閑話1 人間そう簡単には変わらない

 



 アンリエットとオティーリエは、二人並んでフラム宅から離れていく。

 フラムが歩いていたときほどの野次馬はいないものの、彼女らも有名人だ。

 周囲はそれなりにざわついていた。


「お姉様、まだ仕事が残っていましたの?」


 オティーリエはそう問うた。

 フラムと別れるときに、アンリエットがそう言っていたのである。

 しかし彼女から返事はない。

 なぜか少し俯いて、口を真一文字に結んでいる。


「お姉様?」


 再び問いかけるオティーリエ。

 するとアンリエットは、少し上ずり気味な声でこう言った。


「な、なあオティーリエ。このまま、少し歩かないか?」

「はあ、いいですわよ。ですが急にどうして……」


 きょとんとするオティーリエの手を、アンリエットが強引に握る。

 オーディエンスの一部が『おぉっ』と沸いた。

 30歳になるくせに手をつないだ程度で騒ぎすぎだろおい――と思われそうだが、彼女は奥手なことで有名なあのアンリエット将軍なのだ。

 もちろん、公衆の面前でのスキンシップなど、今までほぼ前例がない。

 あったとしても、オティーリエ側から仕掛けたものがほとんどだ。


「くすくす……」


 すると、オティーリエが口元に手を当てて笑い出した。


「な、なぜ笑う」

「つい嬉しくて」

「それだけではないだろう」

「お姉様が珍しく意地を張っていらっしゃるので、面白かったというのもありますわね」


 そう言われると、アンリエットは珍しく不貞腐れたような表情で、空を仰いだ。

 それがまたおかしくて、オティーリエはますます笑いが止まらない。


「奥手と言われたのがそんなに悔しかったのですか?」

「それもあるが、何より十代の子たちの過激さに充てられてな」

「あれは例外ですわ」

「だが、オティーリエは情熱的な私の方がいいのだろう?」


 アンリエットなりの最大限の“情熱的”が手をつなぐだけ、というのがまた、オティーリエにとってはツボであった。

 だがこれ以上笑えば、さすがに機嫌を損ねてしまいそうなので、ぐっとこらえる。

 その代わりに出てきた言葉も、紛れもなく彼女の本音だった。


「お姉様がお姉様であれば、わたくしは他に何も要りませんわ」

「お前はそればかりだな」

「わたくしの中には、お姉様に関連するものしかありませんもの。つま先から頭の先――あるいは、細胞に至るまで全て」


 満面の笑みで言い切るオティーリエ。

 以前のアンリエットは、彼女のそういった言動に多少なりとも寒気を感じていたものだが、今は無い。

 むしろ無償の愛を向けられていることを、好ましく思う。

 しかし一方で、違う問題も発生していた。


「オティーリエ、私は不安なんだよ」

「何がですの?」

「お前が私のどこをそこまで好いているのか、てんで理解できない。二十年以上、その想いを利用し、弄んできた。今だって、十分に応えられているとは思わない。そんな私のどこがいいんだ?」


