第136話 それもまた、一つの幸せの形として
どうして私ばっかり。
なんで私だけが。
そうなりたくなかった。
普通でいたかった。
特別な力も劇的な人生も必要なくて、ただ当たり前の日常を過ごしていたかった。
誰だってそう思ったはず。
私も、フラムも、マリアも。
そういう意味では、たぶん、私たちはとてもよく似ていた。
けれど私たちは、それぞれ違う道を選んだ。
マリアは死んだ。
まるでその運命は最初から決まっていたように、きっと彼女は十年前、故郷が滅ぼされたあの日から詰んでいた。
フラムは生き残った。
過酷な運命を、強靭な心で、何度も折れそうになりながらも、立ち上がって、立ち向かって。
最後には神すらその手で滅ぼしてみせ、全てを救い、本当の英雄になった。
私はどうだろう。
気づけば勇者と呼ばれていて、誰もが私をそういう風に扱った。
私という個人は、そこに存在しない。
けれど、フラムだけは、唯一“キリル・スウィーチカ”と友達として接してくれた。
私は明るい彼女の笑顔に救われて、けれど心が荒んでいくうち、いつの間にかその笑顔が煩わしく思えてきた。
あるいは妬ましかったのか、もはや今となってはなぜそう思ったのかすらわからない。
まあ、理由なんてどうでもいい。
結果として、私はフラムを裏切った。
見返りも求めずに心を支えてくれた人を、傷つけた。
とんだクズだ。
死んだほうがいい。
今でも、そう思い続けている。
そんな私は、それでも“英雄”で、“勇者”だった。
気づいたときには、もうそうなっていた。
オリジンを滅した歓喜、フラムがいなくなった悲嘆、壊れた街を復興するための団結。
そのどれにも私は馴染めるはずもなく、ずっと疎外感の中で今日まで生きてきたのだ。
そうこうしている間にも“物語”は作り上げられる。
本人不在の英雄譚――フラムが地獄から這い上がっていく実話をベースとしたその
二人は固い友情で結ばれている。
互いに支え合って、ときに反発しながらも、協力してオリジンを滅した。
創作だけれど、王国に住む人間や魔族たちは、本当にそう思い込んでいる。
それはおそらく、実際に戦いに参加した人たちの、心遣いだったんだと思う。
私がオリジン側についてフラムを殺そうとしたことが伝われば、世界に私の居場所なんてなくなるだろうから。
優しさが身に染みる。
でも同時に、とても惨めで、息苦しい。
それは“私”が受け止めるにはあまりに重すぎる咎。
だから私は、私を捨てた。
私でない――誰よりも強い
人々は偽りの英雄に歓喜した。
理想を体現した言動、物語で語られた通りの人格、もちろんファンサービスも欠かさない。
実際、当時の私は、少なからず疲弊した人々の心の支えになっていたと思う。
だからといって自己弁護するつもりはない。
ミルキットの心をひどく傷つけたのは事実で、彼女が放った拳は紛れもなく正当な権利だ。
私自身、『また過ちを犯したのか』と、今でもたまに思い出しては自分を殺したい気分になるのだから。
理想は遠く、私はいつまで経っても私のまま。
変わらない。
変われない。
永遠に、フラムみたいには。
◇◇◇
「ご主人様、起きてください」
「んんぅ……」
揺らされ、起こされるフラム。
いつもならミルキットの声に反応しすぐに目を開くところだが、今日は寝起きがあまりよろしくない。
「ご主人様ぁ」
ぐらぐら、ぐらぐら。
なかなか起きないフラムに、揺れは激しくなっていく。
「うー……あー……」
昨晩は、やけにミルキットがやる気で寝るのが遅かったのだ。
どうせ用事もないのだし、できればまだ寝ていたいのだが――
「ごーしゅーじーんーさーまー?」
彼女が、寝かせてくれない。
フラムがうっすらと目を開けると、二人は目が合った。
「おはようございます、ご主人様っ」
にっこりと笑って言う、メイド服姿の
「……おはよ」
脳内に浮かぶ無数のハテナマーク。
何がどうなって、キリルがメイド服を着てフラムを起こすことになったのか。
そしてミルキットはどうしているのか――起きてすぐの思考回路には重すぎる難題を前に、フラムは呆然とするしかなかった。
◇◇◇
着替えたフラムは、やたらニコニコして腕を絡めるキリルとともに、一階に降りる。
ダイニングではエターナが新聞を広げ、インクが顔を近づけてその内容を覗き込んでいる。
ミルキットは――キッチンで朝食を作っていた。
エプロンはいつもどおりだが、その下に着ている服がメイド服ではない。
キリルが好むスマートなパンツスタイル――おそらく彼女から私服を借りたのだろう。
そのせいで胸のあたりが、ぱっつんぱっつんになっていた。
「……みんな、おはよう」
「おはよう」
「フラム、おっはよー!」
釈然としないフラムが挨拶をすると、エターナとインクはいつもどおり返してくれる。
しかしミルキットは無反応だ。
「ミルキット?」
声をかけるも、やはり反応はなし。
いや――よく見てみると、肩が震えている。
さらに近づいてみると、押し殺したような声で、
「ふ、ふぐっ……く……ひぐっ……」
「な、泣いてる……? ミルキット、どうしたの、どこか痛いの!?」
「な、なんでも……ありま、せんっ……ただ、きょ、今日は一日、キリルさんが……ごしゅ……いえ、フラム、さんの……フラムさんのぉっ……メイド、だからぁっ……」
「あぁ……だから、キリルちゃんあの格好だったんだ」
ひとまず謎は解けた。
フラムは困り顔でキリルのほうを見ると、彼女も似たような表情をしている。
「ミルキット、そこまでなら別に私はいいんだよ?」
