第95話 股を割り赤いジュースを注ぎ込み再誕を歓喜するあなたは蛇の名を冠する獣
オリジンの広域に及ぶ精神への干渉により、王都に住む人間のおよそ六割ほどが正気を失った。
おそらく、フラムのようにピンポイントで狙われた人間を除けば、あとはでたらめに力を行使したのだろう。
つまり四割の人間が無事だったわけだが、その中で今も生きているのは二割か、一割程度。
狂った人間がが正気の人間を襲うという負の連鎖により、被害は一気に拡散したのである。
さらにキマイラが、そしてキマイラによって操られた死者が、数少ない生者に迫っていた。
友を撲殺し、正気に戻らぬまま別の狂人に殺される者。
恋人を刺殺し、正気と狂気の間でわけもわからぬままキマイラに首を飛ばされる者。
我が子を
王都から脱出を計ろうにも、数十体の人狼型キマイラが徘徊し、獅子型キマイラが空を巡回し、飛竜型キマイラが民家をなぎ倒しながら闊歩している。
たぶん、最適解は最初から王都にいないことだ。
とはいえ、王都の外が安全である保障などどこにもないのだが。
リーチの屋敷を後にしたフラムとミルキットは、東区の公園に立ち寄った。
ここは小高い丘のようになっており、街の様子を西区の方まで一望できる。
改めて見たいような景色ではないが、王都から脱出するためにはそれが必要なのだ。
「今のところ、うちはまだ無事みたい」
不謹慎とは思いながらも、あまりにネガティブな情報しか得られない有様に、言わずにはいられなかった。
西区にも火の手は上がっているが、どちらかと言うと貧民街に近い場所だ。
ギルドは危ないかもしれないが、中央区に近いフラムたちの家はしばらく炎に包まれる心配はなさそうである。
もっとも、好き放題に暴れている飛竜型が近づいてきたら、あんなボロ家、簡単に壊れてしまうだろうが。
「ここに私たちが……いえ、人が戻ってくることは、あるんでしょうか」
たとえ家が無事だったとしても、王都という場所が滅びてしまえば帰る場所にはなり得ない。
ミルキットの言葉に、フラムは答えることができなかった。
単純にわからなかったからだ。
人が戻ってくる。
それは希望的観測に基づく、非常に楽観的な未来予想を前提とした話だ。
つまりは、どうにかして今の状況からオリジンを倒して、生きて二人で暮らすという、妄想。
その先にある、未来。
そんなものがあるかどうかも怪しい現状で、さらに先のことを考えるのは、フラム程度の頭では難しい。
だが彼女は、ミルキットの素朴な疑問に答えるべく、彼女なりに必死に考えてひねりだした。
「戻ってきたらいいな、って私は思ってる」
叫び声が聞こえた。
たぶんどこかで、誰かが一人死んだ。
「王国ってさ、この王都が中心になるように出来てるから。立地とか、あとは……インフラって言うのかな、そういうのも充実してて、街として完成してるから」
少し離れた場所で、獅子型が人を食らっている。
頭部を噛み砕かれ、断末魔すらなく男性が死んだ。
「だから、どうにかして再利用しようとするんじゃないかな。というか、そうあって欲しい」
結局、願望でしかない。
だがこの王都も、オリジンとの戦いで大きな被害を受けた文明の残した、遺跡の上に建っている。
同じ姿の街は戻らないかもしれないが、王都を名乗る別の街が、ここに生まれる可能性は十分にあるだろう。
もっとも――何を言おうが、所詮は現実逃避でしかないのだが。
喋りながら、気を紛らわせながらでもなければ、直視できる光景ではない。
「そうですね。いつかここに戻って、またご主人様を『おかえりなさい』と迎えたいです」
それは夢だ。
到底叶うとは思えないほど、現実とはほど遠い――
「……脱出経路は、見つかりそうですか?」
「東区は使えない、西区も遠いしあの様子じゃ無理、マシなのは……中央区かな」
ただ無駄話をしていただけではない。
フラムは並行して、脱出ルートの計算も行っていた。
「西区の門には、飛竜型が陣取っていますね」
「それ以外のキマイラの数は他の区域に比べると少ないけど、あそこを抜けるのは厳しいよ」