 それはアンリエットの、紛れもない本音である。

 それを聞いたオティーリエの表情は――歓喜に歪んだ。

 たまたま通りすがった一般人の全身に鳥肌が立つほどおぞましく、狂気を孕みながら。


「ふ……ふふふ……んふふふふっ、あはははははははははぁっ!」


 彼女は繋いでいた手を放し、笑い声をあげて駆けた。


「あっははははははっ、あははっ、ははははははははは!」


 両手を広げ、誰の目に見ても明らかに“笑み”を顔に張り付けて、ひたすらに笑い、走り、笑い、走る。


「お、オティーリエ?」


 戸惑うアンリエット。

 彼女をよそに、オティーリエが止まる様子はない。

 子供が飛行機の真似をするように、そこらを走り回る。


「こんな日が! こんな日が来るなんてぇっ! お姉様! おねえさまぁぁぁぁんっ! わたくし、今、世界で一番幸せですわぁっ! んふふふっ、くはははははっ!」


 最初は心配していたアンリエットも、彼女が喜んでいることに気づき、ひとまずほっと胸をなでおろす。

 しかしだ、何がそこまでオティーリエを喜ばせたというのだろうか。

 アンリエットにはこれっぽっちも心当たりがなかった。

 するとオティーリエが首を傾げる彼女に駆け寄り、そして真正面からぎゅーっと抱き着いてくる。


「お姉様?」

「ど、どうしたんだ」

「お姉様ぁ?」

「ああ、私だ。私は私だが、何が……」

「お姉様あぁぁぁんっ!」


 オティーリエは胸に顔をうずめ、ぐりぐりと首を振る。

 その匂いを肺いっぱいに吸い込み、体中でぬくもりと感触を感じた。

 さらに首筋に口づけすると、舌でべろりと舐めて、味も確かめる。


「うぁ!? 何をやってるんだオティーリエ、外だぞ外っ!」

「五感でっ、五感でお姉様を感じていますのぉ!」

「なぜそんなこと!?」

「感じないと、お姉様への想いがあふれて、んふー……ふー……ふぅぅんっ……あはぁ、頭が、爆発してしまいそうですのぉ……っ」


 とっくに爆発している。

 が、アンリエットは翻弄されるばかりで、突っ込みを入れる余裕などない。

 とりあえず周囲の好奇の目が耐えられなかったので、オティーリエを抱きしめたまま路地に逃げ込んだ。


「ふぅ……ひとまずここなら大丈夫か」

「ふー、ふー、ふー」

「オティーリエ、どうしたんだ。何がそこまでお前を興奮させたんだ?」

「んっふぅ……わかりませんのぉ?」

「さっぱりわからん」


 アンリエットは正直に答える。

 するとオティーリエは、「正直なお姉様も素敵ですわぁ」と腰をくねらせた。

 もはや何を言っても好感度に変換されそうだ。


「お姉様、不安に感じてらっしゃったのでしょう?」

「そう、だな」

「わたくしがお姉様のどこを好きかわからないと、不安に思われていたのですよね?」

「そう言っているだろう」

「どうやったらわたくしの気を引けるのかわからないから、いつか離れてしまうのではないかと不安だったのですわよね?」

「そうとも言うが、なぜ繰り返す」

「だって、お姉様、それは――」


 オティーリエの瞳が大きく見開かれる。

 さらに彼女はぎょろりとした黒目をアンリエットに向けて、限界まで口角を吊り上げ笑い、言い放った。


「愛、ですわ」


 愛――その単語が、アンリエットの脳内に、エコーがかかったようにリフレインする。

 存在は知っていた。

 しかし、自分の中にそれが在るのか、胸にあるそれが愛と呼ばれる物なのか、確証はなかった。

 少なくとも、今までは。


「わたくし、これほどはっきりと、お姉様から愛を感じたのは初めてなのです。あのお姉様が、ずっと遠くで、寄り添っても離れていて、触れていても少し距離を感じたお姉様が、わたくしに愛を向けてくれる……! これを狂喜せずして何がオティーリエ・フォーケルピーでしょうか! いいえ、ここはあえてオティーリエ・バッセンハイムと、お姉様の姓を名乗らせていただきますわ!」


 お姉様の胸に手を当てながら、饒舌に、早口にまくしたてる。


「これが愛、なのか?」

「はい、お姉様っ!」

「オティーリエ、お前は……私のこの不安より、ずっと強い気持ちを、二十年以上も抱いてきたのか?」

「そうですわ。そしてこれからも、五十年でも、百年でも、来世でも人類が滅びても魂が尽き果てても、わたくしの中からお姉様への想いが尽きることはありませんの」


 嬉しそうに話すオティーリエだが、対するアンリエットの顔はどんどん曇っていく。

 そして彼女の両腕が、オティーリエの体を包み込んだ。


「……オティーリエ」


 さらに耳元に口を近づけ、優しく囁く。


「辛い想いをさせたな」


 甘い声に、オティーリエはびくびくと体を震わせた。


「あ……ああぁ……あっはぁぁぁ……そんな、そんな、もったいないお言葉ですわ……っ」


 幸せの絶頂である。

 憧れのお姉様が、憧れで終わるはずだった天上の存在が、今、自分の体を抱きしめながら同じ想いを胸に抱いている。

 そんなもの、夢ですら見なかった。

 過ぎた真似だと、オティーリエほどの人間でもストッパーをかけてきた。

 それが――実現したのだ。

 当然、泣いた。

 滝のように涙が流れ、アンリエットの服を濡らした。

 それでも足りない。

 いっそ眼球や脳みそ、内臓まで目から流れ出してしまいたいほど、大きな感情が体の中に渦巻いている。

 それほどまでに感動しているオティーリエに、あろうことか、アンリエットはさらに追い打ちをかける。


「フラム・アプリコットが戻ってきたということは、じきにあれ・・も実現するだろう。そのときは――本当に、戸籍の上でも、オティーリエ・バッセンハイムになってくれないか? すまないが、今の私には、それぐらいしかお前に報いる方法が見つからない」


 オティーリエの動きがぴたりと止まる。

 信じられないものを見るように、アンリエットの顔を凝視する。


「お姉様……それは……ひ、秘書として隣に置いていただけるだけでも幸せですのに、そこまで……よろしいん、ですの?」

「私自身がそうしたいと思ったんだ」

「秘書でも、同僚でも、幼馴染でも、恋人でもありませんのよ? それは……」

「ああ、伴侶だな」

「HANRYO……」


 オティーリエは独特の発音で反芻する。

 そして言葉の意味を飲み込み、脳まで届くと――まるで麻薬が弾けるように、極度の興奮が彼女を支配した。


「お姉様……お姉様……お姉様あぁぁぁぁああああっ! ああぁぁっ、お姉様っ、お姉様ぁっ、はっひ、ひぅっ、ひゅー、ひゅうぅぅっ」

「落ち着くんだオティーリエ」


 過呼吸に陥りそうな彼女の背中を、アンリエットが優しく叩く。

 そのたびに、オティーリエは体をびくんびくんと震わせた。

 逆効果である。


「お、おち、落ち着くことなどっ、できませんわぁっ! お姉様あぁぁぁんっ! お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様お姉様! あぁぁぁぁあああっ、お姉様あぁぁぁぁぁぁあああああああ……あ」

「オティーリエ?」


 彼女の動きがぴたりと止まる。

 かと思うと、体から力が抜け、だらんとアンリエットに寄りかかってきた。


「ま、まさか気絶したのか? って何かが濡れて……うわぁっ! 漏らっ……!? 嘘だろう、いくら嬉しいからってそこまで……おいオティーリエっ、起きるんだオティーリエっ! 大変なことになっているぞ!? オティーリエぇぇぇっ!」


 その叫び声は当然、路地の外にまで響き、また野次馬が集まってきた。

 結局、オティーリエの名誉を守るために、彼女はその体をお姫様抱っこして街中を駆け抜けることとなり――翌日、新聞各紙は好き放題にその様子を報じた。

 もっとも、人々は基本的に二人の恋路を応援する者ばかりなので、どこも好意的な内容であったが。

 ちなみに、一部の記者はそれ・・にも気づいていたが、新聞では特に触れられていなかったそうだ。





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