第42話 エスケープ・フロム・ザ・リンボ
人間や化物の死体が無数に転がる地下。
奥の廃棄室からは、不気味なうめき声が響いていた。
激しい戦闘によって設置されたドアや壁、天井はボロボロに破壊されており、瓦礫がそこら中に散らばっている。
そんな場所で、フラムとネクトは向かい合っていた。
確かに今回、シェオルに研究所があるという情報をフラムにもたらしたのはネクトだ。
だが彼もまた教会の一員。
フラムは戦闘の疲れがまだ取れぬ体で再び剣を抜き、構える。
彼女の肩は大きめに上下し、呼吸も心なしか荒い。
ネクトはそんな彼女の様子を見て、肩をすくめた。
「言っておくけど、僕はここでやりあうつもりはないから」
「私の命を狙ってるんでしょ?」
「命じゃない、その反転の力だよ。どっから出てきたものかは知らないけど、オリジンはそれを欲しがってる、だからお姉さんを接続したいと思ってるんだ」
「接続接続ってよく聞くけど、私にはさっぱり何のことかわかんないから」
フラムはネクトを睨みつける。
彼は顎に手を当てて「んー」と少し考え、
「じゃあこれも報酬の一つってことで、そのあたりの説明も兼ねて、少しお話しよっか」
「ダフィズさんのとこにいるミルキットを迎えにいかなきゃいけないし、別に私は……」
「僕も今は機嫌が良いし、答えられる範囲なら答えてあげるよ」
ネクトはフラムの言葉を遮り、やたら上から目線にそう提案した。
「いや、だから迎えに……」
「ダフィズのことを心配してるの? だったら大丈夫だよ、彼は人殺しになんてなれない。それに、今だったらオリジンのことだって教えてあげてもいいと思ってるんだけどなー……」
それはフラムにとっても魅力的な言葉だった。
ネクロマンシーを潰したことの対価だと言うのなら、シェオルの場所同様、彼は普通に情報を渡してくれる可能性もある。
「でも――」
何よりも、待っているミルキットとの合流を優先したいフラム。
そんな彼女の様子は、ネクトの機嫌を少々損ねたようだ。
「それに、僕の機嫌を損ねると、そっちの方が怖いよ?」
提案が脅迫に変わる。
こうなると、もはやフラムに拒否権はなかった。
「もし話に付き合ってくれるって言うんなら、その物騒な剣は仕舞ってね。というか、あんまり警戒しないでよ。ただ僕がおしゃべりしたい気分ってだけだから」
彼がその気になれば、今の消耗しきったフラム程度、とっくに殺せているはずなのだ。
だが現在、ネクトの表情や纏う空気から殺気は感じられない。
フラムは警戒を続けながらも、一旦武器を収納した。
「素直で助かるよ。じゃあまずはどこから話そっか?」
「……接続って、何のことなの」
緊張からか、フラムは低めの声で問いかける。
「そのままの意味。繋げるのさ、“カチッ”ってさ。そしてお姉さんは
フラムの反転は、オリジンコアを唯一破壊できる力だ。
それを持つ彼女を一体化させることがオリジンの狙いだとするのなら、目的は命ではなく――その能力。
「自分が反転で破壊されないように、私を取り込もうとしてるの?」
「そういうことになる」
「だったら、私のステータスが0だった頃に接続しておけばよかったのに……」
あるいは――そうできなかった理由でもあったのか。
魔王討伐の旅、その参加者は“オリジンのお告げ”によって選ばれた。
フラムはずっと、なぜ自分が選ばれたのか疑問に思っていたが――あれは彼女を接続し、反転能力を取り込むためだったのだろう。
だがどうして、そのために魔族の領土に向かう必要があったのか。
「これはまた別の質問になるんだけど、魔王討伐の旅って……もしかして、私をどこかに連れて行くための大義名分だったとか? 例えば、魔族領地のどこかにあるオリジンの“本体”の場所とか」
「ノーコメント」
「え?」
