第3章 海底の氷女王(5)

 エレは目の前に立つ女性をまじまじと見つめた。

 春の海面を思わせる碧の長く波打つ髪。この都と同じ蒼の瞳。紅の代わりに口に引いた色も、目を強調する為に塗った色も、やはり青。胸元を大きく開けた衣も、額や耳、首元や腕を彩る飾りまで、青で統一されている。とにかくあおづくしの妙齢の女だ。しかし人間の女と決定的に違うのは、衣からのぞく腰から下が、びっしりと蒼い鱗に覆われ、鰭を持つ足をしている事か。

「人間の女がここに来るのは、初めてだの」

 魚の鰭で作ったと思われる扇を広げて口元を隠し、女性はくくっと喉を鳴らしてみせる。その声に聞き覚えがあって、エレは彼女をじっと見つめた。

「あなたが、セイレーンですか」

『神の口』を持つ者の耳は、時に他者の声を正しく拾う。あの怒涛の中響き渡った歌声と、目の前の女性の声は、同じ性質を帯びたものであった。

「ほう」女性が興味深そうに目を細める。「地上の人間にも聡い者はまだおるようだ」

 それが答えだ。反射的に身構えてしまう。

「だが、セイレーンなどと人間達が勝手につけた名で呼ばれるのは好かぬ。我が名はグレイシア。そう呼べ、脆弱な人の子よ」

 明らかにこちらを見下した物言いにむっとしたが、今は余計な諍いを起こしている場合ではない。海破獣がこのセイレーン――グレイシアに付き従っているのなら、やはりセイレーンの海域に踏み込んで破獣が襲って来た事は、偶然の産物ではないのだ。

「インシオンをどうしましたか」

 じっと見すえて問いかけると、グレイシアは「インシオン?」と首を傾げ、それから得心がいったようで、扇の下でふふっと笑った。

「そうか、英雄インシオンなどという大層な名前なのか、あの男は。わざわざ餌の名前など覚えようと思わなかったからの、聞いてもおらなんだ」

 餌。その一言がエレの胸を冷やした。やはりインシオンを海破獣が連れて行ったのは目的があっての事だったのだ。そして集落の者が言った『精気を吸う』話も、あながち間違いではないのだろう。

 エレが眼力を険しくして睨みつけると、

「まあ、そう恐い顔をするでない」

 大した事ではないといった様子で、グレイシアは優雅に扇をたたむと、ついて来い、とばかりにそれで奥の間を示した。

 インシオンの現状がわからない内は、突飛な行動に出る訳にもいかない。大人しく後についてゆくと、しゃなりしゃなりと歩きながらグレイシアは語り出した。

「我らが陸を追われた種族である事くらいは、今も伝わっておるのかえ」

「復讐の為に船を沈めるのでしょう?」

 エレが険を込めた声色で返すと、くっくと小馬鹿にした笑いが洩れる。

「復讐? そうさな、復讐かもしれぬな」

 そこでグレイシアは一旦足を止め、傍らに控える海破獣の肩に手を置く。蒼の瞳に絶対零度の光を宿してエレを睨みつけ、彼女は告げた。

「千年前にアルセイルを燃やした破神。その時アルセイルがこの海域にいたせいで、破神の血がこの海底にも降ったのだよ」

 それだけでエレの中で答えが弾き出された。破神の血を浴びた海底の人々がどんな運命を辿ったかは、海破獣の存在が示している。

「幼いわらわは母の胸に守られて血を浴びずに済んだが、両親も祖父母も兄姉も、都の民も皆、狂い死ぬか異形に変わった」

 破神の血に冒された人々が正気を保って生きるには、同類の血を取り入れるしか無い。グレイシアは歌い、沈めた船の中にいた破神の血の因子を帯びた人間を選んで、その血を自国の民に与えていたのだ。

「我らは二度も、地上の人間どもに存在を脅かされた。ただ数年に一人二人の血を取ったところで、彼奴らが犯した所業に比べれば、どれだけ少ない犠牲か!」

 ぱん、と鋭い音を立てて、扇が氷柱を打つ。ぎりりと唇を噛むグレイシアの表情が、彼女の憎しみの根深さと、一人元の姿を保って生きて来た千年の孤独を物語っている。

 だが、彼女はふっと怒りの表情を打ち消すと、にたりと唇をつり上げて、再び歩き出した。その後ろに続いて奥の間に踏み込んだ時、エレは瞠目して大声をあげていた。

「インシオン!」

 駆け寄って伸ばした手は冷たい氷に阻まれた。黒髪黒装束の青年は、かつて犠牲になった男達と同じように氷柱の中に封じ込められていたのである。エレの呼びかけにも、赤い瞳が開かれる事は無い。

