第六章 渇望と忘却と終焉のプリズン・ブレイク
第69話 第一の囚人
コンコン、とドアをノックする音。
机に向き合うジーンは返事をしなかった。
聞こえてはいたが、それよりも
加えて、ここ数日外から聞こえていた爆発音やら悲鳴やらが煩かったため、彼は苛立っている。
もし来客が彼との対話を求めているとしても、それはまともに成立しないだろう。
コンコン。
それを知ってか知らずか、来訪者はしつこくノックを続けた。
さらに今度は声もかける。
「ジーン、そこにいるのはわかっているぞ」
声は女性のものだった。
それはジーンにとっても無視できない相手だったらしく、「ちっ」と舌打ちすると作業を中断して席を立った。
そして大股で部屋の入口に近づくと、苛立たしげに扉を開く。
「アンリエット、僕は忙しいんだ!」
ジーンは彼女を睨みつけ吐き捨てた。
長い緑の髪に、切れ長の紅の瞳。
女性らしいプロポーションとは裏腹に、表情には自信が満ちており、男らしさすら感じさせる。
アンリエット・バッセンハイム――胸元の開いたシャツを纏い、実にラフな格好をしているが、彼女こそが王国軍を統括する将軍であった。
「相変わらず不遜な奴だ、立場は私の方が上なはずだが」
「関係ないね。僕は軍にも王国にも縛られない、そういう条件でここにいるんだ」
横柄な態度を取るジーンに対して、アンリエットは余裕を崩さない。
「縛られないのは結構だが、外で何が起きているのか気にならないのか?」
「知っている」
「仲間が頑張っていたぞ、輪に加わらないでいいのか?」
「はっ、そんなことをしてどうなる」
アンリエットは「冷たいやつだ」と苦笑する。
だがジーンは、そんな理由で外に出ないのではない。
もちろん、一緒に旅をした仲間という意識も特に無いので、最初から助けに行く必要はないのだが――そうではないのだ。
彼は「何もわかっていないな」とつぶやいて、アンリエットに背中を向けると、また椅子に腰掛けた。
そして、マリアから渡されたコアを睨みつける。
「無意味なんだ、何もかも」
「お前らしくもない言葉だな」
「……アンリエット、そんなことを言うためにここに来たのかい? ああ、君がそういうのを好むことは理解しているさ。“仲間”だとか、“絆”だとか」
「いいや、それは違う。私は単純に――」
お決まりの台詞を言おうとするアンリエット。
それをジーンの声が遮った。
「――人間を愛しているから、だろう?」
彼女は満足げに頷いた。
「いいから早く出ていってくれ、研究の邪魔なんだ」
「それはマリア・アフェンジェンスに与えられた失敗作のコアだと聞いている、そんなものを見て何がわかる」
「正規採用されたコアではわからないことがわかる」
「具体的には?」
「どこまでも茶番だということだ。英雄も、サトゥーキも、キマイラも……オリジンもよくやる。だが僕は、他人を超越した気になって振る舞う連中が大嫌いだ」
「自虐か」
「違うね。この世界で唯一の天才である僕にこそ、その役は相応しいと思っている」
そう言ったきり、ジーンは黙り込んだ。
アンリエットが何を問いかけても、もう返事をすることはない。
彼女は諦めて部屋を出ると、廊下の窓から外の様子を眺めた。
そこにあるのは、破壊された街。
「時代を人間の手に取り戻す」
それは、人の命が散った光景だ。
アンリエットは窓に手を当て、食い入るように睨みつける。
そこには、人々の救出を行う英雄たちの姿も見えた。
「そのために必要な茶番と犠牲だと理解はしていても――不愉快なものだな」
彼女が感情的に、苛立たしげに言い捨てた。
するとパキッ、と窓にヒビが入る。
そして、その隙間に一瞬にして赤い血液が流し込まれた。
「……しまった」
彼女は中央がぱっくりと裂けた手のひらを見て、がっくりと肩を落とす。
「オティーリエに怒られるな……はぁ……」
そのままとぼとぼと、副将軍へと窓ガラスを割ってしまったことを報告に向かうのだった。
◇◇◇
人生とは何が起こるかわからないものだ。
十歳の彼女も、それぐらいは理解していた。
二歳で故郷が滅び、教会に引き取られ、そして十歳でフラムと出会いオリジンの化物と遭遇、さらになんやかんやあって王都を追放されてネイガスと行動を共にすることに。