「答えられる質問と答えられない質問がある。それはオリジンたちが許可しない、だからノーコメント」
フラムは再びネクトを睨みつけるも、ほとんど効果はなかった。
しかし実際のところ、答えられないということは、イコール肯定だと考えてもいいのではないだろうか。
つまり、オリジンがフラムを接続するためには――彼女自身が、魔王城に赴く必要があったのだろう。
キリルや他のメンバーの必要性はさておき、わざわざ足手まといにしかならない彼女を連れて行った理由は、それぐらいしか思いつかない。
つまりネクトの言う“接続”にはオリジンとの物理的な接触が必要不可欠であり、なおかつオリジンの本体のようなものが魔王城に眠っている――
「でもさ、もし仮に、私がオリジンのところにたどり着いたとして――」
「なんでさっきの話を前提に進めてるんだい、ノーコメントと言ったはずだけど」
「あくまで仮定だから。それでたどり着いて、直接“接続”とやらをするのってさ、あまりにリスキーじゃない? そんなことするぐらいなら、ただの田舎娘のままの私を放置した方がいいと思う」
フラムがステータス0の役立たずだったとしても、どんな拍子で手元に呪いの装備が転がり込んで、反転が力を発揮するかわからないのだ。
それで万が一にでもオリジンを破壊されるようなことがあれば、全て台無しである。
「確かに、オリジンはフラム・アプリコットという、自分を殺せる可能性のある存在を恐れている」
「だったらどうして、わざわざ私を近づけたんだろ」
「それは……今のお姉さん程度の力じゃどうにもならない、と思われてるからじゃない?」
彼は悪意のある笑みを浮かべ、挑発的に言った。
「言われなくてもわかってるから、本当のところはどうなのか教えて」
フラムが冷静に返すと、ネクトは「ちぇっ」とつまらなそうに言い捨てた。
コアが宿っただけのスージィ相手に、あれだけ苦戦したのだ。
仮に本体が存在したとして、それに勝てるとは思えないし、スージィにかき消される程度の反転の力ではまだ足りないことも理解している。
「……うん、うん」
彼は突然目を閉じると、何度か頷く。
オリジンの声を聞いているとでも言うのか――しばしそれを続けると、微笑んで会話を再開した。
「そこはオリジンも説明していいってさ、別に教えたところでお姉さんが接続される未来は変わらないからって」
「気分の悪い理由だけど……早く聞かせて」
「当初、オリジンがフラム・アプリコットっていう存在を認識したとき、彼らの統一意志は生じた“死の可能性”に対する恐怖の影響で、誕生から初めて意見が割れた」
「しょっぱなからよくわかんない……」
死の可能性は、フラムの反転で破壊されることだとして、“統一意志”とは何のことなのか。
「まあ聞いてなって」
ネクトはろくに説明もせずに、話を先に進める。
「彼らは殺害、放置、接続の三つの意見にわかれたわけだ。でも結局は、その時点で最も大きい勢力だった“接続”派の意見が採用され、計画が練られることになったんだ。なぜそれが多数派になったかって言えば、一度この世に生まれた属性は、数百年後に再度誕生する危険性があったから。キリル・スウィーチカの属性である“勇者”がそうだったように、一度死んだところで、彼らはまた数百年後に“反転”の恐怖に晒されることとなる」
「輪廻転生とか、そういう話ってこと?」
「違うかな、最初の勇者は屈強な男性だったって言うし、それは今の勇者とは全然違うだろう? 魂が生まれ変わるんじゃない、力だけがリサイクルされるのさ。星の意志による抵抗と呼ぶと方がしっくり来るかもね」
フラムは眉をひそめた。
また聞いたことのない単語が出てきたからだ。
星の意志――オリジンに抵抗しているということは、敵対する存在なのだろうか。