「いえっ、わだじが……いいだしたこと……ですからぁっ……」
そう、言い出しっぺはミルキットである。
キリルが彼女に『フラムとじっくり話したいことがあるから、一日だけ時間がほしい』と提案し、そこから二人で話し合い、プランを練り、そういうことになったのだが――決してキリル本人は、フラムのメイドになりたいとは言っていない。
ミルキットがあえてそれを勧めたのは、それだけ彼女にとって、フラムのメイドというポジションが大事だということなのだろう。
「ねえミルキット」
フラムはミルキットの肩に手を多くと、少し強引に自分のほうを向かせた。
そして優しい表情で、涙を浮かべる彼女の瞳を見つめる。
そのとき、ミルキットの目には、王子様のようにキラキラと輝く主の姿が映っていたに違いない。
「たとえメイドじゃなくなったって、私とミルキットはもう夫婦なんだよ? その関係が消えることは無いんだから」
「……それでは、その……あなた、とお呼びしてもいいですか?」
「いいけど、そんな呼び方されたら、今日はミルキットのこと離せなくなりそう」
「あっ……」
フラムの両腕がミルキットの体を引き寄せた。
二人は体を密着させて抱き合う。
しばし互いの感触と体温を楽しむと、今度は至近距離で見つめ合い、今日はまだだった“おはようのキス”を交わす。
それは一度ではなく、ついばむように何度だって。
「キリルのメイド服すらいちゃつく口実にするあの手腕……あたしも見習いたいなあ」
インクは顎に手を当てて、その光景をしっかりと目に焼き付けている。
そんな彼女を、エターナはジト目で睨みつけた。
「見習ってだれに使うつもり」
「誰って……そりゃあ、ねえ?」
歯を見せて笑うインク。
エターナはバツが悪そうに視線を新聞のほうに戻した。
一方でキリルはというと、一人蚊帳の外にされて不機嫌になっているかと思いきや――微笑ましくフラムとミルキットのやり取りを眺めている。
いや、というよりは、フラムの幸せな表情を見てほっこりしている、と言うべきだろうか。
なんにせよ、そこに“愛人”を名乗るほどの爛れた欲望は感じられず、エターナはちらりとキリルを見て、不安げに眉をひそめるのだった。
◇◇◇
その後、キリルとミルキットは服を交換し、いつもの格好に戻った。
今日一日、フラムがキリルに貸し出されるという事実は変わらないが、ミルキットはもう悲しんだりはしない。
朝食を終えると、さっそくキリルは、
「出かける準備をしてくるから、フラムも済ませておいてよ。あと、格好は動きやすいほうがいいと思う」
と言って自分の部屋に向かった。
まだ完全に状況が飲み込めたわけではないフラムは、困惑した様子で、ミルキットのいれてくれたホットミルクをすする。
「出かけるならもっと前に言ってくれればよかったのに」
「申し訳ありません、サプライズにしたほうがご主人様に楽しんでいただけるのではないかと思いまして」
「ミルキットが提案を?」
「二人で話し合ったんです」
「もしかして、キリルちゃんとミルキットって、割と仲いい?」
「はい、今はよくお話したり、二人で買い物にも行ったりしますよ」
「へぇ……意外な組み合わせだ」
殴られたと聞いていたのだから、てっきり今でもわだかまりが残っていると思っていたフラム。
しかし逆に、その出来事が二人の関係にはプラスに働いたのかもしれない。
「形は違えど、ご主人様のことが好きなのは同じですから。よくご主人様トークで盛り上がっています」
自分のいないところでされる自分の話ほど怖いものはない。
(盛り上がってるって、この前のお酒に酔ったときみたいな喧嘩じゃないよね。というかあの愛人の話、ミルキットはどう思ってるんだろう……)
もちろん、フラムにはキリルを愛人にするつもりなどない。
ミルキット一筋である。
それとは別に、キリルのことは友達として好きだし、今の一緒に暮らせる毎日がいつまでも続けばいいとは思っている。
だがそのためにも、例の発言の真意だけははっきりと聞いておきたいところだ。
「ふぅ……んじゃ、そろそろ私も準備するかな」
「キリルさんともお話して、お弁当を用意していますから、忘れずに持っていってくださいね」
「ありがと。昼がお弁当ってことは、王都をぶらぶらするわけじゃないんだ……」
「予定は未定ですが、キリルさんはピクニックに出かけるつもりみたいですよ?」
「だから動きやすい格好のほうがいいって言ってたんだ」
まあ、どのみちいつものスタイルで行くつもりではあったが。
席を立ち、部屋を出て二階へ向かおうとするフラム。
「フラム、待って」
すると彼女を追いかけてきたエターナが、階段の手前で呼び止めた。
「エターナさん、なんですか?」
「こういうの、言うのはどうかと思うけど……キリルのメンタルの状態について」
「聞きました、オリジンとの戦いが終わった直後はひどかったって。でも今は……」
「ミルキットに殴られたあと、しばらく部屋に閉じこもって、かと思えばある日いきなり復活してた。そのあとから、人が変わったように明るくなって、ミルキットとも仲良くなって……最初は彼女のほうが驚いてたぐらい」
「情緒不安定って言いたいんですか?」
「わたしにはそう思えた。だから一応、気をつけてあげてほしい」
それは医者として――というよりも、同居人としての心配のようだ。
確かに、フラムもキリルに関してはわからない部分が多い。
今の笑顔だって、紙一重の部分で我慢を続けている可能性だってある。