フラムの目から見て、他の好き放題に暴れているキマイラと比べて、その個体は明らかに意思を持ってそこに居座っているように思える。
マザーとの戦いの前に避難した人々のうち、東区の住民はあまり王都に戻ってきていない。
富裕層は十分な金を持っているからこそ、命の危険が迫る可能性のある王都に戻ってくる必要が無いのだ。
それを知った上で、脱出を阻止するのに必要な最低限の戦力を、効率的に配置しているのだろう。
「西区は――あれ、何だと思う?」
西区教会の近くに立つ、巨大な人型の化物。
その姿はフラムに、チルドレンとの戦いにおける、ネクトによる大量殺人を思い起こさせた。
すなわち大勢の人間を
死体だけでなく、生きたまま巻き込まれた者もいるようで、その表面は脈打つように蠢いている。
ただしネクトのときとは異なり、そいつは自らの意思を持って動きながら、視界に入った生命を奪い続けていた。
「……私には、なんとも言えません」
「だよね、私にもわかんないし」
しかし予測はできる。
おそらくあの巨人の中央にいるのは、キマイラだ。
オリジンの力が増したことにより、以前よりも強い力を得たキマイラが、片っ端から周囲に存在する人間を接続して、取り込んだ結果なのだろう。
悪趣味と言う他ない。
「中央区は大きなキマイラの姿は見えないけど――あいつらに西区の出口を塞ぐ知能があるってことは、露骨な罠だと思うんだよね」
「そう、ですね。簡単に逃してくれるとは思えません。いっそ、城壁を乗り越えてみたらどうでしょうか、ご主人様の力があればできませんか?」
「それもアリかなぁ、とは思ったんだけど、飛び回ってる獅子型が見逃してくれるかな」
ミルキットは無言で、東区の城壁を見つめた。
そこには壁を必死に登る男性と、ゆっくりとそこに近づく獅子型キマイラの姿がある。
その直後、男性は何の前触れもなくバラバラに弾け、絶命した。
おそらくキマイラが魔法を放ったのだろう。
フラムも同じ光景を見て、「ふぅ」と軽く息を吐き出す。
「とりあえず、行くだけ行ってみよう? 無理なら引き返せばいいんだし」
「わかりました」
手をつないだまま、二人は公園を後にする。
通りに出ると、東門の方から青ざめた顔をした男が走ってきた。
彼はフラムの姿を見るなり、まるで英雄でも見つけたように駆け寄り、縋り付いてくる。
「フ、フラム様ではないですかっ! よかった、よかったぁ……フラム様、どうか私をお助けください!」
身につけている衣服からして、貴族か、あるいは裕福な商人かのどちらかだろう。
従者すら連れていないということは、身近な人間はとっくに殺されてしまったのか。
命の危機にさらされている今、フラムに助けを求める気持ちはわからないでもないが――彼女にも、手を差し伸べる余裕はなかった。
「ごめんなさい。私、今は自分のことで精一杯なんで」
男の手を振り払い、フラムは中央区へ向かって歩き出す。
「な、なぜですかっ! あなたがたは今までも王都のために戦ってくれたではないですか!?」
そういうときもあったかもしれない。
義憤に駆られて、英雄として振る舞おうとしたことだって。
しかしそれは、余裕があったからこそだ。
自分が死ぬかもしれない状況で、大事な人を切り捨ててまで他者を救えるほど、フラムは自己犠牲的ではない。
「今から中央区を目指すつもりです。守れる保障はありませんが、ついてくるのならどうぞ」
そう言って、背中を向ける。
ミルキットは終始、彼の方に視線すら向けていなかった。
興味が無いというより、視界に入れることを拒んでいるようだ。
彼の中に、かつての主――サティルスの面影でも見たのだろうか。
「待ってくれ!」
そしてそんなミルキットの直感を証明するように、男は口を開く。
「そんな薄汚い女を守っておいて、私は守らないのか!? 本当に価値のある命を守るのが英雄の役目だろう!」
背中から浴びせられる無自覚の悪意に、フラムは振り返ることすらしない。
「無視か? 貴族である私を無視するのか!? やはり所詮は奴隷だな。お前たちが無能だからこそ、私のような優れた人間が導いてやろうと言うのに、耳を傾けもしないとは!」
