勝利の女神の口づけは

「いけ! やれえー!」

「いいぞいいぞ!」

 イシャナの一地方。交易で栄えているといえど、普段は大きな騒ぎも起きないその街の広場に、今、熱気を帯びた喝采が飛び交っていた。

 がたいのいい男達が向かい合って石の台の上に肘をつき、ぐっと手を組み睨み合っている。いわゆる腕相撲だ。

 その様子を、脇に置かれた椅子に腰掛けながら眺めつつ、エレはひきつった笑いを浮かべた。

(えーと、何でこんな事になったんでしたっけ)

 街に着いた時、インシオンが仕事を得に姿を消した後、暇を持て余した神々の遊び、ではなく、退屈を持て余したシャンメルが、

「あ。いい事思いついた」

 と、小悪魔のような笑いをにんまりと浮かべて、広場を行き交う人々に向けて大声を張り上げたのである。

「さあさあおにーさんがた、腕に覚えのある人は寄って来なー!」

 一体何をと目を丸くするエレとリリムの前で、彼は更に驚くべき口上を継いだ。

「腕相撲で勝ち抜いた勝者に、アルテアの巫女エン・レイ姫からキスのプレゼント! 参加費は一人三リドぽっち! どうよー!?」

 たちまち、男どもの好奇の視線がエレに集中した。赤銀髪の魔女の噂は、この地方にも行き届いているようだ。

「アルテアの巫女?」

「お姫様?」

「本物か!?」

 遠巻きにエレを見ていた男達の中から、一人が興味津々でシャンメルのもとに近寄って来る。

「本当に三リドでいいのか?」

「もっちろーん」

 シャンメルはにっかりと白い歯を見せて応える。

「口か? 口にくれるのか?」

「あ、それはダーメ。一応お姫様だから。ほっぺにちゅ、くらいねー」

「それでもいい!」

 その問いにはシャンメルが顔の前で手を交差させて否定の形を作ると、別の男が声をあげた。

「本物だろうが偽物だろうが、腕相撲に勝つだけでこんな可愛いねえちゃんに口づけをもらえるなら、三リドは安いもんよ!」

「まいどありー」

 シャンメルが広げた革袋の中に、じゃらじゃらとリド硬貨が飛び込んで来る。たちまち広場は男達の熱戦会場となった。

 順当に勝ち上がるのは、腕力に自信のある者。必然的に、体格が大きく、顔もごつくて、汗のにおいのきつそうな男ばかりになってゆく。

 エレは腐っても姫だ。男性に唇を触れさせた経験など、人生このかた一度たりとてありはしない。弟のヒカとだって、親愛の証に口づけた事は無い。セァクにそういう習慣は無かったのだ。もしかしたら幼い頃、実の両親とした事はあるのかもしれないが、生憎その記憶は残っていない。

 このままいくと、自分はここで勝ち残った見ず知らずの男の頬に、生まれて初めての口づけをする羽目になるのではないか。今更ながら事の重大さに気づいて青ざめると。

「大丈夫」

 傍らに立つリリムが小さく囁きかけて来た。

「勝った奴にはエレに触れる前に、死ぬほど苦い薬草茶ハーブティーを飲ませて退散させるから。シャンメルの悪ふざけにあなたが本気で付き合わなくていいのよ」

 彼女がそう告げる間に、わっと一際大きな歓声があがる。なみいる猛者どもを打ち負かした勝者が決まったのだ。獣のような雄叫びと共に拳を突き上げるのは、まさに野獣のようないかつい髭面をした大男であった。