「わかりました。そのあたりも含めて、話せることは話してみようと思います」
「頼んだ。たぶん、フラムにしかできないことだから」
そう言って、インクの隣へ戻っていくエターナ。
彼女にだって悩みはあるだろうに、“年長者”としての責任感からから、周囲の心配をせずにはいられないのである。
フラムは彼女に軽く頭を下げると、あらためて二階へ向かうのだった。
◇◇◇
同居人たちに見送られ外に繰り出したフラムとキリル。
早速フラムは彼女に尋ねる。
「今日はどこにいくつもりなの?」
「……どうしよっか」
「いやいや、さすがに考えてあるんでしょ?」
「それが考えてないんだ。その日になったら行きたい場所が思いつくかな、なんて思ってたから」
「えぇー」
あまりのノープランさに、がっくりと肩を落とすフラム。
「まあなんとかなるよ」
ミルキットに持たされたバスケットゆらゆらさせながら、キリルはにへらっと笑った。
その表情に、勇者であることを強制されていた彼女の姿は無い。
かつて二人で王都を歩いたときのような自然体が、常に続いている。
引きこもったあとからずっとこの状態だというのだから、エターナが不安になる気持ちもわかる。
だがフラムは、情緒不安定というよりは――なにか吹っ切れたようなものを、今の彼女から感じていた。
「というわけで、フラムはどこか行きたい場所、ない?」
「うーん……急に言われてもなぁ」
「じゃあ、ぱっと浮かんできた単語を言ってみて」
「キリルちゃんの故郷」
「ははは、馬車で三日はかかるよ。往復で一週間以上、そんなにフラムのことを独占したら、今度は一発じゃ済まないと思う」
そう言いながら、「シュッシュッ」とシャドーボクシングの真似事を披露するキリル。
どうやらミルキットに殴られたことを、自虐しているらしい。
いくらシャドーとはいえ、勇者の拳は鋭く早く、巻き起こる風がフラムの前髪を揺らした。
「ねえキリルちゃん、私にいい考えがあるんだけどね。故郷までは馬車で三日かかるわけでしょ?」
「運悪く雨にふられたら四日か五日になるかもしれない」
「でも、私なら数十分で行けるとは思わない?」
「……私?」
「そう、私」
フラムは自分の顔を指さした。
要するに、徒歩――と言っていいのかわからないが、その人間離れした身体能力をフル活用すれば、日帰りでもキリルの故郷に遊びに行けると、彼女はそう主張しているのだ。
「実はこっちに戻ってきてから、一度も全力で体を動かせてないんだよね。いや、というかオリジンをぶっ飛ばしたときも、今の体をフル活用したかと言われるとそうでも無いような気がしてる」
「いや、フラム。さすがにそれは無理だと思うよ? 確かに、私の足で全力疾走したら、一日ぐらいで着くとは思う。でも――」
「物は試しだし、やってみようよ。あんまりこの力は好きではないんだけど、こういう目的になら使ってもいいかなって思うし……キリルちゃんの故郷、自然が豊かで空気がおいしいところって言ってたよね。ミルキットのお弁当もおいしくいただけると思うんだ!」
「……本気?」
「本気も本気。それともキリルちゃんの故郷にいくのは、都合が悪いとか?」
「ううん、それは嬉しいけど……」
「じゃあ決定! というわけでさっそく外へゴー!」
「待ってフラム、本当にやるつもりなの!?」
「もっちろーん!」
フラムに手を引っ張られ、街の外まで連れて行かれるキリル。
本人たちはただ走っているだけだが、そのスピードは圧倒的に人間離れしたものである。
二人は大通りの通行人たちの視線を集めながら疾走する。
目的地である西門まではあっという間に到着し、衛兵たちはそのテンションの高さに戸惑いながらも、敬礼して彼女たちを見送った。
街の外に出た二人は、通り過ぎていく人々や馬車に手を振りながら街道を歩き、ある程度進んだところで脇道にそれた。
人目につかない場所に移動するためだ。
フラムとキリルが手をつなぎながら誰もいない茂みへ――いかにも記者が欲しがりそうなスキャンダルだが、幸いあたりには誰もいない。
というか、いたとしても気配を察知されすぐに見つかっていただろう。
「問題は、どんな感じで移動するかだけど……」
「走っていくんじゃないの?」
「だとすると……キリルちゃんの故郷ってどっちになるんだっけ?」
「ここから見ると東南東の方角かな」
「すっごく大きな山が見える……」
「あの向こう側にさらに大きな山があって、その先だよ。フィナーツは山に囲まれたのどかな村だから」
「となると、走っていくなら障害物を越えないといけないよね。その点、飛んでいけば障害物は関係ない」
「飛ぶ? ああ、反転の力を使って?」
「違うよ。あれは制御がめんどくさいし、もっと簡単な方法があると思う」
「……思う?」
はっきりしない言い回しに、不穏な空気を感じ取るキリル。
しかしフラムはもうやると決めているのか、彼女の静止を聞きそうにもない。
「いきなりやられると怖いから、先になにをするかだけ聞いていいかな」
「ひとまず、私がキリルちゃんを抱えます」
「わかった、抱えられる」
それはいわゆるお姫様抱っこ。
今のフラムの筋力なら、人間一人ぐらいなら綿と対して変わらないぐらいの重さしかない。
ミルキットから受け取ったバスケットや水筒の入ったバッグはフラムが肩にかけ、手ぶらになったキリルは両腕をフラムの首に回す。
「キリルちゃんなら落ちても大丈夫だと思うけど、念のためしっかり掴まっておいてね」
「……ん? 待ってフラム、だから前もって説明を――」
「説明ならしたよ?
