EX6-2 ブラッド




 その後、何事もなく店にたどり着いたキリルとショコラ。

 もっとも、何事もなかったのは、ショコラが怖くてキリルの真意を聞き出せなかったからなのだが。


 二人は裏口から入り、その奥にある厨房にいる師匠――ティーシェ・シュガレインに挨拶をするため顔を出した。

 いつもなら、そろそろ起きて動き出している時間なのだが、見回しても彼女の姿はそこにはない。

 キリルが露骨に「はぁ」とため息をつくと、ショコラも苦笑いを浮かべた。


「いつものアレ、ですかね」

「アレだろうね。私が行ってくるから、ショコラは先に着替えてて」

「りょーかいです。お願いします」


 ショコラを置いて、キリルは廊下の奥にある階段を上がる。

 店の二階は、ティーシェの住居になっていた。

 とりあえず、入り口にあたる扉をノックするキリル。


「師匠、起きてますかー?」


 返事は無い。

 つまり“いつものアレ”がほぼ確定したわけで。

 キリルは再びため息をつくと、中に押し入った。


 ティーシェの寝起きは非常に悪い。

 じゃあ何でケーキ屋なんてしてんだよ、とキリルが愚痴りたくなるほど悪い。

 どうやら近所の人の話を聞く限りでは、一人でやっていた頃は寝坊で開店時間が遅くなることもしばしばあったらしい。

 それでも、腕は確かなので人気は落ちなかったらしいが。

 

 フラムと一緒に食べに来た時は、ケーキを運んでくる彼女がキラキラ輝いていたものだが――現実とはかくも残酷なものなのか。

 実際のティーシェは、輝くどころか、酒の匂いが漂う部屋の中で、死体のように潰れて床に寝そべっているような、残念な女性だった。

 キリルはティーシェに近づくと、ぐらぐらと体を揺らして彼女を起こす。


「師匠、起きてください。もう仕込みを始めないと間に合いませんよ」

「うぅん……あと一杯……」

「せめて起きる意思を見せてくれません?」


 夢の中でも酒を飲んでいるのかもしれない。

 このまま普通に起きても、ティーシェはなかなか起きてくれない。

 だが特効薬とも呼ぶべき方法をキリルは知っていた。


「師匠、起きないならあれやりますよ?」

「んー……アルコールが……体から……抜けてぇ……」


 起きそうにないので、キリルはキメ顔で、右手の指をピンと伸ばした。

 そしてズボッ! と襟口から手を突っ込み、容赦なく胸を揉む。


「いひゃあぁぁああああっ! やめっ、やめろってそれはぁ! キリル、あたしそう言ったよなぁ!?」


 ティーシェはガバッ、と上半身を起こすと、顔を真っ赤にしてキリルをにらみつけた。

 

「おはようございます。やめろってことは効果的なんですよね」

「悪魔か!?」

「いいえ、勇者です」

「都合のいいときだけ勇者になるなお前……」


 胸元を押さえ、肩を上下させるティーシェ。

 一方でキリルは慣れたもので、澄ました顔でパンパンと手を叩いた。

 