「なにはともあれ、一度撃退したところで危機は去ってくれない。だったら力の使い方を知らないうちに取り込んで対処法を身に着けてしまえ――オリジンたちは、そういう実に合理的な結論に至ったわけさ」
だがそれは、破綻してしまった。
認めたくはないが、ジーンの身勝手な暴走のおかげで。
天才となんとかは紙一重と言うが、まさにその通りである。
「でも、途中で予想外の出来事が起きて、オリジンはさらに戸惑ったわけだ」
「さあ? それも計画のうちかもよ」
「そのわりには、死者のフリすらできなくなるぐらい動揺してたんじゃない?」
「ま、確かに過剰反応であることは否めない。彼らにも色々あるからね」
フラムとしてはその“色々”を聞きたいところだが、彼はどうせまたノーコメントと言ってはぐらかすのだろう。
「ああ、そういえば一応、離れれば離れるほどお姉さんが死者に与える影響は小さくなってたみたいだよ」
「じゃあ、研究所の外はまだっ」
一部の死者が研究所に入り込んだだけで、エターナやインク、ガディオの近くにいる人々はまだ無事かもしれない。
楽園はじきに破壊される。
だが、少しでも長い時間を彼らが心の整理に使えたのなら――そんなことを考えていると、
「とは言え、僕が見た時点ですでにシェオルにいた全ての死者が暴走してたようだけど」
ネクトはフラムをあざ笑うように、そう捕捉した。
直後、彼女の方を見てにやりと口角を吊り上げる。
どうやら嫌がらせのつもりだったようだ。
悔しげに歯を噛み締めるフラム。
「あっはははは! 直情的な人間はほんと扱いやすいなあ。ねえお姉さん、自分よりずっと年下の子供に遊ばれるのはどんな気分?」
「……話は済んだなら、もう行ってもいい?」
「どうぞどうぞ、僕は満足したから。あとはこっちの仕事を勝手にやらせてもらうよ」
ネクトは横たわるスージィの死体に近づき、膝を曲げて座ると、手のひらを当てる。
「ああ、あとさ、お姉さんにも、その知り合いにも
「何のこと?」
フラムは振り返り問いかけたが、そこにネクトの姿はなかった。
“接続”で、スージィの死体もろともどこかへ転移したらしい。
「そういやあいつ、最後の仕上げって言ってたよね……」
スージィの死体を運んだ理由はわからない。
だが、それとは別に、巻き込まれる”という言葉から一つの可能性を連想する。
教会の人間としては、敵対しているグループとはいえ、同じオリジンコアを使った研究の情報が外に漏れることは避けたいはずだ。
そのための――証拠隠滅。
ネクトの口ぶりから察するに、この施設を丸ごと巻き込むような方法を使うはず。
「せっかく生き残ったのに、こんな場所で死ぬわけにはいかないっての!」
彼女は全力で階段を駆け上り、まっすぐにダフィズの部屋へ向かった。
◇◇◇
ダフィズとミルキットの対話は平行線をたどったまま終わった。
二人は黙って部屋に留まり、互いのパートナーの勝利を信じて待ち続ける。
「……なにここ、空気の時点で辛気臭いんだけど」
そこにネクトは突然現れた。
――スージィの死体を伴って。
「スージィッ!」
床に乱暴に投げ捨てられた彼女の体にすがりつくダフィズ。
「はい残念だったねえダフィズ、君の自慢の奥さんは負けてこんな姿になっちゃいましたー」
ネクトはそんな彼を冷たい目で見下しながら、煽るように言った。
しかしその言葉は届いていない。
「もっと汚い死体のがインパクトあったと思うんだけど、お姉さんってば遠慮しちゃったのかな。あーあ、がっかりだ」
「あ、あなたは……?」
ミルキットは手を震わせながら、怯えた目で彼を見た。
するとネクトのサディスティックな血が騒ぐ。
「あれ、何このいじめがいのありそうな女ぁ!」
そして、腕の一本でも接続してやろうかと、彼女に向かって手を伸ばすが――直前で踏みとどまった。
