11 鬼神の最期

「ねえ、聞いてる? 伯父さん? 伯父さんってばー」

 リエーテと似た声が鼓膜を叩く。妹が天上へ旅立ってから何年が過ぎただろうか。ぼんやりと考えながら、スウェンはただ眺めているだけだった雑誌を閉じ、顔を上げた。

 台所に赤銀の髪の女性が立って、ことこととシチューを煮込んでいる。後ろ姿も似ているが、この娘の方が母親よりずっと健康的で、上背もある。

「聞いてるならちゃんと返事する!」

 おたまを振り回しながら振り返る顔立ちは父親似で、女性にしては眉が太めで目はくりんと丸い。気の強さは一体誰に似たのかわからないが。

「……何の話だ」

「もう、やっぱり聞いてなかった!」

 イシャナ兵の制服をまとった少年が、正規軍の馬車に乗せられてこの裏通りを去ってから、数ヶ月。再び空虚な生活を送っていたスウェンを案じていたのは、階下の夫婦だけではなかった。妹の娘が時折こうして、スウェンを訪ねてくるようになったのだ。

 国家機密こどもを抱えていた頃は人との接触を極力避けていたが、独りになり、五十路に達した事で、人恋しさを感じるようになってきたらしい。姪の訪問は素直にありがたかった。

「私の子供の名前よー」

 鶏肉と野菜をたっぷり入れたシチューを、おたまでじっくりかき回しながら、姪は明るい声をあげる。

「男の子だったら伯父さんの名前をもらって、スウェンってつけようと思ってるんだけどね」

「やめろ」

「女の子のいい名前が決まらないから、伯父さんに考えて欲しいのよ」

 人の話を聞かないのも、どちらの親にも似ていない。スウェンは嘆息した。

 姪は冬が終わったら嫁ぐ。父親の仕事関係で知り合った、アイドゥールの医者の元へ。セァクとの国境線にあたるアイドゥールは、昔いた戦場の血煙のにおいを思い出させる。何もそんな危険な街へ嫁ぐ必要もあるまいに。相手にイナトへ来てもらえば良い、と義弟おとうとも諭したらしいが、

『そうしたら、アイドゥールの人達を診るお医者様が減っちゃうでしょ。私は人助けをするあの人の支えになりたいの』

 と、本人は聞く耳持たなかった。結局周囲が折れて、結婚は決まってしまった。

「本当は伯父さんにも結婚式に出て欲しいのになあ」

 心底残念そうに姪はぼやく。アイドゥールまで旅をする気力も体力も、もうスウェンには無い。少年がいなくなってから、今までほど身体を鍛える事をしなくなったつけは、あっという間にやってきた。若い頃は感じなかったが、歳をとると身が衰えるのはこんなにも早いものだったのか。もう、昔のように敵陣に一人斬り込んで部隊を壊滅させるような凡人離れした立ち回りはできないだろう。

 髪も炎の色が薄れて、白いものが混じるようになってきた。後はゆるやかに老いて死ぬだけだ、というのを痛感していたが、人間の一生としてはそれが当たり前なのかもしれない、と『紅の鬼神』とは思えない事を感じるようになっていた。

「だからね、お願い」

 シチューを盛った皿が目の前に置かれた事で、スウェンの意識は現実に立ち返る。

「子供の名前くらい考えてよ、伯父さん」

 盆を胸に抱きながら、姪が小首を傾げる。この調子では、言う事を聞いてやらない限り今日は帰らないだろう。

 スプーンを左手で握って、シチューを口の中に放り込む。鶏肉は柔らかく、野菜もほどよく煮込まれて、普段自分が作る大味な男の料理とは違う繊細さが感じてとれる。

 これだけの料理を作れるのだから、姪は良い嫁になるだろう。しばし思案して。

「……」

「え?」

 眉根を寄せる姪の方を向いて、女の子につけるような名前を、再度口にする。

「どうだ」

 姪はしばらくぽかんと口を開けて呆けていたのだが、やがてぱあっと表情を輝かせると、

「それ、いい!」

 嬉しさを前面に押し出して、ずいと顔を近づけてきた。

「可愛い! 伯父さんが考えたとは思えない!」

 結構な言いようだが、喜んでもらえたようだ。

「じゃあ絶対女の子を産まなくちゃね。伯父さんが考えてくれたんだよーって娘に言うから!」

「……言わんでいい」

 喜びを隠さずにまくしたてる姪から視線を逸らし、スウェンはよく煮えた芋を口の中に放り込んだ。


 かしましくも愛しい姪がアイドゥールに嫁いでいって、また時が流れた。手紙が来て、自分と同じ赤銀の髪をした女の子が産まれたから、もらった名前をつけた、という感謝の言葉が添えてあった。