「便利に使うぐらいでちょうどいいんですよ、こういうのは。ショコラももう来てるんで、準備が済んだらすぐに下りてきてくださいね」

「くそう……最初の頃はもっと遠慮があったってのにぃ……」


 確かに当初のキリルは、ティーシェへの憧れもあって、比較的彼女に気を遣っていた。

 だが一年も経つ頃には、その扱い方を熟知してきたようで、今のような遠慮のない言動が増えてきたらしい。

 要するに、ティーシェは基本的にダメ人間なのである。


 ぶつぶつと文句を言うティーシェを置いて、ショコラのもとに戻ってくるキリル。

 一足先に着替えた彼女は、下はズボン、上はコックコート、そして束ねた髪の上からコック帽を被り、すっかり準備万端だった。


「お勤めご苦労さまです。今日はどうでした?」

「二日酔いは無いんじゃないかな。来るまで少し時間がかかりそうだったけど」

「なら先に掃除を始めときますねっ」


 更衣室から出ていくショコラ。

 キリルも急いで着替えを始める。


「エピック装備のコートとか無いのかな……」


 こういう時、鎧や剣なら一瞬で纏うことができるのだが。

 スキャンで見てみれば、パティシエ衣装にもランクがあり、中にはステータスが付与されているものもあるのだが、やはりエピックなんてそうそうお目にかかれない。

 見つけたとしても、ケーキ屋の給料で買えるわけなどなかった。

 そもそも、キリルが使っていた装備は王国から貸与されたもので、そのまま成り行きで今も持ち続けているだけなのだが。


 キリルの着替えが終わると、ショコラと合流する。

 厨房はもちろんのこと、店頭やショーケースの清掃も行う。

 まだティーシェは下りてこない。

 まあ、逆に彼女だけが早起きしているパターンもあるので、特に不平不満を口にしたりはしないのだが。

 不満があるとすれば、どちらかと言えば――


「……ワインが減ってる」


 冷蔵庫を開けると、しばしば昨日あったはずの材料が減っていること、だろうか。

 夜のお供として、ティーシェの胃袋に収まっているのだろう。

 

「またですかぁ? お店のものは飲まないでほしいって言ってるのに」

「まあ、このお店は師匠の持ち物だから、ある意味ではあの人の物なんだろうけど」


 それでもこっそりやってほしいというか、同じものを自分用に別に買っておけばいいだけなのだが。

 しかし、キリルは軽く呆れたような表情を見せるだけで、怒ったようには見えない。

 昨日の段階で、調理中にワインを見つめるティーシェの目を見て、『あっ、これは明日無くなってるな』と察していたからである。


 とはいえ、これぐらいで文句を言っていたのでは、この店での業務は務まらない。

 そもそも、ティーシェがかなりの腕を持ちながら、キリルが志願するまで弟子を取らなかったのは、ティーシェのお菓子作り以外の部分があまりにもポンコツだったからである。

 火属性魔法の加減を間違えて軽く火事になりかけたという話もしていたように、『よく今まで一人で店を経営できたな』と思うことはよくあることだった。

 そのやらかしを、キリルの人並み外れた身体能力でフォローすることも多いので、ある意味で彼女はティーシェとの相性がいいのかもしれない。


「あ、師匠やっと来ましたよ」


 掃除が終わった頃に、ティーシェはようやく姿を現した。

 