そう言って助走を始めるフラム。
ようやくその時点で、キリルは彼女のやろうとしていることに気づいたが――それでもやはり、心の準備をする時間ぐらいは欲しかった。
フラムが地面を蹴ると、ズドォンッ! と隕石でも落ちたような音がして、地面に直径数十メートル穴があく。
同時に二人の体は天高く舞い上がり、コンシリア上空を軽々と飛び越えていった。
「ひいいぃぃぃぃぃぃっ!」
急激な行動上昇に思わず悲鳴をあげるキリル。
「ひええぇぇぇええええっ!」
同じく恐怖に叫ぶフラム。
「なんでフラムまで叫んでるのぉっ!?」
「だ、だって、こんなに飛ぶとは思わなかったし! うっひゃあぁぁぁああっ!」
まだまだ高度は上がり続ける。
見えていた山どころか、雲の高さすら越え、心なしか酸素も薄くなってきた気がする。
強烈なGと急激な気圧な変化に普通の人間ならとっくに意識を失っているだろう。
上昇は成層圏に突入する直前で止まる。
高度が安定し、ひとまず安堵の吐息を漏らす二人。
しかし次に始まるのは、驚異的な速度のフリーフォールである。
「きゃあぁぁぁああああっ!」
「うひいぃぃぃいいいいっ!」
フラムとキリルは派手に絶叫しながら落下した。
速度はどんどん増していき、雲を突き抜け風を裂き、それこそ本物の隕石のように地面に向かって急降下。
叫びながらも下に人里が無いことを確認したフラムは、そのまま速度を緩めることなく重力に身を任せ――ズウゥゥゥンッ! とこれまた巨大なクレーターを作りながら、両足でしっかりと着地した。
砂煙立ち込める中、二人は同時に――
『はあぁぁぁ……』
と大きくため息をついた。
「フラム……さすがに今のは、心臓に悪いよ……」
「ごめん、私もあんなことになるとは思ってなかった。でも、すごい移動距離じゃない?」
振り向くと、すでに王都は見えなくなっていた。
というか――遠くに見えていた山を通り越えている。
あとひとっ飛びすれば、キリルの故郷まですぐに到着するだろう。
「宅配便とか、手紙配達とかすればいいと思う」
「あはは、それは暗に乗り心地が最悪だって言ってるんだよね」
「言うまでもないと思う」
フラム自身も叫ぶぐらいなのだ、抱えられていたキリルの恐怖は当人が感じたもの以上だったはずである。
「今度は調整して、あの山を飛び越えるぐらいにしておくから」
「それでも十分に怖いけど、ここまで来たからにはもう引き返すわけにもいかないね」
キリルはため息混じりに言うと、半ば諦めながら再度フラムにしがみついた。
そして再びの助走――跳躍。
今度は力を加減して、目の前の山を飛び越える
一度経験したからか、今度は叫ぶことはなかった。
とはいえ、それなりの恐怖はあったが。
◇◇◇
コンシリアを経つこと十数分――あっという間にキリルの故郷、フィナーツに到着。
彼女の突然の里帰りに、村人はみな驚いた様子である。
あっという間に二人は囲まれ、大騒ぎになってしまった。
「おいおい、いきなり帰ってくるなんて聞いてないぞキリル!」
「コンシリアで嫌なことでもあったのかい?」
「あそこは都会だからなぁ、やっぱりキリルには田舎の空気のほうが向いてんだよ!」
「おい待て、一緒に来た嬢ちゃんはまさか……」
「英雄フラムだ! キリルが英雄フラムを連れて帰ってきたぞー!」
騒いだ人がさらに他の野次馬まで呼び寄せるものだから、もう歯止めが効かない。
「すごい賑わいだね。キリルちゃんの故郷って、うちと同じぐらいの規模だと勝手に思っちゃってたよ」
「いや、たぶん今ここにいる人たちが村の人口のほとんどだと思う」
平和でゆったりとした時間を過ごすフィナーツにとって、キリルの帰還とフラムの来訪は、それだけの大事件なのである。
二人が野次馬たちをなだめながら前に進もうとしていると、人の波をかきわけて、一組の男女が近づいてきた。
「お父さん、お母さんっ!」
キリルが嬉しそうな顔をした。
眼鏡をかけた細身の男性が父親で、これまた細身で病弱そうにも見える女性が母親らしい。
顔はどちらかと言えば父親のほうがキリルに似ているものの、雰囲気は母親のほうが近いようにフラムは感じた。
「キリル、連絡もなしに帰ってくるなんて驚いたわ」
「そうだぞ、お前が帰ってくるのは大事件なんだ、せめて手紙ぐらい送ってくれないと」
「ごめん、本当は帰ってくるつもりはなかったんだけどね、フラムが……なんていうか……散歩感覚で来たいって言うから」
もちろん、キリルの両親はそれを冗談だとしか思えない。
こんな山奥にある村に、散歩感覚で来れるはずがないのだから。
「あらキリル、あなたそんな冗談を言う子だったかしら」
「それが本当なの。フラムが私を抱えて、こう……空の上までジャンプして、山を乗り越えて来たっていうか……ううん……ごめん、うまく説明できないからフラムから言ってくれる?」
