1 巫女姫と英雄の息子
「――タ、起きなさい、カナタ!」
双子の姉の甲高い声が少年――カナタの耳に突き刺さる。夢の世界からいきなり引きはがされた意識は、まだ身体から離れて頭上のあたりを漂っているかのようにはっきりとしない。
そんなこちらの事情など知った事かとばかりに、ばん、と大きな音を立てて部屋の扉が開かれ、ずかずかと乗り込んで来た姉は容赦無くカーテンと窓を開けて、朝の空気を室内に取り込む。いきなり光が差し込んだまぶしさに呻いてうずくまると、夏掛け毛布もあっという間にはぎ取られた。
「まったく、騎士見習いが一人で起きられなくてどうするの?」
のろのろと視線を上げれば、差し込む朝の光に照らされ、姉の赤銀の髪が輝いて見える。真紅の瞳は呆れ切った様子でこちらを睥睨していた。
フェルム統一王国の王立騎士団員で独身の者は、寮に入るのが、騎士団が設立されてからこっち十数年のならわしになっている。結婚した者、老親の面倒を見なくてはならない者は寮を出て城下に住むが、少年のように結婚しておらず両親も健在なのに実家から城に通う者は、こと珍しい。そこには、少年の生い立ちも多分に含まれているだろう。
「……着替えるから出てけよ、ミライ」
寝癖のついた黒髪を片手でかき回し、翠眼を細めながら、カナタが鬱陶しげに言い放つと、たちまち双子の姉の瞳が真ん丸く見開かれ、それから、明らかに機嫌を損ねた半眼で睨んでくる。
「『起こしてくれてありがとう』の一言も無いなんて、ほんっと可愛げ無いわね、あんた」
むすっと頬を膨らませ、腰に手を当て姉は言い放つ。
「あんたみたいなのが王宮で女子にもててるなんて、その子達にこの姿を見せてやりたいわ」
とはいえ、毎度の事と姉も承知しているのだろう。一通りの嫌味を吐き出すと、殊更深い溜息をついて、部屋を出て行った。
扉が閉じられると、カナタはのろのろとベッドを降り、寝間着から紺の騎士服に着替え、姿見の前で身なりを整える。両親の身分を思えば、その息子が情けない姿で登城する訳にはいかない。一番上まで釦をきちんとかけ、裾がまくれていない事を確認する。もっとも、基本的に三着を着回している騎士服は、母が毎晩丁寧に洗って、皺が寄らないようにじっくりと気をつけて干して、わずかなほつれもすぐに繕ってくれるので、形が崩れる事は無いのだが。
姿見の中の自分を見つめる。光に当たると蒼みを帯びる黒髪に、若草色の瞳。眉は太く、きりっと唇を引き結んだ強気そうな顔が、鏡の中からこちらを見すえている。見慣れた自分の顔だ。
ところどころ跳ねた髪を手櫛で梳いて寝癖を直すと、自室を出て階段を降り、
「おはよう、カナタ」
白いエプロンを身につけ、食卓について朝食を摂っている子供達に甲斐甲斐しく茶を注いでいた赤銀髪の女性が、カナタに似た――とはいえ彼女は女性らしい柔らかさを備えている――顔を上げ、花がほころぶような可憐さで微笑んだ。
「……おはよう」カナタは少々無愛想に返す。「母さん」
カナタの母エレは、かつて大陸にあった皇国セァクの姫だ。実際に皇族と血の繋がりがある訳ではないが、巫女姫として崇められていたらしい。もう一つの大国イシャナと統合して現在のフェルム統一王国が生まれた頃に父と結婚し、ミライとカナタの双子を十九の歳で産んだ。
一般家庭に降嫁してもうすぐ十八年。王家との縁は以前より希薄になっているが、王国軍の将官という敵の多いであろう父の身分と、旧セァク家臣の中にいまだに母を擁して皇国再興を狙っている輩がいるとの事で、弟で現国王のヒョウ・カは常に姉一家の生活に気を配って、城下の憲兵見回りを強化してくれている。
「兄ちゃん、遅い」
「もう父さんは行っちゃったよー、ねぼすけ」
まだ虫の居所が悪いのか視線も向けない姉を後目に、食卓について
「お茶にはミルクを入れる?」
「いいよ」
気遣わしげに小首を傾げてこちらの顔をのぞき込む母から視線を逸らし、そっけない応えを返す。
「パンだけ頂戴」
途端に母が、置いてけぼりをくらった子供のように寂しげな表情をするのが、気配でわかった。
今年三十六のはずの母は、そんな歳になっても若々しく、子供を四人も産んだとは思えない綺麗な身体の線をしていて、顔つきも、言動さえも、二十代前半と言って通用する。
『巫女姫はやはり身も心も凡人とは違うのか』
などとはやし立てる妄信的な人間もいるが、単純に精神年齢が幼いだけだと、カナタは思う。
母は意外と抜けているところがあって、父が傍に立ってつかまえておかないと、ある瞬間にふっと迷子になってしまいそうな危うさを帯びている。
実際迷子になったのを見た訳ではないが、子供の頃、一緒に買い物に出掛けたら、大量の食材を買ったのに財布を度忘れして、
『エン・レイ様ならつけにしておきますよ』
と店主に笑顔で言われた。エン・レイとは母の巫女姫時代の名前であると知ったのはその時だ。
とにかく、その後恥をかいたのは父で、代金を持って店に行き、耳まで赤くしながら店主にひたすら頭を下げていたのを、よく覚えている。やはり店主は『かまいっこしやしませんて』とのほほんと笑っていたが。
たんぽぽの綿毛のごとくぽやんぽやんした母に対して、父はその地下に逞しく張った根であるかのようにしっかりしている。むしろしすぎている。それもそのはずで、父インシオンはイシャナの英雄なのだ。若い頃にはその戦いぶりの凄絶さから、『黒の死神』の二つ名を戴いていたという。
両親は、昔話をあまり子供達にしない。その代わりとでも言うべきか、周囲の人間達が「エレとインシオンの子供だから」と、きょうだいに話してくれた。
それらの話を統合すると、二人はかつて大陸に現れた怪物、
エレは『神の口』による、言葉で人知を超えた力を発揮する『アルテア』の使い手。インシオンはほとんどの傷が回復する『神の血』で半不死身の身体を持っていたという。二人の周囲にも『神の力』を持った人間が何人かいたが、エレがアルテアで破神の呪いと『神の力』を消し去ったのだ。
しかし、自分が産まれる前の過去は正直どうでもいいとカナタは思う。カナタにとってエレは優しい母、インシオンは厳しいながらも家族思いの父。それだけだ。
「ごちそうさま」
「もう行くの?」
パンを茶で流し込み、早々に席を立てば、食器を下げながら母が少女のような無邪気さで訊ねてくる。
「忘れ物は無い? 気をつけてくださいね」
「わかってるよ、もう子供じゃないんだから」
おろおろしながら玄関まで見送りにくる母の視線がむずがゆく、無愛想に返して、家を出る。
母に対して素直に接する事ができない理由。それはある意味カナタのせいである。
カナタであってカナタではない、自分の。
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