戯言は、最初から耳に届いていない。
しかし二人が振り返らないのは、その男が理由ではなかった。
「ミルキット、しっかり捕まっててね」
フラムは
そしてさらに加速し、先に見える曲がり角を目指す。
「お、おいっ、私を置いて逃げるとは――!」
背後から迫る
そのすぐあとに、アンズーの爪に引き裂かれ、彼の上半身は跡形もなく消し飛んだ。
自分が死んだことすらわからなかっただろう。
「獅子型……こんな近くまで来てたなんて!」
本来、その巨体が動けば多少なりとも音がするはずだ。
だがこの距離に来るまで気づくことができなかった。
気配を消し、音を殺して接近していたのだろう。
屋敷の中でやりあった人狼型と異なり、その姿は元からほぼ変わっていない。
だがアンズーを素体としたその姿は、フラムとミルキットのトラウマを呼び起こすには十分である。
さらにキマイラは翼をはためかせ、どこかで見たような魔法の発動準備を始める。
「くうぅ……っ!」
「ご主人様、来ますっ!」
アンズーの用いる風の刃。
そこにオリジンの螺旋の力を上乗せした、いわば風のミキサー。
ゴオォッ! と周囲に音を轟かせながらそれはフラムめがけて放たれた。
その魔法は前方に障害物が存在しようがお構いなしに破砕し、触れたものを尽く細切れの細片に変える。
フラムは発動タイミングを見計らい、重力反転と同時に跳躍。
ミルキットを抱えたまま、二階建ての屋根に着地した。
「はは、冗談みたいな威力」
地上に刻まれた幅五メートル、長さ数百メートルにも及ぶ傷痕を見て、フラムは笑うしかなかった。
獅子型はすぐさま二発目の発射準備に入る。
さらに屋根の上にあがったことで、離れた場所を飛んでいた別の獅子型にも気づかれてしまった。
急いで屋根を駆け抜け、飛び降り、敷地内の庭に着地。
「あぐっ」
その衝撃に、ミルキットが苦しげな声を上げる。
「ごめん」
「いえ……気にしないでくださいっ」
建物を挟んで視界を塞ぎつつ、フラムは塀を飛び越えて先ほどとは別の通りにでる。
ガゴオォッ!
すると先ほどの獅子型の射出した魔法が、彼女の真横を掠めた。
さらに上空からも別個体の放った螺旋が迫る。
フラムはすぐに駆け出し、撒くために身を隠せる場所を探す。
「ご主人様、サティルスの地下室はどうでしょうか」
「……辛くない?」
「私は平気です」
「わかった、行ってみよう」
以前、拉致されたミルキットが捕らわれていたサティルスの地下室。
その入口は、ここからそう遠くない民家の中にある。
あの通路の狭さなら、ひとまず獅子型は入り込めないはずだ。
目的地が決まると、フラムのスピードは加速した。
交互に放たれる渦巻く風を飛び跳ね避ける。
業を煮やした獅子型は、ついに直接フラムに攻撃を仕掛けてきた。
ズゥン、ズゥン、ズゥンッ――地面を砕きつつ、驚異的な速度で迫るキマイラ。
ミルキットを抱えていようがいまいが、そのスピードから逃げ切ることはできない。
「ミルキット、私の胸に顔を埋めてて」
「は、はい……っ」
それで頭を守りきれるかはわからないが――その爪が振り上げられた瞬間、フラムは真横の民家の窓に呼び込んだ。
ガラスを割り、木製のフレームを砕きつつ屋内に侵入。
彼女の体にいくつかのガラス片が突き刺さったが、どうせ傷はすぐに治る。
ミルキットもどうにか無事のようだ。
すぐに駆け出し、別の出口を探す。
するとその背後の壁を、獅子型の爪が薙いだ。
「グルルゥ……ッ」
深黒の瞳がフラムの背中をにらみつける。
そして翼が揺れ――螺旋の風が、内装をズタボロにしながら背中に迫る。
それだけではない、空中を舞う別の獅子型は、上空から民家めがけて同じ魔法を放った。
ここから両方を避けるのは不可能だ。
フラムはミルキットを降ろし、魂喰いを構える。
どんなに反転の魔力を注いでも、それを打ち消すことはできない。
だが――その軌道を逸らすことなら。
どちらか一方でも受け流せたら、生き残る術はまだある。
大量の木片を巻き込みながら水平に迫る旋風、フラムはその端を黒い刃の腹で受け止める。
「づ……あっ……!」
ヂ、ヂヂッ、バヂイィィッ!