これだけの波乱だ、もう何が起きても驚かないつもりではあった。
「おっ、残してんのか。ならもーらいっと」
「あ、兄さんっ! それあとで食べようと思って取っておいたんですよ!?」
「冗談だよ、冗談。ほれ、オレのが残ってるから食えって」
「形が違います、少し小さいです」
「仕方ねえな、じゃあこっちの野菜も付けてやるよ」
「それただ兄さんが嫌いなだけですよね……まあ私は好きなので食べますけど」
そう言って、上着の襟を立てた青い肌の男性の差し出した皿から、肉と野菜を受け取るこれまた青い肌の、純白のドレスを纏った少女。
彼女は大きな肉をひとくちを口に放り込むと、もっきゅもっきゅと頬を膨らましながら咀嚼する。
すると途中で、自分に向けられた視線に気づいたらしく、口の動きを止めた。
そして笑顔を浮かべ、
気まずくなって視線をそらす。
冷たい反応をしてしまったにもかかわらず、シートゥムは嫌な顔を一つせずに、むしろ口元に手を当てて軽く肩を震わせ笑った。
「どうしたセーラちゃん、手が止まってんぞ?」
「魔族の料理は口に合わなかったですかな」
「い、いえ、とんでもないっす! すごく美味しいっす!」
慌ててバッファローのシチューを口にかき込むセーラ。
味は間違いなく、王都の高級レストランでも敵わないほど絶品だった。
しかも、食材として大陸北部の寒い場所にしか生息していない、ヘルヘイムバッファローと呼ばれる希少、かつ強力なモンスターの肉を使用しているらしい。
どれぐらい強いかと言うと、あと少しでSランクに片足を突っ込むほどのステータスである。
そんなモンスターの肉を長時間煮込んだ結果、舌と口蓋で潰すだけで繊維が解けるほど柔らかく仕上がっていた。
また、染み出た脂が溶け、ただでさえ深みのあるソースに、さらなるコクと甘みを与えている。
極上である。
間違いなく、文句無しで一流の料理なのだが――状況があまりに極限すぎて、セーラは味どころではなかった。
自問する。
なぜ自分は三魔将+魔王と一緒に夕食を摂っているのか、と。
確かにネイガスは、魔族領に連れて行くとは言っていた。
だからもちろん、セーラとて顔を合わせることにはなるだろう、ぐらいは想像していたのだが……しかし、色々とイメージと違っていたのだ。
シートゥムは思っていた以上に女の子らしい女の子だし、ツァイオンはいじわるだが優しいお兄さんだし、ディーザはあまりに理想的な執事である。
それは、はじめてネイガスと会ったときの感覚に似ていた。
“思ってたのと違う”。
いや、そもそものイメージが間違っているのだ。
王国は、国民が魔族に対して良くない印象を抱くように工作を行ってきたのだから。
「……それにしてもっすよね」
セーラはぼそりと呟く。
そう、それにしても、暖かすぎやしないか。
敵対しているはずの人間が急にやってきたというのに、冷たくあしらわれるどころか、かなり手厚くもてなされている。
何かの罠ではないかと疑ってしまうほど、丁重に。
もっとも、セーラを罠にはめたところで意味など無いし、彼女もネイガスにはそれなりの信頼を寄せているので、そんなことはありえないと理解しているのだが。
だからこそ、余計に不安になる。
「ふふっ、まあ気持ちはわかるわ。魔族ってのは、いきなり取って食うような野蛮な化物だー、って信じ込まされてたわけだもんね」
セーラの脳内を察したネイガスが言った。
「人間も随分とセンスの無い嘘をつくものですな」
「ですが王国ぐるみとなると騙されてしまうもの、人間を責めるのは酷というものです」
「相変わらず熱くねえことをする連中だ、こうやって実際に合ってみりゃすぐわかるんだがな」
「そう言っても、魔族の話を聞いてくれる人間なんてそうそういないわよ。破壊活動はしてるわけだし」
ネイガスの指摘に、「あれだって嫌々だっつうの」とツァイオンは不服そうである。
「セーラさんのように、落ち着いて耳を傾けてくださる人間ばかりなら良かったんですけどね」
「おら以外にもそういう人はたくさんいると思うっすよ。ただ……偉い人たちにとっては、魔族が敵でいてくれた方が楽なんだと思うっす」
