら、ゆっくりと目を開いた。

 その視界が、仮面の女を見つめる。

 素早い動きで距離を取ったキリルは、すぐさま剣を抜いて構えた。


「マリアッ! どうしてここに!?」

「助けにきたのです」

「え……?」

「周りを見てください、今は敵対している場合ではありません」


 言われるがままに、あたりを見回すキリル。

 地面に張り巡らされた脈動する赤い管に、浮き上がる無数の繭、そして赤黒い空。

 どこを取っても異様な有様に、目を見開く。


「な、なに……これ。フラムは? エターナは? ガディオやライナスはっ!?」

「動けるのはわたくしとあなただけですわ、そして早く“マザー”を倒さなければ、他のみなもあれ・・と同じ姿になってしまいます」


 マリアは、今まさに、天井にまで浮き上がったそれを指さした。

 伸びる管、注ぎ込まれる不明物質。

 そして中身の人間は変わり果て、卵が割れ、巨大な赤子が空から落ちる。


「う……うあ……っ」


 目の前の光景を否定するように、首を小刻みに振るキリル。

 しかしそんなことをしても、現実が変わることはなかった。


「フラムさんを救いたいのでしょう?」


 怯える彼女に向けて、冷たい声でマリアは言い放つ。

 キリルは――無言でうなずいた。

 マリアのことを信用することはできないが、フラムたちに危機が迫っていることは事実。

 今は、彼女の手を取るしかなかった。


「では、いきましょうか」

「……わかった」


 立ち上がったキリルは、剣ではなく他のエピック装備も顕現させる。

 白い篭手、白い鎧に、白いグリーブ、青色のマント、そして額には宝石の埋め込まれたサークレット。

 見た目だけは勇者らしくなった彼女だが、その瞳は、想像を絶する状況を前に、未だ不安に揺れていた。





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