「キリルちゃんの説明でだいたい合ってると思うんだけど」
いくらオリジンを倒した英雄とはいえ、そんな真似ができるはずがない――普通はそう思う。
まだ両親は信じていない様子で、『なぜそんなごまかし方をするのだろう』、『なにか言えない事情でもあるのだろうか』と、どことなく不安げである。
「フラム、もう飛んじゃったほうが早いと思う」
「ここで?」
見せびらかすような真似はあまりしたくない。
しかし論より証拠、百聞は一見にしかず。
説明するより見せた方が遥かに話は早い。
村のど真ん中に穴をあけるのもよろしくないので、フラムは先ほどよりもさらに力を弱めて、垂直に、とにかく高く飛ぶことにした。
「よいしょっ!」
ゴオォッ――両足の力だけで、まるでロケットのように、天高く舞い上がっていくフラムの体。
それを口を半開きにして、無言で見上げる村の人々。
その姿が豆粒ほどのサイズになったところで上昇は止まり、そのまま上りと全く同じ道筋をたどって落ちてくる。
せっかくなので、今回は衝撃を殺し、地面に穴をあけないように意識して――着地。
シュタッ、とフラムが両足をつくと、村人たちは『おぉ……!』を歓声をあげて拍手をした。
「ど、どうも……」
気恥ずかしさに、指で鼻のてっぺんをかくフラム。
「とまあ、こんな感じなんだけど」
キリルは両親にそう言った。
実際に見せられてしまっては、彼らももはや納得するしかない。
「本当に散歩感覚でコンシリアからここまで……」
「さすがに都会の人は違うわね……」
少し認識がずれているようだが、些細なことだろう。
説明が一段落したところで、フラムはキリルの実家に案内されることになった。
◇◇◇
母親が掃除をし、昔の状態のまま維持してあるキリルの部屋。
「適当に座っていいよ」
そう言われ、フラムはクッションの上に腰を下ろす。
自分の部屋があるということは、この村ではそれなりに裕福な家と思われる。
おそらくは、フラムの家よりも。
しかし田舎の住宅は、どこも似たり寄ったりなものだ。
木の匂いが溢れる室内に懐かしさを覚えながら、フラムは興味津々にあたりを見回した。
「じろじろ見てもなにもないよ」
「そうでもないよ。押し花とか、ぬいぐるみもそうだけど、やっぱりキリルちゃんってかわいいものが好きなんだなーと再確認してた」
「そんなの、今の家の方がよっぽど派手じゃない?」
「確かにそれはそうかも」
現在、フラムの家にあるキリルの部屋には、たくさんのぬいぐるみが置かれている。
一体のくまさんを大事にしていた昔と違って、今のキリルには財力がある。
「ぬいぐるみハーレム状態だもんねえ、今のキリルちゃんは」
「その言い回しはおかしいと思う」
「あはは、私もそう思った。でもいいよねえ、故郷に帰ったら自分の部屋が綺麗に残ってるのってさ」
「フラムは帰らないの? まだ一度も家族に顔を見せてないんでしょ」
「手紙は送ったんだけどね。冒険者としての仕事を再開したら、お金を貯めてミルキットと一緒に帰ろうと思ってる」
それを聞くと、キリルは少し不満げな表情を浮かべた。
「自分は飛んで帰らないんだ……」
「う……ほら、キリルちゃんはもう何回か戻ってきてるんでしょ? 私は……ほら、ミルキットの紹介とか、いろいろあるから!」
「ふふ、わかってる。少しいじわるしてみただけ」
「キリルちゃぁん」
フラムが情けない声をあげると、キリルはさらに肩を震わせて笑った。
「ところで、さっき初めて聞いたんだけど」
「んー?」
「冒険者、やるつもりなんだ。フラムは力を使うのを嫌がってると思ってたけど」
目を細め、複雑な表情を浮かべるフラム。
「なんだかんだ言って、オリジンから奪った力だからさ、正直、ちょっと気持ち悪さはあるんだよね。でも時間が経ったって弱まる様子はないし、このままずっと付き合っていくんならさ、有効活用したほうがいいと思ったの」
「荒稼ぎできそうではある」
「うん、そんでミルキットに贅沢させてあげるの」
「ミルキット、困ると思うよ」
「あの子は遠慮しちゃうからね。『ご主人様が隣にいてくれれば十分です』って言われるかも」
「わかってるならどうして?」
「だって、渡すとちゃんと喜んでくれるし。愛情も、触れ合いも、時間も、お金でどうにかなるものも……私は、この世界で与えられる限りの幸せを、ミルキットに味わってほしいと思ってるから」
理想でも夢でもない。
フラムは本気でそれを実現するつもりで、なおかつできるだけの力をもっていた。
「二人って……本当にお似合いだね。誰かにそこまで想われるのも幸せだろうし、誰かのことをそこまで想えるのもそう。きっとそんな出会いができる人なんて、この世界で一握りしかいないと思う」
「んふふ、ありがと」
「そこで素直に『ありがとう』って言えるのがまた素敵だよね」
「なんかその褒め方、照れるんだけど……」
