第35話 溺れる

 






「苦しいよ、ガーくん」


 太い両腕で抱きしめられたティアは、微笑みながらそう言った。


「……ティア」


 ガディオは万感の想いをこめて、彼女の名前を呼ぶ。


「ん、そんなに寂しそうに言わなくても、あたしはここにいるよ」


 彼女もまた、彼への溢れんばかりの愛情がこもったような声で返事をして、背中に腕を回した。


「ティア……ッ」

「んっへへ、シャイなガーくんからこんな熱烈なハグを受けるなんて、生き返ってみるもんだね」


 腕の中に、確かにその感触があった。

 夢であるものか。

 ああ、ひょっとすると夢であった方がよかったのかもしれない。

 だがこれは現実だ、悪夢のような、幸せな現実なのだ。


「でもそろそろ……ちょっと、本気で苦しくなってきたかも……ギブギブっ!」


 ぼふぼふ、とガディオの背中を叩くティア。

 それで我に返った彼は腕の力を緩め、彼女の肩を掴んで正面から顔を見る。


「ずいぶんとたくましくなったね。六年って言われてもピンと来なかったけど、ガーくんの顔を見たら嫌でもわかっちゃう」

「ティアは、変わらないな」


 言いながら、彼女のほんのり赤らんだ頬に手を近づける。

 その指先は震えていた。

 まるで、今にも崩れそうな砂の女神像に触れるかのように。

 そして人差し指が接触すると、絹のようになめらかな感触が返ってきた。

 何度確かめても信じられない。

 けれどそこにいる。

 死んだはずのティアが、目の前に。


「でも、このあったかさは変わってないね」


 ティアは頬に触れた大きな手に、自らの手のひらを重ねた。

 目を細め、彼女もまた、ガディオが自分の目の前にいることを確かめているようだ。

 二人は黙ってお互いの存在を感じ合う。

 その空気感が、他者には近寄りがたい、二人だけの世界を作り上げていた。

 ケレイナはそんな彼らの様子を、少し離れた場所から複雑な表情で見つめる。

 しばらくそれが続くと、ティアは名残惜しそうにゆっくりと手を離した。


「色々伝えたいこともあるし、中に入ろっか」


 彼女はくるりと振り返り、ケレイナに問いかける。


「あたしの部屋ってどうなってる?」

「あ、ええと……当時のまんまだよ、ちゃんと掃除もしてある」

「そっか、ありがとねケレイナ。じゃあ、あたしの部屋でお話しよ?」


 ガディオはティアに手を引かれ、家の中に入っていった。

 二人の背中を、ケレイナはただ見送ることしかできない。

 頭の理解が追いついていない。

 教会の実験すら知らない彼女は、その理由を推察することすらできないのだ。

 だから、ただ一人置いてけぼりにされて、その場で立ち尽くすしかなかった。




 ◇◇◇




 ある地方に、とても綺麗な実をつける木が群生していた。

 しかしその実には毒があり、食べれば、少しずつ少しずつ体は蝕まれていく。

 その地域に住むものは誰もがそれを知っており、当然のように、誰に注意されるでもなく、口にしようとは思わなかった。

 だが、その地方に住むある男は、興味本位でその指先ほどの大きさしかない木の実を食べてしまった。

 以降、彼は取り憑かれたように毎日それを食べ続け、その末に、血を吐いて死んでしまったらしい。

 途中で周囲の人々は止めたにも関わらず、なぜ彼は、摂取を控えることができなかったのか。

 単純な話だ。

 その木の実は、非常に甘美な味をしていたから。

 彼は、その虜になってしまったから。

 ただそれだけ。

 たったそれだけの理由で、男は自らの意思で毒を体に取り込み続け、死んでしまった。


 ガディオは、ロウから聞いたそんな話を思い出していた。

 当時の彼は、『馬鹿な男だ』と笑って流したが――さて、今の彼に、男を笑う権利などあるのだろうか。


「むーう、しっかしワイルドになっちゃったねえ、ガーくん」


 屋敷にあるティアの自室。

 彼女は、ソファに座る彼の膝の上に腰掛け、その顔に触れていた。

 以前から彼に甘えるときはいつもこの体勢だったのだ。

 とはいえ、ここまで親密な関係になれたのは、彼女が死ぬ一年ほど前のことで、そう長い期間ではなかったが。


「でも、昔の細くて爽やかだったガーくんもいいけど、今のガーくんもこれはこれで素敵だね。面影は残しつつも、守られ甲斐のある立派な大人の男になったって感じ。さすがあたしの旦那様だっ」