激しくスパークし、反発しあう螺旋と反転の魔力。
フラムの足がその膨大なパワーに押され、後退する。
ミルキットはそんな彼女を支えるように、背中に抱きついた。
気休め程度の助力だ、だがその精神面に与える影響は測りしれない。
「曲がれええぇぇぇぇぇぇッ!」
フラムの叫びに呼応するように、風は向きを変えた。
しかし思えば――オリジンにフラムを殺すつもりなどないのだ。
こうして攻撃をいなすことも、最初から計算ずくなのだとしたら、ここでの狙いは――
「きゃっ!?」
フラムは突如、ミルキットを抱き寄せた。
すると死角から現れた人狼型の爪が、先ほどまで彼女のいた場所を切り裂く。
やはり、狙いは彼女の方だった。
隙を見せたキマイラの心臓に、フラムは容赦なく刃を突き立てた。
「はぁッ!」
屋敷のときと同じく、ゼロ距離での
コアに穴をあけられたキマイラは、体を震わせ活動を停止した。
すぐさま魂喰いを粒子に変え、ミルキットを抱えあげ、穴だらけになった民家を飛び出す。
二体の獅子型から、いつ攻撃が飛んでくるかわからないからだ。
だが彼らは、すぐには仕掛けてこなかった。
不気味なまでに静かに、二人の方を見つめている。
その視線には、
城に捕らわれていたとき、エキドナに見せられた出来損ないのキマイラに見られたときのような――まさか、ミルキットを仕留めそこねたのが悔しかったとでも言うのだろうか。
まあ、逃げられるのなら、そんなことはどうでもいい。
民家から脱出、道にでると、すぐに路地に入り込む。
遅れて獅子型が追いかけてきたが、もう遅い。
地下室への通路が隠された民家へ飛び込み、サティルスの死後に作られたと思われる木のバリケードを魂喰いで破壊する。
そして、二度と通りたくないと思っていた階段を走り抜けた。
地上から何かが壊れる音が聞こえる――しかし地下までは侵入してこない。
「ひとまず、逃げ切れたんでしょうか」
「場所が知れてるってことは、そのうち人狼型が追いかけてくるかもしれない」
「キマイラ同士で、意志の疎通ができるということですか?」
「じゃなきゃ、さっきの民家に待ち伏せはしてないでしょ」
「確かにそうですね……」
「というか、元がオリジンって一つの意志だから、頭の中身も共有してるのかもね」
言葉で通じ合う必要すらなく、フラムの居場所は全てのキマイラに知られている。
だとしたら、ここもさほど安全とは言えまい。
階段を降りきったところで、ミルキットを立たせ、手をつないで暗い地下通路を進んだ。
足音と呼吸音を除いて、何も聞こえない。
この隠し部屋の存在を知っている者は、サティルスの従者のごく一部と、フラムたちぐらいのものだ。
だから当然といえば当然なのだが――さらに進むと、かすかに何かが聞こえてくる。
くちゅ、くちゅ、と湿ったものをかき混ぜる音が。
無言で魂喰いを抜くフラム。
右腕を絡めるミルキットは、さらに左腕で不安げに主の袖を握った。
「……ぅ」
その姿が見えた瞬間、小さく声をあげて目を逸らすミルキット。
そこにいたのは、フラムたちとそう年齢の変わらない、給仕服を着た二人の少女だった。
顔には奴隷の印が刻まれている。
一方は首から大量の血を流しながらぐったりと座り込み、すでに絶命していた。
そしてもう一方は、虚ろな瞳でその首の傷に頬ずりをするように、顔を押し付けている。
「あ……あ……あ……」
開かれた口から流れる血液混じりの涎に、感情のない顔。
彼女が、肉片に操られた死者であることはひと目でわかった。
そして――すでに死んでいる少女の腕は、その死者の背中に抱き寄せるように回されている。
「たぶん、サティルスに買われてた、奴隷だと思います」
彼女の死後、行き場をなくした二人は――王都のどこかで、協力しあって、ひっそりと命を繋いでいたのだろう。
そして事件発生後、逃げ場を求めてこの屋敷までやってきた。
だが入り込んできた肉片の存在に気づかず……と言ったところか。
「きっと、大事な人だったんですね」