「本気でそう思ってるから」
微笑むキリルの瞳はぶれない。
あまりに真っ直ぐにフラムのほうを見るものだから、彼女が先に耐えきれずにそらしてしまった。
「ねえ……キリルちゃんさ、ずっと思ってたんだけど」
「酔ったときに言ってた愛人の話?」
「……え、覚えてたの?」
「なんとなくは。フラムがあの発言を聞いて悶々としてるのもなんとなく気づいてた」
「知ってたんなら、弁明するなり解説するなりしてほしかったなぁ」
「それは……話題が話題なだけに切り出しづらいから」
「気持ちはよくわかるけども」
フラムも同じだった。
だからこそ、今日まで先延ばしにしてきたのだ。
ようやくその意図が聞き出せる――彼女はそう期待したのだが、
「フラム、昼食ついでに外に出ない?」
答える前に、キリルはそんなことを言い出した。
もったいぶられると、余計に愛人発言の真意が気になってしまう。
もしかして本当に、キリルは自分に惚れているのだろうか。
しかし、だとすれば自分とミルキットのキスを見てニコニコ微笑むのはおかしい。
いや、逆に微笑むことでプレッシャーをかけているのだろうか。
はたまた、『ふふふ、今のうちに楽しんでおくといいわ』的な悪どい笑みなのだろうか――
色んな考えがフラムの脳内に浮かんでは消えていく。
できれば今すぐにその答えを聞きたかったが、ここでは話したくない、気持ちの問題があるのだろう。
そう考え、フラムは「わかった」と首を縦に振った。
◇◇◇
キリルが案内してくれたのは、彼女が昔よく通っていた、とっておきの場所だった。
「私以外は誰も来ない場所なんだ」
それもそのはず。
そこは切り立った崖の縁で、一歩間違えば落ちて死んでしまうような場所なのだから。
キリルの身体能力ならば、うっかり落ちても着地できるから問題ないらしい。
「これが怖くないなら、私のジャンプもあそこまで怖がることなかったんじゃ……」
「それとこれとは話が別だよ。全然違う」
「そうかなぁ、ここも私は割と怖いけど……でも、すっごい景色だね」
崖の向こうには、見渡す限りの大パノラマが広がっていた。
景色を遮るような障害物は無く、山の下には森が、その先には草原が、さらにその先には海まで見える。
「嫌なことがあったり、面倒なことを押し付けられそうになったら、よくここでぼーっとしてたの」
「キリルちゃんが?」
「うん、意外でしょ」
「でも、確かにそういう一面もあった気がする」
フラムが思い出しているのは、王都で遊んだあの日のことだ。
勇者ではない、素の彼女は、気取らなくて、強くもなくて、ごく普通に笑ってふざける、年相応の女の子だった。
だからフラムも、彼女と友達になれると思ったのだ。
「そっちがね、本当の私なんだ」
崖の縁に腰掛けると、遠くを見ながらキリルが言った。
風に金色の髪が揺れ、まるで一枚の絵のような光景がフラムの目の前に現れる。
しかしそこに描かれているのは勇者などではない。
田舎で奔放に暮らす、ごく普通の女性である。
フラムは見惚れて固まっていたが、我に返り、彼女の隣に座った。
「ここで誰かが隣に座ったの、フラムがはじめてだよ」
「そりゃそうだよ。私だって、実は滅茶苦茶ビビってるもん」
ぷらぷらと揺れる足の遥か下に、地面が見える。
うっかり落ちてしまったら――と思うと、たぶん普通に着地できるだろうが、それでも怖いものは怖い。
「マザーとの戦いのときなんて、自分から飛びにいってたくせに」
「戦ってるときと今とじゃ全然違うの!」
「確かにフラムって、戦ってる間は凛々しいっていうか、ミルキットが言ってるようにすごくかっこいいけど、普段はふにゃってしてるよね」
「……戦ってるときは、かなり無理してたから」
「やっぱり……そうなんだ」
「もうオリジンはいないし、よっぽど、ミルキットを狙う馬鹿野郎でも出てこない限り、あの状態になることはないかな」
「辛いもんね、無理してると」
「うん、かなりしんどい」
しみじみと言うフラム。
するとキリルは視線を落とし、山の麓に広がる森を眺めながら語り始めた。
「私ね、ミルキットを怒らせて殴られたことがあるんだ」
フラムもエターナに聞かされてそれは知っている。
だが本人から直接は聞いていなかったため、今までは知らぬ存ぜぬでとおしてきたが――キリルが自ら言うのであれば話は違う。
「……それは、聞いてる」
「やっぱりそうだよね。だったら、私がそのあと、ずっと部屋に閉じこもってたことも知ってる?」
「ん、そのとき一緒に聞かされた」
「なら話は早いかな。私さ、フラムのことが羨ましかった。なんなら妬ましくもあったし、フラムみたいにならなきゃって、勝手に目標にしてたりもした」
それは、フラムのいない四年の間、キリルに起きた心の変化の話。
憧れ自体は以前からあった。
だがやはり、キリルにとって彼女の存在がもっとも大きくなったのは、一方的に救われて、そしてまともに話すこともできないまま消えてしまったあの瞬間だ。