「……そうか?」

「うん、そーだよ。謙遜とかしないでいいから、あたしがそう思ったんだし」


 そう言って、厚い胸板にしなだれかかる。

 ガディオは自然と、彼女の背中に腕を回していた。

 癖のようなものだ。

 何かとスキンシップを取りたがるティアを、彼はいつも背中に腕を回して抱きとめていたから。


「あたしにとってはほんの一ヶ月程度の出来事なのに、もう六年も経っちゃったんだね」

「屋敷は変わっていなかっただろう」

「この部屋とか、びっくりするぐらいそのままだった。でも、王都の町並みとか、生きてた人たちとかは、みんな変わっちゃってる。ケレイナもだし、ハロムちゃん……だっけ。ソーマとの子供が、あんなに大きくなってるとは思わなかった」


 ティアは寂しげに言った。

 空白の六年間は、もうどうあっても埋めることはできないのだ。

 そんな彼女を見て、ガディオは少しずつ警戒を緩めていく。

 彼女には感情がある、ぬくもりもある。

 これがティアでないと言うのなら、何を信じればいいのだ。

 強いて言うのなら――唯一、その胸の鼓動が感じられないことだけが不安だったが。


「それにあたしも……変わっちゃってるんだよね」

「生き返った、と言っていたな。何があったんだ?」


 本当は聞きたくなかった。

 例え夢だとしても、幸福なまま終わるのならそれでいい、ガディオは彼女を抱きしめながら、本気でそう思い始めていた。

 しかし、実際はそうもいかない。

 ありえないことが起きている、そしてそれが教会の手によるものだということは、否定しようのない事実である。

 ならば問いだたさないわけにはいかない、そして場合によっては――自らの手で彼女を殺すことも、考えなくてはならない。


「あたしもよくわかんないんだけど、オリジンコアっていうのを、死んでたあたしの体に埋め込んだんだって」

 ――オリジンコア。

 予想はしていたが、その名前が出てきてしまった。

 ガディオは拳を握りしめ、絞り出すような声で言った。


「やはり、そう……なのか」

「その口ぶりだと、ガーくんはオリジンコアのこと知ってるんだ。じゃあ説明は省いていいのかな。とにかく、その不思議な力を制御して、弱めて、あたしの体が化物にならないように調整できたから、やっと外出許可が出たの」


 それがティア自身の口から語られたことは、ガディオにとってかなり意外だった。

 教会の罠だとするのなら、都合の悪いことは隠すはず。

 いや、逆に虚偽の情報を堂々と明かすことで、彼の油断を誘おうとしているのだろうか。

 意図が読めず――ガディオの眉間にしわが寄る。

 ティアはそこをじーっと見つめると、人差し指を伸ばし、触れ、しわをぐにぐにと弄った。


「まーた難しい顔してる、せっかく再会できたんだからもっと笑って欲しいな」

「そうもいかない、オリジンコアは危険なものだ。俺たちのチームを壊滅させたあのモンスターだって、コアによって強化された化物だったんだぞ?」

「それもドクターから聞いてる。当時はまだ制御が甘かった、って。だからって納得できることじゃないけど、こうして生き返った以上は何も言えなかった」

「ドクターとは誰のことだ」

「ネクロマンシーのチームを統括してる人。本名は、確かダフィズ・シャルマスだったかな。眼鏡をかけてて、いつも白衣を着てる、ひょろっとした男の人だよ」


 一を聞けば、十が返ってくる。

 なぜ彼女は隠さないのか、この調子だと、研究所の居場所も聞けば答えそうなほどだ。


「なんで全部話すんだ、って顔してる。あたしがガーくんに隠しごとをする理由なんてないでしょ? それに、ドクターからも何も隠さないでいいって言われてるし」

「意味がわからない。どういうつもりなんだ……教会の連中は、何の目的があってティアを蘇らせて、わざわざ俺に会わせた!?」


 取り乱すガディオ。

 そんな彼を前にしても、ティアは落ち着いた様子で微笑みながら言葉を紡ぐ。


「他の研究チームがどうかはしらないけど、少なくともネクロマンシーの目的は――死者を蘇らせること、ただそれだけだから。大切な人が死んで悲しんでる人がいたら、その人を救ってあげたい。本当に、それだけなんだと思うよ」