化物と理解しても抱きしめた少女と、化物と成り果てても離れようとしなかった少女。
「死んでも、体に想いって残るのかな」
「残ると思います、私は」
それは、なんて美しい悲劇だろうか。
しかしフラムは思う。
美しい悲劇なんかより、汚くてもいいから幸福が欲しい、と。
魂喰いが少女の体を切り裂く。
分断された上半身から肉片が這い出て、すぐに動かなくなった。
フラムは冷めた目でそれを見下ろすと、瞼を伏せて、軽く首を振る。
そして少女二人の横を、無言で通り過ぎた。
◇◇◇
隠し部屋からサティルスの屋敷へ。
屋敷から外へ――キマイラの追跡もなく、フラムたちは順調に中央区へ到着した。
人口の多い地区のため、死体や動く死者の数も増えてくる。
常に剣を握り、奇襲に警戒しながら、できる限り上空から見つかりにくい路地を選んで進む。
絶えず漂う血と臓物の混じり合った血の匂いに、頭痛がしてきた。
ミルキットも気分が悪いのか、じっとりとした冷や汗が首筋を濡らしている。
フラムはたまたま通りがかった、人の気配も音もしない民家に立ち寄った。
そこで水分を補給し、さらに棚を物色して革水筒を二つほど拝借、飲料水を確保しておく。
さらに棚の中には、保存食として干し肉と干した果物が残っていた。
長い旅になるかもしれない――そう考え、「ごめんなさい」とつぶやきつつ、それにも手を伸ばす。
そして、外で必要になりそうな道具を含めて全てを革袋に収め背負おうとしたところで、ミルキットが「私が持ちます」と主張した。
確かに、戦闘を行う可能性のあるフラムより、彼女が持っていた方が荷物は安全かもしれない。
少し重たいので気が引けたが、ここはミルキットの意志を尊重する。
家をどんなに探しても、死体すら見つからない。
すぐに屋外に飛び出し、逃げたということだろうか。
キマイラの配置が完了する前なら、脱出も可能だったかもしれない。
中には無事な人間もいる。
そう思うと、フラムの気分は少しだけ楽になる。
死体がないおかげか、外に比べると空気もほんの少しだけ澄んでいる。
目を閉じ、深く深呼吸をして……二人は外に出た。
そのまま、路地を進む。
微かにでも音が聞こえると、フラムは足を止めて身を隠し、周囲を警戒した。
それが
しかし生き残るためには、それが正しい。
他者の犠牲を踏み台にして歩いていくうちに、城壁沿いまで到達した。
このあたりも、普段はいくつもの露店が並び賑わっているのだが――見渡しても、生きた人間の姿はない。
だが、露店の商品、特に高額な物が荒らされているのを見るに、こんなときでも欲を忘れない人間というのはいるらしい。
確かにこれじゃあ、人間にオリジンの封印は任されないわけだ。
とはいえ、民家から食料や道具を拝借したフラムも、彼らを責められる立場にはないわけだが。
「ここまで、特に誰とも遭遇しませんでしたね」
「うん、戦ってる様子も無いし、みんなどこに行っちゃったんだろう。それに、特に中央区の出口で騒動が起きてる様子も無いけど……」
「中央区だけ対処が後回しになっているということでしょうか」
「だといいんだけど……とりあえず、行くしかないかな」
一歩ずつ慎重に、二人は前進する。
叫び声やキマイラの鳴き声も遠く、危機は近づいていないはずなのに――フラムの心臓はなぜか、バクバクと激しく脈を打った。
奇妙なプレッシャーを感じる。
人とも、キマイラとも違う、何かがこの先に待っている。
そんな気がした。
そのとき――ザッ、と誰かの足音が聞こえた。
フラムでもなければ、ミルキットでもない。
とっさに魂喰いを抜き構えたフラム。
すると、露店の影から、白衣を纏った女が、四つん這いで現れた。
「あ……あぁ……あはぁ……」
喘ぎ声混じりの呼吸を繰り返す彼女は、二人の存在に気づくと、ぴたりと動きを止める。
そして首を回してフラムを見つめ、にこりと笑った。
「あらぁ、フラムじゃないのぉ」
「エキドナ……?」
それは紛れもなく、キマイラを作り出した張本人、エキドナだ。