「うぃーっす」


 寝坊してきたくせに、ゆるい挨拶である。


「おはようございます、師匠」

「おはよーです。また飲みすぎたんですね、酒臭いですよ」

「ワインがあたしを誘ってくるんだよ。ありゃ相当な悪女だわ」

「何をわけわかんないこと言ってるんですか。早く始めましょうよ」

「あいあい、じゃあいつもどおり頼むわ」


 師匠を前にすると、割とウザめなショコラですら常識的に見える有様だった。

 しかし、やはり腕だけは確かなもので、焼き菓子の生地を作るその手付きは、さっきまで寝起きだったダメ人間には見えない。

 一方でキリルは、昨日の夜に仕込んでおいたクリームを、パレットナイフを使ってスポンジに塗る作業――いわゆるナッペを、人の目には見えない動きで行っていた。


「師匠、私ずーっと思ってたんですけども」


 ショコラは果物の皮を剥きながら、不満げに言った。


「技は目で盗めって言いますけど、そもそも先輩の動きが私の目じゃ見えないんですけど?」

「……すまんがあたしにも見えん」

「そう言われても、ゆっくりすると間に合わないから」

「それはそうなんですけどぉー!」


 キリルが働きはじめてからと言うものの、店の売り上げは飛躍的の伸びた。

 さらに、ティーシェが調子に乗って『勇者ケーキとか作ろうぜ!』と発案し、実際に売り出すと、笑えないぐらい売り上げは伸びた。

 ちなみに勇者ケーキとは、ショートケーキの上に、キリルが使ってそうな――実際には使っていないのだが――剣の形をした砂糖菓子を乗せただけの物だ。

 だがその売れっぷりは、店のショーケースが勇者ケーキだけで埋まり、なおかつ一時間も経たないうちに全て売り切れてしまうほどであった。

 そして勇者フィーバーが落ち着いた今でも、他のケーキより圧倒的に売れている。

 つまりキリルが勇者特有の身体能力を駆使し、大量生産しなければ需要に追いつかないのだ。


「そのうち勇者ケーキは落ち着くだろうから、そこまでの辛抱だ」

「そう言われ続けてもうどれぐらい経ちましたっけ……」


 遠い目をするショコラ。

 しかしながら、ナイフを握る手の動きは止まらないあたり、何だかんだで身についているものもあるようだ。


「あたしだってなあ、ここまで繁盛すると思ってなかったんだよ。ちょっとした思いつきがまさかこんなことになるとは……ん、これ少し足りないか。魔法で調節を……」


 ティーシェはオーブンから取り出したお菓子に手をかざし、魔法でさらに焼き色を付けた。

 ショコラは目ざとくそれを見逃さない。


「だからそういうところなんですよぉーーーっ! 先輩もそうですけど、魔法で微調整されたんじゃ闇属性の私には真似できないじゃないですかぁー!」


 怒りの影響か、ショコラの手の動きはさらに加速する。

 ティーシェにも負けずとも劣らない速さであった。


「ショコラ、闇の炎とか出せないの?」

「そんなの使えたら冒険者になってますって……英雄じゃないんですから」


 普通の人間は、キリルたちほど器用に魔法の応用などできないものなのである。


「わかったわかった。なら今度、暇な日にでもじっくり時間を取ってレクチャーしてやるから」

「師匠」

「何だ?」

「今の発言、今日で五回目ですからね?」

「……」


 痛いところを突かれ、弱々しい表情でキリルを見つめるティーシェ。

 

「助けを求めるように私の方を見られても困ります」


 キリルはあっさりと見捨てた。

 

「ぐっ、どいつもこいつも冷たい弟子たちめ。いいのかー? あたしが不貞腐れたら明日から酒の量を増やすからなー!」

「そんなこと言ってる暇があったら手を動かしてください。開店までに間に合いませんよ」


 とことん冷たいキリルに、ティーシェは唇を尖らせ、いじけはじめた。


「どうせあたしには味方なんていないんだ……酒に溺れて寝坊までするダメ店主を慕ってくれる弟子なんてどこにもいなかったんだ……」


 その時、ピンポーンとインターフォンが鳴った。


「味方が来ましたよ、師匠」

「良かったですね、師匠!」

「いやどう考えても違うだろ……でも誰だぁ、開店前のこんな時間に」

「業者じゃないですか。什器じゅうきを頼んだって言ってたじゃないですか」

「あー……めんどくせえな。でもあたし注文したものだし、あたしにしかわからん。ちくしょう! キリル、オーブン見といてもらえるか?」

「わかりました、やれることはやっておきます」

「頼んだ。じゃあな」


 ひらひらと手を振って、裏口に向かうティーシェ。

 厨房にキリルとショコラだけが残った。


 二人は静かに作業を続ける。

 パレットナイフを操るキリルの鋭い動きは、ほぼ音すらも発さないため、シャクシャクと果物の皮を剥く音だけが響く。

 

「あの、先輩」

 

 手を動かし、視線をナイフに向けたまま、ショコラはキリルに尋ねる。


「さっき、店に来る時……私が、最初の頃、先輩のことを嫌いだったって言ってたじゃないですか」

「言ったけど……掘り返すんだ、その話題」

「へ?」

「私も言わない方がいいと思ったから、あえてそれ以上は話さなかったんだけど」

「半端に聞いたんじゃ余計に気になりますって!」

「……そりゃそうか」


 言ってしまった時点で、手遅れなのだ。

 図星だっただけに、なおさら。


「何でそう思ったんですか?」

「何でも何も、殺気を感じてたから。『勇者キリルに憧れて店に来ました』って言ってた人間が、どうして私のことあんな目で見てるんだろうってずっと気になってた」

「隠せてなかったんですね……」

「女優の才能は無いと思う」

「顔だけなら行けると思うんですけど」

「それはそうだけど」

「だ、だから急なデレはやめてくださいって!」

「恥ずかしがるぐらいなら最初から言わなければいいのに」


 苦笑するキリル。

 赤らむショコラは、忙しなく手を動かしている。


「しかし……気づかれてたんですか。なのに、先輩は……」


 しかしそれっきり、話を広げようとはしなかった。

 キリルとしても、なぜショコラが自分を恨んでいたのかは気になる。

 だが、今は違う。

 ショコラは後輩として自分を慕ってくれているし、ならばあえて、理由を聞かなくてもいいのかもしれない。


(というか、普通は聞きたくないよね、自分が恨まれてる理由なんて。やぶ蛇を突くことになりそうだし)