「もしかして、フラムお姉さんの関係者?」
「ご主人様のことを知ってるんですか!?」
ミルキットは食いつくように反応した。
それを聞いて、ネクトはがっくりと肩を落とす。
「あー……手は出さないって言っちゃったしなぁ、いじめたいけど約束破るのはよくないよねぇ」
「……いじめる? 約束?」
「気にしないでいいよ、用事があるのは包帯のお姉さんじゃなくてダフィズの方だから」
と言いつつも未練があるのか、彼女をしばし見つめ――ため息をついて、ようやく諦める。
そして再びダフィズに近づく。
スージィの亡骸を抱きしめる彼の肩に手を置くと、顔を近づけて語りかけた。
「僕がここに来た理由、わかるよね?」
「いくらチルドレンの構成員と言えど……ネクロマンシーの施設に手を出せば、プロジェクトそのものの立場が危うくなりますよ」
「確かに、
ネクトの顔が歪む。
幼くも整った表情がねじ曲がり、赤く変色し、肉の渦へと形を変える。
「あ、あなたは……まさかっ」
ミルキットはその様を見て声を震わせた。
ようやく彼がフラムの言っていた、チルドレンのうちの一人、ネクト・リンケイジだということに気づいたらしい。
「――潰れたものを踏みにじるなとは言われてない」
ぶじゅっ。
流れ出た血で赤いシャツの襟元を汚しながら、ネクトは言った。
そして肩を引きちぎるように拳を握り、
「
ダフィズに対し、力を行使する。
するととたんに、彼の体がガクンと沈んだ。
抱きしめていたスージィの死体と同化しはじめているのだ。
「あ……これ、は……そう、か、接続……あぁ、スージィ……」
痛みはない。
不思議と怖くもなかった。
愛する妻の死体に抱かれて、己も死ぬ。
それが自分にとって最高の死に様のように思えたからだ。
「僕ってば優しいなあ、あんなに嫌いだった相手を、こんなに優しく殺すなんて! あっははははは!」
手のひらを広げ、自分に酔ったようにネクトは笑う。
その異様な光景を見て、ミルキットは後ずさりした。
すると笑い声がぴたりと止まり、蠢く肉の面が、血を振り乱し彼女の方を向いた。
「さて、そこのお姉さん。じきに君のご主人様が迎えに来る」
「ど、どうして、ご主人様のことを……」
「さっき会ったからさ、そして一応警告もしておいたから。まあ正直、死んでくれてもいいんだけど――“ついで”で死なれるぐらいなら、ちゃんと殺したい。だから、無事脱出できることを祈っているよ」
そう言ってネクトは前に右腕を突き出した。
そして開いた手のひらを上に向け、力強く握るのと同時に、高らかに宣言する。
「
ゴ……ゴゴゴ……。
建物全体が揺れ、低く重い音が四方八方からミルキットを包んだ。
「それじゃ、また」
ネクトはそう言い残して、研究所から消える。
一人残されたミルキットは、目を涙で潤ませながら、口を半開きにして辺りの様子を伺う。
ゴゴ……パキ……ゴゴゴゴ……。
止まらない振動と重低音、加えて聞こえてきたのは何かが割れるような音だ。
カラン……と天井から落ちた破片が床を転がった。
ミルキットは音に反応し、反射的に天井付近の壁を見る。
すると、いくつものヒビが入っているのを発見した。
それに、天井の位置がずれているような――
「なんで……え? 天井が、近づいてる……?」
ミルキットの言葉どおりである。
つまりネクトは、研究所全体の床と天井を
それに気づいた彼女は、慌てて部屋のドアに駆け寄り、ノブをひねって外に出ようとした。
しかし開かない。
壁が歪んだことでドアもまた歪み、引っかかってしまったのだ。
「っく……ふっ、うぅっ!」
必死でガチャガチャと手元を捻りながら、体重をかけて開こうとするミルキット。
だが、微動だにしない。
さらに彼女はドアから離れると、助走をつけて体当たりをした。
ガンッ、ガンッ、ガンッ!