王城から逃げ出してきたのだろうか。
「奇遇ねぇ、こんな場所で会うなんてぇ」
しかしそれにしては、様子がおかしい。
頬は紅潮し、まるで快楽に酔ったかのような表情を浮かべている。
キマイラから命からがら逃げてきたとは思えない。
「私ねぇ、色々と大変だったのよぉ……復讐って言うのかしらぁ、まさか彼女が来るとは思ってなかったからぁ、驚いてぇ」
エキドナはゆっくりと、緩慢な動きで前に進む。
少しずつ、その体の全貌があらわになる。
「でもぉ、意外と悪くないのよぉ? そうよねぇ、考えてみればぁ、キマイラはあんなに可愛いんですものぉ。自分で使ってもぉ、素敵になるのが当然ですわぁ」
正しく、人の体をしている。
彼女の体だけを切り取るのなら、まだ正常な人間と呼んでも差し支えはないだろう。
だがその下半身――具体的に言えば足と足の間から、大量のねじれた赤い管が伸びている。
ずるり、ずるり。
四つん這いで前に進むたび、その管が引きずられ、表面に生じた細かい傷から血を撒き散らす。
それだけでも十分に異様な光景だったが、真に異様なのはその管の先に繋がっているものである。
それは、エキドナだった。
何十何百という数のエキドナが、管に繋がれ、引きずられている。
増殖した、生み出した――色々と可能性は考えられたが、しかし周囲がやけに静かなことを考えると、そのどちらでも無いのだろう。
それはおそらく、
「エキドナ……あんた、まさか……コアを……っ!」
「ええ、頂きましたわぁ。そうしたらぁ、私ぃ、とても素敵な気分になってぇ、それを少しでもみんなに与えたいと思ってぇ……こぉんな感じでぇっ」
ひゅるりと天に伸びる、一本の赤い管。
その先端にはまだ何も繋がっていない。
つまり、これから、フラムとミルキットを接続するためのものである。
それは明確な敵意を持って、鋭く尖った先端をフラムに向けた。
彼女は受け止めようと魂喰いを構えるが――接触する寸前、ぞくりと猛烈に悪寒を感じる。
即座に作戦変更、横に飛んで回避する。
すると管は、地面に触れた瞬間、ベチャッ、と大量の血のようなものを吐き出す。
それは地面を泡立たせ、形を変えたかと思うと――やがて土が、人の顔へと変わっていく。
生まれたのは、エキドナの顔だった。
「避けるなんて酷いですわぁ」
土で出来た、エキドナの顔が言い放つ。
もしも受け止めていれば、魂喰いも同化し、エキドナに変えられていたのだろう。
「頭おかしいんじゃない……?」
思わず当たり前の愚痴を漏らしてしまうフラム。
「頭はぁ、おかしいほうがぁ、気持ちいいんですのよぉ?」
独り言に、エキドナの
どうせ話は通じない。
フラムは無視して大剣を構え、次の攻撃に備える。
「それにぃ、常識なんてぇ、新しいものを生み出すときは邪魔なだけですものぉっ♪」
ガギッ。
エキドナの声に合わせるように、フラムの手元からそんな音がした。
「な――!?」
「い、いつの間に後ろに……?」
背後から迫っていた二メートルほどの巨大な生首が、魂喰いに噛み付いている。
首からは赤い管が伸びており、後方にある路地に続いていた。
本体が注意を引いている間に迂回して、背後を取ったのだろう。
慌てて引き抜こうとするフラム。
だがそれは思った以上にあっさりと抜け、彼女は自らが握る剣を見て言葉を失った。
刃が、折れている。
同時にフラムの体からエンチャントの効果が失われ、力が抜けていくのを感じた。
当然、再生能力ももう使えない。
「そ、そんな……こんな、簡単に……っ!?」
魂喰いの力を借りて、ここまで戦ってきた。
確かに反転の力は強力だが、それは再生能力あってこそ。
それが失われた今――フラムはただの、Aランク相当の冒険者に過ぎない。
エキドナの巨大な口から、ペッと折れた刃が吐き出される。
そして彼女はニィっと笑うと、大きく口を開いて――呆然と立ち尽くすフラムに食らいついた。
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