第39話 メイズ
無知とは愚かさだ。
この世界の大半は知らないほうがいいことで満ちている。
きっとこれは、そういう類のものだ。
彼が仮に舞台の上で踊り、人々に笑われるピエロだったとしても、真実を知らなければ傷つくこともない。
「どうした、ティア」
ベッドの上で体を起こしたガディオは、窓際に立つティアにそう問いかけた。
彼女は薄いシーツを一枚纏っただけの姿で、ピタリと張り付いた布越しに体のラインが浮き出ている。
一方でガディオも、上半身は裸だ。
隠れた下半身も言うまでもなく――昨晩何があったのかなど、聞くだけ野暮というものである。
「ううん、なんでもない」
ティアはそう返事をしたが、窓の前から動かない。
彼女の視線の先には、教会が映り込んでいた。
ガディオは、朝日に照らされた女神のような自分の妻に見惚れていた。
夢を見ていた。
ティアが死ぬ直前まで、いつか子供が産まれて、自分も暖かい家庭を築けるはずだと思っていた。
つまり今、ガディオの目の前にあるのは、彼が取りこぼした夢なのである。
欲してしまうのは当然のことで、ティアもそれを望み、二人は繋がった。
触れたときの反応も、肌の感触も、体温も、声も、愛おしさも、当時と何も変わらない。
いや――喪失した時間が長い分、むしろ高まっているかもしれない。
両腕で抱きしめたのは、間違いなくティアだった。
紛れもなくティア・ラスカットだった。
疑いようもなく、違和感もなく、全くもって当時の彼女と何も変わらず――ならばガディオは、なぜその姿を見て、無性に不安になるのか。
「ティア、こっちに来てくれ」
「なあにガーくん、甘えたくなった?」
振り向いたティアは笑っていた。
そしてシーツを揺らしながら近づき、ベッドの縁に腰掛ける。
彼女の細い指先がガディオの頬に当てられ、唇はもちろん、頬や首筋に、触れるだけのキスを繰り返した。
無知とは幸福だ。
知識とは束縛である、賢さと自由は両立しない。
それを知るからこそ、ガディオは願うのだ。
ふいにティアのキスが止まり、彼女は窓の外を見た。
「ティア?」
「んー……どうしたの、ガーくん」
変わらない調子の声で返事をする。
だが、“どうしたの”はこちらの台詞である。
特別、音がしたわけでもない。
外を誰かが通り過ぎたわけでもないし、気配だってない。
だったら彼女は、何に反応して外を見ているのか。
「なあ、ティア」
もう一度声をかけても、
「なあに? どうしたの?」
と変わらぬ返事をしてティアは外を見続ける。
ガディオの右瞼が、痙攣するようにぴくりと震えた。
不安に駆られ、彼は強引にティアを抱き寄せて振り向かせる。
彼女は「きゃっ!?」と声をあげて、驚いた表情でガディオの方を見た。
「もう、ガーくんさっきからおかしいよ? 怖い夢でも見たのかなー?」
――おかしいのはティアの方だ。
本当はそう言いたかった、けれど言葉が喉元で止まってうまく出てこない。
言えば、全てが終わってしまうのではないか。
まばらな点として散らばっていた不安が、線で繋がってしまうのではないか。
ガディオは心の中で強く願う。
頼むから、せめてあと少しだけでも、答え合わせはしないでくれ。
ティアと共に過ごす夢を見させてくれ――と。
◇◇◇
近づいてくるルコーだった何かに対し、フラムは剣を引き抜いた。
しかしその手は震えている。
元は人間、しかも一歳の赤ん坊だったのだ。
問答無用で斬りつけられるほど、フラムは人間性を捨てちゃいない。
幸い、移動速度は非常に緩慢だ、逃げるのは容易い。
「ご、ご主人様、後ろにっ」
ミルキットの声に反応し、フラムは振り返る。
そこには、白衣を纏った三人の男女が立っていた。
直立不動で、特別こちらに攻撃を仕掛けようとする素振りは見せていないが、明らかに逃げ道を塞いでいる。
その視線はフラムに集中しており、昨日浴びせられたものと同じ気味の悪さを感じた。
三人を斬るか、異形と化したルコーを殺すか。
彼女の肉体は現在進行形でさらに歪んでおり、人間の体を伸ばして潰し円形に束ねたその姿は、もはや元が人間だったことすら怪しいほどだ。
しかし、ぴくぴくと痙攣する指や、涎を垂れ流す口、何よりもぎょろりとフラムを見つめる眼球に、わずかながら面影が残っている。
それが彼女の決断を鈍らせるのだ。
――迷うな、今ここで守るべきものは一つしか無いはずだ。
フラムは自分にそう言い聞かせる。
ミルキットの震えた手が自分の服を掴んでいる。
体温がある、息遣いがある、声がある――敵がいかなる存在であろうとも、彼女以上に優先すべき命などあるものか。
「は……あああぁぁぁあああっ!」
ドチュッ!