 今のキリルは、勇者ではない。

 都合さえよければその称号を利用することはあるが、基本的に普通の女性として、やりたいことをやって生きていく――そう心に決めている。

 だったら別に、嫌なことから目を背けたって構わないはずだ。

 ショコラだって、それを過去のことだと割り切ったからこそ、キリルに心からの笑顔を向けてくれるようになったのだろうから。




◇◇◇




 開店と同時に、並んでいた客がなだれ込んでくる。

 静かだった店内は一瞬にして女性たちで溢れた。

 カウンターに立つキリルを見てキャーキャーと歓声を上げる観光客も少なくない。

 まあ、そういう客への対策として、店の前には『店員への個人的な声かけやサインはお断りしております』という張り紙がしてあるのだが。


「うへへへ……今日も地獄が始まりますねえ」

「最初がピークなんだから、気合いを入れていこう」

「うぃーっす」


 そんなやり取りを最後に、二人は会話を交わす余裕すら無くなってしまった。

 目玉はもちろん勇者ケーキである。

 この商品が人気になると、他のお菓子屋でも英雄たちをモチーフにしたケーキを売り出し始めたが、やはり本物の勇者が作る勇者ケーキには敵わない。

 当然、一緒に他のお菓子を買っていく客も多いわけで、勇者ケーキの分を差し引いても、店の売り上げは以前よりも跳ね上がっているのだという。


「いらっしゃいませー!」


 普段はちょっと面倒な後輩であるショコラだが、接客という分野においては、キリルやティーシェよりも優れている。

 人懐っこい笑顔と、明るく溌剌とした声。

 このあたりは天性の才能なので、少し無愛想な自覚があるキリルが努力しても、なかなか身につかないものだろう。

 ちなみにティーシェは論外である。


「お姉さん、こんにちは」


 次々と客をさばいていくキリルの前に、物腰柔らかな少女が現れる。

 緑色の髪をした彼女がぺこりと頭を下げると、キリルの表情がほころんだ。

 

「いらっしゃいませ、ハロムちゃん。今日は一人なんだね」


 ハロム・ヤンドーラ――彼女は、この店の常連だった。

 もっとも、普段はケレイナ、そしてティオと一緒に来ることがほとんどなのだが。


「はいっ、お母さんはティオの面倒を見るので忙しいみたいなので」

「ははは、ティオくんも順調に育ってるんだね」

「さすがはパパの息子だけあります」


 ガディオの血を引き、なおかつ一流の冒険者であったケレイナの息子でもあるティオは、やはり同世代の子供に比べると背丈が大きい。

 顔つきにも、風格が漂っている。

 ただし、当の本人は気弱で、人見知りの激しい性格をしているようだが。


「ガディオさんの子供か……やっぱり将来は冒険者なのかな」

「今はケーキ屋さんになりたいって言ってますよ。勇者ケーキが大好物ですから」

「それは光栄だね。じゃあ今日もやっぱりあれを?」

「はい、三個お願いしますっ」


 キリルはショーケースから勇者ケーキを三個取り出すと、箱に入れて、代金と引き換えにハロムに渡す。

 彼女は「それじゃあまた来ますねっ」と可憐な笑顔でキリルに告げると、最後にショコラにも会釈して店から出ていった。

 ショコラも手を振って、彼女の後ろ姿を見送る。


(ハロムちゃんとショコラ、古い知り合いって言ってたっけ……)


 キリルはショコラの横顔を見ながら、以前ハロムがそんなことを話していたことを思い出していた。




◇◇◇



 

 数時間後、客足が落ち着いてきた所で、一足先にキリルが休憩に入る。

 店頭にはショコラだけが立っているが、勇者ケーキはほどなくして無くなりそうだし、彼女だけで十分だろう。


「師匠、休憩に入りますね」

「ああ、わかった」


 ティーシェは真剣な表情で、オーブンの中身とにらめっこしている。

 彼女も何だかんだでプロのパティシエだ。

 たまに――特にキリルとショコラの目が無いところで、こういう顔をすることがある。


「新作ですか?」

「勇者ケーキを超える売れ筋商品を作ってやろうと思ってな」

「まだ根に持ってるんですね。言っておきますけど、提案したのは師匠ですからね」

「だとしてもだ。弟子のおかげで店が繁盛しただなんて、師匠を名乗る身としては悔しくてしょうがないだろう。いつか絶対に勇者ケーキを超えるヒット商品を生み出してやるからな。見ておけよ、キリル!」