何度も何度も繰り返すが、どうあっても開こうとしない。
そうしている間にもさらに天井は近づき、壁及びドアの歪みは悪化していく。
「はっ、あぐっ……! っ、ぐ……やだっ……やだあぁっ!」
彼女とて、こんな場所で死ぬつもりはさらさらなかった。
しかし開かないのだ。
非力なミルキットだけの力では、この場所から脱出することはできない。
肩がヒリヒリと痛み、これ以上体当たりを繰り返すのは体力的にも無理がある。
そんなとき、彼女の後ろから声が聞こえてきた。
「ミル……ト……さ」
「ダフィズ……さん?」
それは死体とほぼ一体化し、見るも無残な姿になったダフィズの言葉。
ミルキットは怯えながらも彼に近づき、その声に耳を傾ける。
「はく……い、ポケ……ト……」
「白衣のポケット……」
彼女がそこに手を突っ込むと、小さな鍵が出てきた。
それを見せると、ダフィズはさらに別の言葉を紡ぐ。
「つく、え……ひ……だ……し、に……み……」
「机の、引き出し? そこに、どうしたんですか? ダフィズさんっ!」
「あ……ごめ…………ぼく、は……な……に……を……し、て……」
最後に彼は、誰に宛てたのかわからない謝罪の言葉を遺し、息絶えた。
二人の同化はなお続き、不気味に動きながら絡み合っている。
ミルキットは、恐怖と悲しみがごちゃまぜになった涙を流し、雫を包帯に染み込せた。
◇◇◇
「はっ、はっ、はっ、はっ――」
度重なる戦闘で穴だらけのボロボロになった服が、風を受けてたなびく。
フラムは息を切らし、ようやくダフィズの部屋に到着した。
建物が潰されようとしていることも、それが十中八九ネクトの仕業であることも、彼女は理解している。
天井の高さは現在2メートル。
彼女はドアを叩く音がしないことを確認すると、すぐさま剣で歪んだそれを切断した。
壁ごと真っ二つされた板が床に落ち、中に得体のしれない肉の塊と、何かの資料を抱きしめて床に座り込むミルキットを発見。
彼女はフラムを見つけ、「ご主人様あぁっ!」と叫びながら駆け寄ってきた。
フラムもミルキットに近づき、抱きしめる。
「ミルキット……無事でよかった」
「でもダフィズさんが……」
フラムはその言葉で、あの肉片がダフィズとスージィが一体化したものだと察した。
おそらく“接続”で同化させられたであろうことも。
現在の天井の高さ、1.8メートル。
今は、感動も感傷もするのは後回しだ――フラムはそのまま両腕でミルキットの体を抱え、一目散に出口へ向かって走った。
ゴゴゴ……という音とともに床と天井が近づき、壁がひしゃげていく。
フラムは倒れる大量の死体を乗り越え、血で足を滑らせないよう注意しながら足を前へ動かす。
「はぁ、はぁ、はぁっ」
「ご主人様……」
彼女は明らかに疲労している。
いざとなったら自分を捨てて逃げて欲しい――そんな言葉が喉元まで上がってきたが、ぐっと飲み込んだ。
『却下ぁッ! 見捨てるぐらいなら私も一緒に死ぬから!』
そんな答えが帰ってくるのが、聞かずともわかったからだ。
だが自分が足手まといになっているのはよくわかる。
エゴを通して、付いて来たいと言って、このざまなんて――
「ミルキット、今、なんか……っはぁ……良くないこと、考えてるでしょ」
「いえ、そんなことは」
「考えてるっ! いい、この際だから言っとくけど、ねえ! 私はぁ……ミルキットが、はぁ、そばにいるから、こんな……頑張れる、ん、だからっ! 一人だったら、ねぇ……ふぅ、とっくに……死んで、るんだから、ねっ!」
息を切らしながらも、必死で彼女に言葉を伝える。
現在の高さ1.6メートル。