振り下ろした剣が、ルコーを真っ二つに両断する。
血が飛び散り、中から赤や黄色のどろりとした半固体の物質が流れ出る。
しかし、彼女の肉体はそれでも脈動を止めない。
まるで布でも絞っているように、ぶじゅると血を吹き出しながら捻じれていく。
「うっ……」
見た目、臭い、そして手のひらに残る不快な感触に、フラムは顔をしかめた。
だが、同時に少し気が楽になる。
もうここまで行くと、それが人間とは別の存在なのだと、完全に確信できたからだ。
人間のような生物から産み落とされた、人間のような肉の塊――それがこの村に存在する、赤子たちの正体。
ひょっとすると、ミルキットの予想は見事に当たっているのかもしれない。
魂の宿っていない肉体には、魂の宿った新たな命を産み落とすことができない。
だから模倣するしかない
そしてフラムに近づくにつれて、オリジンの意思が強くなると……人の形が決壊し、化物になる。
なぜオリジンがそこまでフラムに固執するのか、彼女自身にもわからなかった。
ひょっとすると、ジーンの身勝手な行動によって、予定が狂ってしまったのだろうか。
それを軌道修正するために、フラムを欲している。
気持ちの悪いストーカーじみた執着に付き合う義理はない、
「行こう、ミルキット」
フラムはミルキットの手を握り、駆け出した。
ルコーの横を通り過ぎて前に進むが、こちらは出口とは逆方向だ。
「どこに行くんですか?」
「あっちは塞がれてるし、とりあえずダフィズさんに会いに行こうと思う」
「大丈夫なんでしょうか……」
「わかんないけど、あの人が私たちを騙してたとは思えないんだよね。ひょっとすると、ダフィズさん自身も知らなかったのかもしれない」
廊下を走るフラムとミルキット。
すると真横にあった扉が突然開き、中から男性が現れる。
男は自分の目の前を通り過ぎていくフラムに手を伸ばし、手のひらが一瞬だけ二の腕に触れた。
ゴギャッ!