「さあ、約束だぞ」

 男は興奮しきった赤い顔でエレを振り返る。

「お姫様のキスは俺のもんだな!」

 どうしよう。いよいよ口が変な笑いの形に固まった時。

「待て」

 男の肩をぐいとつかんで引き留める者がいた。

「そいつに触れるなら、俺を倒してからにしてもらおうか」

 果てしなく不機嫌だが、有無を言わせぬ迫力を含んだ、耳に親しんだ頼れる声。それは天からの救いの声にさえ聞こえた。

 天の御遣いとはかけ離れた黒装束。いつも以上に険しく細められた赤の瞳。彼が抱く異名は決して天使ではなく、真逆の『死神』。

 シャンメルが「やっば」と口元をおさえて洩らし、エレは表情を輝かせ、リリムがほっと息をついて、男が「ああん?」と眉をひそめた。

「おい、あんちゃん。優男が何しゃしゃり出て来てるんだよ」

 ぱきぱき拳を鳴らしながら、舌なめずりしそうなほどにねばついた笑みを男が見せる。

「後からのこのこ割り込んで来たからには、腕の一本や二本折られる覚悟はできてるんだろうなあ?」

「その言葉」まさに死神の笑みのように、インシオンが口元をつり上げた。「そっくり返してやる」

 たちまち場が最高潮に盛り上がった。インシオンもそれなりに身長があるし逞しい体つきをしているが、目の前の大男に比べたら、遙かに細く見える。そんな青年が自分より体格に優れる男に喧嘩をふっかけた事に、お祭り騒ぎに飢えていた人々は大いに興奮し、やんやとはやし立てた。

 インシオンと大男が、石台を挟んで腰を落として向き合い、ぐっと手を組む。シャンメルが、試合開始の合図として振り上げた手を下ろした。

 直後。

 ごきゃ、と確実に何かの骨を痛めた音がして、台に手の甲を叩きつけられていたのは、大男の方だった。

 まばたきする間もあらばこその一瞬の決着。

「決まりだな」

 痛みに脂汗をかく大男を平然と見すえて、インシオンは身を起こした。

「ま、待ちやがれ……!」

 手首をおさえながら、大男が食いついてくる。

「今のは無しだ! 油断して心の準備ができてなかっただけだ! もう一度やったら負けやしねえ!」

「ほう?」

 絶対零度の視線が男を刺す。

「お前はこれが命を賭けた真剣勝負でも、『心の準備ができていなかった』と、負けた時に言い訳をするのか」

 男がぐっと息を呑む気配がする。

「そんなに言うならもう一度やってやってもいいが、今度は手加減無しで」

 すっと赤の瞳が細められて、破獣カイダさえも尻尾を巻いて逃げ出しそうなあくどい笑みが浮かぶ。

「本当に骨を砕いてやるが、構わねえんだな?」

 しん、とその場が静まり返る。インシオンの声音には、言った事を本当に実行してやるという気迫がこもっている。大男はじりじりと後ずさると、「お、覚えてやがれ!」と完全な負け犬の台詞を吐きながら、ほうほうの体で広場から逃げ出したのだった。

 しばしの沈黙の後、割れんばかりの歓声が響き渡った。大男とインシオンの容姿を比べれば、姫君の貞操の危機を救った英雄にしか見えないだろう。

 インシオンはそんな周囲の様子を冷ややかに見渡し、シャンメルに「後で覚えとけ」とばかりにどぎつい視線を送って少年を怯ませると、つかつかとエレのもとへ歩み寄って来る。

「シャンメルは一発か二発ブン殴っといてやる」

 そうして、拳で軽く頭を小突かれた。

「だがな、お前も嫌なもんは嫌ってちゃんと主張しろ。だから振り回されるんだよ」

「すみません……」

 たしかに、はっきりと拒絶しないで流されるままだった自分も悪かっただろう。しゅんと肩をすくめると、ぽんぽんと軽く頭を叩かれた。

 ところが。

「おい、勝者には口づけだろー!」

 じらされた観衆からからかい気味の声があがる。

「悪者の魔の手からお姫様を救った英雄には、お姫様のキスだろー!?」

「そうだそうだ!」

 悪のりの波はあっという間に広がり、「キスしろ!」だの「ほっぺにちゅーだ!」だのと、手拍子と共にあちこちから叫びがあがる。

 インシオンは居心地悪そうにそれを見渡して、顔をしかめる。エレはその横顔をしばらくぼんやり眺めていたのだが、ある瞬間に意を決すると。

「あの、インシオン」

 うるさく騒ぐ胸をおさえながら、呼びかける。青年が胡乱げな表情でこちらを向くので、少し身を屈めて欲しいと手で示す。

 インシオンが頭を低くする。ますます上昇する心拍数を自覚しながら、エレはそっと彼の顔に近寄り。


 彼の頬の熱を、自分の唇で感じ取った。


 たちまち大歓声と拍手が広場を包み込む。赤い瞳が点になってこちらを見下ろして来るのを、こちらも顔を赤くして見つめ返しながら、エレはおずおずと微笑んだ。

 今はまだ、これだけ。

 でもいつかは、唇同士の触れ合いを、この人と交わしたい。

 火照る頬を両手でおさえながら赤い瞳を見つめ、エレは恋する乙女の夢想を馳せるのだった。

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