「スウェンさん、随分落ち着いたね」

 城下で買い物をした時、昔から顔を知っている店の主が、ところどころ抜けた歯を見せてにっかりと笑った。

「昔は『紅の鬼神』なんてえおっかない二つ名がついてたけど、今じゃ面影も無い。この人がイシャナ一の軍人だったなんて、もう誰も信じやしないだろ」

 その言葉にスウェンは苦笑を返す。イナトでも、孤高を貫いていた若い頃を知る人間はもう少ない。これが時の流れだろうか。

 いつものように買い物を終えて裏通りに入り、家路につく。その時、きんと刺すような気配を感じて、ここ数年味わっていなかった戦士の感覚が、一気に呼び覚まされた。

 つけられている。周囲に意識を飛ばして感じ取れる人数は、二人、いや、三人か。

 気づかない振りをして、しかしほんの少しだけ歩く速度を上げて、いつもと違う道を曲がる。追っ手は迷う事無く後をついてきた。

 心拍数が上がる。こめかみを嫌な汗が伝う。イナトの裏街まで知り尽くして、正確な追跡を行う。これは買い物帰りの年寄りを狙う金目当ての盗人ではない。

 訓練された人間だ。それも、暗殺者として。

 心当たりはありすぎるほどある。捨てられた王子を人並み外れた能力を持つ戦士に育て上げた。それをたねにゆすりでもされたら困るのは誰か。そんな人間を野放しにしていて危機感を覚えるのは誰か。相手は、不吉だからと我が子を捨て、役に立つと知った途端手元に取り戻したような男だ。自分に都合の悪い人間を消す事に躊躇など無いだろう。

 唐突に。スウェンは抱えていた荷物を放って駆け出した。対象が逃避行動に移った事で、相手も本気を出したのだろう。闇に紛れて迫ってくる気配がする。

 衰えたとはいえ、スウェンの体力は通常の五十代の人間のそれを遙かに上回っている。息切れする事無く裏通りを駆け、時に背の低い家の屋根を伝い、思いつく限りの方法を駆使して、敵をまいた。

 袋小路で立ち止まり、深く息をつく。行き止まりはスウェンにとって閉ざされた道ではない。背後の心配をせずに敵を向かえ討つにはうってつけだ。いざとなればこの程度の壁、手をかけ足で蹴って飛び越える事は可能である。再度深呼吸した時。

 建物の陰から飛び出した何かが迫ってきたかと思うと、腹に熱を覚えた。

 殺気を感じさせなかった。そうだ、と思い至る。『紅の鬼神』を消そうとしている相手が本気で殺しにかかってくるならば、相当に訓練された暗殺者をよこすだろう。気配を消す事など朝飯前の。

 血を帯びた刃が引き抜かれるのに持っていかれたかのように、全身の力が入らなくなる。脾臓を断ち切られただろう。腹から流れ出てゆく熱い液体を感じながら、受け身も取れずにスウェンは地面に倒れ込んで頭を打った。

 暗闇に紛れた黒服達が、覆面の下から感情のこもらない瞳でこちらを見下ろしていたかと思うと、何事かを囁き交わし、スウェンの懐から財布を抜いて、あっという間に闇に溶けた。物盗りに見せかけるつもりなのだろう。

 声を出そうとしても、喉の奥を焼けた石が塞いでいるかのようでかなわない。震える手を伸ばして這いずろうとしても、指一本満足に動かせないままだ。人気の無い場所に入ってしまった事があだとなった。きっと憲兵どころか、家路をゆく酔っ払いも気づかない。

 ああ、死ぬのか、と。その考えがスウェンの頭をよぎった。

 自分が死んだら、誰か悲しんでくれるだろうか。思考して、ぐちゃぐちゃに泣きながら、『あんたが誰かに殺されたら、おれは仕返しに行くからな』としゃくりあげた赤の瞳を思い出す。

 そんな事をするなよ。届かない願いを思い浮かべる。

 お前は英雄になる男なんだ。俺みたいなくだらない人間の命ひとつが失われたくらいで、自分の幸せを捨てるような真似はするなよ。

 視界がぶれる。全てが遠くなる。

 ふっと、暗闇の中に白い光が灯って、人影が見える。艶やかな黒髪を翻し、懐かしい顔が振り返る。碧の瞳が嬉しそうに細められる。スウェンも口元をゆるめて、手を伸ばす。白くて細い指と、武骨な日に焼けた指が絡み合う。


『紅の鬼神』は、誰にも看取られずに歴史から消えた。

 だが、翌朝発見された彼の遺体の口元には、穏やかな笑みさえ浮かんでいたという。

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