「だから、別に私は気にしてないんですけど……」


 言っても聞かないのがティーシェという人間である。

 苦笑しながら、厨房から出ていこうとしたキリルだったが、


「あ、ちょっと待てキリル」


 直前でティーシェに呼び止められた。

 キリルは足を止める。


「どうしたんですか、師匠」

「ショコラのことなんだがな。あいつ、最近どうだ?」

「どうって、相変わらず元気にやってますよ」

「そうか、それならいいんだが……」

「何か気になることでもあったんですか?」


 キリルがそう尋ねると、ティーシェは顎に手を当てて答えた。

 

「……皮むきが荒い」

「皮むき、ですか」

「果物のカットも、どうも……鋭さみたいなものがない。これはあたしの勘でしか無いんだが、ショコラの体調が悪いんじゃないかと思ってな」

「少なくとも私が見る限りではいつも通りでしたけど。ああ、でも――」

「何か思い当たることがあるのか?」

「最近、毎朝うちに迎えに来るようになったんですよ」

「そういやお前ら、一緒に通勤してるな。迎えに来るって何だよ、仲のいい学生か何かか?」

「私にもわかりません、急なことだったんで。単純に私の地道な好感度稼ぎが功を奏したのかと思ってたんですが」

「稼いでたのか」

「後輩なんてできるはじめてなので、割と入念に」


 相手は当初、自分のことを嫌っていたのだからなおさらである。


「でも師匠の言う通り、ショコラの体調が悪いなら、うちに来るようになったのにも理由があるのかもしれませんね」

「かもな。どうもあたしは、そういう対処に向いてない。フォローはキリルに頼んだぞ」

「丸投げですか」

「あたしにできることは酒を飲んで祈ることだけだ」

「わかりました。師匠が飲まなくて済むようにやってみます」

「長引かせてくれてもいいんだぞ?」

「そしたら、一人で店を回す羽目になるかもしれませんね」

「それは勘弁してくれないか……?」


 本気で涙目になるティーシェ。

 今年で34にもなる女性が、20歳のキリルに泣いて許しを乞うという情けない絵面であった。




◇◇◇




 キリルはコックコートを脱いで私服に着替えると、ミルキットが作ってくれた弁当を持って近くにある公園に向かった。

 ベンチに腰掛け、弁当箱を開く。

 味に関しては言うことも無いのだが、見栄えもすっかりプロのような出来である。


「お菓子ならともかく、料理じゃ絶対に敵わないなあ」


 ミルキットは料理においてキリルをライバル視している一面がある。

 相手を同程度の実力の持ち主と捉え、追い抜くべく腕を磨いているのだ。

 だが実際のところ、お菓子作り以外の分野において、ミルキットはすでにキリルのはるか上を行っている。

 フラムへの愛情が、ミルキットを成長させているのだ。

 まあ、基本的にキリルは忙しくて家での食事は作れないし、ミルキットが上達してくれるのはむしろ大歓迎なのだが。


「うん、おいひい」


 もきゅもきゅと、弁当の中身を頬張るキリル。

 すると遠くから、彼女に駆け寄ってくる誰かが見えた。

 その少女は緑色の髪を揺らしながらキリルの目の前で止まり、丁寧にぺこりと頭を下げる。


「こんにちは、ハロムちゃん。今日は二回目だね」

「どうもこんにちはです」

「とりあえず、座る?」

「お邪魔します……」


 キリルの隣に、ちょこんと腰掛けるハロム。

 彼女はいつもの明るい笑顔ではなく、珍しく真剣な顔をしていた。


「私に聞きたいことでもあった?」

「はい、実はショコラさんについてなんですが……」

「前から知り合いだったって言ってたよね」

「ええ、王都が崩壊する前に、東区の公園で何度か遊んでもらったことがあります」


 おそらく、それはキリルたちが魔王討伐の旅に出ている途中、あるいはそれ以前のことなのだろう。


「でもですね、あの頃のショコラさんは……今とは違うと言いますか。もっと、えっと……こういう言い方は失礼かもしれませんが、暗い雰囲気の人だったんです」

「ショコラが、暗い?」


 キリルは首をかしげる。

 今の彼女から想像できない姿だ。


「たぶん、公園に来てたのも、家から逃げるためだったんじゃないかと思います」

「あんまり家庭環境が良くなかったと」

「まあ、ただの噂なんですけど。でも今は、違うじゃないですか」

「うん、ショコラは明るくて能天気で、たまにうざったいぐらいだからね。だけどよくあることじゃないかな、あんなことがあったんだから」


 目を細めるキリル。

 オリジンが復活し、王都が崩壊したあの日を境に――キリルは実際に見たわけではないのだが、多くの人の人生が一変した。

 家族を失った者、生き延びて心に大きな傷を負ったもの。

 今となってはすっかり復興しているが、ここに至るまでの道のりにおいて、否が応でも変わらなくてはならなかった人間が、数多存在している。

 ショコラの親だって、ショコラ自身だって、その道程で何かをきっかけに変わっていたっておかしくはない。


 だが――キリルには、ハロムの語る『暗かった頃のショコラ』に心当たりがあった。

 