鈍い音と、重い衝撃がフラムを襲う。
「が、あ……ッ!」
腕が、まるで二つ目の関節ができたかのように、あらぬ方向に曲がっている。
上腕骨が完全に折れ、外側を向き、あまりの激痛にフラムの全身から冷や汗が吹き出した。
バランスを崩す、それでも足は止めない。
「ご主人様、大丈夫ですか!?」
「こ、これぐ、らいっ……放っときゃ、治るっ!」
実際、すでに再生能力による骨の接合が始まっていた。
腕を触れない分だけ速度は落ちたが、襲い掛かってくる割には、男はこちらを追いかけては来ない。
例の何の感情も篭っていない目で、フラムの背中を見つめている。
ミルキットを連れている今なら追いつけるはずなのに、なぜ追跡しないのか――思い当たる可能性は一つある。
角を曲がると、前方には五人ほどの男女が立ちふさがる。
「ご主人様、あの人たちはっ!」
研究所内にいるということは、おそらく蘇生した研究員の関係者だろう。
彼らは施設内の居住スペースで同居しているのだ。
自身のパートナーが、理由も話さずに、フラムの接近に反応して部屋の外に出たりしたら――
「おいどうしたんだよ、急に外に出たりして」
もちろん部屋に残された片割れは、奇妙に思い追いかけるだろう。
部屋から出てきた生きた男の手が、蘇った女の肩に触れる。
「あ……あ? なん、だ……ごれっ、いだ……あがっ、がぎゃっ、ぎゅ……ぎああぁぁぁあああっ!」
伸ばした右手が捻じれ、さらに力が全身に広がっていく。
全ての血液を絞り出すように破壊された男は、状況を理解する前に息絶えた。
ある意味で幸せなのかもしれない。
自分が想い人に殺されたことを認識せずに逝けたのだから。
その光景を目にして、フラムの中から躊躇が消える。
体が人間のものだとしても、レプリカを望む誰かがいたとしても、やっぱりこれは間違っている。
「ミルキット、少し後ろからついてきて」
「は、はいっ」
フラムの声が低く、鋭くなる。
彼女の心構えは、完全に敵との戦闘に臨む状態へとシフトした。
二人の手が離れると、フラムは低い姿勢で廊下を駆け抜け、先ほど恋人を殺したばかりの女性に飛びかかる。
亜空間より黒い刃がずるりと引き抜かれ、フラムに向かって伸ばしされた手もろとも、胸部を切り裂いた。
カチリ――手元に感じる硬い感触。
本来なら心臓があるはずの場所に埋め込まれた、忌々しき水晶に接触した瞬間、
「リヴァーサルッ!」
フラムは手のひらから剣に魔力を流し込み、内側で渦巻く螺旋を
発生する負のエネルギーに耐えきれず、パキリと黒い半透明の結晶体に亀裂が入り、砕ける。
命の根源を失い、倒れゆく女性の体。
見向きもせずにフラムは次のターゲットを定める。
迫る二人の男たち。
覆いかぶさるように伸ばされた計四本の腕を、軽く一振りして吹き飛ばす。
傷口は――塞がらない。
オーガやルコーのように螺線形に捻じれることはなく、まるで普通の人間のように血を垂れ流す。
これはダフィズの言っていた制御とやらの成果なのかもしれない。
少なくとも、チルドレンのように顔面が、鍋にぎゅうぎゅう詰めにされた大腸のような肉の渦になることも無いらしい。
――だから、嘘はついていないのだ、少なくとも彼は。
スージィを蘇生できる、そう信じてひたむきに研究を続けてきた。
何よりも邪悪なのは、その想いを利用して、踏み台にして、己の目的を果たそうとしたオリジンであって――
「はああぁぁぁぁッ!」
フラムは反動を利用して一回転。
さらに勢いを付け、プラーナまでもを注ぎ込み、腕を失っても足を止めない男たちに、二撃目を放つ。
半円を描くその剣の軌道は、彼らの腹部を深く斬りつけた。
開いた傷口から流れ出す血と、溢れ出す消化管。
しかし痛み苦しむ素振りも見せず、少しよろめいただけだ。
もはや人間らしさを取り繕うこともやめて、オリジンの意思だけをむき出しにフラムに襲いかかる。
パァンッ!