そろそろ腰をかがめなければ厳しくなってきた。
「命の、恩人っ! 感謝、してもぉ、っは……しきれない、ぐらいっ!」
「私は何もできて……」
「できてるのぉっ! 家事、とかもそうだしっ、むしろ、私の、方、ふぅ、がぁっ! 色々……あだっ……足りない、ぐらいだからっ!」
1.5メートル。
フラムの頭が天井にぶつかった。
「だから……だから、そのっ……えっと……ほんと、ごめん」
1.4メートル。
ミルキットを抱えて走るのも、そろそろ限界の高さだ。
そして――まだ研究所の入り口である礼拝堂までは、距離がある。
1.3メートル。
フラムは彼女を床に降ろした。
「これ……はぁ、はぁ……間に合わないと、思う」
「……はい」
ミルキットも、さすがにこれは同意するしかなかった。
仮にフラムが万全な状態だったとしても、おそらく届くことはなかっただろう。
少しでも足掻くため、今度はミルキットを背中に抱え、腰を低く落として進む。
それでもミルキットだけで進む場合より、ずっと速度が出ていた。
体は自分より少し大きいぐらいなのに、頼りになって、暖かくて。
背負ってもらってばかりの自分が情けない。
けれど特別な力なんてなにもないミルキットは、戦い以外の部分で彼女を支えることしかできないのだ。
「ごめん。強引に、ネクトを振り切ってでも……早く迎えに来ればよかった」
フラムがつぶやく。
それは無茶な話だ。
あのとき、ネクトの機嫌を損ねていれば、おそらくフラムはミルキットに会えないまま死んでいたはずなのだから。
それでも、いざ死が目の前にまで迫ると、後悔せずにはいられない。
残り、1.2メートル。
「あの、ご主人様」
「ん?」
「私、出会った日からずっと考えてたことがあったんです」
「最初の日から……どんなことを?」
「私ってずっと、奴隷としての立場でしか、他人と接したことがありませんでした。でも、ご主人様は違うんです。主と奴隷では表せない、何か別の――」
ゴオォッ!
ミルキットが話している最中、二人の進む廊下に一陣の風が吹いた。
それから遅れること数瞬。
ゴオォォオォォ――ゴガッガガガッガガガガガガガァッ!
余韻も物悲しさもへったくれもなく、猛烈な音と共に、建物内を押しつぶそうとしてた天井が吹き飛んでいく。
その威力たるや、剥がれて宙を舞った人の頭ほどの大きさのある瓦礫が、その直後に粉々に砕け砂になるほどである。
そして何より不思議なことに、フラムとミルキットには全く被害がなかった。
強い風が吹いている程度で、切り傷一つできていない。
フラムは庇うような形でミルキットを抱きしめる。
その状態で、呆然と、突然巻き起こった超常現象を眺めていた。
風が止む頃には、天井――というより、建物の大部分が破壊されており、夕焼けの光が少女たちに降り注いだ。
ついでに、途中だった会話の内容も、すっかり頭の中から吹き飛んでいた。
「は……ははは……さすがガディオさん、一撃で全部壊しちゃうとは。私なんかやっぱまだまだだなぁ」
「エターナさんとインクさんもいるようですよ」
ミルキットはこちらに歩いてくるその姿を見て言った。
本来なら立ち上がり、彼らに駆け寄るべきなのだろうが――すっかり体から力が抜けてしまった今のフラムには、それすらできない。
二人の指が触れ合う。
絡め、深く手をつなぐと、肩と肩を触れ合った。
さらに体の距離が縮まる。
近づきすぎて頭と頭がこつんとぶつかると、二人は見つめ合って、肩を震わせて笑った。
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