 出会ったばかりの頃、キリルを恨んでいたショコラ。

 当時から、彼女はうざったいぐらい人懐っこい性格だったが、それが本心でないことをキリルは知っていた。

 要するに、ショコラは仮面をかぶっていたのである。

 その本質が、ハロムの語る暗かった頃の彼女と変わっていないのだとしたら――当時のショコラを今の彼女に変えたのは、五年前の悲劇では無い。

 キリルのうぬぼれでなければ、それは先輩と後輩として接してきた日々ということになる。

 つまり、ショコラの親は、ハロムの知る頃から何も変わっていないのではないだろうか。

 そんな可能性が浮上する。


「それで気になって、つい、近所の人に聞いてしまったんですけど……」

「ショコラのことを?」


 こくん、とうなずくハロム。

 ただの好奇心で他者のプライベートを暴くのはよくないことだと自覚しているのか、その表情は申し訳無さそうだ。


「あの、その、どうしても、気になって、私にも何でかわからないんですけどっ」

「大丈夫、私はそのへん気にしないから」


 キリルはハロムの頭をぽんぽんと軽く撫でる。


「ありがとう、ございます。それで、いざ聞いてみたら……ショコラさんの家族のこと、誰も知らないって言うんですよ」


 不安げに、ハロムは言った。


「たぶん一緒に暮らしてるんですけど、ショコラさん以外の姿をほとんど誰も見ていないそうで」

「あんまり外に出てないってこと?」

「だと、思います」

「ショコラの給料で、家族全員を養う……」

「ショコラさんの家族は王都で暮らしてましたから、補助金が出てると思います」

「ああ、そっか。ならお金の問題は無い。でも……誰も見たことが無いっていうのは、不自然だよね」

「やっぱり、キリルお姉さんもそう思いますか」


 何より、ハロムがショコラを見て抱いた不安というのも気になる。

 ハロムも一流冒険者の血を引いている。

 そういった勘が優れていても不自然ではない。

 それに、ショコラの体調が悪いかもしれない――そんな話を、ついさっきティーシェから聞いたばかりだ。


「ありがとね、ハロムちゃん。私もできるだけショコラのことを気にしてみる」

「お願いします。私も、ショコラさんのことは好きですから。何も無いのが一番なんですけどねっ」


 キリルの言葉で安心したのか、ハロムはいつもどおりの笑顔に戻った。

 そして立ち上がり、軽くお尻をパチパチと叩くと、元気に手を振りながら走り去って行った。


「ショコラの親……か」


 ぼんやりと卵焼きを口に運びながら、キリルは呟く。

 ショコラとは短くない付き合いだが、確かに今まで一度だって、両親の話題が彼女の口から語られたことはなかった。




◇◇◇




 閉店後、明日の分の仕込みが終わると、ショコラとキリルは一緒に店を出た。

 いつもなら途中で違う道に分かれるのだが、ひとまず今日は、キリルは家までショコラを送るつもりだった。


「あれ、先輩……ついてくるんですか?」

「夜道は心配だから」

「今まで一度だってそんなこと無かったのに。あ、もしかしてついに私に惚れちゃいましたぁ?」

「バカなこと言ってないで歩く」

「えへへへ、わかりましたっ」


 そっけない対応をされても、ショコラは嬉しそうだ。

 自分を心配してくれているキリルの行為が、素直に嬉しいらしい。


「でも、朝も一緒に出勤して、帰りも一緒に歩くとなると、いよいよ恋人っぽくないです? 新聞記者あたりに狙われてたりしてぇ」

「前から思ってたけど、ショコラは私と恋人になりたいの?」

「へっ!?」

「だって事あるごとにそういうこと言うから」