「今すぐ解放してください!」

 振り返って睨むと、「ならぬな」と氷女王のそっけない声が返って来た。

「久々に得た餌なのだ。一滴残らず血を搾り取って、我が民の糧とする」

「『神の血』を与えたら、彼らはもっと苦しむ事になるかもしれないんですよ!?」

 勢いで言ってから、しまったと口を手でおさえるが、音にしてしまったものは取り消せない。案の定、グレイシアは聞き逃さず怪訝そうに眉をひそめた。

「話せ」

 氷点下の視線がエレを刺す。エレは目をつむって深い息をついてから、フェルム大陸の『神の力』を持つ人間の存在、インシオンと自分が有する『神の血』の能力について、洗いざらい告白する事を余儀無くされた。

 グレイシアはエレが語る間、無表情で話を聞いていた。しかし聞き終えた途端、肩を震わせたかと思うと、爆発するように高らかな笑いを響かせたのである。

「なんという僥倖! 我らに長く破神の血を与えてくれる人間が現れたか!」

 再び扇を広げて、無邪気な少女のような笑顔を氷女王がひらめかせる。

「ならば尚の事、そなたもその男も地上に帰す訳にはゆかぬ。血が再生するそなたらが人柱になるだけで向こう五十年我が民を養えるならば、こちらも人間の船を襲う必要は無くなるであろう?」

 これがほんの半年前だったら、そしてエレ一人の問題であったら、彼女の言葉に素直にうなずいて我が身を差し出していただろう。だが今のエレはインシオンを救う為にここに来たのだ。そして地上で、やらねばならぬ事が残っている。シャンメル達を探し出し、イシャナに帰って、プリムラやヒカを労り、ミライとカナタに対処しなくてはならない。誰も知らぬ海底に一生縛りつけられる訳にはいかないのだ。

 強い眼力で見つめ返すと、エレが屈しない事を悟ったか、グレイシアが目を細めて舌打ちした。それに呼応するかのようにあちこちから海破獣が飛び出し、彼らの女王を守る形でずらりと並ぶ。それがじりじりと包囲の輪を狭めて来た。

 破神殺しの剣の柄に手をかけて、しかし思いとどまる。元は人であり、今も理性を残している彼らを、破獣であるからと言って斬り捨ててはいけない気がした。しかも今エレは一人。これだけの数を、慣れない剣を振り回して立ち回るなど、戦闘慣れしたインシオンやシャンメルならともかく、素人に毛が生えた程度のエレに行える芸当ではない。

 戦えないなら、逃げるしか無い。エレは決心すると、剣の柄から手を離し、代わりに言の葉の石をつかんだ。

『インシオンを解放しなさい!』

 拘束力を持つアルテアが発せられ、虹色の蝶が紫に光ってグレイシアの胸に飛び込む。彼女が意志に反して扇を掲げて氷柱を指し示すと、ぴしりと柱にひびが入り、甲高い音を立てて氷が砕け散った。氷の欠片と共にゆっくりと落ちて来るインシオンの身体を、エレは全力で受け止める。男性一人分の体重が遠慮無しにのしかかって来たが、何とか膝を突っ張って持ちこたえる。

「なっ……!?」

 初めてアルテアに触れるグレイシアは、その力を信じられずに唖然としている。こちらを逃がすまいと向かって来る海破獣達に向けて、エレは更にアルテアを放った。

『私達を放っておいて!』

 途端、海破獣が、目に見えない壁にぶつかったかのように、それ以上エレ達に近づけなくなった。安堵するのも束の間、手の中で、石のひびが広まった感触を感じ取る。

(お願い、もう一回だけ、もってください)

 心の中で必死に念じながら、エレはたたみかけるように言葉を紡いだ。

『日の光の下へ!』

 蝶が紺色に輝いたかと思うと、まばゆい光がエレとインシオンを包み込み、グレイシアがたまらずに目を覆う。光がおさまった時、エレ達二人の姿は海底の都から消え失せていた。

「小癪な娘よ……」

 最前までエレがいた場所に歩み寄って、グレイシアは憎々しげに床を見下ろす。そこには、砕け散った言の葉の石の欠片が、残光のように赤く輝いていた。

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