「理不尽な出来事を前にしても勇敢に立ち向かって、大切な人を守るために必死で戦って――そんなの、どこからどう見ても理想的な勇者だから。他の人たちもそう。エターナも、ガディオも、ライナスも、マリアも、なんならジーンだって、自分の理念を貫いてたと思う」
彼女の周辺には、“本物の英雄”がたくさんいて、それが当たり前だった。
勇者は、英雄たちのリーダーだ。
望む望まない関係なしに、その役目は果たさねばならない。
そう――無意識のうちに、キリルは思い込んでいたのだろう。
「でも、私にはなにもなかった。ポリシーやプライド、そういうものが。だから、もっとがむしゃらに頑張らなきゃって思ってた」
誰にだって、都合よく守るべきものとか、戦う理由なんてものがあるわけではない。
急に作ろうと思って作れるものでもない。
それが普通で、それが当たり前だ。
英雄たちのほうが異常なのである。
だが、キリルの周辺には普通の人間のほうが少なかった。
それが、彼女にとっての不幸だった。
「まあ、その結果がこれなんだけどね」
キリルは拳を握ると、苦笑しながらそれをフラムに見せた。
頑張った先にあったものが、ミルキットパンチ。
無理をしても得るものは無いどころか、ぶん殴られて、心がぽっきり折れてしまった。
その事件が、彼女の心に大きな変化をもたらしたことは、想像に難くない。
「それから自分の世界に閉じこもってる間にいろいろ考えて。考えて、考えて、考え抜いて――いくら考えたって、私はどうするべきなのか、見えてこなかった」
暗い部屋の中、見えるのは全て闇。
どん底まで追い詰められたフラムが見たあの景色と少し似た、全方位に壁が立ちふさがるような、あの感覚。
膝を抱えて、そこから脱出しようともがくと、さらに奥へ奥へと沈んでいく。
「成長しなくちゃならない。もっと強くならないと……って思えば思うほど、じゃあやっぱりフラムを目標にするやり方しかないって結論になるんだけどね。でもそれは間違いだってミルキットが教えてくれたわけで。そうやって同じ場所を、何度も何度も、ぐるぐる回って、無駄な時間を過ごすことになって」
袋小路で、本気でもう一生このままなんだろうと、キリルは思い込んでいた。
同時に、大事な友達であるフラムを裏切り続けた自分にはそれがお似合いだ――とも。
彼女は自己嫌悪の塊となって、自己否定をし続け、そして今の自分とは異なる自分を探し続けた。
だが――
「それで、ある日突然、ふと気づいたんだ」
キリルは笑う。
全てから解放され、軽くなった心の底から。
「そんなことしたって、全部無駄だってことに」
それはキリルの心に起きた革命とも言えるかもしれない。
しかし、勇者としての才能を見出され、故郷を出るあのときまでは、当たり前にできていたことだった。
いつからか道を踏み外し、違う方向へと進んでいた。
「私、立派な人間なんかじゃない。どんなに力があっても、田舎町に暮らす、ただの、ちっぽけな一人の人間でしかないんだって」
自分で自分のことを嫌いになるのは、理想とのギャップがあるからだ。
先に『こうならなければならない』と決めつけた自分がいて、その姿が今の自分とあまりに違うから、嫌って、遠ざけようとしてしまう。
目標を高く持つのは、ときにはいいことかもしれない。
あるいは、その目標が近い存在なら、無理は生じないだろう。
しかしキリルは、理想を高く――いや、
キリルにはキリルなりの良さがあるのに、それを全て捨てて。
「なまけることもあれば、サボることもある。特別性格がいいわけでもなくて、誰かの成功に嫉妬だってするし、嫌いな人だっている。それが……私だったんだよね」
できた人間じゃない。
ひょっとすると、どちらかと言えば“できない”側の人間かもしれない。
勇者としての才能で誤魔化してはいるものの、本来は努力家でもなければ、真面目でもないのだから。
だが――それでいいのだろう。
「私は私でしかない。周囲にどんな立派な人がいたって、自分まで立派になれるわけじゃない。だったら、周りの目なんて気にせずに、“勇者キリル”じゃなくて、キリル・スウィーチカという一人の人間として、好きなように生きればいいんだ、って気づいたんだ」
キリルは歯を見せて、にかっと笑う。
その笑顔から、エターナが心配したような心の揺らぎは感じられなかった。
彼女は自ら乗り越えたのである。
「かわいいものに囲まれて、甘いものを作って食べて、たまには故郷に帰ってこうやって自然の中でぼーっとして……そういうの。別に強くなくたっていい――そう思ったら急に世界が明るくなって、心も体も軽くなっていった」
好きなものだけに囲まれて生きる。
それは自分の心に素直であればいい――と言われると簡単なようでいて、実は難しい。