「ち、ちちっ、違いますよお! 私は先輩をからかってるだけですぅー!」

「その割には反撃に弱い」

「そこは今後の改善点ですから!」


 どうやらショコラも気にしているらしい。

 とはいえ、まあキリルもそんなやり取りを楽しんでいるので、悪い気はしなかった。


「空、綺麗ですね」

「うん」

「街が明るくなって、星が見えにくくなったってよく言いますけど、私は今の方がいいです」


 ショコラは空に手を伸ばしながら語る。


「だって前は、安心して空を見上げることもできませんでしたから」


 彼女が幻視しているのは、五年前の空だ。

 燃え盛る炎で赤く染まり、飛竜型キマイラが飛び交う、地獄のような空。


「気持ちの余裕もあるんでしょうけど」

「……ショコラ」

「何ですか?」

「いやなことがあったら、気兼ねなく私に話してほしい。面倒事は嫌いだけど、可愛い後輩のためなら結構頑張れると思うから」

「ほんと、急にどうしたんです、先輩。毒でも飲みました?」

「普通に失礼」

「ごめんなさい。でもやっぱり変ですよお。本当に私に惚れちゃったんじゃないです?」

「それだけは無いから安心してほしい。ただ、ふとそう思っただけだから」

「ふふ……わかりました。純粋に心配してくれてるんです、気持ちはありがたく受け取っておきますね」


 いつもの生意気な雰囲気ではなく、柔らかくショコラは笑った。

 キリルは少し安心する。

 そして、ショコラの家の前にたどり着いた。

 それはどこにでもある平屋で、見た限りでは特におかしな点は無い。


「今日はありがとうございました、先輩っ」

「どういたしまして」

「じゃあ、また明日です」

「ん」


 できれば親の姿を拝んで起きたいキリルだったが、ショコラは一人で早々に鍵を開くと、中に入っていってしまった。

 諦めてショコラの家に背を向けるキリル。

 自分の家に歩いていこうとしたその時――背中に、凍りつくような気配を感じた。

 とっさに振り返る。

 ショコラの家の窓、かすかに開いたカーテンの隙間から、二つの瞳がこちらを見つめていた。

 男性だ。

 髪の色はショコラとは違うが、年齢からして父親だろうか。

 彼は殺気のこもった視線でじっとキリルを見つめると、やがて、ゆっくりとカーテンを閉めて立ち去った。


「今の気配は……」


 最初の頃、ショコラに向けられていた殺気とよく似ていた。

 あれが本当に彼女の父親なのだとしたら、ショコラがキリルに近づいてきた理由は、そしてその原因となった出来事は――


 キリルは無言で、自分の手のひらを見つめた。

 そして想起する。

 この指にはめられていた、あの忌まわしき指輪のことを。




◇◇◇




 キリルは晴れない気分で家に戻った。

 玄関に近づくと、いつもは中からミルキットの作った食事のいい匂いが漂ってくる。

 だが今日は違った。


「これって……血の、匂い……?」


 屋内に感じる人の気配は、明らかに普段よりも多い。

 何か異変が起きている。

 察したキリルは、久しぶりにエピック装備を呼び出し、右手に剣を握った。

 そして、左手でドアノブに触れ、ゆっくりと扉を開く。

 そこでキリルが見たものは――


「ど、どうも……お邪魔している、ぞ」


 なぜか胸元がはだけたアンリエットと、


「お姉さま……お姉さまぁ……うへへへへへぇ……」


 鼻血で胸元を真っ赤に染め、床に横たわるオティーリエの姿だった。




 

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