――一瞬遅れて、男たちの上半身が吹き飛んだ。
外側ではなく、敵の内側に注ぎ込んだプラーナを破裂させる――
その正式名称をフラムは知らない。
日々の鍛錬の中で自然と身につけた技の一つで――決まりさえすれば、最も殺傷力の高い一撃であった。
飛び散る
フラムはそれに近づくと、撒き散らされた死体の一部を見て悲しそうな表情を浮かべた。
そして首を振る。
感傷的になっている暇はない、と。
剣先を当て、反転魔法を発動させると、コアは破壊された。
そんな彼女の背中に、急にミルキットがしがみついてくる。
「ミルキット、危ないから離れてた方が――」
「それが、後ろからも来てるんですっ」
彼女の背後から、表情を失った人間たちが歩み寄ってくる。
走ったりはしない行儀の良い人たちなので、すぐに追い詰められることはないが――数の暴力で二人を押しつぶそうとしている。
前方の死者も気づけばさらに増えている。
遠くから聞こえてくる叫び声は、先ほどの男性と同じように殺された研究員のものだろうか。
「神様を名乗ってるくせに、加減ってのを知らないのかな、オリジンはさあ!」
騙すなら騙しきれ。
殺すなら盛大にやれ。
こそこそと、ちまちまと、他人の心を弄ぶ姑息な方法ばかりを使い、どっち付かずの中途半端な行為で人を傷つけ――程度の低さに、フラムはほとほと嫌気が差していた。
あるいは本体が別の場所にいて、遠くに干渉しようとすると思うように力が扱えないのかもしれない。
だからと言って卑怯な手に頼ろうとするあたりが、神のくせしてやけに人間じみていて不愉快だ。
フラムはキッ、と毅然とした表情で前方を睨みつけた。
そして剣先を後ろに下げてから、その場で横に薙ぎ払う。
放たれたプラーナはその場に静止した。
次は素早く縦に真っ直ぐ振り下ろし、気の刃が十字を描く。
するとその十字系を骨子として、見えない力が薄く広がり、膜を張り、盾のような形でフラムの前方に浮かび上がった。
さて、この状態でも相手からの攻撃を防ぐ目的としては使えるが、必要なのは、前方に群がる人形どもを一掃する術だ。
生者が射線上にいないことを確認すると、フラムは両手で握った魂喰いの先端を、骨子の交差点に当てる。
そして――「ふっ」と息を吐くのと同時に、追加のプラーナを注ぎ込む。
それは
ズガガガガガッ!
プラーナの“壁”は逃げ場なく廊下を埋め尽くし、床や壁を――さらには触れた死者の肉体を破砕しながら前進する。
瓦礫を巻き込むことで殺傷力を増しながら、フラムの邪魔をしようと立ちはだかる障害は尽くひき肉にされ、消し飛んでいった。
そして最後は突き当りの壁に当たり、大穴を開けて止まる。
「あの数が、あっという間に……」
ここが狭い場所だからこそ一掃できた。
広場ならば、四方八方から相手は襲い掛かってくる、こう簡単にはいかなかっただろう。
出会った頃よりも成長し、遥かに強くなる主に見惚れていたミルキット。
フラムはすぐさまそんな彼女の手を引いて、また走り出す。
◇◇◇
その後も、フラムは立ちはだかる死者を撃破しつつ進行し、ダフィズの研究室に到着した。
そこはスージィやルコーと暮らしている居住用の部屋とは別の場所だ。
魂喰いを収納し、急いでドアの隙間から体を滑り込ませ、ガチャン! と力いっぱい閉める。
そして鍵を閉めると、安心して一息つくが――
「きゃあぁっ!」
ミルキットの声を聞いて、すぐにまた緊張状態に戻る。
「ダ、ダフィズさん……それ……」
彼女が見たのは、地面に横たわる男性の死体だった。
手足が何箇所か折れてありえない方向を向いている。
また、胴体にも螺旋の力を受けた形跡があり……口から胸元が血で汚れているところを見るに、内臓が破壊されて死んでしまったのだろう。