その境地にたどり着けたことも、一種の強さなのだとフラムは思う。
自分の力だけで到達したとなれば、余計に、
「私は私で、他人は他人。そう割り切れたら、他の人の幸せも素直に喜べるようになってきて、特にそれが仲のいい人なら、余計にね」
「だから……私とミルキットのことみて、ニコニコしてたの?」
「そういうことだよ。フラムが幸せそうなの見てると、私も幸せになれるから、自然と顔がニヤつくんだ。あ、もしかしてなにか企んでるんじゃないかと思ってたの?」
「企むってほどじゃないけど、なにかしら意味があるんじゃないかってビクビクしてた」
「私はただ笑ってただけなのに……」
「だってキリルちゃんが愛人とか言い出すから!」
「あれは冗談だから」
あっさりとそう言い放つキリル。
「じょ、冗談だったの?」
「……いや、一時期はそうじゃなかったんだけど」
「どっち!?」
フラムにとっては死活問題である。
同じ家に暮らす相手と三角関係なんて笑えない状況なのだから。
「私も血迷ってたっていうか、混乱してた時期があったから。フラムへの気持ちがなんなのかよくわからなくて」
「結論は出たの?」
「うん、恋ではなかった」
「……そっか」
「ああ、でもフラムのことは好きだよ」
「そ、それはどういう意味で?」
「近くで幸せになっていく姿を、ずっと見ていたいというか……」
「それは友達なの?」
「よりも少しだけ進んでるかもしれない。こうやってお話して、一緒に遊んで、それだけでこんなに楽しいって思えるのは、私にとってフラムだけだから」
親友と呼ぶのも少し違う。
うまく言い表せる言葉を、二人が互いに持ち合わせていなかった。
「やっぱり困るかな、こういうのは」
自らの手元を見ながら、寂しそうにキリルは言った。
一方でフラムは、頬をほんのり染めながら、空を見上げる。
「……私としても」
「しても?」
「キリルちゃんと一緒にいるのはとても楽しいから、純粋に嬉しいと思ってる」
答えを聞いてキリルは顔をあげると、安堵に頬をほころばせた。
拒まれたら諦めて、あの家を出ようと思っていたのだ。
フラムならそうはしないと想像できても、可能性が残っている限り恐れは残る。
だがその心配ももう必要ない。
「よかった。ミルキットがいるからそういうのは困るって言われたらどうしようかと思ってた」
「そこは……恋人が嫉妬したり怪しんだりする関係な気もするけど、ミルキットは今日も快く送り出してくれたし、あの子もキリルちゃんのこと認めてるんじゃないかな、と思って」
「拳で語り合った仲だからね」
「それネタにするには重すぎるから!」
実際、あれのおかげでキリルとミルキットは打ち解けたようではあるのだが。
それにしたって、公衆の面前であのミルキットに顔面を殴られたというのは、笑い話にするにはエキセントリックすぎる。
「というわけで、とりあえず……これからも、末永くよろしくおねがいします、ってことで」
堅苦しさを自覚しつつも、フラムはキリルに手を差し出した。
すると彼女はすぐにその手を握り、屈託のない笑みで答える。
「こちらこそ、おばあちゃんになっても気軽に話せる相手でいようね」
気が遠くなるほど先の未来の話だ。
しかし不思議とフラムには、年老いても今日のように語らう自分たちの姿が、容易に想像できるのだった。
◇◇◇
フラムとキリルはミルキットの作ってくれた弁当を食べて、村に戻っていった。
その後、村長に挨拶をしたり、色んな家を回ったり、英雄らしい仕事もこなしつつ、夜はキリルの家で“友人”としてもてなしを受け――宿泊を勧めるキリルの両親の誘いをやんわり断って、行きと同じように帰宅した。
日帰りにしては濃密な一日に、二人の顔にも若干の疲れが見える。
しかし、雲より高く飛び上がって見た夜景を見れば、そんなものは簡単に吹き飛んでしまった。
「すごい……星に手が届きそう」
高さにも慣れてきたキリルは、そう言いながら空に向かって手を伸ばした。
どれだけ高く飛んでも星はまだ遠いが、それを握ろうとするその発想が彼女らしい、とフラムは微笑む。
だが、こんな景色が目の前にあれば、彼女でなくとも手を伸ばしたくなるかもしれない。
遮るものがなにもない星空には、数えきれないほどの光が灯っている。
「こうやってお客さんを抱えながら飛び上がって夜景を見せたら、意外と稼げそうだよね」
「フラム、今それを言ったら台無しだよ」
そんなジョークを交わすうちに、あっという間にコンシリアは近づき――キリルの、フラム一日レンタルは終わりを告げた。
ちなみに、ミルキットはもっと早くフラムが帰ってくると思っていたらしく、帰宅するなり熱烈なハグで主を迎えたが――そんな二人のやり取りも、キリルは微笑みながら眺めていた。
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