オリジンによる洗脳を抜きもしても、である。
共通の敵の存在は人間を一致団結させる。
事実だろうが虚偽だろうが、立ち向かうべき悪を用意することで、制御しやすくするのだ。
「敵意を向けられる方の迷惑などは考えてくれないのでしょうな」
人がちょっかいさえ出さなければ、うまく共存できるはずだった。
なぜなら魔族から争いを仕掛けることは、万が一にもありえないのだから。
「まあ堅苦しい話はあとにするとして、今はディーザさんの料理を楽しみましょ。私、久しぶりに食べれると思ってずっと楽しみにしてたのよ?」
ネイガスはそう言って、重苦しくなる空気をリセットした。
人も魔族も食事を楽しみたいと思う気持ちは一緒である。
セーラは一旦考え込むのをやめて、食事を口に運んだ。
◇◇◇
夕食を終えたセーラは、ネイガスに案内されて客室へ向かう。
彼女はその内装にいわゆる悪の組織のアジト的なものを想像していたわけだが、実際は想像していた以上に生活感に溢れている。
そもそもネイガスがセーラを連れて帰ってくること自体、前もって連絡していなかったので、仕方がないことではあるのだが――
「魔王城に洗濯物が干してあるのとか見たくなかったっす」
「私らの家なんだから当然じゃない、人間と同じように洗濯だってするし、掃除だって自分たちでやってるのよ? まあ、ディーザさんに任せてる部分は多いけども」
ディーザというあの魔族、出来る執事というのは、見た目だけではないようだ。
料理はできるし掃除洗濯もばっちり。
しかも、シートゥムやネイガス、ツァイオンの教育まで担当していたらしい。
「むしろあのディーザって人の方が魔王っぽかったっすよね」
「あはは、威厳は確かにそうかもしれないわね。私らとしても、シートゥムは魔王ってより妹って意識の方が強いのよねえ」
「なるほど、だからあんな扱いだったんすね。特にツァイオンって人とはかなり仲良さそうだったっす」
「そう、お姉さんとしては寂しいところなんだけど……たぶん見てわかると思うけど、あの二人って明らかに両思いじゃない?」
「どこからどう見てもそうっす」
「やっぱりそう見えるわよねえ。だからとっとと告白しちまえよー、っていっつも思ってるんだけど、ツァイオンって襟立ててかっこつけてる割には奥手なのよ」
「それは熱くないっすね」
「ふふっ……面白いけど、それ本人に言ったらかなり怒るからやめておいた方がいいわよー?」
他愛のない会話を交わすうちに、二人は部屋の前にたどり着いた。
ネイガスは持っていた鍵で扉を開けると、「どうぞ」とセーラを中に入れる。
室内は広々としている、縦と横はおよそ八メートルほどはあるだろうか。
一人で過ごすには落ち着かない広さだが、ベッドは天蓋付きのキングサイズが一個だけ。
ネイガスと一緒に寝るのはセーラとしては御免こうむりたいので、一人で使うことになるのだろう。
「おら、こんな豪華な部屋に泊まるのは初めてっす」
壁にかかった絵画に、棚の上に置かれた花瓶、そしてふかふかの絨毯。
セーラはリーチの屋敷を思いだしていた。
「実はここ、私の部屋より豪華なのよね……」
「なんで普段は使ってないんすか?」
「客間だもの。ディーザさんは念入りに掃除してるみたいだけど、ここ数十年ぐらいは誰も泊まってないんじゃないかしら」
「もったいないっすねえ」
そう言いながらセーラはベッドに近づき、その手前から思いっきりジャンプした。
当然、ぼふっと顔から沈むことになる。
するとなぜかネイガスもベッドに近づき、似たように飛び込む。
「……なんで真似するんすか?」
「楽しそうだったから」
二人して埋もれながら会話する姿は、実に奇妙な光景だった。
「ところでネイガス、このあとはどうするんすか? 遊びに来るために戻ってきたわけじゃないっすよね」
「話し合いに関しては、このあと四人で進める予定よ。慣れない移動で疲れてるでしょうし、セーラちゃんはゆっくり休んでて」
「おらは参加しなくてもいいんすかね」
「魔族としての方針を決める会議だから、さすがにそこまで巻き込むわけにはいかないわ」