 ティアが、嘘をついているようには見えない。

 少なくとも、生前の彼女を知るガディオには、そう思えた。

 オリジンコアは、確かに制御さえできれば、今まで人類が諦めてきた奇跡を起こせるだけの力がある。

 その成果が、今、彼の目の前にいるティアなのだとしたら――


「……駄目だ、俺にはまだ信じられない」


 ガディオはそう言って、首を横に振った。

 そんな彼を見てティアは悲しそうな表情をみせたが、すぐに笑顔に戻る。


「すぐに受け入れてもらうのは難しいだろう、ってドクターも言ってた。そりゃそうだよ、ガーくんだけじゃなく、ケレイナにとっても。六年も死んでおいて、いきなり帰って来られても困っちゃうよね」

「すまない……俺だって、できることなら素直に喜びたいんだ」


 だがそれはできない。

 教会が関わっていると、はっきりわかっている以上は。


「謝らないでよお。でも、また会ってくれるよね?」

「また? どこかに行ってしまうのか?」

「まだあたしの体は細かい調整が必要なんだって。気を抜くとオリジンに体を乗っ取られちゃうかもしれない、って。だから、あと二時間ぐらいしたら一旦研究所に帰らないと」

「そうか……」


 名残惜しい、ガディオはそう思ってしまう。

 無理だ、どんなに自分に“教会の罠だ”と言い聞かせても、目の前にいる彼女は、確かに自分の死んだ妻であるティアなのだ。

 歓喜を抑えることができない。


「ここで寂しそうな顔をしてくれるから、あたしはガーくんが大好きなんです。そのうち調整が終わったら、ちゃんと一緒に暮らせるようになるって聞いてるから、それまで我慢しててね」