「……彼はゴーン・フォーガン。私の学生時代からの友人です。そしてチーム立ち上げ当初のメンバーでもあります。そんな中、研究途中で彼自身も奥さんを病気で亡くしてしまいましてね。元から優秀な人材だったんですが、それ以降さらに、彼女を蘇らせたい一心で研究に打ち込んでいくつもの大きな成果をあげてくれました。彼がいなければ、僕たちの研究はとっくに頓挫していたことでしょう」
椅子に座り、フラムとミルキットに背中を向ける彼は、寂しそうな声色でそう言った。
「奥さんが蘇生されたのはちょうど一年前でして。それからの彼は、友人である僕が見たことないぐらい、幸せそうにしていました。奥さんも妊娠五ヶ月目でね、じきにパパになる予定だったんですよ。本当に、本当に幸せそうで……まだ時間はあるのに、子供の名前を必死で考えたり、育児の不安からかその手の本を読み漁ってみたり、子育ての先輩に話を聞きに行ったり――ああ、今日までは、未来の心配なんて一切していなかったんでしょうね」
名も知らぬ研究員の思い出話。
その死体を見れば、どうして彼が死んだのかはだいたい想像できる。
フラムを追って部屋をでようとした奥さんを、彼は止めたんだろう。
そして体に触れてしまい、捻じれ、重傷を負った。
しかし彼は死ななかった、最後にダフィズに伝えたい言葉があったのか、必死に這いずってこの部屋までたどり着いた。
そして、息絶えた。
ダフィズの話し方からして、“友人”というよりは、“親友”のような存在だったのだろう。
声も少し震えていて――彼がこちらを振り向かないのは、泣き顔を見せたくないからだろうか。
「そんな彼が、死んでしまいました。報告は受けていますよ、何が起きているのかも、何となく理解しています」
それでもフラムは、彼にルコーを切ったことを伝えることはできなかった。
命を狙われたのは自分の方だ。
だから気まずさなど感じる必要はないはずなのに、なぜか罪悪感が彼女を苛む。
「フラムさん、誰が悪いんだと思います?」
その問いは、フラムを責めるものではない。
ダフィズの心の底からの疑問である。
「私は、オリジンだと思います」
フラムは迷わず答える。
彼女もまた、ダフィズを責める気にはなれなかった。
「僕の見立て通り、君は優しいですねえ。そして強い、言葉に芯が感じられますよ」
「そんなことありません、私は弱いですよ。隣にミルキットがいてくれるから強がれるだけです。ダフィズさんもそうだったんじゃないですか? スージィさんの存在があったから、今日まで研究を続けてこれたんでしょう」
「そう、ですね。気弱で、体も弱くて、見てくれもよくない。そんな僕を愛してくれたのは、両親とスージィぐらいのものでしたから。だから、僕の強さは、あなたの言うとおりスージィあってのものです」
「だから、その純粋な想いを利用したオリジンが一番悪いんじゃないでしょうか」
その言葉を聞いて、ダフィズは黙り込んだ。
じっと、何もない壁を見つめたまま、何も言わずに十秒ほどが過ぎる。
その後に彼は大きく息を吐いて、椅子の背もたれに身を預け、天を仰いだ。
「ゴーンから数値異常の報告を受けたのは、昨日の昼過ぎでした」
「数値異常?」
「我々は被験体に対して定時検査を行い、メンタルやバイタルの状態を収集します。その数値が、精神だけ興奮状態あるというのに、肉体に一切の変化がないという奇妙な状態になったんですよ」
一般的に、精神状態に異常が生じれば、肉体にも何らかの変化が生じる。
心と体が完全に乖離した状態というのはは、生きた人間が作り出すのは難しい。
「明らかに、フラムさんが来たことにより引き起こされた異変でした」
「でしたら、どうして昨日のうちにご主人様に伝えたり、対処しなかったんです?」
ミルキットの言葉に、ダフィズは苦笑いを浮かべる。
「あなたが来たことで被験者に異常が生じました、だから帰ってください。そんなことを言って納得しますか? 僕たちの研究の失敗を認めるようなものじゃないですか」
「もう手遅れです」