しかし、無関係と言うには、セーラは魔族との関係を深めすぎた。
ここまで連れ回しておいて、肝心なところで他人扱いされるのは少し傷つく。
不機嫌さを露骨に表情に出す彼女に、ネイガスは苦笑するしかなかった。
そして彼女の頭に手を載せて、金色の髪を軽くすきながら諭す。
「とりあえず今回は、ね? 今後もずっと蚊帳の外ってわけじゃないんだから」
「わかってるっすよぅ」
それでも不満は消えない。
だがセーラは聞き分けの良い子供である。
変に駄々はこねずに、ベッドから降り、部屋を出て話し合いに向かうネイガスを見送った。
◇◇◇
食堂に戻ったネイガスに、シートゥム、ツァイオン、ディーザの視線が集中する。
「遅かったな」
「セーラちゃんを愛でてたら時間がかかっちゃったわ」
「人間に入れ込むのは結構だが――」
「わかってるし、あの子に関してそれはありえないから」
ツァイオンはセーラを“オリジンに近づかせるな”と言っているのだ。
確かに彼女はオリジン教の修道女だが、セーラの信じるオリジンと、実在するオリジンは別物である。
「ディーザさん、地図を用意してくれたのね」
「必要かと思いまして」
ネイガスは、テーブルに身を乗り出して、広げられた地図を眺める。
「ネイガス、わざわざこうやってオレたちを集めたってことは、人間たちが扱うオリジンの力の出処がわかったってことか?」
彼女はまだ、魔王城に帰ってきた理由を伝えていなかった。
いや、元々ここは彼女の家なのだから、帰るのに理由は必要ないのだが、今回は長期間戻っていなかった上に、人間まで連れてきている。
ただごとではない、とツァイオンだけではなく、他の二人も察していた。
「そこはまだわからないわ、でもとんでもないものを見つけちゃってね」
そう言って、ネイガスは王国東の魔族領との国境付近を指さした。
そこには“イリエイス”という地名が記されている。
「ここには元々町があったんだけど、それがまるごと教会だか王国だかの研究施設に改造されてたわ」
「人間たちがオリジンに関する研究施設を持っていることは、以前からわかっていたことでは?」
ディーザの指摘に、ネイガスは首を横に振った。
「規模がね、他とは桁違いなのよ。あいつらが“キマイラ”って呼んでる、モンスターを使った生体兵器を生み出すための施設なんだけど――私とセーラちゃんが見た時点で、すでに千を越えるキマイラが製造されていたわ」
「いまいちピンと来ねえな。そのキマイラってのはどんぐらい強えんだ?」
「キマイラには三種類あるの。二メートル未満の小型キマイラ、大体三メートルぐらいの中型キマイラ、そして十メートルを越える大型キマイラ」
キマイラは、それぞれのモンスターの組み合わせによって大きさが異なる。
つまり、王都にてチルドレンを追っていたものは、“小型キマイラ”に分類されるものだ。
ただしこのカテゴライズは、ネイガスが勝手に行ったものではあるが。
彼女は少し間をおいて、真剣な表情で告げる。
「小型でも、全てのステータスは6000を越えているわ。大型に至っては、敏捷と感覚以外が10000を越えていた」
「そ、そんなっ! それが……千体も、いるんですか?」
一対一ならば、戦闘力はここに揃う魔族の方が上かもしれない。
だが数が違いすぎる。
ネイガスたちが確認しただけでも、大型は五十体、中型は二百体ほど。
小型が一番ステータス的には弱いとは言え、七百を越える数を前に、立ち向かえる生物などこの世に存在しない。
「まさか人間は、それを使ってまた戦争をおっ始めるつもりなのか!?」
「それしかないわ。だってここ、国境付近よ? 攻める気しか見えてこないじゃない」
「自身が命を落とす可能性にさらされず、キマイラだけを使って憎き魔族を滅する……人間にとっては理想的な展開ですな」
苛立つツァイオンに、冷静に分析するディーザ、そして困惑するシートゥム。
反応は様々である。
「率直に言うわ。このままじゃ、私たちは勝てない。オリジンの封印は人間の手に落ちてしまう可能性が高い」
「停戦の交渉はっ!」
「無理だシートゥム、仕掛けたがってるのは他でもない人間側だぜ? むしろ停戦交渉を利用してオレたちを悪者に仕立てあげるに決まってる」