 本当に、その時が来るのなら――どれほど幸せなことか。


「時間が来るまでは、こうしてくっついててもいい?」

「そこまでは拒まないさ」

「ふふ、よかった。ガーくんは相変わらず優しいね」


 穏やかな、夢のような時間が流れる。

 ガディオの胸に渦巻く不安は、まだ消えない。

 しかし彼女のぬくもりを感じるたびに、確かに、確実に薄れている。

 危険だ。

 だが、リスクの代償に得るものが、あまりに大きすぎる。

 浸れば浸るほど、ガディオは、甘やかな沼から抜け出せなくなっていった。




 ◇◇◇




 ケレイナはガディオが落としていった箱を広い、台所まで運んだ。

 中身は、二人分のケーキであった。

 クリームがたっぷりと塗られ、上にはいくつもの果物が乗っかっている。

 ガディオに似合わない、誰のために用意されたものかなんて、考えるまでもない。

 下唇を噛む。

 悔しいのか、悲しいのか、ケレイナ自身にもよくわからなかった。


「ねえママ、あのひとは誰なの?」


 いつの間にか隣にいたハロムが母に問いかける。


「……ガディオの奥さんさ」

「パパの、奥さん? ママがなるんじゃなかったの?」


 そんなことを言ったことはない。

 しかし、着実にその方向に進んでいる空気はあって、ハロムはもちろん、ケレイナだって期待というか――確信めいたものを抱き始めていた。

 すぐは無理でも、一年後……いや、二年後には、自分はガディオと結婚できるのではないか、と。


「本物の奥さんが戻ってきたんじゃ、あたしの出番はないよ」

「本物? ママは偽物だったの?」

「……っ」


 悪意のないハロムの言葉が、ケレイナに突き刺さる。

 言葉のチョイスが悪かった、それは本物や偽物という言葉で表せるものじゃない。

 ケレイナの想いだって、真実だったはずなのだから。

 しかし、二度目で、二番目だ。

 傷を舐め合う二人の、妥協案に過ぎない。


「ねえ、ハロムのパパは、あの人がいたらパパになってくれないの? だったら、ハロムあの人いらない!」

「こらハロム、そんなこと言ったら――」

「だってあの人、怖いよ! ママの方がずっと素敵だもん!」

「っ……あぁ、もう、素敵とか言われたら怒るに怒れないでしょうがっ!」


 ケレイナはしゃがみ込むと、ハロムの頭を撫でながら言った。


「ティアはいい子なんだ。きっとハロムも、お話したら気にいるはずさ」

「できないと思う」

「やる前から決めつけちゃいけないよ、人ってのは……」

「ちがう、ちがうのママ、ハロムが怖いのは嫌いだからじゃない」


 ハロムは嫌がっている、と言うよりは怯えた表情をしていた。

 不穏なものを感じたケレイナは、頭ごなしに否定せずに、彼女の言葉に耳を傾ける。


「あの人、からっぽなの」


 抽象的な言葉に、ケレイナは首を傾げる。


「空っぽ?」

「笑ってるけど笑ってない、楽しそうだけどぜんぜん楽しそうじゃない」

「んん? ごめんハロム、ママにもわかるように言ってくれないかな」

「……言えない、わからないから。でも、ハロムはそう思ったの」


 子供の感覚というのは、大人には理解できないもの。

 単純にティアと相性が悪いのだろう――しかし実際に話せば、ちゃんと懐いてくれるはず。

 なぜなら、どこに行ったって子供に懐かれるのはいつもティアの方で、以前は今よりずっとガラの悪かったケレイナは、怯えられる側だったから。

 彼女はハロムの言葉を深く考えず、改めて頭を撫でると、


「とりあえず、ガディオが買ってきてくれたケーキでも食べる?」


 と笑いかけた。

 ハロムはまだ不安げな表情を浮かべていたが、食欲には抗えず、こくりと首を縦に振った。




 ◇◇◇




 それから二時間後、ガディオの屋敷の前に迎えの馬車が到着した。

 ティアはガディオとケレイナに別れを告げると、「またすぐに来るから」と告げ、研究所へと戻っていく。

 馬車が見えなくなるまで見送ると、二人は玄関に向かって歩き出す。

 その間に、一切の会話は無い。

 気まずい空気を引きずったまま、夜は更けていく――




 ◇◇◇




 ギルドから家に戻ったフラムは、ミルキット、エターナとともに食卓を囲む。

 いつもなら、美味しい手料理を前に手が止まることはないのだが、今日に限ってはエターナの様子がおかしい。


「もしかして、嫌いなものが入っていましたか?」


 ミルキットは恐る恐る彼女に尋ねた。

 すると取り繕うようにひとつまみ口に運び、


「いや、特には」


 と曖昧な返事を返す。

 夕食の間中、エターナはずっとそんな調子で、それは食事が終わってからも変わらなかった。

 フラムとミルキットが片付けをする中、ぼーっと宙を見上げて考えごとをしたかと思えば、おもむろに立ちあがり二階に上がっていく。

 居間に残った二人は目を合わせ、同時に首を傾げた。


 その謎が解けたのは、エターナが風呂に入っている間のことだ。

 ちょうど二階に上がり、自室に入ろうとしたフラム。

 その足音に気づいたのか、インクが部屋の中から話しかけてくる。


「ねえフラム、あの人って誰だったの?」

「あの人?」

「昼過ぎぐらいだったかな、おじいさんとおばあさんっぽい声の人が来てたはずなんだけど……あ、ちなみにミルキットは家事が終わってお昼寝中だったみたい」


 道理で彼女が何も言わないはずだ。

 確か今日は布団を干していたはずだし、その暖かさにやられて眠ってしまったんだろう。

 その光景を想像すると、フラムの頬が緩む。

 しかし今は関係ない。

 それはさておき、来客というのが気になる。


「ねえインク、その人ってエターナさんが応対してたの?」

「そのはずだよ。あれー、なんでフラムに話さないんだろ」

「大したことない話だから、伝えるまでもないと思ったんじゃない」

「その割にはながーく話してたけど」


 その二人組が、エターナの様子がおかしいことと関連しているのだろうか。

 別にこそこそと探るようなことでもない、フラムは風呂から出てきた彼女に単刀直入に聞いた。

 しかし、返ってくるのは要領を得ない曖昧な言葉ばかり。

 目も露骨にそらし――フラムが笑ってしまうほど、エターナは嘘をつくのが下手だった。

 ただし、ごまかされているとわかっても、彼女が話してくれない限りは、真実を知ることはできないのだが。

 フラムは諦めるしかなかった。

 寝て起きれば、元に戻っているかもしれない。

 あっさり引き下がったのは、そんな甘い期待もあったからかもしれない。

 だが、時の流れとともに事態が好転することはなかった。

 変わったことと言えば――その日以降、エターナはふらりと黙ってどこかに出かけることが増えた。

 ただそれだけである。





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