「わかっています、存外に早く結果が出ましたね。笑ってしまいますよ、昨日までの僕の自信は何だったんでしょうか。ああ、まったく……チルドレンのメンバーには忠告されていましたが、まさかここまでとは。ふふ、あははは、は……はぁ、僕の今まで過ごしてきた時間は、一体何だったんでしょうね」
「……完全に制御できると豪語するなら、機能を停止させるための装置とか無いんですか?」
フラムは答えず、流れを無視して彼に問いかけた。
その疑問の答えは、自分にはわからない。
軽率な言葉を口にするわけにはいかないし、その義務も無いのだから。
「それなら、部屋の奥にドアがありますよね。その先に行ってみてください。シェオル内のネクロマンシーが管理するコアを、緊急停止させるための装置が設置してあります」
それは責任者であるダフィズに与えられた特権だった。
その危険性を理解しているからこそ、暴走したときのために、いつでも止めるための準備はしておかなければならない。
もっとも、一度でも使えば、再び死者を蘇らせるために莫大な時間を要することになるのだが。
フラムは言われるがままにドアに近づき、躊躇なく装置のある部屋に足を踏み込んだ。
ミルキットは部屋の手前で止まり、心配そうに胸元に手を当てながら、室内の主の様子を伺っている。
「すごい、これが……」
フラムは部屋を見回して、感嘆の声をあげる。
部屋のいたる場所には半透明の水晶線が張り巡らされ、さらに部分部分に巨大な宝石が埋め込まれている。
色とりどりの石たちが、開いたドアから差し込んだ光を反射して、幻想的に煌めく。
そして部屋の中央には起動装置らしき水晶球が設置され――その周辺だけが、滅茶苦茶に壊されていた。
近くには、ダフィズの部屋にあったものと同じ椅子が転がっている。
彼が、自らの手で破壊したのだろうか。
「いやあぁぁぁっ!」
その時、ミルキットの悲鳴が響いた。
フラムがはっとドアの方を見ると、そこには彼女を羽交い締めにし、首にナイフを当てて笑うダフィズの姿があった。
目は赤く充血しており、いくつもの涙の雫が、止めどなく頬を伝い落ちていく。
その表情は決して歓喜などではなく――本当はもっと複雑な想いが入り混じっているのだろうが――強いて言うとするのなら、絶望。
「ごめんなさいフラムさん、僕には……無理なんですよ」
「ダフィズさん、ミルキットを離してください!」
「確かにオリジンは危険な力だ、僕らはそれを完全に制御することなんてできないのかもしれない」
「離してくださいッ!」
「けど、だとしても、一度手にした夢を捨てるなんて真似、できるわけがないじゃないですか」
「くっ……離せつってんのにいぃッ!」
フラムは魂喰いを抜き、両手で握り構える。
するとダフィズは腕に力を込めてさらにミルキットの体を締め上げ、彼女に警告した。
「いいんですか、彼女が死んでしまいますよ?」
「ダフィズさんには殺せない」
「いいや殺せます、自分のためには殺せなくとも、スージィやルコーのためなら僕はなんだってできるんです」
そう言うと、ミルキットの首にナイフの刃がさらに強く押し当てられる。
彼女は「ひ、あ……」と悲壮なまでに怯えていた。
フラムは苛立ちを強めていく。
「ルコーなんて存在しない、あれは化物なのッ!」
「知った風な口を利かないでください、ルコーは僕とスージィの娘なんです、僕らの愛の結晶なんですよ」
「化物みたいになった姿を――」
「それはあなたがいるからじゃないですか。確かに迎え入れたのは僕です、だから笑うなら笑ってくれていいですよ。どれだけ馬鹿にされたって構いません。でも事実として、あなたさえいなくなれば、全ての問題は解決するわけですよね? だったら僕は、それをひたすらに要求し続けるだけです」
確かにそうかもしれない。
一時的に、死者たちの暴走は落ち着くだろう。
しかし、だから何だというのか。
根本的な問題は何も解決していない。