「よくわかってるわねツァイオン、私も同感よ」
「ですが……人と魔族が争っては、オリジンの思う壺です。どうにかして避ける方法を見つけなければなりません」
シートゥムの考えは甘いかもしれない。
だが、こんな状況だからこそ、彼女の考え方が重要だった。
ストッパーがいなければ、人と魔族はいとも容易く戦争状態に突入してしまう。
本来、二つの種族は手を取り合って生きていくために生まれてきたはずなのだから。
「今すぐにその方法を見つけるってのは難しいかもしれない。でもそのための第一歩として、私に提案があるんだけど」
「聞かせてください」
「勇者たちを、こっち側に引き込まない?」
ネイガスが思い浮かべているのは、正確には勇者ではなくフラムたちのことだ。
教会やオリジンと敵対している彼女らなら、“戦争を止めるため”という理由があれば協力してくれるかもしれない。
しかしツァイオンは、それを「はっ」と鼻で笑った。
「無理だな。戦力の無い俺たちが味方に引き入れたい理由はあっても、あっちが魔族に付く理由がねえ」
「ですがそれができれば、確かに勇者をオリジンの封印に近づける危険性はありますが、対話による和平の可能性も見えてくるかもしれません」
「まあ、和平がどうなるかはわからないけど、セーラちゃんみたいに、ちゃんと話をすればわかってくれると思うんだけどな」
少なくともフラムとガディオあたりは行けるはず、とネイガスは確信していた。
「まずはどうやって接触するかが問題だろ」
「……それは、そうだけども」
「今はまだ難しいかもしれませんな。ひとまずは、本当に戦争に発展するのか、人間たちの動向を監視しつつ、戦闘に参加できるセレイドの住人に声をかけておくといいのではないでしょうか」
ディーザの的確な提案に、三人は頷くしかなかった。
戦争を止めようにも、サトゥーキはシートゥムの言葉に耳を貸そうとはしないだろう。
フラムたちを引き込もうにも、会いに行くことすら困難だろう。
人間との間に深い溝が存在する今、彼らにできることは相当に限られていた。
◇◇◇
翌朝、ネイガスはすぐに魔王城を出た。
もちろんセーラも連れて。
向かう先は、国境付近の研究所である。
「ごめんねセーラちゃん、もう少し長く滞在できたらよかったんだけど」
空を飛ぶネイガスは、腕で抱えられたセーラに向けて言った。
「気にしないでいいっすよ。でも結局は、あそこに戻ることになるんすね」
セレイドから国境線までは、空を飛べば二日ほどで到着する距離である。
二人はときにじゃれあい、ときにネイガスがセーラに頬をつままれたりしながら、イリエイス付近まで移動する。
特に敵に見つかることもなく、目的地である施設から離れた丘の上に降り立つ二人。
ここから双眼鏡で、敷地内の様子を観察するのだ。
とはいえ、建物の中までは見えないため、大した情報は得られない。
できることはせいぜい、そこで産み出された大量のキマイラがどこへ向かうのか、その行き先を追跡することぐらいである。
所定位置に到着後、今日の監視を続けてから丸一日。
一切の収穫が無いまま時間は過ぎていき、別の方法を使うべきか、とネイガスが考え始めた頃――
「あ……あれ?」
双眼鏡を覗き込むセーラが、何かを発見したようである。
「どうしたの、セーラちゃん」
「いや、その……あの馬車に乗ってるの、フラムさんのパートナーと言えばいいんすかね。とにかく、ずっと一緒にいた、ミルキットさんって人なんすよ」
見間違いなどではない。
セーラが目撃したのは、間違いなくミルキット本人だった。
しかも、その隣にはインクまでいる。
なぜこのタイミングで、なぜこんな辺境の研究所なんかに。
「その子は戦える?」
「無理だと思うっす」
「つまり、非戦闘要員が何人か、化物蠢く研究所に連れてこられた、と――」
思い当たる理由は一つしかない。
「もしかして……人質、っすか?」
できればノーと言ってほしかったセーラだったが、ネイガスはすぐさま首を縦に振った。
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