「そんなのはただの先送りじゃない! スージィさんは生き返らない、子供だってできない、その現実は何も変わらないのに!」
「現実がなんだって言うんですか。幸福な夢より、不幸な現実を選ぶ人間なんていません」
「本当にそれでいいの?」
「構いません」
彼は、悪い意味での覚悟を決めてしまったようだ。
この部屋の制御装置を破壊した時点で、もはや引き戻せなくなったのだろう。
誰も失ったことのない、フラムの薄っぺらい死生観では、彼の心までは響かない。
「ぐ……なら、私はどうしたらいいわけ? どうやったら、ミルキットを解放してくれる?」
「……じゃあ」
ダフィズは壊れたようににへらと笑ったかと思うと――急に無表情になって、フラムに告げた。
「この部屋から出て、死んでください」
感情の篭っていない声が、狭い室内に反響する。
一瞬の静寂。
間を空けて、最初に口を開いたのはミルキットだった。
「ダメですそんなことっ! ご主人様がそんな目に合うぐらいなら私が死にます!」
彼女はもがき、暴れだす。
彼は静かに、冷たい声で彼女に警告した。
「大人しくしてください、本当に刺しますよ?」
「どうぞ刺してください。でもその時点で、あなたも終わりです。人質さえ失えば、ご主人様があなたの言うことを聞く必要は無いんですから!」
「ミルキット、落ち着いて」
「落ち着けません! だってこの人は、ご主人様に死ねって言ったんですよ!?」
今ここで、フラムがミルキットを救出するのは困難だ。
しかし一方で、彼は要求さえ飲めば、ミルキットの無事は保証してくれるだろうと考える。
人の命の重さを知っている彼が、無意味に誰かを殺すとは思えない。
フラムは武器を消すと、両手を上げて二人の方へと近づいていく。
ダフィズは彼女の意図を察し、後退して道を空けた。
「ご主人様ぁ……」
「泣きそうな声しないの、今すぐに死ぬってわけじゃないんだから。あと、私がいなくなったからって自暴自棄にならないようにね。ミルキットが傷ついたら、私、死ぬほど悲しんだからさ」
フラムはそう言い残すと、制御室から出て二人の横を通り過ぎ、部屋の出口へ向かう。
「これでいいんでしょ?」
返事はない。
しかしその沈黙は、肯定と受け取っても差し支えは無いはずだ。
外には、死者たちがフラムが出てくるのを今か今かと待ち受けている。
本当に殺す気なのか、はたまた死なない程度に痛めつけた上で、どこかへ連れて行くつもりなのか、それはわからない。
しかし出た瞬間に、戦闘が始まるのは避けられない。
負傷は免れないだろう。
ドアの前で立ち止まり、深呼吸をするフラム。
今、ダフィズは一見して落ち着いているようにも見えるが、実際は混乱しているはずなのだ。
でなければ、人質を取るというクレバーではない手段を使うはずがない。
だが原因となったフラムがいる限り、彼の脳がクールダウンすることはないだろう。
つまり、彼女のいない場所で頭を冷やす時間が必要だ。
一旦外に出て、時間を稼いで、また戻ってくる。
それがフラムのやるべきこと。
問題はそのときまで彼女が生き残れるかどうかだが。
「出ていくなら早くしてくれませんか」
「ご主人様、やっぱり行っちゃだめですっ!」
最後にミルキットの方を振り返り、“私は大丈夫だから”と言わんばかりに優しく微笑むと――フラムは部屋を出た。
同時に、取り囲んだ死者たちの視線が彼女に突き刺さる。
伸ばされる腕。
触れる、触れる、触れる――体のあらゆる場所に指先が当たり、螺旋の力が注がれる。
ねじ曲がるパーツ、体内に重く響く骨の折れる感触、耳に届く肉が撹拌される音。
「がっ……あ、はああぁぁぁぁあああああっ!」
――それでも、絶対に切り抜けてみせる。
決意を込めてフラムは吠え、意識が吹き飛ぶほどの痛みに耐えながら、大剣を引き抜いた。
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